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第十七編 銀灰語啓典・上

 ネクロハイヴ禁術書館の一室で、ダリアンはマクスに呼ばれ対峙していた。

「──あなたは、アルテア様をどう思っていますか?」

 いつもと変わらぬ表情で、マクスは単刀直入でありながら、漠然とした質問を投げかけた。ダリアンは眉を細める。


「……恐ろしい方だと、思っています」

 彼の質問の意図を図りつつ、嘘をつく必要もなく答える。

「──でしたら、私の忠告通り、あまりか関わらないほうが懸命かと思うのですが……」

 それは、確かにそう──だが、やはりその言葉を口にするマクスの意図がよく分からない。


 ここに来た時に言われたことは覚えている。

 だが、俺から積極的にアルテアと関わろうとした覚えもない。禁術のことを知りたくて二、三度声を掛けたが、それだけだ。

 むしろ、こちらの意志に関係なく巻き込まれた形の方が多いと思っている。


 マクスは俺をアルテアから遠ざけたいのだろうか。いや、だとしたら、それはあまりに過剰な評価だ。

 あるいは、アルテア経由で俺に対して苦情でもあったのか。いや、それこそ……。

 もしこれまでの事に、何かしらの瑕疵があったのだとしたら、アルテア本人がどうとでもできることだろう、俺など……。


「──はい。以後、気を付けます」

 そうは考えたが、俺としてもできることなら、マクスと事を荒立てたくはない。

 彼が何を気にしているのか、よく分からないままだったが、その言葉で誤魔化した。


「よろしい。では本題を──」

 やはり、よく分からないまま彼は淡々と話を進める。

「実は貴方に、ひとつ頼まれて欲しい仕事がありまして──」

 そこまで語り、視線を外した彼の言葉に口を挟む。

「また、禁術書の回収ですか?」

 俺の言葉にすこし口元を緩めながらも、彼の言葉は続いた。


「それも含めての、仕事です。

その禁術書はいずれ回収せねばなりませんが、果たして今回収するべきか、否か──その判断も含めて調査して欲しいのです」

「もし、貴方がもう所有者には必要ないと判断できるのならば、その場で回収してください」 

 それは、少し不思議な仕事だったが、禁術の内容によってはそういうこともあるのだろうと、その時はそれほど気にしなかった。ただ、厄介だったのはその禁術書の在処だった。


 それは──人間の世界だった。


 ヴァンパイアであるダリアンにとって、明るい陽光の差す彼らの街など、最も忌むべき場所だ。

 魔界の常に黒雲に覆われた空と違い、その空は透き通るほどに青く、屋根瓦までもが光を弾き返している。

 光は、まるでこの身を拒むかのように肌を刺し、血の奥に潜む闇を焼く。昼の間は、決して外に出ず、息を潜めていなければならない。

 ダリアンは、あの太陽が容赦なく照らす世界を、アルテアとの思い出とともに、二度と行くまいと封印したつもりだった。


 だが、そのアルテアと同じ名を持つカイリスのことで、咎められたばかりであることが、断ることを躊躇わせた。

 大きく息をつくダリアンを前に、マクスはさらに、容赦のない言葉を浴びせた。

「しかも、貴方が向かうべき場所は──彼らの信仰の総本山、アルベリオ聖堂です。選りすぐりの対魔族に特化した神官たちが集う場所。見つかれば命はないと、そう覚悟してください」


 その最悪な言葉に、思わず顔が歪んだ。

 魔王城に一人で乗り込むのとは訳が違う。彼らは話し合いなど通じる相手ではないし、取引の余地もない。マクスの言う通り、紛れ込んだと知れた瞬間、命はないだろう。

 そんな死地に、なぜネクロハイヴの禁術書があるのか。

 本当は全部嘘で、彼は俺を本気で殺したいほど、アルテアの件で怒っているのか──そう疑いたくもなるほどだった。


 しかし、そんな俺の表情を弄ぶように、マクスはその理由を滔々と述べ始めた。


──禁術書の名前は、『銀灰語啓典(アフォールトーラー)

