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第十五編 綟組紋様羅・上

 あのアクレオスの動乱が過ぎ去り、それも忘れかけた頃、ネクロハイヴ禁術書館に再びオリヴァが訪れていた。

「オリヴァクス・タウリク・ヴァーキサル様。今宵は、何を御所望ですか?」

 彼の前に、セレヴィアが立つ。以前と変わらず彼女の表情は凍てついていた。


「……そう、怖い顔をするな。今日は、お前と腹を割って話そうと思ってな」

 いつになく厳しい顔つきで、意外なことを口にしたオリヴァを前に、彼女の瞳は一瞬揺らいだ。


 セレヴィアに、禁術書に関係ない応対をする義務はない。

 しかし、だからといってオリヴァが引き下がるわけもない。

 互いにそこまで分かっている上での、彼の言葉を拒否する権利は、最初から彼女には無かった。


「──次期魔王についてだよ。

本来、魔王の座は力ずくで奪い取るのが常道なのだがな。

アクレオスを倒したカイリス(お嬢さん)が、魔王にならぬと我儘を言ったせいで、未だ空位のままだ」

 セレヴィアの返事を待たず続けられた言葉には、あからさまな皮肉が混じる。


「生憎と、このままというわけにもいかん。

もし人間の世に、魔王の不在が知れ渡れば、大きな戦を招くことにもなろう」

 そこまで語ったオリヴァの口角が上がる。


 魔界全体を見渡しているオリヴァにとって、それは避けたい事態だった。

 アクレオスの動乱による疲弊から兵の再編もままならぬ今、再び人魔大戦が勃発すれば、魔族が不利となるのは火を見るより明らかだった。


「しかし、そこで──摂政気取りの公爵(馬鹿)どもは、話し合いで魔王を選定すると言い出した。

ハハッ! 笑えるだろ?」

 同意を求められたセレヴィアの顔は変わらない。


 現在の魔界に力の原理が働いていないのは、偏に力の均衡が原因だった。

 魔王の座を狙うに足る力と野心を持つ魔族は数多いるものの、突出して優位な勢力は存在しない。もし玉座を巡る争いが始まれば、いずれが勝者となるか定かではない泥沼の消耗戦を招くことは必定だった。


