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第十二編 月雫鉄巨兵・下

 一方、人間の城に身を置くこととなったリュミナは、静かに時が過ぎるのを待っていた。

 自衛のために与えられた禁術書──出来ることならば、それを開く日が来ないことを、彼女も願っていた。

 だが、その願いが叶わぬこともまた、理解していた。父の意向に背く権利など、娘である自分にあるはずなどない。

 この書は盾であり、そして墓標。使う時は、すなわち死ぬ時。リュミナはそう覚悟を決めて、日々を静かに過ごしていた。


 幸いにして、しばらくの間は何事もなく、穏やかな日々が続いた。それは、退屈と呼ぶにはあまりに張りつめた静寂だった。

 そんなある日、彼女のもとにひとつの報せが届いた。

 それは父ライゼルからの密書──その封蝋に刻まれた家紋を見た瞬間、リュミナには中身が分かった。

 ただ、意外に早かったこの生活の終わりに、すこしだけ胸が軋んだ。


 そして、その日の夜──彼女のもとには、もうひとつ予期せぬ贈り物が届いた。

 それは、一人の盗賊だった。


 夜明け前の蒼の刻。闇を裂き、暗闇を縫うようにひとつの影が城壁を這い上がる。衛兵の巡回の癖を見抜き、僅かな隙を縫って内部に侵入したその機転と身のこなしは、まさしく熟練の賊のそれだった。

 しかし、その賊の今日の運勢は最悪だった。

 彼が忍び込んだ先は、よりにもよって魔族の人質が暮らす伏魔の間だったのだ。


 賊にそれだけ目利きが聞いたと言えば、それもまた優秀さの証だったが、人間のかくれんぼなど魔族に通用するはずもない。

 賊が気配を殺し部屋に侵入した瞬間、何が起こったかさえわからないまま、その身体は床に叩きつけられていた。

 そして、もがく間もなく盗賊は拘束され、リュミナの足元へと突き出された。


「貴様、どこの手の者だ」

 月光が彼女の金の髪を照らし、その瞳には氷のような光が宿る。

 そして、その頭部には魔族の証たる角と、開口した口元には長い牙が生え、声は冷たく、威厳を帯びていた。

 賊は歯を食いしばりながら、床に伏せたままその姿を睨み返す。


「どうして、ここに……魔族が……」

 リュミナはしばし彼を見下ろし、静かに息を吐いた。

 このような賊に説明する必要も、義務もない。まして、父の密書の到着と同じ夜に現れた事実は、到底無視できないものだった。

 ならば、誰の意志で動いているのか。それは、彼女自らが確かめねばならない重大な事だった。


 リュミナは床に伏す盗賊の顎を、白く細い指で持ち上げた。

 その瞬間、彼女の周囲の空気がひりつく。禍々しい妖気を垂れ流し、光を吸うように室内の温度を奪っていった。

「吐け。お前は誰の命でここに来た。私を殺しに来たのか?」

 その声音は氷のような冷たさと、底に燃える炎のような覇気を孕んでいた。

 術なり、拷問なり、問わずとも吐かせる手段はいくらでもあった。ただ、その手間と、下賤の血で穢れるのを嫌っただけの問いだった。


 ただ、それは盗賊には同じことだった。盗賊は歯を軋ませ、血の滲む唇で嘲るように笑った。

「……言えば赦すのか? 笑わせるなよ、魔族が。

人間の城で、てめぇみてぇなのが息してる時点で、この国はもう腐ってる……」

 貴族の城に侵入して捕まればどうなるのか、人間だろうが魔族だろうがまったく同じことだった。死刑が決まっているのなら、せめて自分の意志で絞首台から飛び降りる。そんな、ただの強がりだった。