魂の管理者を欺く禁忌を犯し、死者の灰から言葉をかすめ取る禁術です。


この禁術は、天界へと還った魂から言葉を賜るためのもの。魂が地上に残り続ける我々魔族相手には使えません。

ですから、これを借り受けた者が人の世界に渡るのは、当然と言えるでしょう。


その悪魔は、この禁術を人の心を操るために使用したようです。

ですが、目的や、結果までは我々が関知するところではありませんので、使用が確認できる間は放置していたのですよ。


しかし、よりによって教会とは、何を考えているのやら……──


 ……まったく、その通りだ。面倒なことをしてくれる。

 魔界から離れ、日が落ちた夕闇をダリアンは歩く。

 人間の地を踏むということは、既にもうそれだけで死地に入ることを意味している。


 こちら側の世界には、陽光という抗いようのない宿敵があるだけではない。魔族を見て、敵だと思わない人間などいない。

 それが少数であればダリアンにも十分勝算はあるが、装備を整えた軍隊が相手となるとそうもいかない。

 しかし、夜の闇に紛れさえすれば、その条件は覆る。熟練の兵士であっても、ダリアンを捉えることすら難しいだろう。


 夜気は冷たく、血の匂いが遠ざかるほどに、光の気配だけが濃くなっていく。

 彼は慎重に身を隠しつつ幾夜も越えて、丘の向こうの尖塔、目的地のアルベリオ聖堂を視界に捉えた。


 ──ここまで何事もなく辿り着くことができたダリアンだったが、問題はここから先だった。

 暗黒の闇の中に隠れて侵入しても、おそらく内部には、侵入者を拒絶する結界が張り巡らされているだろう。

 いや、それだけならまだいい。高位の神官兵に囲まれでもすれば、夜の中でもダリアンに勝ち目は薄い。


 彼は考えを切り替え、禁術書を所持しているはずの魔族の気配を探ることに集中した。

 自らの気配を隠しつつの慎重な捜索には時間がかかった。だがその労も空しく、気配はおろか、魔力を行使した残滓すら見つける事はできなかった。

 考えてみれば、おかしなことだった。

 ネクロハイヴの禁術書が放つ禍々しい気配とそれを所持する悪魔に、名うての神官兵が気付かないわけがない。

 よほど上手い偽装を行える悪魔なのか──だとするなら、そちらの方が厄介だと、ダリアンは肩をすくめた。

 

 そこでダリアンは、一つの賭けに出た。

 見つからないなら──こちらから”探している”と伝えるのだ。


 この人間の地、しかも聖地で魔族がその存在の証を残すなど、自殺行為に等しい。

 だが、それは相手も同じことだ。巧妙に姿を隠しているのなら尚のこと、それが露見するような危険は、ダリアン以上に恐れているはず。魔族が潜んでいると疑われ、注目が集まること自体、都合が悪いだろう。


 彼は周囲を見渡し、聖堂に続く石畳の一角に膝をついた。掌を地へと押し当て、魔力の微細な震えを送り込む。

 わずかに冷たい風が足元を這い、ほんの短い瞬間、灰色の光が薄く漏れた。

「さあ……どうなるか。望みの獲物が釣れるといいが……」

 囁く声は闇夜に溶ける。それに合わせて、自身も闇の中へと眩ませた。


──しばらく、闇に身を潜ませて、仕掛けた餌のかかりを見張る。時間だけが、粘りつく闇の中で過ぎていった。


 そして、ついに訪れたその時──餌に釣られたのは、人間の女だった。


 彼女は、ダリアンが残した魔族の証を、それを罠と疑うこともなく、ためらいなく浄化した。

”──神官兵(ハズレ)を引いたか”

 ダリアンは小さく舌を打つと、その場からの撤退を考えた。しかし、どうも様子が違っていた。


 女は、神官とは見えぬ出で立ちで、その動きにも神官にしては粗雑なところがあった。

 祈りの所作も、聖印を結ぶ指先の形も、悪魔祓いの儀式に慣れていないようだった。衣装もまた、神官の聖衣ではない。質素な布を重ねただけの、侍女のような装い。

 その身からは、強い力を持つ気配も感じない。


”妙だな……” その違和感はダリアンの足を止めた。

 ダリアンがそうしたように、あるいは彼女を囮として、魔族の証を刻んだ犯人が接触するのを待っている──

 そのような可能性も考え、彼女を監視しつつ身を潜め続けた。


 女は浄化を終えると、しばらくその場にしゃがみ、まるで何かを待つように静止していた。

 やがて、ゆっくりと立ち上がり、聖堂の奥へと歩き出す。


 ダリアンは二択を迫られた。

 彼女が罠であるか、手掛かりであるか──その判断を迫られた。

 聖堂の中に入ってしまえば、それこそもう手出しは出来ない。かといって、状況的に罠である可能性は否定できない。いやむしろ、その可能性の方が高い。


 罠か、否か──判断はつかない。だが、動かねば何も得られない。

 ギリギリまで迷いながら、ダリアンは覚悟を決め、彼女の前に姿を晒した。


 女の前に立ちながらも、ダリアンは何も言わず、その表情と仕草をうかがう。当然その周囲にも、仲間が潜んでいないか注意を払う。何か異常を感じたら、すぐにでもここから逃走するよう身構えて。

