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第二十二編 天目轆轤片・下

「さあ、じゃあさっそく、僕の計画を説明するね」

 ロロは、マクスの机の上に構わず紙を広げ、図示を始めた。


「神の眼は、世界中を渦巻くように回っているんだ。普通の方法じゃ、僕たちからは、絶対に見えないんだけどね。その視線は常に空を螺旋を描くように走って、世界を隅々まで照らしている」

 ロロはそう言いながら、紙の上に軽やかに線を描く。そこには、回転し続ける巨大な眼の軌道と、その視線に照らされる観測者が浮かび上がった。


「そして、この禁術書『天目轆轤片(てんもくろくろへん)』はね、この螺旋の軌道を逆向きに辿ることで、術者の瞳に神の視線そのものを降ろしてくれる。いわば、天の旋律を逆再生してみせる道具なんだ」

 ロロは器用に、筆を持たない反対の指先を楽し気にくるくると回す。


「この神の眼が廻る渦巻き模様。これは、世界をあまねく見渡す為の動きなんだけど……でも、この渦の動きにはね。必ず隙間が生まれるんだ」

 そう言って、ロロはピタリと動きを止めると、今度は紙に数式を書き出した。


「ほら、螺旋波を式にするとこんな感じ。こっちが距離、これは角度、この係数は、神の眼の数。うん……僕らと同じ2つなら簡単なんだけど、そうとは限らないからね」

 紙に書き足されたのは、難解な口ぶりに反して、意外と整った形の式だった。そして、ロロは指先で最後の項を叩く。


「で、この項が──とっても大事な『存在確率』」


「存在……確率?」 リアラにはその式の意味が分からなかったが、その言葉の響きに小さく息を呑んだ。


「そう。複数の螺旋が干渉すると、波が完全に打ち消し合う点ができる。

そこでは存在する確率そのものがゼロになるんだよ。

つまり──神の眼が絶対に届かない、完璧な空白地点が生まれるってことなのさ」


 ロロの指が紙をそっとなぞる。そして、描かれた螺旋の交わる一点で止まる。

「ここに立てば、神さえも術者を見失う。それができれば、この禁術の代償は払わなくて済むはずだよね。

だって、請求書を送りつける相手を見つけられないんだからさ」

 ロロは満足げに笑った。その目にはすでに、成功している姿が見えているかのようだった。


 しかし、リアラにはどうしても腑に落ちないことがあった。

 ロロの説明は半分も理解できてはいない。それでも、もし本当に理論どおりなら、私の協力など必要ないはずだ。すでに実現させていてもおかしくない。

 つまり──この理論には、どこか実現を阻む欠陥がある。


 リアラがその疑問を口にしかけたとき、ロロは彼女の思考を読み取ったかのように、軽やかに言葉を滑り込ませた。

「──そう、問題はね、この消失点に立ち続けること、なんだよ」

 つい先ほどまで笑っていた口元からは、いつの間にか笑みは消え去っていた。


「神の眼は高速で螺旋運動してる。そして、その干渉で生まれる消失点も同じ速度で動く。

その位置に、ずっとぴたりと合わせて動き続けるなんて……人間でも魔族でもどこの誰でも、不可能だよ。

たとえ事前に軌道計算を完璧にしていても、ね」

 そこまで言うと、ロロはひとつ肩を落とし、自分の描いた螺旋を見下ろした。


「これは、理論上は成立していても、現実には不可能──うん、まさにその通り」

 ロロは誰も指摘していない自分の論理の破綻を認め目を伏せた。しかし、すぐに顔を上げてじっとリアラを見つめる。


「──だからこそ、僕にはお姉さんの力が必要なんだ」

 その真剣な眼差しは、深い確信を帯びていた。


 リアラには、そのまっすぐな眼差しはあまりにも眩しく、目をそむけた。でも、その答えは決まっていた。

「……私は、何をすればいいのかしら?」

 目を背けたままの彼女に、ロロは遠慮なく言葉を続ける。

「お姉さん、夢魔(サキュバス)だよね? その力で、神の眼に夢を見させて欲しいんだよ。

そう──眠っていることを忘れる夢をさ」

 その言葉は、リアラをもう一度振り向かせた。


「神の眼に……夢を?」

 その反応を待っていたかのように、ロロは、リアラを見つめてゆっくりと、分かりやすくその全てを説明した。

「僕の計算で導いた消失点の上で、お姉さんが神の眼を夢に落とす。

そうするとね、神の眼は夢の中で、変わりなく世界を監視し続けているつもりになる」

 ロロは指で円を描き、その軌跡が止まる瞬間を示すように手を止めた。

「でも実際には、その間は眼の動きは、完全に止まっている。眼が動かなければ、消失点も動かない。

それなら、神の認識の外に居続けられるから、禁術を使っても代償は誤魔化せる──」

