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第十八編 銀灰語啓典・下

 老女の名前は、レナ=アーシャ・エルセリア。そして、侍女はヨルンと名乗った。

 だが、彼女たちはダリアンの名を聞かなかった。それは、知ってしまうのは都合が悪かろうという、気遣いだった。


 二人とも、ダリアンを前にして嫌悪の欠片も見せなかった。

 アーシャは悪魔によってこの禁術をかけられたはずなのに、そこには憎悪など微塵も感じられない。

 それどころか、彼女はダリアンを歓迎するようにもてなした。その所作は、年齢とは裏腹に乙女の様な可愛げがあった。


 疑問が波のように押し寄せ、何から聞くべきか、彼を悩ませる。

 恐らくは、いくつか質問を重ねなければ、すべてを理解することはできないのだろう。

 手間と時間がかかることを覚悟し、ダリアンは最も基本的なことから尋ねることにした。

「──この禁術書は、なぜここにあるのですか?」


 アーシャの言葉を繋ぐヨルンは答えた。

「……すべては、神のお導き──と、貴方に言っても、嫌味に聞こえてしまいますね」

 ヨルンの言葉に合わせて、アーシャは笑う。


「この書は、私たちの運命を変え──そして、それだけでなく、エルド様の運命も変えてしまった」

「……私たちは、それも良いと受け入れたのですが、エルド様の目にはそうは映らなかった。

彼はこの書を残し旅立ってしまいました。恐らくは──私の声を取り戻すために……」


 エルド──それは確かに、この禁術書『銀灰語啓典(アフォールトーラー)』を借り受けた悪魔の名だった。

 だが、ますます良く分からない。エルドは、禁術を使い人間たちを弄ぶのが目的だったのではないのか。

 彼女たちの口ぶりでは、まるで彼はアーシャを助けたように聞こえる。


 そんなダリアンの疑問を見透かすように、彼女たちは言葉を続けた。

「……私と、幼馴染のヨルンは、ほんの数年前まで、教会とは無縁の町民でしかありませんでした。

その私たちの日常に、突然エルド様が現れて、この禁術書の取引を持ち掛けたのです」

 二人が幼馴染……ダリアンには信じられなかったが、黙って話の続きに耳を傾ける。


「……ヨルンは断りました。でも、私は──その禁術の魅力に逆らえなかった。

子供の頃から抱いていた疑問、その答えを知る唯一の方法。それが、悪魔の誘惑だとわかっていても、目を逸らすことができなかった。

そして、真実を知ることと引き換えに、私は声を失った……」


 やはりそうだ。エルドは死者の声が聞こえる禁術を使って、人間を弄んだ。

 人間にとって、この禁術の魅力は抗い難いものだろう。

 非業の死を遂げた愛する人の無念──

 覆い隠された歴史の真実──

 失われた賢者の叡智──

 そのどれもこれもが、この世では手に入れることのできない秘宝だ。その前では、自分の声を失うことなど、霞んで見えるほどの……。


「……私は、愚かにもその真実を世に広めようとした。よりによってこの聖地で。

声が出せない代わりに、書に認めて、私しか知らない真実を伝えようとした」

 彼女たちの言葉は、その表情とともに曇っていく。


「……私は、ほんの数日のうちに異端者として捕まりました。

彼らは、教義の名のもとに私を正そうとしましたが、それでも、私は頑なに真実を曲げなかった。

だから、私は火刑に処された──」


 語りの終わりは、すべてが焼き尽くされた灰のように静かだった。

 それは、絵に描いたような人間の破滅だった。

