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第二十一編 天目轆轤片・上

 人間界の聖地アルベリオから帰還して以降、ダリアンには消えない一つの後悔があった。

 禁術書──『銀灰語啓典(アフォールトーラー)』。それは、彼にとっても抗いがたい魅力を放つ禁術書だった。

 あれを使えば、アルテアの最後の言葉を聞ける──彼の諦めた希望を叶える禁術書の存在は、彼の胸を締めつけていた。


 彼がもし、ネクロハイヴ禁術書館の司書となっていなければ、たとえ自分の声と引き換えにすることもかまわず、きっと手を伸ばしていただろう。

 しかし、今の彼が銀灰語啓典を前にして、なぜ踏みとどまったのか──その理由を、ダリアン自身もよく分らないでいた。


 ここで過ごした日々が、アルテアの記憶を薄めてしまったのか──

 それとも、ネクロハイヴ禁術書館の司書として、生きることを望んでいるのか──

 アルベリオのエルドという自己を投影するかのような魔族の残滓は、ダリアンに自分が本当に望むものを分からなくさせていた。


 そんな折だった。とても楽しそうに微笑むリアラの姿が、悶々と過ごすダリアンの目に留まった。

 これまで、あまり感情を表に出したことのなかった彼女のその表情は、ダリアンを少し戸惑わせた。それでも、普段の彼であったなら、気にも留めなかっただろう。だが、今のダリアンには、リアラのその表情の理由が気になった。

 

「何か、いいことがあったんですか?」 ダリアンはそれとなく尋ねる。

「ええ。とても良い思いをさせて頂きました」

 サリエントの極上の夢を味わったばかりだったリアラは、満足げにそう話した。その表情は、恍惚として夢魔(サキュバス)本来の何ともいえない艶めかしさを映していた。


 いつも穏やかで、どこか影の薄い雰囲気さえ纏っていた彼女が、妖艶な笑みを浮かべる。

 彼女が夢魔であることは、その外見の特徴から察してはいた。だが、その本性を隠そうとしてさえ見えたこれまでの振る舞いから、ダリアンは深く探ろうとはしなかった。


 だが、ダリアンはふと気づいた。自分はリアラのことを、あまりにも何も知らないと。

 何を思って微笑むのか、どんな理由でここにいるのか──その何一つも知らない。

 気にすることもなかった些細な疑問が、ごく自然に胸に浮かんだ。


「──どうしてリアラは、このネクロハイヴで司書をしているのですか?」

 気づいた時には、その疑問はもう口をついていた。


 リアラは一瞬、驚いたように目を瞬く。けれどすぐに、表情をふわりと緩めた。

「……。そうですね。そろそろ、お話してもよいかしら」

 それは、ダリアンも驚かせた。彼女がこんなに簡単に語ってくれるとは思っていなかった。

”きっと機嫌が良いせいだろう”──そう納得しながら、彼女の次の言葉を待った。


「私ども夢魔の一族というものは、夢を糧としています。

それは、人間であろうと悪魔であろうと関係なく、その魂に宿る欲求を操ることで、夢に生まれる満たされた情念を吸い上げるのです」

「その情念の形、思念の力というものは、欲を満たす瞬間にこそ、最も濃く、最も甘い力が流れ出す。

ですから、ただ快楽を与えるだけでなく、時には夢を歪ませ、悪夢を見せて苦痛を混ぜて、より強い欲を作り出すこともあります」

 彼女が語る自身の種族の特性は、ダリアンもよく知っている、広く知られたことだった。


「──その様なこともあり、私どもの一族は魔族であっても、人間とも相互依存という形で共生していたのです。ある時までは──」

 魔族であっても、人間と親交を結ぶ者はいる。特に夢魔のように、互いの利益が一致する種族であれば、抵抗も薄れるだろう。ダリアン自身も、そうだったのだから……だからこそ、最後の一言が引っかかった。