 リュミナはわずかに眉を動かし、その瞳を細める。

 “腐っている”──人間の口から、人間の腐敗を罵る言葉が出るとは、皮肉にも程がある。

 その最後の言葉には、人間でありながら、人間に害をなすことが目的だった意志が滲んでいた。


 沈黙の中で、リュミナは思考を巡らせていた。

 盗人に過ぎぬこの男が、貴族の思惑とは全く無関係にこの魔族の間に踏み入った、その不運を哀れんだ。しかし、人の世を憎み、人に仇成すこの男には、利用価値がある。

 いやむしろ、この盗賊を殺すことは、人間を助けることに繋がる。ならば、この者を解き放ち、この城の貴族と魔族の結託を噂させれば、人間どもに不信の種を撒くことができるだろう。


 彼女はするりと立ち上がると、静かに笑みを浮かべた。その笑みには、慈悲とも侮蔑ともつかぬ妖艶さがあった。

「……面白い。ならばその腐った国で、腐肉を喰らって生きるがいい。

──お前たち、その者を放しておやりなさい」

 リュミナの命に、下女たちは顔を見合わせたのち、ためらいがちに拘束を解いた。

 盗賊は、一瞬その声の意味を理解できなかった。諦めた命が唐突に赦されたことに、ただ呆然としている。

 そんな男に、リュミナは微笑を浮かべ、まるで友好の印でも示すかのように、白い手を差し出し広げてみせた。


 その掌には、銀の指輪が一つ。しかしそれは、銀にしてはあまりに冷たく、まるで月光を凝り固めたような指輪だった。

「盗人ならば、望むものはこれでしょう。どうぞ、持っていきなさい」

 盗賊は戸惑いながらも、視線を逸らせなかった。その指輪の曇りなき白銀の輝きに魅せられ、己の欲に逆らえず、その手から掻っ攫うように奪い取った。

 そして、そのまま飛び退くと、警戒しながら後ずさり、再び闇の中へと消えていった。


 リュミナは、去っていった扉を見つめたまま、ふっと微笑を深める。

 ──あの指輪には、白銀の輝きの裏に、黒い瘴気が息づいている。

 もし人間が肌につけようものなら、皮膚の奥で血が逆流し、骨から腐らせることだろう。


 それは、腐敗した人の世にあってこそ、美しく輝く魔族の証だった。

 リュミナは、その輝きが夜の闇に浮かぶさまを思い描き、口元に冷たい笑みを浮かべた。


 しかし、次の日の夜。彼女でさえ予想だにしなかったことが起きた──。


 昨日の今日だというのに、あの盗賊が再び魔族の居室に姿を現したのだ。その手にはリュミナが与えた指輪を携えたまま。

「へへっ。また来ました。おっと、武器は何も持っていませんよ」

 昨日とは打って変わった柔らかな笑顔が、賊の顔には浮かんでいた。


 その愚かすぎる盗賊の行動は、まったく理解できなかった。

 あの指輪に仕込まれた瘴気に気づいたのかとも思ったが、それでも辻褄が合わない。指輪の真価を知ったとして、わざわざ城に再潜入する意味など、どこにもないのだ。

 人と魔族の溝が、ものを渡した程度で埋まるわけもない。その笑顔はリュミナにとって、侮辱以外の何物でもなかった。


 リュミナは怒りに任せ、その不快な笑みごと一思いにこの盗賊を殺してやろうと魔力を込めた。

 だが、次の盗賊の言葉が、その手を止めた──


「これ、やっぱり返そうと思って。なんかすごく大事な物に見えたから……」

 その手を伸ばしながら、照れ笑いをするその盗賊は、滑稽を通り越して狂気ですらあった。

 まったく誤解も甚だしい解釈で、まったく無意味な行動をするこの大馬鹿者に、リュミナの殺意は霧散した。


”なぜ人間は、こうも無防備に微笑めるのか──”


 彼女にはその笑顔は恐ろしかった。

 人間が自分を恐れもせず、微笑みながら命を差し出すという異常な行為に、一欠片も理解などできない。

 ──なぜ、この者は怯えない。 なぜ、この者は畏れない。

 その答えは出ぬまま、リュミナは開いた手で、返された指輪を受け取った。


「なあ、なんであんた、ここにいるんだ? もしかして、人間に捕まったのか?」

 指輪を受け取ったその瞬間、盗賊はまたしても見当違いなことを口にした。

 しかし、それはあながち間違ってもいなかった。彼女は自らの意志でこの人間の城にいる。だが、父ライゼルの意志に縛られ、他のどこへも行くことなどできはしない。所詮それは、籠の鳥が籠を選んだに過ぎないのだ。