 ──いや、まさにそれこそが、描き手の望み。悪魔エルドは、その絵を見下ろして、嘲り笑っていたに違いない。

 信仰の名の下に真実を火に掛ける──その人間の愚かさは、彼にとってこれ以上ない娯楽だっただろう。


 だが、そこまで理解するダリアンに、分からないことが一つある──彼女は灰にはなっていない。


 なぜ彼女の肉体はここにあるのか。

 なぜ声を失ったまま、神の代弁者として生きているのか。

 アーシャとヨルンは、その答えを話し始めた。


「……火刑台の上に立たされ、取り囲んだ神官たちの手によって、私の足元へ松明が降ろされました」


「……炎が音を立てて立ち上り、空が焼け、皮膚が裂け、世界が光と痛みに呑まれていく──

それでも、私は目を閉じませんでした。この身が灰へと還る、その瞬間を見届けようと思ったのです」

 ヨルンの言葉は、その炎を再現するかのように熱を帯びる。


「……そして、運命の果て──炎の奥に見たのです。私が手に入れた真実を──

私は響かぬ声で、彼の名を──”神の真名”を叫んだ──」

 気づかぬうちに、アーシャはヨルンの手を握る。


「……その瞬間、私は神の御手に包まれた。ええ、私は救われたのです。

──私は、炎の中から生きて帰った。」


「……ただ、この通り、髪は色を失い、顔はシワだらけになってしまいましたが……」

 アーシャは照れ隠しをするように、自分の顔を優しくなでた。


 彼女たちの言葉に、ダリアンは息を呑む。それは恐らく嘘ではない。だが、信じることもできない。

 人知を超えた神の奇跡──その残滓を前に、彼の魔族の血が疼く。それは、怒りでも殺意でもない、本能に刻まれた恐怖の記憶だった。


 だが、魔族のダリアン以上に追い詰められたのは、彼女を火に掛けた者たちだろう。

 異端として焼かれた女が、炎の中で神の奇跡を顕現させたのだ。

 その偽りようのない光景を前に、従順なる祈りを捧げたか、断罪を恐れ震えたか、あるいはただ見ているだけだったか。

 それは、彼らの教義を借りて言うなら──神の試練。神の御意志によって、彼らの信仰は試されたのだ。


 そして、いま彼女たちが司教としてここにいるのが、答えなのだろう。

 彼らを突き動かしたのは、果たして信仰だったのか、恐怖だったのかは分からないが……。


 しかし、エルドの目には何が映ったのだろうか。

 娯楽を潰されて怒り狂ったのであれば、アーシャを赦しなどしないはずだ。だが、彼女たちは彼に対して信頼の情を抱いている。それは、彼がそれをしなかった何よりの証だった。

 そこに、一体何があったのだろうか。


 老女となったアーシャは、痩せ細った手を震わせながらも、なお穏やかに微笑んでいた。

 ヨルンは声を失った彼女の口となるだけでなく、身の回りの世話もしているのだろう。でなければ、ここまで完璧な意思疎通は出来はしない。


 ヨルンは、彼女の肩に手を掛け、水を差し出す。その仕草に、命令や義務の色はなく、ただ深く根づいた習慣のような優しさがあった。

 アーシャもまた、それを当然のこととは思わぬように、彼女の手に感謝を返していた。


 ヨルンがいなければ、自分の身の回りすらままならない。それでもアーシャは、その身を呪わなかった。

 ヨルンもまた、そんな彼女を恐れ、哀れむことなく、二人の関係は若いまま続いている。


 ──ああ、そうか……エルドは、この二人の、理解しがたい愚かさに惹かれたのか……

 ダリアンは、胸を指す痛みに唇を噛む。それは、自らが焦がれ、手を伸ばした姿と重なった。


”アルテア──”