 その声は、子供とはとても思えない、不思議な説得力を帯びていた。


 しかし、まだ一つだけ。リアラでも不可能な問題があった。

「……でも、禁術を使う前の私では、おそらく神の眼を捉えるどころか、認識すらできないわ。

いくら君が正確に消失点を割り出してくれても、そこから逆算して位置を掴むなんて、私には無理よ」

 どんな術でも、何処にいるかも分からない相手に掛けるなど無理な事だ。ましてや、相手は高速で飛び回る神の眼、その動きを捉えることはリアラには不可能だった。


 その時、ずっとふたりのやり取りを黙って見守っていたマクスが口を開いた。


「──もしよろしければ、私がお手伝い致しましょうか?」

 リアラが振り向く間もなく、彼は淡々と続ける。

「禁術を行使する際のサポートは、私の職務の内でもありますし、何より、ロロの試みには興味があります。

私ならば、ロロの螺旋運動の解析から動きを予測することもできますし、貴女の術を支援することもできましょう」

 その思いがけない提案に、リアラより早く、ロロが飛びついた。

「ありがとう、マクス!」

 その小さな体が彼に飛びつく姿が、彼女に最後の決断を後押しした。


 彼らはすぐに、禁術を使う条件を満たす時間と場所の選定に入った。

 彼らがその場所の候補に挙げたのは、魔界と人間界の境界、魔界を覆う黒い雲が途切れ、途中で邪魔者が入らないよう見張れる小高い丘の上だった。

 そして、神の眼の運動周期から割り出すと、そこが消失点となるのは、およそ一日後だとわかった。


 そして、翌刻──

「……さてと、準備は全部整ってるよ。あともう少しで、ここが消失点になるはず。

お姉さんも準備はいい?」

 ロロの問いかけに、リアラは緊張しつつも頷いた。


「ここから先は、時間との勝負になります。

ロロの合図を受けて、私が神の眼を捉えます。貴女は、夢を見せる術を私にかけてください。私はそれを神の眼へと向けましょう。そして、その間に貴女は禁術を発動する。わかりますね?」

 マクスは、昨日何度も確認した手順を、再びここで確認する。


「神の眼を貴女の術がどれほどの時間騙せるのか、正直なところ未知数です。ですので、禁術のご使用はお早めに。

私も、出来る限りサポートに徹しますが、術者である貴女の術が途切れることがあれば、私にはどうすることもできません。それはお忘れなきよう」

 彼の言葉に、リアラは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。その吐息は、恐れを捨てて、緊張を鎮めるためのもの。

 そして、一刻も早い仲間の救出を願う彼女からは、自然とふたりに、感謝の言葉がこぼれ出た。

「……ええ。お力添え、ありがとうございます」


 彼女は、禁術書を携えて、小さな魔方陣の中心へ進み出た。それは、消失点を示す境界だった。術を使ったあと、彼女がそこから一歩でも出れば、もう誤魔化しは利かなくなる。

 リアラは、その真ん中に立ち、静かにその時を待った。


 しばしの静寂──そして。

「……来ますね」 マクスが低く呟く。その声に重なるように、ロロが鋭く叫んだ。

「お姉さん、来るよっ! 五秒……四秒、三……二……一……!」


 その瞬間、リアラは迷いなく指先を跳ね上げ、マクスへと向けた。

 甘く、深く、迷わず放たれたその夢魔の波動を、マクスは即座に組み上げた術式にて増幅させると、天へ向けて一気に打ち上げた。

 天空に放たれた夢術は、空を走り、螺旋軌道に絡みつく。

 そして、次々と神の眼にたどり着き、残らずすべてを眠りに落とした。


 そして、待ちわびた奇跡の一瞬を作り上げた──


 リアラはその瞬間に、禁術書を開く。天目轆轤片の頁が自ずとめくれ、彼女の指先へ光が吸い込まれていく。

 緊張の一瞬、胸の奥に熱が込み上げる。仲間を救うため、力を貸してくれたふたりのため、ここまで積み上げた、たった一瞬のため──

 彼女はこの一瞬に、その全てを捧げてもいいと、心から思った。


 そして、静止した世界で彼女は見た。すべての真実の光景を──


 ──それは、彼女にはあまりにも残酷な光景だった。

 仲間が連れ去られたはずのグレイヘイブンのいくつもの砦は、すでに原形を留めていなかった。砦は押し潰されたように崩れ、至る所に火がかけられている。

 石壁は黒く焦げ、塔は折れ、地面には焼け落ちた梁が散乱し、瓦礫の隙間から立ちのぼる煙だけが、細々と揺れていた。


 知らぬ間に、魔族の軍勢が攻め入ったのだろうか、と一瞬過る。しかし、それは違った。もし魔族がこの砦を落としたのなら、囚われていた仲間は解放されているはずだ。そのはずなのに、仲間の影はもうどこにもなかった。