「だとしたら何だというのだ? お前が解放でもすると言うのか?」

 リュミナは思わず、刺々しく盗賊の言葉に反発した。まるで、ここに自分がいる事の正当性を主張するように。


「──ああ、やってやろうか」

 盗賊は、真剣な顔をして不可能なことを口にした。

 この男は馬鹿だが、冗談を言っていないことは伝わる。彼は本気で、魔族の娘を檻から連れ出せると信じた。


 その愚かしいまでの直情が、リュミナの胸に波を起こす。

 父ライゼルも、城の従者たちも、誰ひとりそんな言葉を口にしたことはない。その言葉を、彼女自身も求めなかった。

 だが、彼女の根底には確かに、叶わぬ夢を見る儚い乙女心が眠っていた。

 

 その言葉が、人間の口から出たことに、彼女はただ微笑んだ……


 ──そしてそれから数日が過ぎ、決行の日は着実に近づいていった。


 その頃、ライゼルの居城では、音もなく異変が進行していた。

 最初の出来事は、人間の姫を監視していた兵がひとり、忽然と姿を消したことだった。脱走の形跡はなく、武具も寝床もそのまま。忽然とただそこにあるはずの人影だけが消えていた。

 当然、疑いの矛先は人間たちに向けられた。だが、居住区をいくら改めても、死体はおろか、血痕ひとつ見つからない。

 結局のところ、それは一兵の逃亡として処理され、誰も深く追及しようとはしなかった。


 ──だが、代わりの番兵がまたひとり、同じように姿を消したとき、城の空気は一変した。

 もはや偶然では片付けられなかった。ライゼルは証拠こそ得られぬまま、事態の収束を見るまで人間の姫を地下牢へ幽閉するよう命じた。

 その移送の折──事の真偽を確かめるため、ライゼルは自ら見届けていた。その際、この処遇に対する抵抗であるかのように、姫の体からは独特の甘さが際立つ香が放たれ、牢を満たした。


 しかし、それでも兵の失踪は止まることが無かった。その中には、雑兵だけでなく兵隊長までもが姿を消すに至り、城中はもはや只ならぬ空気となっていた。

「どういうことだっ! 兵たちはどこに行ったっ!」

 玉座の間にライゼルの怒号が響きわたる。しかし、誰ひとりそれに答える者はいなかった。


 沈黙の中、ひとりの老家臣が、青ざめた顔で進み出た。

「恐れながら申し上げます……。最初に消えた兵が、このようなものを所持しておりました」

 差し出された掌は小刻みに震えながらも、その上には一つの銀の指輪があった。

「何の変哲もない銀の指輪でございますが、雑兵の持ち物にしては不釣り合い。それにこの意匠、染みついた甘い香り……人間どもの品に間違いございません」

「となれば、元の所有者となる者はただ独り。その者に問いただすべきかと……」


 その進言を聞くやいなや、ライゼルは指輪を奪い取るように握りしめ、姫を幽閉した牢獄へと急いだ。

 地下牢へと続く階段を急ぎ下りていくにつれ、空気が湿り、匂いが濃くなる。

 甘く、重く、喉に貼りつくような香気──まるで目に見えぬ手で喉笛を撫でられるような不快な甘さだった。

(どういうことだ……。この香は先日よりも強い。下女の接触など許しておらぬはず……)

