第二十編 双子睡蓮冠・下
城に戻ってからのサリエントの行動は確かに早かった。
彼はまず、魔王とその背後にある支持勢力との分断工作に着手した。
現魔王は、数少ない上級悪魔のひとりで、高い魔力を持ってはいたが、他の者たちと比べ突出した力を有しているわけではない。魔王ひとりの力では、到底魔界全土を掌握できるような支配力を持つことはできなかった。
そこで彼らは、圧倒的な力を持つ個に頼ることなく、幾重にも連なる主従契約によって、恐怖の連鎖を支えたのである。
しかしこれは、彼を支持した公爵たちの影響力なしでは、魔界の統治を維持できないということでもあった。
サリエントはそこに目をつけた。
彼とその一派は密かに、魔王の配下にある公爵と眷属の間へと呪詛の瘴気を流し込み、主従契約の魔力を濁らせていった。
それは体を蝕む類のものではなく、魔力の共鳴を狂わせ、主の魔力を恐怖として感じ取れなくさせるものだった。
魔界を支配するのは力の恐怖。それを失えば、即座に群れは瓦解する。
絶対的な魔王さえいれば起こりえないこの欠陥を、サリエントは己の夢を叶えるために容赦なく利用した──。
最初に動きがあったのは、魔王の勢力の中でも末端に属する小領主の領地だった。
魔界の果て、荒れ果てた瘴気の荒野に点在する下級悪魔たちの群れが、突如として主に牙を剥いたのだ。
報告を受けた魔王は、即座に鎮圧を命じた。
そのほんの小さな反乱に対し、魔王軍はその威信にかけ過剰と言える徹底した掃討を行い、わずかな抵抗も血煙と共に跡形もなく潰えた。
だが、その原因については、新魔王の実権の移譲に伴う一時的な混乱として処理され、誰も深く追及しようとはしなかった。
魔王の代替わりに必ず起こる小競り合い、多くの者はその程度にしか見ていなかった。
その時はまだ、誰も気づいていなかった。
その小さな火が、同時多発的に各地で燃え上がっていることを──それが偶然ではなく、同じ意志をもって仕組まれたものであることを。
この反乱が鎮圧されると同時に、次々とまた別の反乱の報告が雪崩のように押し寄せた。
その報告は、魔王たちを驚かせた。
自分たちの地位が脅かされたからではない。最下級の悪魔たちが魔王の支配に抗ったところで、愚かで、取るに足らぬ虫の反抗に過ぎない。
玉座を狙うわけでもなく、彼らに勝ち目があるわけもないこの反乱に何の意味があるのか、彼らには分からなかった。
だが、魔界の支配の根幹が力による恐怖である以上、それに逆らう者を許す訳もなかった。
ただ、ただ愚かとしか言えない行動であったが、魔王の名の下に、その様な輩を粛清する命が下された。
──そこに手を挙げたのが、サリエントだった。
「魔王陛下、恐れながら申し上げます。
これだけの数の反乱のために、ただでさえ疲弊している魔王軍を各地に送ってしまえば、この魔王城の守りが薄くなりましょう。
もしご下命あらば、この反乱の鎮圧を、私めにお任せ願いたい」
彼の声は、いつになく静かであった。
「──一晩。一晩お待ちいただければ十分。たったそれだけで、この全ての反乱を鎮めて御覧にいれましょう」
しかし、そこから出た言葉は周囲をざわつかせた。
雑兵の反乱など、鎮圧するだけなら難しいことではない。ただ、サリエントの兵だけで、全ての反乱を鎮圧するとなれば、甚大な消耗を背負わなければならない。しかも、それをたった一日で成すというのは、無謀とも思えた。
魔王の選定で敗れたサリエントが、そこまで現魔王に尽くすことに理由がなかった。それに、この様な大口を叩く性格でもない。彼の本性を知る魔王の配下には、その姿は違和感しかなかった。
「……いいだろう。貴様に任せる。言葉通り一晩で鎮圧してみせよ」
だが、魔王は跪くサリエントを前に、警戒するそぶりも見せなかった。
くだらぬ反乱を収めたところで、武勇として誇るにも値しない。むしろ、ここまで言って、その通りのことができなければ、名誉に傷がつくだけ。
何一つこちらに背負うべき責が無く、汚れ仕事を引き受けるというのなら、やらせてやればよい。魔王はその打算によって、任を与えた。
その時──跪くサリエントの隠した顔には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
──命を受けるや否や、サリエントはただちに出陣の準備を整えた。
そして、隠すことなく不敵に笑う。ここまで、すべて思い通りに事が運んだことに。
何のことは無い、彼らはただ、自分たちが掛けた呪詛を解いて回れば済む事でしかないのだから。
彼の口元から漏れる低い笑声に、従う魔族たちは身を震わせた。
サリエントの軍は、異様な速度で進軍を開始した。
行軍の足並みは乱れず、まるで敵の動きをすべて見通しているかのように、兵は枝分かれする大樹のごとく分散し、各地へと展開されていった。
そんな枝葉の寡兵では、反乱の制圧など出来るわけがない。何も知らない者たちは、サリエントの愚行を嗤った。
彼の兵は戦場に赴くと、偽装のために小規模な戦闘を演出した。だがその実、剣を交える者以外には、解呪を施し元の兵と戻して回った。
だがそれは、王への忠実な兵に戻すためのものではなかった。王の粛清から救ったサリエントの兵として生かすためのものだった。