「……ある日、私たちは突然、人間に裏切られました。周到な罠にはめられ、多くの仲間が殺され、あるいは囚われました。

私は……仲間が身を挺して庇ってくれたおかげで、どうにか逃げ延びましたが、他に助かった者は誰もいませんでした」

 リアラは、その内容に反して、声色を変えず、淡々と語る。

「夢を操る以外に何もできなかった私が、仲間を救い出すには力が必要でした」


 そこでようやく、リアラはダリアンへと穏やかに視線を向ける。

「……ですから、私は力を求めて、このネクロハイヴ禁術書館にやって来たのです」


 その理由に、ダリアンは言葉が出なかった。

 これまでの穏やかな仕草の中に、そんな過去があるとは思いもよらなかった。だが、なんの過去も目的もなく、この書館に身を置くことも、また有り得ないことだった。

 ダリアンは、リアラの内にある闇に、少しだけ親しみを抱いた。その不思議な感覚は、彼の胸に次の疑問を浮かべる。


「仲間を、救い出すことは出来たのですか?」

 だが、リアラはそっと目を閉じ首を振った。


「──まず私は、仲間の居場所を探さなければならなかった」

 静かな声は、どこか遠い記憶をたどっているようだった。

「だから私は、その時……そう、丁度この部屋で、マクス様から禁術書『天目轆轤片(てんもくろくろへん)』を受け取ったのです」


 リアラは視線をゆっくりと巡らせた。まるで、かつての自分の影を探すかのように一回転し、また戻した。

 やがて彼女は椅子から立ち上がり、書棚へ迷いなく歩み寄った。その指先が一冊の禁術書に触れる。

 それは、まさに彼女の運命を変えた禁術書『天目轆轤片』だった。

 黒い表紙に黒紫の釉薬でも垂らしたかのような光沢が、金の粒子を閉じ込めて揺らめいている。

 リアラの指が、その背表紙に統べるように沿った瞬間、彼女の目には哀れみが淡く浮かんだ──



「リアラゼル・キヴァレス様。今宵は、何を御所望ですか?」

 丁度リアラとダリアンの座る位置を入れ替えて、思い出の中のマクスが、彼女に問いかける。


「……ここへ来れば、どんな願いでも叶う力を授かれると聞き参りました。

私の願いは、仲間の復讐──私たちを裏切った人間どもを、残らず皆殺しにしてやりたい……」

 リアラの口からは、今の彼女からは想像もできない怨嗟を帯びた声が漏れ、震えていた。その瞳には、失われた者たちの影が深く沈んでいる。


「──なるほど。少々誤解もあるようですが、よろしいでしょう。

貴女の望む復讐の呪詛を、いくつか選び出して差し上げます。

その者たちの具体的な素性や、風貌を覚えておられますか?」

 恨みに震える彼女を前に、マクスの変わらない落ち着いた声が響く。その冷静さは、さらにリアラの感情を際立たせていた。


「ええ、忘れるはずがありません。あいつらはグレイヘイヴンの兵士でした。

生き残った者たちは囚われ、皆そこへ連れて行かれた。私は、そこに連行される途中で逃げ延びたのです」


「グレイヘイブン……人間たちが支配する世界の北の果て。領土は広大で、軍勢も相当なものと聞き及びます。

しかし、それだけの兵を根こそぎ滅ぼすような呪詛となると、とても貴女ひとりの力では背負い切れないでしょう」

 マクスは復讐に燃える女を前に、禁術書でもどうにもできない、現実の重みを遠慮なく告げる。だが、その声音には、その可能性を探る堅実な期待も混じり込んでいた。


「同族を殺した者たちへの復讐と、お仲間たちの救出、貴女はどちらを望まれるのでしょうか?」


 マクスの迫った二択に、リアラは目を伏せた。

 復讐を諦めたりはしない。でも、まず仲間を助けられれば、新たな道が開ける──彼女は込み上げる衝動を抑え、より確実な選択を選んだ。

「……まずは、仲間を救い出さないと」 決意を込めて吐かれた言葉は、わずかに震える。


「では、そのお仲間が、広大なグレイヘイブンのどの辺りに連れて行かれたか、手掛かりはありますか?」

 マクスの質問に、リアラは首を横に振った。

 移動した方角からある程度の見当は立てられるが、候補を絞り込むには情報が少なすぎる。そこに仲間が全員いるとも分からない。


「……あなたのお仲間がどこにいるのか、それを確実に暴き出す禁術ならございますが、いかがでしょうか?」

 マクスの提案に、リアラは首を縦に振る。

「ええ、それは?」

 彼はリアラの返答を受け取ると、くるりと椅子から立ち上がり、書棚へ歩み寄った。そしてそこにあった一冊の禁術書を抜き取る。

 間もなく、彼女の前に差し出されたその書は、黒い表紙に黒紫の釉薬でも垂らしたかのような光沢が、金の粒子を閉じ込めて揺らめいていた。


