第二十四編 寂音蟇目鏑・中
新魔王が自らの権威を示す戦の獲物として狙いを定めたのは、魔界との境界に隣接する人間の国──ドレッドホールド。
その小国を落とすため、魔王の各軍勢が着々と陣を整えつつあった。
そして、その攻略の要となる砦の一つを落とす任を与えられたのが、オリヴァの軍である。
その作戦目標をダリアンが知らされたのは、軍勢が動き出すほんの直前のことだった。
「──この砦の攻略、先駆けはエリサルに任せる。異論はあるか?」
荒野に張られた作戦幕舎、ダリアンも同席する会議の場で、オリヴァは真っ先にそう告げた。
その言葉が落ちた瞬間、誰もが呼吸を止めた。だが次の瞬間、それを取り戻すような荒い息づかいが沸き立つ。
誰も大将であるオリヴァに、異を唱えようなどという者はいない。だが、彼女ひとりに先駆けを任せるのは、あまりに無謀に映った。
「構わんぞ。この半魔の娘以上の戦果を挙げる自信があるなら、今ここで申してみよ」
オリヴァはそのざわめきを制するでもなく、むしろ楽しむように周囲へ視線を流した。
挑発とも受け取れるその声音に、数名の配下が名乗りを上げる。彼らの顔には、自信なのか、焦りなのか判別できぬ熱が宿っていた。
「よろしい。では貴様らもエリサルと共に、先駆けを命ずる。以上──」
鼻息を荒くした部下にそれだけ言うと、オリヴァはすでに興味を失ったかのように立ち上がった。
まるで、後のことは自由に決めよと、議論も詰めもなく、ただそれだけの命令を置き捨てるその姿は、この命懸けの場においてあまりに身勝手なものだった。
だが、幕舎を出る直前で、ふと足を止める。
「ああ、一つ。エリサルには、周囲の術を封じる禁術を持たせる。轡を並べるつもりなら、己の肉体のみを刃とせよ」
その一言は、先ほど名乗り出た者たちを固まらせた。
術を封じられたまま敵中に突撃するということが何を意味するのか、どれほどの力を誇る魔族の軍勢においても、誰もが理解できることだった。
つまりこれは、エリサルに一騎駆けを命じているに等しい。
それを理解した者たちは、半魔の少女に向けていた嫉妬の目を、次々と同情へと変えていった。
姿を消すオリヴァのあとを、エリサルは無言で追った。その華奢な後ろ姿が幕舎の暗がりに溶けていくのを、ダリアンはただ見送るしかなかった。
ダリアンは、作戦に口を挟める立場にないが、それでも、あの場にいた誰もが抱いた疑念を、ダリアンもまた強く感じていた。
たとえ禁術書の力があったとしても、この少女に砦へ一騎駆けさせて何になるというのか──そのオリヴァの真意を掴みかねていた。
オリヴァは自らの天幕へ戻ると、深い息をひとつ吐き、大ぶりの椅子へ無造作に身を預けた。エリサルは何も言わず、いつものように彼の傍らに静かに立つ。
「──中でも特に堅牢な砦を、公爵どもは任せてきおった。まあ、その程度は想定していたがな」
ぼそりと呟く声は、他人に聞かせるためのものではない。それは、エリサルが決して誰にも言わぬと分かっているから零れる本心だった。
「落とせるなら良し、落とせぬなら相応の罰を、という訳だ。よもや、無事落とせたとしても、正攻法では相当な損害は免れん。奴らの考えていることなど、そんなところだろうよ……」
オリヴァは、椅子の肘掛けを指先で静かに叩いた。その乾いた小さな音が、わずかな苛立ちを伝える。
だが、一定のリズムを刻んでいた指がふと止まると、彼の口元は歪んだ笑みを浮かべた。
「だが、そうはいかん……エリサル、お前はあの砦、どう落とす?」
低く漏れたその呟きは、闇の底でかすかに揺れる炎のようだった。
それは、半魔として生まれたエリサルに課せられた宿命を試すように、命を賭す覚悟を焚きつける業火そのものだった。
──翌日、魔王軍は、人間の国ドレッドホールドへ向けて一斉に進軍を始めた。
その進軍速度は烈火のごとく、ひ弱な拠点などものともせず、瞬く間に敵地を侵略していった。
そしてオリヴァの軍は、敵に阻まれることもなく、難なく目的の砦の前に到着した。
砦を目前にした敵地には、まだ戦の煙すら上がっていなかった。あまりに静かで、むしろ不気味なほどだった。
この沈黙は、こちらの動きを察知した証でもある。
堅牢な城塞という地の利があるのだ、敵に合わせ城から出て戦う必要など無い。籠城し、攻め入ってくる敵に対し万全の対策をして待ち構えているのだ。
ドレッドホールドの砦は、灰黒色の石で積み上げられ、巨大な楔のように大地へ食い込み、外壁の上には弓兵と魔術師たちが沈黙のまま陣取っていた。彼らはまだ、矢を番えることすらしていない。ただ、魔王軍の動きを一瞬たりとも見逃さぬよう、息を潜めている。
