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第十九編 双子睡蓮冠・上

 アクレオスの動乱を経て、空位であった魔界の王が、ようやく定まった。

 玉座をめぐり水面下で続いていた争いも、表向きには終息を見せ、魔界はひとまずの平穏を取り戻したかに見える。

 歴史の大きなうねりも、ネクロハイヴ禁術書館の静寂を乱すことはない。

 外界から切り離されたこの書館は、たとえどんな考えを持った者でも、平等に権利が与えられる。その理は何一つ変わらない。

 ──ただ、禁術を求める魔族の瞳には、確かに時代の(かげ)が差していた。


「サリエント・マルドレアス・ヴェルグレイン様。今宵は、何を御所望ですか?」

 ある魔族の応対に、リアラが立つ。

 高座の椅子に腰をかけたサリエントは、その名を呼ばれたこと自体が不服であるかのように、隣の側近へ、ただ目を移す。

 

「──私共は、このたび即位なされた新魔王様の御力となるような禁術を探しております。

魔王様の御威光に決して逆らうことができなくなるような、あるいは、その身に向けられた呪詛の類を跳ね返すような……

魔王様に捧げるにふさわしい禁術は、ございますでしょうか?」

 サリエントとは対照的に、側近の態度にはリアラ──いや、ネクロハイヴそのものへ対しての敬意があった。


 リアラは短く思案し、それから静かに口を開く。

「……そのご要望は、むしろ禁術への対抗術のようにお見受けしますが……

どのような対抗術であっても抗えぬ禁術をお求めということでしょうか?」

 側近は慎重に頷いた。その隣で、サリエントは退屈そうに指先で肘掛けを軽く叩いていた。


「その様なものとなると、術者の魔力か、相応の代償を必要としますが──その禁術は果たして、どちらが使われるのでしょうか?」

 たったそれだけの問いが、サリエントの限度を超えた。


「ああ、五月蠅い。なんとも、もどかしい……。

魔王カイリスの禁術書が手に入るというから来てみれば、私がなぜこのような者の問いに応えねばならん。

こちらの要望に応えるものを、何故すぐに用意できない?」

 それは明確な脅しだった。

 サリエント・マルドレアス・ヴェルグレイン──この悪魔の魔界での地位は、オリヴァと同等の上級悪魔である。当然、その力も彼に匹敵する。

 本来であれば、リアラのような下級悪魔が言葉を交わすことすら憚られる。その怒りも、彼からしたら当然のものだった。


 しかし、リアラの表情には、何の揺らぎもなかった。

 その冷えた沈黙は、恐れからでも、反抗からでもない。ただ、これまで幾度となく繰り返された同じ光景を、静かに受け入れていた。

「……本書館では、いかなる魔族であろうとも、きちんと順序を踏んでいただく必要があります」

 リアラは淡々と告げる。格上の上級悪魔相手にも、声には抑揚はなく、一切の感情が死んでいるかのようだった。

 彼女とサリエントの間に、張り詰めた空気が流れる。それを間近で受け、誰よりも恐れたのは、隣に控える側近だった。


「ですが──もしお急ぎであるのなら、話を急ぐといたしましょう」

 ふっ、とリアラの明るい声が、不意に差し込まれ、緊張の糸を緩める。

 その声音に間を外され、サリエントの怒気が削がれ形を失う。それは、側近にひと時の安堵を誘った。

 ──だが。


「あなた方は、それと気づかれることなく、魔王に危害を与えることをお望みですか?」

 その性急すぎるリアラの言葉は、彼らの隠した本心を怒気ごと抉り取った。


「……フッ、フフッ──。面白い。なるほど、それは話が早い」

 サリエントだけの笑いが、沈黙を破った。

 本心を知られたことに対してではない、リアラがそれを見抜いた上で、こうも軽々しく口にしたことが、可笑しかった。


「あの魔王は、我々が選んだ魔王ではない。

あと一歩というところで、私が擁立した魔王候補は敗れてしまった」

 サリエントは愉快そうに笑いながらも、その声の奥には棘のような怨嗟が滲んでいた。


「かといって、曲がりなりにも魔界に連なる公爵たちの取り決めのもとで決まったことだ。表立って反抗もできん。

──だから、それと悟られぬように、魔王と、その取り巻きどもをじわじわと苦しめたいのだよ」

 最初に取り決めをしておいて、思い通りの結果が得られなければ、それを覆す。

 その目的は、なんとも利己的で身勝手なものだった。ただそれは、純粋な悪魔そのものだとも言える。