 ライゼルの胸に疑念と苛立ちがせめぎ合う中、扉の向こうにすべての答えがあった。


 その甘い香りは、それ単体では何の毒性も持たない。

 だが──銀に触れた瞬間、その香は性質を変える。甘露のごとき香気は、魔性の媚毒へと転じる。


 姫から指輪を受け取った兵たちは、やがてその銀に染みついた甘い香りに、知らぬ間に心を奪われていった。

 最初のうちは、指輪から漂う微かな香気に酔うだけで満足できた。だが日が経つにつれ、香りへの渇きは増し、彼らはより強い香りを求めるようになる。

 そして、銀の指輪に導かれるままに、姫の元へと誘われ、その体から放たれる本物の香を一度でも吸い込んでしまえば、もう終わりだった。


 その瞬間、彼らの意識は夢の霧の中へと沈み、心臓が早鐘を打つのを止められなくなり、熱が体の隅々まで駆け巡る。

 やがて思考は霧散し、理性は溶け崩れ、残るのは本能だけ。

 そうなれば、もう香からは逃れることはできなくなる。その雄の迸りは誘引した雌へと向かい、ただ快楽を貪るだけの獣へと堕ちていった。


 香の正体は、姫の血。それは肉体の奥底から滲み出る、命と呪いの混ざり合った液。

 そしてそれは、さらに魔を取り込み、淫と穢を溶かし込むことで、その血は次第に濃密さを増し、蜜へと変質してゆく──。


 地下牢の扉を開けたとき、ライゼルはその光景に息を呑んだ。

 そこにいたのは、もはや「姫」ではなかった。


 肌は乳白に透き通り、ところどころから血のような蜜が滲み出し、滴るそれが床を紅く染めている。

 髪はまるで蔦のように伸び、牢の石壁に絡みつき、艶めいた花弁のような肉の房をいくつも咲かせていた。

 花の中心では、血の泡がぷくりと膨らみ、はじけるたびに香が立つ。


 香を吸い込んだ者はただ虚ろに花の中へと誘い込まれ、さらにその花弁の奥──かつて姫の胸であったあたりへと吸い寄せられてゆく。

 彼らの魔力は吸い上げられ、溶け混ぜ込まれ、蜜となってまた新たな香を生む。


 ライゼルは悟った。

 人間たちはやったのだ──彼ですら躊躇した事を。奴らは自分たちの姫を呪物の肉壺にして、敵の巣穴に投げ込んだ。

「……人間どもめ、奴らはどこまで堕ちれば気が済むのだ。実の娘を、己が手で化け物に変えて何を得るというのか!」


 ライゼルは怒りがこみ上げた。それは、この様な下劣極まる手段で兵を失ったことか、あるいは敵でありながら姫を不憫な目に合わせた卑劣な者たちに対してか──だが、もはやそれも分からない。

 手の内にある銀の指輪は毒を垂らす。

 その香りはもうすでに城に蔓延し、老家臣はおろか、大半の者は堕ち、虜となっていた。

 ライゼルすらそれに抗うことなど出来ず、高まる鼓動は香に溶け、ほとばしる熱は行く当てをなくし、ただひたすらに蜜を求めた。


 ──頃合いを見て派遣されていた斥候が、ライゼルの城が甘い瘴気に包まれたのを見届けた。

 その報告を受け、面白いほどすべてが思惑通りに運び、勝利を確信した人間の将はほくそ笑む。

 この勝利に比べれば、娘一人を生贄に捧げたことに何の未練も持っていないかのように……。


 一方、リュミナにはまだ、自分の城の現状も、父の動静も知るすべがなかった。

 ただ、伝えられた決行日よりも早く、城内の兵たちが慌ただしく動き出したのを見て、嫌な気配を感じ取った。鉄靴が床を叩く音が鳴り、戦の空気が血の匂いを呼び込む。──油断すればこの死の風に呑まれてしまう、そう直感した。