オリヴァは軍勢の先頭、隆起した丘の上から砦を見下ろした。
冷たい風が、高い塔の風見鶏をカラカラと鳴らし、周囲の空気に微かな震えを落とす。それはまるで、これから始まる戦いの舞台を待ちわびて震えているかのようだった。
その背後には彼の軍勢が広がっていた。重装の魔族たちは黙したまま、壁のように隊列を組む。それに続くように魔導兵が控え、さらにその周囲を囲むように弓兵たちが弦に指をかけ、静かな緊張を漂わせていた。
対照的に、遊撃隊の獣系魔族は落ち着きなく喉を震わせ、地面をかすかに掘るように爪を鳴らしながら、いつでも飛び出せる姿勢を取っている。上空では、有翼の魔族たちが風を裂く音を残して円を描き、迫り来る戦の気配を見張っていた。
そのどれもが、オリヴァの一声で大地を揺るがす牙となるために、ただ静かに時を待っていた。
「──全隊、配置完了。ご命令あらば、いつでも行けます」
副官が近づき、低い声で報告した。すべての準備は整っていた。だが、まだオリヴァは動かなかった。
その軍勢の中には、先駆けを命じたはずのエリサルの姿は、どこにもなかったのだ。
もはやその合図を待つだけの軍勢を前にして、オリヴァはまるで彼女を待っているかのように、沈黙を守り続けた。
◆
その一方、ダリアンはエリサルと行動を共にしていた。
ふたりは、魔王軍が進軍を開始するよりもさらに早く、ドレッドホールドの砦を目指して早馬を駆っていた。
太陽が照りつける昼は、ダリアンはエリサルの細い影に身を潜め、月光が荒野を染める夜は、エリサルはダリアンの闇に紛れた。そうして、彼らは休むことなく、夜を徹して突き進んだ。
そして、魔族の侵攻の報せが砦へ届くより早く、彼らは砦まで辿り着いた。
だが、砦の門兵たちとて、たとえ人間の様な見た目をしていても、素性の分からぬ者たちを安々と通すほど、愚かではない。
そのために、エリサルが用意したのは、たった一言の報告だった。
「魔物に、村が……きっと、ここにも──!」 その暴露は、砦の兵たちの思考を麻痺させた。
入念に調査すれば、彼女に魔族の血が流れていることは分かったかもしれない。だが、彼女自身がもたらした差し迫る危機は、その猶予を彼らから奪った。
さらにほどなくして、彼女の予言を証明するように、各地から魔族の侵攻被害の報告が入る。
そうなればもう、誰もが防衛準備へと駆り立てられ、少女とその同行者に注意を払う者は一人もいなくなった。
こうして、エリサルとダリアンは、ひそやかにドレッドホールドの砦の内部への侵入を果たしたのであった。
この茶番にダリアンは、始めは仕方なく付き合っていた。
だが、必死に任務を果たそうとするエリサルの姿は、その胸の奥に、わずかな違和を覚えさせた。
オリヴァの子飼いとしてのエリサルの立場は、容易に想像できる。半魔の血を持つ者が魔界で生きるには、人間を殺せることを証明しなければならない。
かつてのダリアンであれば、同情こそすれ、そんな魔族の理に何の感慨も浮かばなかっただろう。
だが、アルテアと過ごした時間と、ネクロハイヴ禁術書館の司書としての日々が、彼に小さな余白を与えていた。
エリサルのサポートは司書としての職務。これは、命令されて従わせられていることに過ぎない。
だがそれも、本当に嫌ならばすべてを放り投げて、元の自由なダリアン・アザール・ノクシガーに戻ればよいのだ。
彼がそれをしない理由、その変化が何なのか、彼自身はまだ気づいていなかった。
「──どうして、そこまでするのですか?」
作戦決行の直前に、ダリアンは思わずエリサルに尋ねていた。それを口にする気はなかった。しかし、声に出してしまったことに、彼自身が驚いていた。
「ヴァーキサル様がそう望んでおられるので」 彼女は迷いなく答えた。
その迷いの無さを、ダリアンは純粋に羨ましいと思った。
エリサルの覚悟は、刃のように研ぎ澄まされていた。それは魔界で生きるために当然の、そして魔族ならば誇りと呼べる強さだった。
彼女は迷いなく人間を殺すだろう。だが今のダリアンには、その直線的な強さが、まるで遠い世界のものに見えてしまう。
──果たして今の自分に、それができるだろうか。
この作戦は、エリサルが内部から混乱を引き起こし、その虚を突いて、本隊であるオリヴァ軍が突破を試みるものだ。
その意図も有効性も理解できる。しかし、陽動をエリサルのみに任せるのは、あまりに無謀過ぎはしないか。
確かに禁術を行使すれば、術を封じられた魔導士など物の数ではなくなるだろう。しかし、数え切れぬ刃が彼女に襲いかかるのは止められない。