「ふん……。だからこそ、私はたとえ一時でも、カイリス様に玉座に戻って頂き、馬鹿どもを黙らせてほしいのだがな……」

 カイリスの名に、セレヴィアの眉が微かに動く。

「……まあ、それが叶わぬなら──居ぬよりはまし、か。

話し合いで収まりがつくとは到底思えんが……仮に選ばれたとしても、な」

 オリヴァは、カイリスの心が動かぬことも、それをセレヴィアに言ったところでどうにもならぬことも、重々理解している。

 そして、ようやく本題を口にし始めた。


「──そういうわけで、当面、魔王の傍を離れることにしたのだ、私は」

 その言葉は、セレヴィアの心の奥にわずかな波紋を広げた。

 これまで魔王の影に身を潜め、常に魔界の権力の中枢にいたオリヴァが、そう易々とその座を退くとは思えない。

 ましてや、そのことを自分に打ち明けた理由を考えれば、答えは自ずと見えてくる。


「──有力な魔王となる器でも見つけたのですか?」

 オリヴァの言葉を聞くだけだった彼女の口がようやく開く。

「話しが早いな、デュヴァイネル」

 そして、そのセレヴィアの声に、オリヴァは一番の歪んだ笑顔を見せた。


「いや実は、この様な事態に備え、いくつか準備はしていたのだ。

今回は、その内の一つを試してみようと思っている」

 たったそれだけのセレヴィアの一言に、彼はとても機嫌を良くして話し出す。


「──先々代の魔王は、少々変わった男でな。人間の女を好み、何人も子をもうけさせた。

本来、魔族にとって子など意味をなさぬ。

人間の血で薄まった魔族など、力を継ぐ器には到底なれんのだから……」


「まして、魔族の純血こそが王権の証、と考える魔族は少なくない。

そんなこともわからず、力に溺れ、王たる資格を蔑ろにした男の末路など、哀れなものよ」


「その愚かな魔王がその座を追われたとき、血筋もろとも滅ぼされた──表向きは、な」


「だが実は、一人だけ、生き延びた者がいる。

もっとも、その生き残りは人の血が濃すぎて、魔族と呼ぶにも憚れる出来損ないだ。

それゆえ、誰ものその者に価値を見出さず、そのまま捨て置かれた」


「私も、そんな半端者に興味などなかったさ。

……ただな。殺された子の中に、良いものを見つけてな。

これを利用できないかと、思い立ったのだよ」


 オリヴァは薄く笑いながらセレヴィアを見つめていた。

 彼女は、その心地悪い視線を感じながら、冷たく言葉を返す。

「では──『入れ替え』を望まれますか?」


 それを聞いて、オリヴァの笑みがすっと消えた。

「ああ。だが、ただの入れ替えではない。

死者と生者の権利の交換、それは、時の因果律に逆らい、世界を崩壊させかねん禁忌だ。

そんなものがもし、ここにあれば──の話だよ」


 それを受け、セレヴィアはただ静かに立ち上がり、書架に姿を消した。

 ほどなくして、再び現れたとき、その手には、一冊の書が抱かれていた。


 その書は、真新しい羊皮の表紙に錆の無い金属装飾がつき、その隙間からはインクの香りが立つ新書だった。

 それは、ここの禁術書では有り得ないことだった。

 ネクロハイヴ禁術書館の禁術書はすべて、遥か昔に魔王カイリスが書き上げたもの。たとえどのような手入れがされたとしても、この様な状態を保つなど不可能だった。


「この禁術書は、『綟組紋様羅(れいそもんようら)』。断ち切れた運命を織り直す禁術です」

 セレヴィアは新品同然のその書を、疑うオリヴァの前に差し出した。インクの香りが、わずかに空気を震わせる。


「運命とは一本の糸。それはひとや物だけでなく、あらゆる出来事も、世界すらも、その糸で織られています。

けれど、どれほど精緻に紡がれた糸でも、いつかは解け、断ち切れる」

「この禁術は、その切れた糸の断端に、別の糸を綟り合わせるのです。

すると、運命は再び連なり、何事もなかったかのように元通りの一本の糸となる」


 オリヴァは黙って聞いていた。セレヴィアの声は静かに響く。

「──けれど、そこに継がれる“別の糸”とは、本来は、また別の運命の糸。

誰かの死を、誰かの生で織り直す。時間を、命で。過去を、未来で」


「そうして繕われた運命は、綺麗に織り上がる代わりに、均された真実すら食い尽くす。

──この禁術を使ったという事実さえも、時間の綾の中から完全に消えるのです」


 それはまさにオリヴァが求める禁術だった。

「だから、この禁術書はあらゆる因果から切り離され、ただ、生み出された姿のままここにある──というわけだ。

なるほど、面白い……」

 オリヴァは笑ったが、その眼光は鋭いままだった。彼はよく理解していた、この禁術の危険性を。

 他者の運命を捻じ曲げて、因果を改編し、その事実ごと無かったことに均される。たとえ、因果の崩壊に備え、どれほどの準備を整えたところで、すべては無意味に丸ごと消え去る。

