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第二十五編 寂音蟇目鏑・下

 ダリアンにとって、この戦いに意味はなかった。

 魔王の支配領土が広がろうが、奪われようが、今の彼には何の関係もなかった。その戦いのために、死地へ向かうエリサルにさえ、彼には助ける義理など無い。


 だが──彼女がここで死ねば、禁術書が人間どもの手に渡る。

 それだけは、決して許されないことだった。

 ネクロハイヴ禁術書館の司書としての職責が、今や彼の行動原理を支配していた。


 迷いを断ったダリアンの闇の爪が、人間を襲う。血しぶきがあたりを濡らし、兵士は音も無く崩れ落ちる。

 堅牢に閉ざされた巨大な城壁は太陽を遮り、彼の闇を覆い隠す。

 振り払われた爪が返されると、そのまま次の生贄の肉を裂いた。斬られた兵士は、首を傾げるように身体を揺らし、崩れ落ちていった。

 

 断末魔はなく、無音──。ただ、ダリアンの爪が血を啜る音だけが残された。


 しばらく眠っていた血の渇きが、ダリアンのヴァンパイアとしての本能を呼び覚ます。それは飢餓にも似た衝動を加速させ、襲い来る人間たちの殺意を呑み込んで、さらなる血を求める饗宴へと昇華させる。

 もはや、そこには慈悲はなく、かつての思い出は過去となり、純粋な殺意に塗り替えられていった。


 だが、人間たちとて、このまま黙って引き下がれるわけもない。

 砦を守る兵たちは、新たな魔族の登場に陣形を立て直し、再度の制圧を図る。それは、エリサルに対したのと同じ数の暴力。そしてその反撃は、彼女がそうであったように、ダリアンですら看破できるものではなかった。


 だが、(たが)が外れ、狂気に染まるダリアンは、それでも止まらなかった。血に染まりゆく視界の中で、ダリアンはただ獣のように笑う。


“ああ……今が夜であったなら。もっと……もっと殺せるのに”


 思考はたった一つの欲求だけに収束していく。狂気が骨の髄を侵し、その為に最適化された動きを体に強制する。

 彼の心は、目の前の獲物をいかに多く殺すか、それだけに満たされていった。


 しかし、爪が一人の兵士の喉を裂いた何度目かの瞬間に、変化が起きた。


”──やめて”


 禁術によって無音となった耳元で、誰かが囁いた。その何者かの声に、ダリアンの動きが一瞬だけ鈍る。

”……今のは、何だ?”

 この砦の中に、彼の行動を制止できるものなどいない。

 だが、確かに聞こえた声は、ほんのわずかに残された小さな心を揺り動かす。


”もうやめなさい、十分よ”

 ダリアンはそれを否定する。ここにいるはずがない──。聞こえるはずがない──。

 それでも、その声は残酷なまでに鮮やかに、ダリアンの脳裏へと流れ込んでくる。


 それは、アルテアの声──

 逃れることができないその声は、血の狂気に沈んだはずのダリアンの心を、容赦なく激しく何度も突き刺した。


 それは、禁術書『寂音(じゃくおん)蟇目鏑(ひきめかぶら)』を使用した者に襲いくる代償。禁術が奪った音の亡霊。

 決して、死者の魂が戻ったのではない。天界から、声を届けたのではない。

 ただ、存在したはずの音が奪われ、亡者となって死へ誘うために囁いているにすぎなかった。


 戦いの最中、ダリアンは爪を振り上げた。だがその瞬間、また声が落ちてくる。

”──やめて、ダリアン”