 リアラは、ゆっくりとその言葉を聞き終え、黙したまま視線を上げた。

 暗い湖底のような瞳が、目の前の男をゆっくりとなぞる。そこには侮辱も、軽蔑もなく、ただ、すべてを確認するだけの眼差しがあった。


「──では、決して気づかれることなく進行する遅効性の呪いの禁術でよろしいでしょうか?」

 サリエントの望みを叶える禁術を、リアラは迷わず提案した。だが、彼はそれ以上に強欲だった。


「ああ、それもいい。だが、それだけでは駄目だ。

私の意にそぐわない者には、徐々に体を蝕まれるだけでなく、いつ死ぬかもわからん恐怖も必要だ。

ああ、そうだ……呪いと分かっても、解呪できない絶望も味合わせてやりたい」


 不敵に笑うサリエントを前に、リアラの瞳は静かに揺れる。

 いくらネクロハイヴの禁術といえど、この男の趣向に合わせた呪いなどない。

 そもそも、この男の要求は、己の欲求を満たしたいがあまり、自分自身が言った”それと悟られぬように”、という条件を破っている。

 その様な生粋のクズを前に、それでもリアラの口はゆるりと開いた。


「──際限なく願望を叶えたい。というのであれば、適した禁術が一冊ございます」


 その声音は、まるで湖面に落ちる一滴の雨のように広がる。その小さな波紋を、男ふたりは無視できなかった。

 その男たちの前に、リアラは一冊の禁術書を差し出した。


「この禁術書は、『双子睡蓮冠(コロナ・ニンファエア)』。あなたの夢を叶える禁術でございます」

 その書は、とても禁術書とは思えない、美しい淡い薄紅の光沢を返していた。

 その相応しくない輝きは、一度は触れてみたいと、見る者の心を惑わせる魅力があった。


「──この禁術は、夢と現実の入れ替えを起こします。

夢のあなたが、現実の世界に現れる。今のあなたは、夢の世界の住民となる。

あなたは、あなた自身が夢に見る、夢を叶えるあなたと成り代わるのです」

 リアラはまさに深い夢へと誘うように、双子睡蓮冠の説明を始めた。


「あなたがこうしたい、そうなりたいと抱く願望が強ければ強いほど、夢のあなたの力となります。

それは、現実では不可能だと諦めてしまうことすら、容易に飛び越えてゆくでしょう」

 不遜なサリエントは、態度を改めるでもなく、ただその穏やかな声に聞き入る。


「けれど、あなたに寝ている記憶がないように、夢我のあなたと、自我のあなたは記憶を共有できません。

あなたの強い願望が、夢我のあなたの原動力には成り得ても、夢我のあなたは、自身が夢だという認識を持たない。

ただ、あなたの強い願望に忠実なまま、あなたの現実を生きるのです」


 そこで一拍、リアラは息をつき視線を下げると、最後に淡く消えるように告げた。

「──この禁術は三日間。三度の夢の開花を繰り返し、この冠は自然と枯れます。

ですがそのとき……あなたは自我と夢我の境界すら忘れていることでしょう」


「……つまり、どういうことだ?」

 サリエントの声には苛立ちが混じる。

「それは、眠っている力を呼び覚ますということか? それとも、理性を失い、ただの(たが)の外れた獣に成り下がるということか?」

 掴みどころのない禁術に、当然の疑問をぶつける。

 だがリアラは、それを受け止めながらも、ただ静かに微笑んだ。


「──それは、何とも言えません。

この禁術は何を望むかによって、まったく異なる花を咲かせるでしょう」


 少しの間を置いて、サリエントの低い笑いが、薄闇の中で響く。

「……ふん、面白い。まるで悪魔のために作られたような禁術ではないか。

だが、おかしいだろう? その口ぶりなら、夢を願えば何でも叶うはずだ。

ならば、これまでの者たちはなぜ魔王にも、神にもなっていない?」


 挑発的な彼の詰問に、リアラは眉一つ動かさず穏やかに応じた。

「あなたが今、そうして疑っておられること。それこそが夢我のあなたの枷となります。

自我が抱く“疑念”や“常識”が、夢我の力を縛るのです。あなたが現実の理を信じる限り、夢はその理を越えられない。

ですから──あなたの疑いが消えぬかぎり、夢我のあなたは魔王にも、神にもなれません」


「ならば……思い通りの夢を描けなければ、結局この禁術は使い物にならんのではないか?」

 サリエントの声には明らかな不愉快さが滲んだ。自分の意のままにならぬ一点が気に入らず、リアラを責め立てる。


”だから、何を犠牲にしてもよいほどの強い渇望を自我が抱くこと。それこそが、この禁術の代償なのです”