 だが、そんな彼を前に、女は意外なことを口にした。


「──あなたは、ネクロハイヴの方ですか?」

 魔族を前に、女は穏やかな声で話しかけてきた。

 意味が分からなかった。その声色以上に、人間の口からネクロハイヴの名が出るなど、有り得ないことだった。

 この女の正体に、ダリアンは一層の警戒をする。


「そんなに警戒なさらなくても……。でも、仕方ないことかしら。

──私たちは貴方に危害を加えるつもりはありません」

 そう言って両手を開いて見せる女の所作は、魔族を前に命を投げ出すような無防備なものだった。


「貴方のような方が参られることは聞き及んでおりました。

もしよろしければ、私の主にお会い下さい。すべてご理解いただけると存じます」

 どれほどの言葉を並べようと、それが罠ではない確証など得られない。

 女の所作には、そんなダリアン側の思惑を見越した上で、先回りしているようだった。


 その女の瞳は澄んでいた。恐れも嘘も見当たらない。──ダリアンは、その色を信じてみることにした。


 女は、聖堂の裏口までダリアンを案内した。そして周囲を確かめるように一瞥すると、修道士のローブを差し出し、静かに言う。

「これを。……言わずともお分かりかと存じますが、中では、決して顔を上げないでください」

 その声に頷き、ダリアンはフードを深く被る。ローブの布越しに伝わるのは、香の匂いと、乾いた灰の感触だった。


 夜だというのに、聖堂の中は、思った以上に多くの人間で満ちていた。

 修道士、祈りを捧げる者、そして巡回する神官兵。

 光の差さぬ回廊を進むたびに、彼女が持つ銀の鎖が擦れる音が微かに響く。


 不思議なことに、彼女が歩を進めると、人々は自然と道を開けた。

 とても特別な地位を持っているようには見えない彼女に、周囲の対応は特別だった。

 ダリアンは、ただその彼女の後を、頭を下げてついて行く。


 やがて、長い回廊を抜けた先で、女は足を止め、重い扉の前に立った。

 門番が聖印の刻まれた扉を開ける。ダリアンは固唾を飲んだが、労せずその中に入ることに成功した。


「──連れて参りました」

 扉が閉まると同時に、彼女は小さく息を整えると、静かに告げた。

 その先の薄闇の中には、大司教の衣を纏った一人の老女が座していた。


 老女は何も語らず、ただ座している。すると、女が老女の傍に歩み寄り、そっと膝を折った。

 そして、老女は耳元に唇を寄せ、囁くように何かを告げる。

 何かで遮ることもなく、言葉をしゃべっているように見えるが、その声は誰にも聞き取れぬほど小さい。

 しかし、次の瞬間、女はゆっくりと顔を上げ、老女の代わりに口を開いた。


「……ようこそおいで下さいました、魔族のお方」

 女の二度目の挨拶は、先ほどまでの柔らかさを失った声音で響く。

 まるで老女自身の声が、その口を借りているかのようだった。


「貴方の目的は分かっております。この、禁術書でしょう」

 その声に合わせるように、老女はゆるやかに手を動かした。膝の上に置かれたのは、一冊の古びた書物──それはまさに『銀灰語啓典』だった。

 淡い光を反射する灰色の装丁には、いくつもの焼け跡が刻まれている。


 その瞬間、ダリアンは悟った──この老女が声を失った理由を。


 ──禁術書『銀灰語啓典』は、死者の言葉を聞く禁術。

 しかしその代償に、死者の言葉を口にした瞬間、その舌には灰が降る──


 つまり、この大司教は禁術の被害者なのだ。だが、それならば──本来の所有者である悪魔は、どこへ消えた?

 この人間に渡ったというのであれば、マクスはあのようなことを言わず、即座の回収を命じたはずだ。


 警戒を解かぬまま、ダリアンは目を細める。その前で、女は再び老女の顔に耳を寄せる。

「……この書の持ち主は、生憎、ただ今出払っております。

ですから、どうかぜひ、彼が返って来るまで、この書を持っていくのはお待ちして頂けませんか?」


 その奇妙な懇願は、ダリアンを悩ませた。

 身の安全を第一に考えるのなら、さっさと回収して立ち去るのが最善策だろう。

 だが、今回課せられた仕事が、”回収するかどうか見極めて判断しろ”と、言われている以上、その選択をする訳にはいかなかった。


 ただ、こちらにも収穫があった──これは、罠ではない。

 彼女たちが、ダリアンをここに連れてきて、明かすべきでないはずの情報を、わざわざ晒す理由などないのだ。

 その信頼にたる一端を見せた彼女たちに応えるように、ダリアンは静かに頷き、話を聞くことにした。

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