 そして、彼女に対抗する策は、ただ一つしかなかった。


 その日の夜、予感は現実となった。

 夜の帳を切り裂いて、もう何の価値も無くなった人質のもとへ、何人もの重装の兵が怒号とともに雪崩れ込んだ。

 兵たちは容赦なく、何の抵抗もできぬ下女たちを斬り伏せていく。悲鳴は一つとして長く続かず、鮮血だけが生きた証のように石畳を染めていった。

 魔族の命に何の価値も無い──まるでそう言わんばかりに……。


 そして、誰も守る者がいなくなったリュミナに、同胞の血を滴らせた剣が振り下ろされる。

 まさにその瞬間──

 禁術書『月雫鉄巨兵ガーダ・アリアンロッド』は、発動した。


 そのとき──まず最初に、その場にいた兵士たちの視界は白く反転した。彼らの目は、停止した光に塗りつぶされた。

 そして次に、その白い世界に音が吸い込まれた。

 金属の擦れる音も、鼓動の響きさえも、光に吸われた。その静寂はあまりに深く、まるで夜の膜が剝がれ落ちる音すら聞こえそうだった。

 それから次から次へと、あらゆる感覚がその白き輝きに奪われた。


 そして、最後に時が壊れた。

 倒れかけた兵士は倒れることもできず、剣を振り上げた者はそのまま空間に釘付けになった。

 だがその意識だけは、はっきりと動いていた。自分の指先が崩れていくのを、息が光に溶けていくのを、ひとつひとつを認識し、ついに自分自身がその中に呑まれた。


 しかしそれは、同じくその城にいた他の者たちには、ほんの一瞬の出来事だった。

 天が割れるような凄まじい轟音と共に、巨大な落雷のような光の束が、城を覆うように降り注いだ。しかし、その光には熱はなく、月光のような冷たい輝きを放っていた。

 ただ、その神秘的な光は、途轍もない質量を秘めていた。


 あらゆるものは、逃げる間もなく、その光に一瞬で踏みつぶされた。

 天より来る神域の門番は、月の底より、ただ地上に降りただけで、その全てを破壊した。


 ──偶然、城を離れていた一人の小間使いがいた。

 運よくその破壊から免れたその少年は、消滅した城に巨人が立っているのを目撃したという。

「巨人は、確かにそこにいました……。水晶の様な透明な体の中に、鉛の様な輝きを放って動いていた。

それが、まるで意思を持って動いているように見えました……」


 のちに、震える声でそう証言した小間使いは、最後に泣き崩れた。

「あの、すべてが塵になった城の中で……、巨人の掌には、ひとの影がありました。

あいつが……、あいつがやったんだ。あいつが、城のみんなを皆殺しにした……」


 恐ろしいのは、その破壊の規模ではない。

 あれほどの大規模な崩壊だったにもかかわらず、何の前触れもなく、そればかりか周囲の森や住居には一切の傷跡を残さなかった。そのため、人々がその破壊に気づくことすら遅れた。

 その光景を見た者が恐れるのは、人魔を超えた超常の神の力に他ならなかった。


 ──すべてが崩れ去った城に、一人の盗賊が姿を見せていた。


 所々からはまだ白い煙が立ち上り、黒く煤けた石垣には焦げた肉の匂いが染みついている。風が吹けば、瓦礫の破片が乾いた音を立てて転がり、夜の静けさをさらに深くした。

 その廃墟には、もはや城の形も、生きた人の営みの気配も、何ひとつ残っていなかった。


 それでも彼は、その瓦礫の山の、あったはずのあの場所に、いつものように駆け上がった。

 そこに何があるのか、確信などなかった。ただ、彼に出来ることは他になかった。

 それだけが、あの夜の約束の続きのように思えたのだ。


 そして──瓦礫の頂で、彼は目を疑った。そこでは、いるはずのない彼女が、月光の中に立っていた。


 彼女の金色の髪は夜風に揺れ、崩れ落ちた世界の中でただ一人、静かに輝いていた。

 それが魔族のものだと分かっていても、その光は、憎しみも呪いも越えた「祈り」のようにさえ見えた。


 彼は言葉が出なかった。

 そして彼女もまた、何も言わずにただ微笑んでいた。

 ──その笑みは、かつて彼が見たどんな光よりも、優しく、そして遠かった。


 静寂の中、彼はゆっくりと彼女に近づく。

「これを──」

 すると、透き通る手が、月明かりの中でそっと差し出され、白革の書が、彼の掌の上に落ちた。彼が受け取った瞬間、彼女はそれが最後の仕事であったかのように、小さく息をつく。