 リアラは静かに視線を伏せる。彼女は、その答えを彼に伝えてもよかったが、口を閉ざした。

 なぜならば、サリエントにそれを伝えたところで、彼には到底不可能だからだ。

 彼の欲は所詮、自分より他者が優れることが我慢ならない嫉妬に過ぎない。


 もし、彼の企みが成功したとして、魔王とその一派を追い落とすことができた時、次の魔王がまた望み通りにならなければ、また同じことを繰り返すのだろうか。

 あるいは、望みが叶ったとしたら、今度は自分に、自分がやったことをやり返されるとは、考えないのだろうか。


 結局、魔界の王たる者は、それらの魔族を恐怖で従える絶対者でなくては成り立たないのだ。

 それを理解していたからこそ、オリヴァは早々にこの争いから降りた。

 彼は、魔王を“協議”によって選ぶという行為そのものを、心の底から嘲笑し馬鹿にしていた。


 オリヴァもまた、サリエントと同じく、前魔王アクレオスを認めはしなかった。そして、決して表立って反旗を翻すこともなかった。

 それは、アクレオスの力が圧倒的であったことも理由の一つだが、それ以上に、魔族同士の争いなど、魔界全体から見れば不毛であることを、彼は俯瞰視できていたからだ。


 リアラもまたセレヴィア同様、オリヴァを好いてはいない。だが、それでも分かっている。

 少なくとも、目の前のこの下劣な男よりは、よほどマシだということを──。


「──では、禁術とは別に、私の夢魔(サキュバス)の能力で、この禁術を支援して差し上げましょう。

あなたに、極上の夢を見させることは、お約束できますよ」

 その声色はこれまでと同じ穏やかさに包まれていながらも、その唇は艶やかに湿り気を帯びて、吐息は熱を孕んでいた。


 その誘惑は、サリエントの理性を揺らした。

 夢魔の見せる夢が現実のものとなる──確かにそれは、至福の具現となるだろう。

 だが、サリエントとて、上級に類する悪魔。ただの獣ではない。

 抗えぬ幻惑に囚われることがどれほど危険か、彼は本能で理解していた。


 しかし、だからと言ってこの誘惑をすぐ手放す気にもならなかった。

 理屈では分かっている。これは毒だ。だが、毒であっても、一滴だけなら味わってみたい。彼は強欲だった。

 リアラの声が、ゆるやかに心の隙間へと染みこんでくる。その声音は理性を眠らせ、強欲だけを連れて行く。

 サリエントはこのとき既に、彼女の術中に堕ちていたのかもしれない。


「……いいだろう。だが、望む通りの夢を見せろ。少しでも違えれば、命で償ってもらう」

 言葉では権威を示し抗っているようでも、それは本心とは乖離していた。

 少し考えれば、この言葉には何の意味もないことを、あるいはサリエルは分かっていたのかもしれないが、理よりも強い彼の欲が口を動かした。


 その瞬間、リアラの瞳にわずかに光が差した。

「では、どうぞ。あなたはどんな夢を望まれますか──?」


 サリエントは、促されるまま禁術書に手を添える。

 そして、その望みを口にすると、リアラの指先が、彼の口元でゆるやかに空を描いた。

 次の瞬間、サリエントの頭上に睡蓮の冠が浮かんだ。それが、彼の中へと消えると同時に、まぶたも連れて下へと落とした。


 夢と現の境が融け、世界の輪郭がぼやけていく。湖底の底へと無限に落ち続ける感覚に襲われる。

 だが、それは現実の世界では、ほんの一瞬の出来事で、目覚めた彼の視界には、未だリアラの指先が泳いでいた。


「──ヴェルグレイン様。お加減は如何でしょうか……」

 隣の側近が、禁術を受けたサリエントにおそるおそる声を掛けた。


「……なにも、問題はない」

 一見したところ、サリエントに変化は見られなかった。目の色も、声音も、いつもの彼のままだ。

 彼をよく知る側近からして、そう判断できるほど、外見にも、気配にも何の異変も見て取れなかった。


「だが、三日、か……。こうしてはおれんな。すぐにでも、行動に移すとしよう」

 そう言って立ち上がると、彼は一切の迷いなく、書館の出口へと向かった。

 まるで、禁術を用いたことも、リアラの術を受けたことも、初めからなかったかのように、まったく意に返さず、彼は目的に向かって歩き出した。


「サリエント・マルドレアス・ヴェルグレイン様。またのお越しをお待ちしております」

 全く振り返ることなく、背を向けたまま立ち去る彼らの後ろ姿に、リアラは心ばかりの言葉を込めて、頭を垂れて見送った。


 その声音には礼節の響きと共に、彼女自身が持つ期待が込められている。

 それは果たして、ネクロハイヴ禁術書館の司書としてのものなのか、あるいは、夢魔としてのものなのか、真実は夢の底に隠された。

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