 にわかには信じがたいほどの、何とも馬鹿げた力を持った禁術だが、それ故に魅力的でもあった。


「この禁術に、何か制限あるのか?」

 使ってからでは手遅れとなる禁術書を前に、彼にできることは、精々手を出す前によく知っておくだけだった。


「はい、この禁術が繕うことができるのは一度きり。

もし、織り直したところにもう一度糸を入れれば、どちらの糸もほつれ、その運命ごと断ち切れます」

 そのセレヴィアの解答に、オリヴァは言葉を継ぐ。

「──そして、そのどちらもが、存在した事実ごとこの世から消え去る、か……」


 彼はしばし沈黙し、それからさらに一つ尋ねた。

「……。では、術者が払う代償は?」

 セレヴィアは短く息をついた。


「まず、繕うべき箇所と、それに適した糸。その選別を間違えれば、均すどころかより酷い状態になるでしょう。

そして、それらを道具として扱うことのできる力関係が無ければ成立しません。

この禁術は、魔力の強さは当然として、研ぎ澄まされた感性をお持ちでなければ、望む結果に至るのは難しい」


「なるほどな……。扱う資格が無ければ、使うだけ無駄……か」

 オリヴァは少し躊躇った。それは、術を恐れたのではない。

 他者の運命を捻じ曲げる禁術の行使──それすらも、彼は部下の誰かに押し付けるつもりだった。

 だが、この禁術は試せるのは一度きり。そして、それを行った事実すらも残らない。

 求められる術者の能力とを考え合わせれば、自分で使うしかないという結論に至っていた。


「──まあ、それもいい……」

 オリヴァはそう呟くと、禁術書『綟組紋様羅』に手を伸ばした。


 書を開き、オリヴァの指先が頁の端に触れた瞬間、彼の体は書に呑まれた。音も、匂いも、光も、温度も、痛みもなく解けてなくなる。

 ほんの瞬きの内に、すべての因果は捩り直され、そこに新たな紋様が浮かび上がった。


 彼が何を結び、何を繕ったか──それを知る者は、もうどこにもいない。



──夢を、見ていた気がする

 長い夢──いつから、どんな夢を見ていたのか思い出せないのに……


 でも、誰かに名前を呼ばれた

 だから、起きなきゃいけないと思った

 でも、誰の声だったか思い出せない

──あれは、誰?