 そしてその最後に、彼女は無防備に微笑んだ。


「お前に出会えてよかった─

 その言葉を発した瞬間、彼女の体は月光の瞬きの中に跡形もなくかき消えた。

 慌てて盗賊が手を伸ばしても、もうそこには何もなく、ただ白革の書だけが残された。


 ──数日後、その盗賊のもとに、一人の男が現れた。

 上等な黒衣に身を包み、まるでどこぞの貴族に仕える執事のような出で立ち。ただそれだけのことで、盗賊は察した。

「……いつか、アンタみたいなのが来るとは思ってたが。ずいぶん早かったな」


 男は静かに微笑むと、わずかに頭を下げた。

「話が早くて助かります。どうか、お手持ちの書物を返却願えませんか」

 礼儀正しく首を垂れる男が晒す首筋には、一切隙などなかった。

 この男とやり合っても勝ち目はない。そう悟りながらも、盗賊は形見の品を安々と手放す気にもならなかった。


 男は、その胸のうちを見透かしたように言葉を紡ぐ。

「私としては、殺して奪い取っても構わないのですが……それは、その書を託された方の望みではありません。

ならばできるだけ穏便に済ませたいところです」

 そして白々しく一拍置き、話を続けた。

「そうだ。ならばこう致しましょう。その書が何なのか。教えて差し上げます。

理解して頂ければ、貴方がそれを持っていてもしょうがないことを、分かって頂けると思いますので」


 盗賊はその手に刃を備えていたが、抗おうとしていた意志を牽制され、手を離した。

 おそらく人間ではないこの男が、自分を殺さないとも、嘘をつかないとも、どこにもそんな保証はない。

 だがそれでも盗賊にはすでに、話を聞く以外の選択肢などなかった。


 ──男が語ったこの書の意味は、盗賊には確かにどうでもいいものだった。

 けれど、そのどうでもいい真実の中に、彼女がどうなったのかの答えがあった。


「彼女はどうして俺にこれを渡したんだ……」

 すべてを聞き終えたあと、盗賊の口からその言葉が零れ落ちた。

 男は少しも表情を変えず、しかし親切にも、その問いに答えた。


「魔族は人間とは異なり、死しても魂はこの地上に留まり続けます。

ですが──この禁術の戒律を破り月門を潜れば、その魂は天界に渡り浄化される」

「つまり、魔族としての存在の抹消。それは、魔族にとって最大の苦痛となりましょう」


 そして一拍置いてから、言葉を添える。

「あるいは、人間になりたかったのでしょうか──」


 この男の言うことが真実か嘘か、もはや盗賊にはどうでもよかった。ただ、ただ、彼女を哀れんだ。

 そして、白革の書を静かに掲げ、その手を伸ばした。


 男が恭しくそれを受け取ると、盗賊は最後に一つ尋ねた。

「……お前は、いったい何者なんだ」


 しかし、男はその問いには答えず、微笑みだけ残し静かに闇に消えた──


 ──ネクロハイヴ禁術書館へ向かう帰路の中、マクスは誰もいない虚空に言葉を落とした。

「魔族は力に優れるがゆえに、人間を見下す。だが、私に言わせれば、それはただの奢りにすぎません。

魔族はその力ゆえに、己が欲求に素直すぎるのです。そんな赤子のような心で、恐怖に向き合い、立ち向かおうとする人間とまともに対して、勝てるわけがない」


「魔族は禁術の力を借りて、ようやく人間と五分に渡り合えるのですよ」


 決して誰にも言わぬ本心は、風に溶けやがて散っていった──。


 人間から魔族へと堕ちた彼は、魔族の行く末にも、人間の行く末にも、興味がない。

 たとえどちらが滅びようとも、その結末に、意味など持たない。


 マクスが仕えるのは、アルテアただ独り。それ以外のすべては、彼にとって風に散る灰と変わらなかった。


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