 違う。これはアルテアではない。頭では分かっている。アルテアはこんなことを言う女ではない。だが、肩がわずかに震え、攻撃を鈍らせた。

 そして、その一瞬の隙を、ダリアンを取り囲む兵たちは見逃したりはしなかった。


 無数の刃が、獲物を仕留めるように一斉に襲いかかる。

 満身創痍のエリサルも必死に応戦に加わるが、押し寄せる剣の数には無力だった。

 無音の刃が、一本、また一本とダリアンの肉体に突き刺さる。

 どれほどの戦意を燃やそうと、血に濡れた身体が動きを止めるまでの猶予は、もうほとんど残されていなかった。


 だが、その時だった──。


 砦の外側から、かすかな震えが壁を伝って落ちてきた。

 それは禁術の外、まだ音が生きている世界からの咆哮だった。最初は、遠雷のような低い揺らぎだったものが、瞬く間に轟きとなり、城壁で大きく爆ぜた。


 その音は、城内で掻き消えた。だが、その衝撃だけは、地面を伝って容赦なく砦を揺らした。

 もうあと少しで止めだというのに、ダリアンを囲む兵たちは、それを無視はできなかった。異変に対し警戒する中、またすぐの二度目の衝撃。

 城壁に立つ弓兵は、その正体を叫ぶ。だが、その声は消え去り届かない。


 禁術によって魔術師たちは無力化し、弓兵は内外の敵に分散し連携を欠いている。もはや彼らだけでは、外から迫る本物の脅威に対抗できなかった。

 そこに、三度目の衝撃。これまでで一番強い衝撃が、地面を波打たせるように激しく揺らした。

 そこでようやく、兵たちは悟った。自分たちが立ち向かうべき、本来の敵の襲来に──。


 それは、奇妙な光景だった。

 城内の兵たちはダリアンに背を向け、全員が一斉に城の外へ向け構え直す。無言のまま合図のみで、陣形を組み直し、外から迫る軍勢への防衛態勢を整えた。


 城内は、禁術が生み出した不気味な沈黙に沈む。ただ、ダリアンの蠢く影と、荒い呼吸だけが世界を支配していた。

 そして緊張が臨界を迎えた中で、四度目の衝撃──それは、世界を破壊する最後の一撃となった。


 城門が吠え立てるように激しく崩れ落ちる。石と石の継ぎ目は悲鳴を上げ、砂煙が高く舞う中、崩れた破片が雨のように降り注いだ。

 次の瞬間、砦の亀裂の向こうから、黒い奔流となってオリヴァの兵が雪崩れ込んでくる。

 その突入は、既に陣形を整え、敵の襲来に備えていた兵たちの覚悟を、容易く押し潰していった。


 砦の兵たちと、魔族の群れのぶつかり合いは、戦いと呼べるものではなく、一方的な虐殺となった。

 禁術によって、あらゆる術が封じられた世界では、肉体の力のみが勝負を決する。その戦いで、人間が力でも数でも圧倒する魔族を相手に勝てる道理はなかった。

 絶叫も、悲鳴もない無音の砦に、ただ、衝突と振動だけが響き渡る。

 砕ける骨の感触、肉を裂く衝撃、血が雨となって飛び散る飛沫。それらは音を持たないまま、砦の石壁に刻まれていった。


 それでも、人間の兵士たちは最後まで戦い続けた。

 陣形を崩さず、連携し、魔族を一匹でも道連れにしようと藻掻いた。

 仲間の声は届かず、誰が倒れ、誰がまだ立っているのか分からない中で、それでも盾を持ち、剣を振るった。

 そして、剣を持つ者が最後の一人となるその瞬間まで、彼らは戦場に立ち続けた。


 その死の渦の中心に、ダリアンとエリサルは取り残されていた。

 視界の全てが混沌に飲まれ、敵味方の形が区別なく、闇の影となって踊っていた。

 その無声の世界で繰り広げられる光景は、まるで誰かが描いた舞台劇のようで、そこに上がる自分すらどこか他人事のようだった。


 そして、その舞台に幕が下りようとした時、ひと際大きな影が目の前にやって来た。


「──よくやった」

 その影は、ダリアンが抱える禁術書を強引に奪い取り、ただそう告げた。自分の思惑どおりに事が運んだと確認するだけの淡白な響き。

 その声は、ダリアンを無性に腹立たしくさせたが、逆らう力はもう残されていなかった。全身の感覚は遠のき、視界の端ではその影がエリサルを抱き上げる姿だけが揺れて──そこで、途切れた。