「エリサル様、おはようございます。

さあ──今日も、ヴァーキサル様がお待ちかねです」


 目を開けると、いつものように侍女が慎ましく頭を垂れていた。

 その聞きなれた声から流れる決まり文句を、何度聞いたことだろう──けれど、あの夢の中で聞いた声ではない。

 そして、私もいつもと変わらない返事をする。

「はい、分かりました」


 私はそう答え、天蓋の布越しに揺れる紅の灯を見上げた。淡く滲むその光だけが、この部屋に朝を告げていた。

 身支度を整え、早々と寝室を出た。その部屋から、別の部屋を渡る回廊を歩く。

 その廊下にも、あの寝室にも、そして次の部屋にも窓というものが無い。そこまでしか私は知らないが、ひょっとしたら、この館には一つも窓はないのかもしれない。


 外の光が一切遮断されたここでは、光はすべて魔灯の炎によって作られている。


 その揺らめきが壁に映り、空気の底で微かに鳴る。息を吸うたび、焦げた金属と古い紙の匂いが鼻をかすめた。

 それが、ここでの日々の朝の香りだった。


 回廊を抜けた次の部屋には、壁一面に描かれた魔紋が、まるで呼吸をするように微かに脈動していた。

 それは結界だった。あらゆる魔力を結界の中に封じ込め、外の世界との繋がりを完全に遮っている。

 そして、その結界の中心には、いつものようにオリヴァが立っていた。

「……よろしい。では、始めようか」


 オリヴァは短い言葉を掛けると、掌を掲げた。その指先から、禍々しい濃密な魔力が溢れ出す。

 空気が軋み、床の魔紋が応じるように光を帯びた。


 ──次の刹那、目の前の空間がひしゃげた。

 体に見えぬ圧が走り、私の身体は壁際まで吹き飛ばされる。

 背を打った衝撃で息が詰まり、視界が白くはじけた。


「立て──」 彼の声に、抗うことは許されない。

 この手には何もなく、簡単な服を着ているだけの私は、裸足のまま立ち上がる。

 しかし、それを邪魔するように、床の結界が私の体を縛り上げる。

 それでも何とか起き上がろうとする私に、彼の二撃目が容赦なく襲い掛かった。


 先ほどを繰り返すように、私の体は再び壁に叩きつけられた。

 打ち付けた頭から、痛みと共に血が滴る。その感触を放置して、私は何とか膝を立て次に備えた。


「まだ、制御が甘い。魔力が乱れているからそうなる」

 オリヴァの声は冷ややかだった。

 彼の手加減した攻撃を、避けることすらままならない。この結界も、魔力をどうしたところで看破できるとは到底思えない。

 今の私には、彼の助言など何の役にも立たなかった。


「だが──致命を避けたのは誉めてやろう。しかし、何故その力で反撃しない?」

 その言葉と同時に繰り出された三撃目は、その言葉通りに、最も手加減された攻撃だった。


 彼の指先の動きに合わせ、私はその身をよじり、魔力を練り直す。

 そして、彼の魔撃を寸前で躱すと、血と魔力の混じった攻撃を彼に放った──。


「──!」

 しかし、その紅に染まった渾身の一撃を、オリヴァは軽く片手を掲げると、一瞬で吸い上げた。

 魔力が血飛沫となってかき消える。それに置き換わるように、冷気のような闇があたりに広がった。


「──感情に呑まれている。この程度で心が揺らぐようでは困るな」

 その言葉と引き換えに、最後の攻撃が私を襲った。

 すべての魔力を使い果たした私に、成す術はなく、その攻撃をまともに受けて、体は三度弾け飛ぶ。そのまま壁に激しく打ちつけて、間もなく意識を失った。


 床の冷たさだけが微かに残る意識の中で、彼の言葉が私をえぐる。

「心を殺せ。お前は”器”だ。器に慈悲も、悲しみも必要ない──」


 その部屋から彼が立ち去ると同時に、侍女たちが私の体を治療し運び出す。

 そしてまた、あの部屋で寝かされて、目覚める。その繰り返し──私には、それしかなかった。


 ──遠く、閉ざされた扉の向こうで、重い玉座の軋む音が響く。

 闇の城──それは城ではなく、地底から隆起した巨大な洞窟そのものだった。冷たい吐息のような陰湿な瘴気が、その歪な岩肌から絶えず立ち込めている。

 そう呼ばれるこの城に、オリヴァは部下を連れ居を構えていた。


 アクレオスの動乱以降、魔王の選定には関わらず、彼はさらに次を見据え動いていた。

 闇に沈む広間の玉座に身を預け、彼はただ静かに、時が熟すのを待っている。


 その静謐を破るように、一人の側近が跪き、慎ましく口を開いた。

「……あのような者の教育、何もヴァーキサル様自らが手を煩わせることはございません。

我らにお任せいただければ、抜かりなく仕上げてご覧に入れましょう」


 オリヴァは唇の端をわずかに吊り上げ、短く笑う。

「フフ……そう焦るな。丁度、退屈しのぎには良い頃合いだ。

魔王ザルヴァスが残したお遊びに、少しくらい付き合ってやろうではないか」


 その声音には、皮肉とも憐憫ともつかぬ響きが混じる。

「あの男……ただの悪趣味な色好きかと思っていたが、なるほど、考えがあってのことだったようだ。

くれぐれも、あの忘れ形見は殺さぬようにな。死なれては、用意した舞台が無駄になる」


 機嫌の良いその口ぶりに、別の側近がためらいがちに口を挟む。

「私には、あの程度のものが魔王の器に化けるとは、到底思えぬのですが……」


 しかし、その言葉にもオリヴァは機嫌を崩すことなく答えた。

「器、か……。たしかに器であることに変わりはないが──あれは、杯よ」


 彼はゆるやかに指先を持ち上げ、闇の中で虚空をなぞる。

「その杯に血を満たすことで、初めて供物として完成する。

そう、魔王となるものが口にするに相応しい、極上の供物となるのだ……」


 その言葉の余韻が石壁に反響し、やがて低い笑い声が広間を満たした。

 闇は深く、そして甘美に震える。まるでその嘲笑は、次なる魔王を祝福しているかのようだった。


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