「こちらは、禁術書『天目轆轤片』でございます。ここには、神の眼を盗み見る禁忌の術が記されております」

 マクスはそっと書の背に手を添えたまま、説明を続ける。


「この世界を回転しながら監視する神の眼は、常にすべてを見通している。その眼差しから逃れられるものなど、何一つとしてありません」

「どんなに遠く、どれほど巧妙に隠そうとも、あらゆるものをたちまちのうちに暴き出す“天の眼”をもたらす禁術です」


「ですが──この禁術は神の眼を盗む代償として、あなたに対価を求めます。

この禁術を扱うには、貴女自身の身体の一部を差し出さねばなりません。

ある者は腕を、ある者は脚を、その体の部位を定めるのは、貴女ではなく──神です。

神が体の一部を自分の眼だと間違えている間だけ、貴女はこの“天の眼”を使うことができるのです」

 マクスの手が書の上で止まる。彼の眼差しには、決断を迫る冷徹さと、同時に差し出す者への哀惜が混じっていた。


 その決断は、リアラを苦しめた。

 自分の体が惜しかったのではない。この禁術『天目轆轤片』を使って仲間の居場所が分かっても、救いに行くための脚を失っていては意味がなかった。

 運よく問題のない箇所で済むのならいいが、それで済むなど有り得ない。これは、そういう禁術なのだと予感させる。


”せめて、仲間を助けてからなら、どうしてくれてもいいのに……”

 リアラは、この禁術に手を伸ばせずにいた。しかし、その時──


「やあ、お困りのようだね」 俯く彼女の耳のそばで、子供の声が響いた。


「僕は、ロロ・ゼバラフ。どうぞよろしく」

 少年は、弁えもせず、空気も読まず、にこやかにリアラへ手を差し出した。

 しかし、あまりにも唐突な出来事に、リアラはただ目を丸くするだけだった。

 ロロは笑顔のまま、その差し伸べた小さな手に空を握ると、肩をすくめて続けた。


「この禁術、意地悪だよねぇ。よく見える目の代わりに、自分の体の一部を持っていかれるなんてさ。

──実は、僕もこの禁術使いたいんだけど……もし脳みそなんか持っていかれたらさ、もう何にもできなくなるでしょ? それじゃ、本末転倒の八方塞がりだよ」

 とても馴れ馴れしく軽口を叩きながら、ロロはリアラの周囲をゆるやかに歩く。足取りは子どもらしい無邪気さを装いながらも、その動作が描く円の正確さには、どこか不気味さも漂わせた。


「そこでさ、僕は考えたんだよ。

この誤魔化しの禁術を、さらにもう一回誤魔化すことができないかなって──」

 そしてピタリと止まって、両手を広げた。


「ねえ、お姉さん。もし、僕に協力してくれたら、僕もお姉さんの仲間を助けるのを手伝うよ。

どう? この話、悪くないと思わない?」

 そう言って、ロロはもう一度、笑顔でリアラに手を差し伸べた。だが、その子どもらしい無垢な笑顔の奥には、取引を楽しむ悪魔のような愉悦が潜む。


 リアラは、少年の言葉を疑うよりも先に、その意味を反芻していた。

”助けてくれる? 仲間を助けられる?”──ただそれだけの言葉が、胸の奥を巡る。

 どれほどの代償を払ってでも叶えたかった願いが、この少年の手を取るだけで届くかもしれない。

「……あなた、本当にそんなことができるの?」 声はかすかに、瞳の奥には淡い光が宿っていた。


 ロロは大げさに肩をすくめる。

「できるよ。これまでの研究で、天目轆轤片の”神の眼”の働きは、ほとんど掴めてるんだよね。

あとちょっとのところを、お姉さんが協力してくれると、完成すると思うな」

 あどけない笑顔の奥には、確かに得体の知れないものを感じさせる。

 それでもリアラには、ロロの手は救いだった。


「……ええ、もし、あなたが本当に助けてくれるのなら、私は……」

 言葉を詰まらせ、彼女はそっと手を伸ばした。

 その指先がロロの手に触れた瞬間、その顔は満面の笑みに溢れる。


「うん、いい返事だね。契約成立」 そう言って、ロロは手を握り返した。


「私は、リアラゼル・キヴァレス。喜んで、あなたに協力します」

 その手の感触は、リアラにこのとき、ロロに騙されてもいいとさえ思わせた。

 たとえこれが救いではなく、堕落の温もりだったとしても、今の彼女には、それが現実のどんなものよりも優しいものに感じられた。


 この取引の結果が、互いに何をもたらすのか──今はただ、握り合った手の温もりが、ゆっくりと冷えていくだけだった。

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