 グレイヘイブンは人間同士の戦いで、侵略されていた。

 そして、同族同士の殺し合いに巻き込まれた魔物の囚人たちに、情けなど向けられるはずもなかった。

 彼らは、処刑する手間も惜しまれ、崩れ落ちる砦と共に、炎へと投げ込まれていた。


 リアラは、後悔という言葉では足りないほどの激情に、内側から引き裂かれそうになった。


 何を置いても、行けばよかった。行くべきだった。こんな遠回りなんてしている場合じゃなかった。

 あの時、逆の方向に走り出していれば……ひとり、たったひとりでも仲間を救えたかもしれないのに……。


 ああ、だめ、違う、行ったって……燃える砦の中で、何もできずにただ死体が一つ増えるだけ……。

 わかってる、そんなの、考えるまでもないのに。なのに、どうして私は行かなかったの。どうして? どうして?


 胸の奥で、何かがひび割れるような音がした。

 私は……怖かった? いや、違う、そんなはずない、でも……。

 助けたかった。助けられなかった。助けに行かなかった。

 行けなかった? 違う、違う、違う。


 私はなにをしていたの? なにを選んだの? なにを間違えたの?

 どうして生きてるの? 私だけ──


 激しく揺さぶられるリアラの心を呼ぶロロの声が響く。 「──ダメだよっ! お姉さんっ!!」

 しかし──その声は、彼女に届くには弱すぎた。


 ぐちゃぐちゃになった思考に、心を内側から荒々しく叩きつけられ、リアラは呼吸すら形を保てない。

 後悔も、自責も、嘆きも、すべてがひとつの濁った塊になって彼女にのしかかり、ついには──彼女の夢魔の術は解かれてしまった。


 その刹那、消失点は通り過ぎ、天目轆轤片の代償が彼女を襲った。


 リアラは結局、何ひとつ救えず、何ひとつ掴めなかった。最後に残した身一つすら、彼女は奪われた──。


                                                       

 リアラの指先の動きは慈しむようでありながら、どこか痛みを押し殺しているようにも見えた。

「──私は、この禁術で仲間の行方を追いました」 声が少し低く、遠くへ沈む。

「天の眼は、すぐに答えを示してくれました。……けれど、すべては手遅れでした」


 彼女はゆっくりと息を吸う。そして、微かに震えた。

「私たちを裏切り、仲間を捕えた人間たちは、そのあと人間同士の戦いに敗れ、滅ぼされていたのです。

ええ、私の仲間ごと……」

 淡々と告げた言葉には、激しい憎しみも、嘆きもなかった。

 ただ、その喪失が彼女の内に深く沈殿し続けていることだけが、ひどく静かに伝わってくる。


「──私は、すべてを失った。生きる意味も、目的も、本当に何もかも。

でも……そんな空っぽの私に、ロロくんはこう言ったんです」


『ねえ、お姉さん、仲間を殺した人間を殺した人間たちを皆殺しにしたい? 僕は最後まで手伝うよ。』


「って……。私は思わず、笑ってしまいました。そんなことをしても、もう意味なんてないのに……。

でも、あの子がそのとき、そう言ってくれたから、私は今ここに居続けているのかしら……」

 語り終えたリアラの表情は、いつもの穏やかさを取り戻していた。まるで、長い夢からようやく現実へ帰ってきたかのように。


 ダリアンは黙ったまま、しばらく考えていた。

 その経緯は違えていても、ここで救われたという一点だけは、自分と重なる。その事実が、共感に似た温かさと、思い出したくはない痛みを生み、言葉にできない重さを持った感情を呼び起こしていた。

「ロロは昔から、ああなんですね」

 そんなありきたりなダリアンの言葉に、リアラは微笑む。


「そうね。私はあの子があのまま笑っているなら、それでいい…‥」

 リアラの、ロロへの恩義を超えた愛情は、彼女自身に空いた穴を埋めるためのものでもある。

 彼女は、天目轆轤片の代償によって子宮を奪われた。


 子を宿していたわけではない、仲間の中に、将来を誓いあった相手がいたわけでもない。

 子を産むという行為そのものではなく、いつか抱く未来の可能性を断たれた痛みが、彼女の胸の奥に、永く静かに沈んでいる。


 だが、リアラはそれを悲しみとは呼ばなかった。

 ただ、ロロが笑っていてくれることが、彼女に残った唯一の救いだった。


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