 次にダリアンが再び意識を取り戻した時、石造りの天井を見上げていた。

 そこは、攻め落とした砦の一室だった。日は落ちて、薄暗い灯りが揺れ、外では魔族たちのざわめきが風のように遠くに響いていた。


 身体は重く、血の匂いがまだ鼻腔にまとわりついていた。ここに運び込まれた経緯を思い出そうとしても、記憶は霧に包まれている。

 ただひとつ確かなことは──戦いも、禁術書も、そしてあの声も、すべてはこの手から失われたという事実だけだった。


 ダリアンは身を起こし、声のする方へと身を引きずるように歩を進めた。声が次第に大きくなるとともに、城壁の焼け焦げた匂いが鼻を刺す。

 聞こえてくる声のいくつかは、魔族の指揮官が下す部下への命令。それ以外は、生き残った人間たちの悲鳴だった。

 どこにも、戦いの勝利を喜ぶ者はいなかった。

 寝ている間に、そんな時間は過ぎたのかとも考えたが、ダリアン自身もそんな気にはなれず、丁度よかった。


 やっとの思いで砦の中央へ辿り着くと、そこには軍勢を統べるオリヴァが立っていた。

 まだ立っていることがやっとのダリアンを前に、オリヴァは表情一つ変えぬまま口を開いた。

「──ああ、これは返そう」

 押し付けるように差し出された禁術書を、ダリアンは重さを感じながら受け取る。

「ネクロハイヴに世話になる時は、またよろしく頼む」


 本気とも皮肉ともつかぬ、真意の分からないその言葉に、胸の底がざらつく。

 しかし、その苛立ちを呑み込んで、ダリアンは一つだけオリヴァに尋ねた。


「──エリサルは?」


 その問いに、オリヴァはようやく口元をわずかに歪める。

「あの者は心配いらん。お前より強い。それに、お前より軽傷だった」


 その短い答えで十分だった。ダリアンはそれだけ聞くと、無言で踵を返した。禁術書を回収した今、もはやここに残る理由はない──そのはずだった。

 しかし、背から意外な声が投げかけられる。

「まあ、そう急くな。我々も、後続が到着次第、この砦から撤収する。夜が明ける前には、出発するだろう」

 その言葉は、ダリアンの抑え込んでいた感情を、簡単に吹き飛ばした。


「ふざけるな──!!」


 この戦いに無理矢理巻き込んでおいて、命を賭して奪った砦を手に入れた途端手放すなど、馬鹿にするにもほどがあった。

 その侮辱は魔族の階級を超え、絶対に力では勝てないと知る理性すら、いとも簡単にぶち壊した。

 怒りに任せ詰め寄るダリアンに、オリヴァではなく、周囲の側近がいち早く動く。

 だが、オリヴァは片手でそれを制し、まるで獲物を誘うように、ダリアンを懐近くまで引き寄せた。


「──お前とエリサルは良い仕事をした。その礼は、改めてするとしよう」

 そう告げた直後、容赦のない一撃が叩き込まれた。衝撃とともに意識が遠のき、ダリアンは地へと崩れ落ちる。


 薄れていく意識の最後の縁で、オリヴァの声が微かに耳に残った。

”お前が、アルテアに気に入られている理由が分かるな……”