彼女はその中でも生き残る自信があるのか、それとも、たとえ死んでも本隊の陽動となればよいと思っているのだろうか。
ダリアンには、到底そんな強さは無い。半魔である彼女の、魔族としての強さを前に、死地に飛び込もうとするのを止めることにも、守ることにも躊躇いを感じていた。
そして、時は刻一刻と、ダリアンにその選択を迫っていた──。
◆
その頃、オリヴァは、己が率いる全軍を前に、その瞬間の到来を待ち構えていた。
たとえ、オリヴァの力をもってしても、この砦を正面から崩すのは難しいことだった。
だが、彼はそれを叶えるような巨大な魔力を有するだけの存在など、求めていなかった。
彼が求めているのは、他を出し抜く知慮と、博打に命を掛ける無謀さ。矛盾する二つの条件を満たす者こそに、彼は価値を見出していた。
そして、彼がエリサルを重用した理由は、彼女にこの二つの両立を見たからだった。
「──────!!」
その瞬間、オリヴァは未だ静まり返るドレッドホールドの砦に生じた僅かな変化を見逃さなかった。
それは、血の匂い、風の流れ、魔力の気配、そのどれとも違う、ほんの些細な魂の軋みだった。
しかし、それだけで”何か”が起こったと知るには十分だった。それが”何か”を知る必要はなかったのだ。
「全軍! 突撃!!」 一切の迷いなく、オリヴァの手が振り下ろされる。
その命によって、彼の背後で大地が震えた。彼の軍勢すべてが、雪崩となってただ一点に押し寄せた──。
──その瞬間を、ダリアンはただ見ていることしかできなかった。
エリサルは、砦の広場の中央で、禁術書『寂音蟇目鏑』を開いた。
誰もが外の魔王の軍勢に備える中、その魔書が放つ禍々しい魔力に、最初に気づいたのは魔術師だった。
「おいっ! あれは、魔導しょ──」
だがその声は、途中でぷつりと途切れた。寂音蟇目鏑によって、世界から音だけが抜き取られ、すべてが沈黙した。
兵たちの足音、燃える松明の燃焼、風が揺らす旗、すべての音がかき消され、完全に停止した沈黙の中で、ただエリサルの魔術だけが音を持った。
鋭い衝撃音が、広場の中央からただ一つ、刃のように走る。
音を失った大半の兵たちは、状況を理解できなかった。
魔術師たちは声を失い、術の詠唱もできず、それを他者に伝えることもできず、ただそれでも口を必死に動かすだけだった。
外の魔王軍を監視していた弓兵の多くは、音が消えたことにすら気づけなかった。
故に、エリサルの先制攻撃は、面白いように敵陣深くを切り裂くことに成功した。
エリサルの魔術の破裂とともに兵士が吹き飛び、槍が折れた。そこに、悲鳴も怒号も無い。
ただ、赤い飛沫と砕けた武具が、静寂の中で舞っていた。
だが、それも長くは続かない。
砦内のエリサルのすぐそばにいた兵士たちは、無音の違和感に気圧され初動が遅れながらも、数人が同時に襲いかかった。
その動きに、エリサルもすぐさま近接戦闘へと切り替え、応戦する。彼女は肉弾戦でも、並の兵など圧倒し、周囲の重装兵を切り伏せてみた。
無音の乱戦の中、エリサルの剣の音だけが響く光景は、その残酷な戦いをまざまざと映し出していた。
しかし、次第に兵たちはこの沈黙の状態に順応し始めた。
仲間の犠牲によって動きが慎重になり、互いに手振りで連携を取り、エリサルの死角へと仲間を誘導し取り囲む。
もはやそうなると多勢に無勢だった。それは、禁術による優位をも覆す現実だった。
どれだけ斬り伏せても、無音の刃は尽きることなく、視界の外から迫ってくる。
内部の敵に気づいた弓兵たちは、我先にと矢の照準を彼女に定める。
そしてついに、押し寄せる鉄の群れは、エリサルの身にも傷を刻み始めた。
エリサルがどれほど強く、禁術によって相手の力を抑え込めていようとも、その数の差を覆す事は不可能だった。
エリサルの呼吸が荒れる──、足取りが重くなる──、もうその限界は、間際まで迫っていた。
その時だった──ひとつの影が、まるで深い闇が噴き上がるようにエリサルを覆い尽くした。
影は彼女の手から禁術書を乱暴に奪い取ると、そのまま書を開き、寂音蟇目鏑を発動させた。
ふたたび世界が沈黙に沈んだ、その刹那──
闇の爪が、すぐそばにいた兵士の頭部を鷲掴みにし、そのまま乱暴に放り投げた。兵士は壁に衝突すると、ずるりと崩れ落ちて動かなくなった。
そして、影はゆっくりと形を整え、人の輪郭を取り戻していく。
深い闇をまとったその顔が、静寂の中浮かび上がった。
エリサルを庇う様に立つダリアンは、この状況での加勢が何を意味するか、理解はしていたが、それでもその身体を止めることは出来なかった。