 その名を、心の奥底で誰にも聞こえぬように呼んだ瞬間、封じていた記憶が、静かに揺らめき始める。

 燃え尽きたはずの過去が、再び熱を帯び、彼の意識を、あの日の影へと引き戻していった──



 アルテア・フロリス──彼女もまた、人の世では生きづらい女だった。


 彼女は、小さな辺境の村で神の教えを広める司祭だった。

 朝には子らに祈りの歌を教え、昼には老人の傷を癒し、夜には貧しい者に食を分けた。

 村人たちは彼女を“聖女”と呼んだが、本人はその名を好まなかった。


”祈りだけでは、人は救えない”──その言葉を、彼女は生涯声に出さなかった。


 魔族と人間の戦争が続くこの世では、小さな村の平穏など、いつ何時破られても不思議ではない。

 かといって、辺境の地まで軍隊を配置するような余裕など、人間側にあるはずもなかった。

 彼女は、その為の存在──教会の送り込んだ法術を極めた兵士でもあったのだった。


 まだ世界の半分しか知らなかったダリアンと、アルテアが刃を交わすこととなるのは、宿命だったといえる。


 それは、赤い月の夜だった──

 村の外れの古い礼拝堂から火が上がる。炎は神への祈りを食らうように天を焦がし、黒煙は風に煽られて月を隠した。


 夜闇の中、炎を前に、二つの影が向かい合う。

 ひとつは、黒い外套を翻したヴァンパイア──その指先からは、紅の滴が静かにこぼれ落ちる。

 もうひとつは、光の槍を携えた女神官──その足元には、胸に十字の光槍が突き刺さった躯が並ぶ。

 彼女が構える槍の矛先は、最後に残った動く躯を正確に捉えていた。


 聖光と魔血。人と魔の境を隔てるように、ふたりの間には焦げた風と灰が舞い上がる。

 そして、炎がはじけた瞬間──二つの影は重なった。


 ──あの光の槍は厄介だ。

 同族たちを悉く葬った神官が放つ光速の突きは、放たれた瞬間には、この胸に穴が開く。見てからでは遅い。

 捉えるべきは手元ではなく、足の運び、身体の開き。槍の本質を見定め、その意志を読め。

 光を返せ。闇で断て。


 ──ヴァンパイア。人外の怪。

 迂闊に近づけば、爪によって引き裂かれ、牙によって食いちぎられる。

 決してこの槍を手放してはいけない。その内側に侵入を許してはいけない。

 この槍は光の結界。光のもとにある限り、払えぬ闇などあってはならない。


 火花のように思考は交錯する。その息づかいが、鼓動と共に重なり合う。

 そして、決着はほんの刹那の瞬きだった──


 アルテアの槍が風を裂き、祈りの言葉が閃光に変わる。それは音よりも早く、世界を真っ白に染め上げる。

 その軌跡は迷いなく、寸分の狂いもなく、闇の心臓を射抜いていた。


 だが、次の瞬間、光は闇の中に掻き消えた。

 ダリアンの姿は霞のように掻き消え、残ったのは焦げた地面と血の匂いだけ。


”見切られた──” アルテアが瞠目するよりも早く、背後を冷たい風が撫でた。

 逃れられぬ死の狭間へと、闇の手が伸びる。その爪が、首元に触れた、その時──


 アルテアは、胸に光の槍を突き立て、自分もろとも貫いた。


 ──最後の閃光が、夜を焼く。

 聖光を宿す槍から逃れる術は、ヴァンパイアにはない。だが、胸を穿たれて、なお立てる人間もまた、存在しない。

 互いの命を縫い止めた光の槍が、音も無く震える。滴り落ちる血は、どちらのものかも分からず、ひとつに溶ける。

 やがて、風が止むのと同時に、影が二つ、寄り添うように倒れた。


 この決着を、ただ、赤い月だけが見守っていた──


 槍の白光が、弱々しく消えていく。輪郭がぼやけ、闇の中へ薄れていく。

 だが、その消失は、ふたりの命の終焉を告げるものではなかった。

 

 静寂を裂くように、咳がひとつ大きく響いた。

 濡れた血が石の上に散り、かすかな蠢きが闇を揺らす。その中から立ち上がった影は、荒く息をしながらも、まだこの世に繋ぎ止められている自らの鼓動を確かめるように、胸を押さえた。