 ──次に目が覚めた時、ダリアンは兵站物資を載せた軍馬の荷台に揺られていた。

 積み込まれた重たい荷物が、車輪に不愉快な軋みを生む。その余白に、捨て置かれていたダリアンは、ゆっくりと体を起こす。

 無駄な争いを重ねた身体には、まだ鈍い痛みが残っていた。だが、この軍馬が何処に向かっていようと、これ以上オリヴァの世話になるつもりはなかった。

 走る軍馬から飛び降りようかと思った矢先、ふと重大なことに気づく。──禁術書がない。

 返されたはずの書を、またも失っていた。あの男に、また会わねばならないのか、と気が滅入る。


 その時、不意に声が飛び込んできた。 「──これは返します」

 振り向くと同時に差し出された禁術書を手にしていたのは、エリサルだった。


 あの惨劇を生き延びたあとの、あまりに唐突な再会に、ダリアンは言葉を失った。

 エリサルは、自分よりも傷は少なく、もう体を動かすのに支障はないようだった。

「……どうして、君がこれを?」 自然と疑問がこぼれ落ちる。


「貴方が目覚めたら渡してやれ、とオリヴァ様が」

 その答えは単純明快だった。だが、そんなことよりも、彼女がそのためだけに、同じ荷台で揺られながら待っていたのかと思うと、ダリアンの胸はかすかに波立った。


「──オリヴァを、恨んではいないのか?」

 ダリアンはもう一つ、彼女に尋ねた。彼女の口からどんな答えが返ってくるか、想像はできたが聞いてみたくなった。


「オリヴァ様が、あの城を安々と手放したのは、最終的な戦局は覆らないと考えているからです。

我々がひとつの城を落としたところで、魔王の本軍は、ドレッドホールドを落とせない──オリヴァ様はそう考えておられます」

 しかし、彼女の口から語られたのは、想像以上のオリヴァに対する信頼だった。彼女はオリヴァの語ったこの戦の展望を話し始めた。


『──魔王軍がドレッドホールドの首都を包囲することはさして難しくない。だが、問題はそこからだ。

包囲戦では、攻め手に膨大な時間と兵站を要求する。それを覆すには、魔王自身が強大な武力を有するか、一切の犠牲をいとわず、魔王のために命を捨てる部下に恵まれているか、だが……さて、今の魔王軍にそれがあるか?』


『敵の防衛力を前に、攻め手を欠く魔王軍は、いたずらに兵と時間を消耗することになる。

その間に周辺各国の援軍が集えば、魔王軍は挟撃され、いとも簡単に押し返される事になるだろう』


『そうなれば、この砦に居座るなど籠の鳥も同然。敵の掃討軍に退路を断たれ、逃げることすらままならなくなる。

取り残され包囲された時、果たして、逃走する魔王軍が援軍など寄こすかな?』


『だから、早々に尻尾を撒いて逃げるのだ。なに、尻ぬぐいは小賢しい魔王派の公爵(馬鹿)がやってくれるだろうさ──』


 その予言めいたオリヴァの戦略には、納得できるところはあった。

 だが、それでもダリアンがその為の駒として利用された事実は変わらない。その恨みは、簡単に消えるものではなかった。しかし同時に、あの奇襲が成功したからこそ、多くの兵が死なずに済んだのもまた紛れもない事実だった。

 それでも、オリヴァを許す気にはなれない。

 だが、同じ死地に立ったエリサルの、まるで当然のこととして受け止めている冷淡さは、ダリアンの胸に燻っていた熱を、いつの間にか冷ましていった。


 二人を乗せた軍馬が進む。不愉快な揺れの中で、ダリアンは小さく息を吐いた。


「──この禁術書『寂音蟇目鏑』は、君にどんな声を聞かせた?」

 ダリアンは最後に、もう一度エリサルに会うことがあったら、聞いてみたいと思っていた疑問を口にした。

 この禁術書は、たとえそれが嘘だと分かっていても、再び広げたくなる魅力を持っている。この半魔の少女は、いったい何を聞いたのか、知っておきたかった。


 エリサルは、珍しく少し考えたあと、言葉を返した。

「……。私には、いつもの声しか聞こえない。いつも誰と知らない声が囁く。この禁術を使っても、同じ声しか聞こえなかった」


 それがどういうことだか、ダリアンには分からなかった。

 それは嘘か、強がりか、あるいはオリヴァが彼女に何か術を掛けているのか、もしくは半魔であることが、何か禁術に作用したのか、思いつくことはあったが、それを確かめようとまではしなかった。


 ふたりを乗せた軍馬は、揺れながら遠ざかる戦場の土地を踏みしめていく。魔界へと帰還する道は、いまは奇妙なほど静かだった。

 エリサルはそれ以降、何も語らなかった。だがそれが、戦いの果てに残された唯一の答えのようにダリアンには思えた。

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