そうして新たに調達された兵を自軍のものと編成し、各地の反乱を加速的に制圧していったのである。
そして、サリエントが宣言した通り、たった一日で全土の反乱は鎮められた。
しかし、玉座の間に彼が凱旋したとき、その場にいた誰ひとりとして歓声を上げなかった。
そこには、奇跡を成し遂げた者への称賛はなく、その手腕への嫉妬と、出来過ぎた成果を生んだ狡知への恐れがあった。
その沈黙の中、玉座に座す王だけが、ゆるやかに口を開いた。
「……よくぞ、言葉通りにやってのけた。褒めて遣わす」
その中には、他に褒美も何もなく、ただ王の言葉があるだけだった。
それを、サリエントは静かに跪き、頭を垂れたまま、表情ひとつ変えずに受ける。その瞳の奥にどんな思惑が宿っているのか、誰にも窺い知ることはできなかった。
そして三日が過ぎたとき、サリエントは再び、ネクロハイヴ禁術書館を訪れていた。
「──なあ、これが本当に、私が思い描いた夢なのか……?」
リアラを前に、サリエントの声はかすかに震えていた。
前回見せた不遜な態度は消え失せて、その口から漏れるのは、紛れもない彼の本心だった。
リアラは静かに顔を上げる。
「ええ、間違いなく。私は、あなたの願い通りの夢を見せました」
その口からは、以前と全く変わらぬ穏やかな声音が返る。
だが、その言葉の意味は、サリエントには残酷だった。その肩が、ぴくりと震える。
「……何とも、つまらんっ! 何とも陳腐っ! 貴様っ!! 私を謀っているのかっ!」
彼はリアラに怒号をぶつけた。だが、それは怒りというよりは、悲鳴。魂の痛みの叫びだった。
リアラはまったく動じず、淡々と、彼の魂の痛みを正確に見つめていた。
「──あなたは、”英雄”になられる夢を望まれました」
その瞳は、ネクロハイヴ禁術書館の司書としてのものなのか、それとも夢魔のものなのか、誰にも分からない。
「魔界において、魔族が覇者である魔王ではなく“英雄”を目指す──
子供でもそうそう描かない、きわめて珍しい夢ではありますが、確かに私は、その夢をあなたにみせました」
「ですが、三日という時間では、まだその序章を描いたに過ぎないでしょう。
どんな物語であるにしろ、英雄となるには、多くの試練を乗り越えねばなりません」
サリエントの口が、乾いた音を立てて開いた。
否定の言葉を出すことができない。確かにそれは、彼の真実を抉っていた。リアラは続ける。
「ですが、最初に申しました通り……それは、あなたが信じるあなた自身の力が叶える夢です。
もし、そのあり方を違えてしまうのなら、それはもう、あなたの夢ではなくなってしまいます」
自分で定めた自分の限界──それは夢の中でさえ、自分自身と現実を繋ぎとめる鎖となり、この身を縛った。
もし、その鎖を引き千切るほどの渇望があるなら、その枷も束縛も取り払えるのだろうか。
……いや、違う。それができないからこその自分、なのだ。夢でも現実でも、そこだけは変えられない。
「あなたが考え、あなたが夢に描いた姿こそが、今のあなたとなっているのです」
リアラの言葉は、淡々として柔らかく、そして残酷なほど鋭利だった。
自分で選び、自分で形にし、自分で信じた夢──。
その通りだ。自分で自我を、あるいは夢我を責められるわけがない。
「ですからこの現実は、あなたが夢をかなえる力を持って叶えた、あなたの夢です」
確かに。何一つ、違えていない──
サリエントは呼吸すら忘れ、言葉を失った。
睡蓮はすでに枯れ果て、自我と夢我が一体となった彼には、自分の夢を裏切ることはできなくなっていた。
彼は、長く息を吐くと、大きく肩を震わせて、口を醜く歪ませた。
「……いいだろう。
他者を欺き、虚構の武勇を積み上げて、私の英雄譚を完成させよう。
その果てに、私の帝国を築こうではないか……」
その姿は、これまでのサリエントから大きく変質していた。
夢我を取り込んだサリエントは、自己の歪んだ欲望に素直になり、より貪欲で狡猾な悪魔らしい悪魔へと変わっていた。
“英雄”という名の夢に取り込まれたサリエント──彼はもう夢を見れない。ただ、貪欲に夢を喰らう悪魔となった。
「──サリエント・マルドレアス・ヴェルグレイン様。またのお越しをお待ちしております」
満足げに書館を後にするサリエントの背を、リアラは頭を垂れて見送った。
その彼女の背後から、一部始終を見ていたマクスが声を掛けた。
「……ヴェルグレイン様を、あなたに任せてよかった。
私や、セレヴィア様では、あの方が求める結末には至らなかったかもしれません」
彼からの突然の称賛に、リアラは少し困ったように眉を寄せ、視線を伏せた。
「その満足も、一体いつまで続くでしょうか……。
あの方の見ている夢が、もし悪夢に変わる時が来たら──
禁術を使って夢我と一体となってしまった今の状態では、もう私の夢魔の力は届きません」
押し黙るマクスを前に、しかしリアラはふっと笑みをこぼした。
「それに、この件で一番満足したのは、おそらく私です……」
「フフッ、夢の味というのは、クズが見る夢ほどこの上なく、美味しいんです」
その笑みは、司書を忘れた純粋な夢魔としての彼女──
醜悪な強欲さえ蜜のように吸い上げ、手のひらで転がすことを楽しむ、妖艶な魔の微笑だった。
魔書に囲まれた奥底で、その冷ややかな唇は、艶やかに煌めいていた。