 息をするたびに、破れた肺から痛みが響く。だが、その焼けるような痛みは、確かに生きている証でもあった。

 彼の目の前には、倒れ伏したアルテアの姿があった。その胸を貫いた光槍は、ダリアンの心臓に届く寸前で止まっていた。


 ダリアンは、よろめきながら彼女のもとへ歩み寄り、膝をついた。

 そして、まだ温もりを残したその胸元に顔を寄せ、滴る血を舐める。すると、焼け爛れた傷が再生を始め、みるみるうちに、その傷は塞がっていった。

 回復したダリアンは、もはや息も絶え絶えのアルテアを見下ろす。その首筋に牙を立てることも、命を貪ることも、彼にはどうすることもできた。


 けれど、いや──だからこそ、ダリアンは、アルテアを助けた。


 光の槍がふたりを貫いたあの時、彼は確かに彼女の声を聞いた。

 あの一瞬の命のやり取りの中で、彼は彼女のすべてを知った。

 魔族であるダリアンが、同族を殺され、殺し合いまでした人間であるアルテアを助けた理由は、たったそれだけのことだった。


 ──あの戦いの後、ダリアンは人目を忍び、毎夜アルテアの元を訪れた。

 彼女は最初の一度だけ、彼の姿に驚いたが、その次からは、彼のために時間と場所を用意した。

 あの時、同時に彼女もまた、彼のすべてを知っていた。


 彼女との時間は、ダリアンにとって至福の時だった。

 取り留めのないくだらない会話を繰り返したりなどはしなかったが、言葉少なでも、ただ同じ時間を過ごしているだけで幸せだった。


 あの戦いのとき、彼女の槍がダリアンに届かなかったのは、彼の方が強かったからではない。

 彼女は神に仕える神官として、その手で魔族を殺めながら、終わることのない戦いに疲れていた。

 だからあの時、彼女はそれが終わることを望んだ。


 絶望の中に救いを求めるアルテアのその姿が、ダリアンはたまらなく愛おしかった。

 ただ──、彼女の痛みが心地よかった。


 ──それから、また年月が過ぎた。

 幸運にも、この小さな村は、大きな戦に巻き込まれることもなく、平和な生活を保っていた。

 アルテアは年を重ね、神官としての力を徐々に失っていった。もう、あの光槍の突きを打つこともできない。

 そして、後任が決まり、正式にその役職から解かれる日が近づいていた。

 それでも、彼女とダリアンの関係は終わることなく続いていた。


 しかし──その日が訪れる夜明け前、平穏は唐突に破られた。

 魔族が、この村を襲ったのだ。

 誰ひとり、剣を取る者はいなかった。逃げ惑う足音も、祈る声すらも、すぐに炎と悲鳴に呑まれて消えた。

 ──そのとき、ダリアンは、そこにいなかった。


 後任の準備のためにと、ダリアンを早く帰したのが災いしたのだ。

 彼が異変に気付き、村に戻った時にはすべてが手遅れだった。

 朝日に照らされ、まだ燃え続ける村の光景が、まるでこの世界そのものを嘲るかのように赤く染めていた。

 彼の手は、アルテアの亡骸に触れることすら許されなかった。


 だが、悲しみはほんの一瞬で燃え尽きた。ダリアンにはただ烈火のような怒りだけが残った。

 彼女の願いを穢した者たちを、彼は決して赦さなかった。


 彼はひたすらに闇を駆け、あの襲撃に加わった魔族を、ひとり残らず殺していった。

 たとえどれほどの非難と、悲鳴を浴びようと、誰よりも深い闇に堕ちたその目は、もはや血以外を求めなかった。


 そして──すべての仇討が終わった時、死を望んだ彼の前に、死神(アルテア)が訪れた。



「──エルドは戻ってくる。だから回収の必要はない、と」

 ネクロハイヴ禁術書館に戻ったダリアンは、マクスを前に今回任された仕事の報告をしていた。


「ええ、構いませんよ。貴方がそう判断したのなら。

もし、彼の身に何かあれば、こちらで分かることですし……お疲れさまでした。」

 仕事を終えたダリアンを労いながら、マクスは満足げに息をつく。


 それに対し、ダリアンはどうにも気分が晴れなかった。

 結局、意味のない仕事を、命がけでやらされた不愉快さが残る。

 ただ、そこには収穫──とは言えないが、確かに得たものもあった。


 ──マクスの部屋を出ると、気が抜けたダリアンはふと、すべてのきっかけとなったあの質問を思い返す。


”あなたは、アルテア様をどう思っていますか?”


 あの言葉が、まるで古傷に触れるように胸の奥で疼いた。

 愛した人間と、同じ名を持つ魔王──だが、ダリアンには、その偶然にどんな意味があるのか、その価値は分からなかった。

 けれど、心の底でこれまで気にもしなかった疑念がひとつ、形を取る。


”あのアルテアは、俺をどう思っているんだろう”


 答えなど、どこにもない。その答えなどわかるわけもない。

 心に刻まれた思い出の女性と、似ても似つかない魔王の心根など慮りようもなかった。

 そんな言い訳を重ねつつ、ダリアンはその答えを、なにより恐れた。

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