第十編 卒都婆玉兎・下
一方、ダリアンはようやく起き上がり、リアラと共に次の手を練っていた。
その矢先、城の奥から慌ただしく駆ける足音が、いくつも重なって響いてきた。鋼鉄が床を打つ音が、壁越しにも伝わってくる。
魔王城の静寂を破るその響きに、ダリアンは思わず顔を上げた。
「……何が起きた?」
異変の気配は、すぐに感じ取れた。だが、この時はまだ、それが何なのか知る由もなかった。
ただ、敵襲ではないのは確かだった。もしそうなら、城内はもっと混乱し、悲鳴や怒号が飛び交っているはずだ。
だとすれば、魔王城で兵がこれほど慌ただしく動く理由は、他にそれほど多くはない。
ダリアンは息を整え、リアラと目を交わす。
「俺たちも行こう。嫌な予感がする」
リアラも無言で頷き、二人は兵の列に紛れ、足音の向かう先へと歩を進めた。
ダリアンたちが騒ぎの中心へ辿り着いたとき、その光景に思わず息を呑んだ。
これまで一歩も歩くことのなかった魔王アクレオスが、自らの足で城内を進んでいたのだ。そして、そのすぐ前を、小さな影が、まるで案内するように歩いている。
その影は、見間違うはずもなくロロだった。
「ロロ……。何をしているんだ……?」
理解が追いつかない。訳の分からない光景は、夢でも見ているかのようだった。
本来であれば、身元も知れぬロロなど、近衛たちによって即座に取り押さえられるはずだ。だが、誰一人として周囲を取り囲むだけで、それ以上は動かない。
魔王自らがそれを制している──いや、近衛ですら近づくことを恐れているのかのような気配だった。
ロロはそんな彼らの視線も気にかけることなく、迷いのない足取りで城を進み、やがて東塔の前に立った。
塔の門には幾重もの封印が施され、誰も近づけさせぬ禁域であることを物語っていた。
しかし、ロロはその扉に手をかざし、まるで子供の遊びのように軽やかに解呪してのけると、音もなく扉を開け放った。
塔の中へと消えていくロロとアクレオスを、兵たちはただ呆然と見送っていた。
互いに顔を見合わせるばかりで、誰一人として止めようとはしない。塔は立ち入ることを許されぬ禁域であり、軽々に踏み込む判断など、現場の兵には難しかったのだろう。
その隙を突いて、ダリアンたちも、兵の視線を避けながら塔の中へと潜り込んだ。
内部には、時の流れから切り離されたような静寂が満ちていた。
壁面に並ぶのは、歴代の魔王が身につけた装具や、古びた書物、煌びやかな宝具の数々。まるで魔界そのものの記憶が、この塔に封じられているかのようだった。
ロロはその光景に目を輝かせ、まるで宝箱を空けた子供のように次々と遺物に手を伸ばし、覗き込み、感嘆の息を漏らしている。魔王を連れてきたことを、すっかり忘れてしまったかのように。
一方のアクレオスは、そんなロロを咎めるでもなく、黙ったまま塔の奥を見つめていた。
その瞳には、何かを探し求めるような、微かな意志が宿っていた。
「──ああ、そうだね。肖像画は、この上の間にあるんだよ」
アクレオスの視線に気づいたロロは、はっと我に返ると笑顔でそう告げて、軽い足取りで階段を登っていった。
その背を見失わぬよう、影から様子をうかがっていたダリアンとリアラも、息を潜めてその後に続いた。
塔の二階は、下の階とは打って変わって、静まり返った何もない空間だった。
窓一つなく、外光も届かない。そこには、音も色も失われたような静寂の暗闇が広がっていた。
すると、ロロが円卓の上に置かれた古いランプに手を伸ばし、火をともす。
次の瞬間、淡い光が部屋全体を包み込み、黒い壁面にずらりと並ぶ額縁を照らし出した。
壁一面を埋め尽くすように並べられたそれは、歴代の魔王たちの肖像画だった。
ひとたび灯が揺れるたびに、その瞳がわずかに光を宿し、まるで生き返ったようにこちらを見返してくる。
静寂の中で、無数の視線だけがこの部屋を支配していた。
ロロは興味津々といった様子で一歩前へ出て、並ぶ肖像画を指でなぞるように眺めた。
「ねぇ、見て。ここに飾られているのは、これまで一度でもあの玉座に座ったひとたちなんだ。
すごいよね。こんなに沢山いたなんて……」
その声がアクレオスに届いているかは分からなかった。
魔王はただ、何かを確かめるように無言で肖像画の列をつぶさに見渡していた。
「……親でも探しているのかしら」
その様子を遠くから見ていたリアラが、息を潜めて囁く。
ダリアンは、その言葉をにわかには信じられなかったが、確かに、アクレオスは無数の肖像画を一点ずつ確認して回っているようにも見えた。
やがて、彼はふと足を止めた。その視線の先にあったのは、ある一枚の肖像画。
ロロもその前に立ち、静かに口を開いた。
「──やっぱり、気になる? このひとは、これだけの魔王の中でも特別だよ」
ランプの炎がゆらめき、肖像に描かれた人物の赤い瞳をより紅く染める。
「魔王カイリス──この世界すべてを闇に落とした唯一の魔王さ」
アクレオスは、探していたものを見つけたかのように、その場から微動だにしなかった。
その瞳は、ただひたすらに一枚の肖像のなかの魔王カイリスを、絵の中に吸い込まれそうなほど、深く、真っ直ぐに見つめていた。
その瞳から、何を見ているのかを問うことはできなかった。
哀しみか、憧れか、それとも──恐れか。
ただ、アクレオスの肩がかすかに震えているのを、ダリアンは見逃さなかった。
魔王カイリスの姿は、ダリアンも興味を引かれたが、影に隠れて見えない。
それよりも、ロロの言葉に気を取られているこの瞬間こそ、禁術書を回収するまたとない好機──そう判断し、ダリアンは息を殺した。
その刹那だった。アクレオスの身体から、低くうねるような音が漏れた。
次の瞬間──塔全体を震わせるほどの衝撃が走った。
空気が裂ける音とともに、目に見えるほど濃密な魔力が周囲へと噴き出す。
穏やかだった空間が一変し、押し寄せる暴風が絵画も壁も、すべてを軋ませる。
「──アクレ…‥!!」
ロロが叫ぶよりも早く、アクレオスを中心に巨大な魔力の渦が巻き起こった。
それは怒りでも悲しみでもなく、ただ抑えきれなくなった恐怖の爆発だった。
世界の理さえ歪ませるような、圧倒的な魔力の奔流。空間がねじれ、色が裏返る。
空気が悲鳴を上げると、石壁が振動し、塔の礎石にまで罅が走った。地鳴りのような低音が周囲に響く。
アクレオスの隙をうかがっていたことが功を奏し、ダリアンは素早くロロを抱きかかえ、リアラの腕を引いて跳躍した。
直後──その背後で塔が爆ぜた。
空気を押し潰すような衝撃波が全方位に拡散し、東の塔は轟音と共に崩れ落ちた。
一歩早く逃げ出した彼らは、吹き荒れる瓦礫と魔力の奔流を紙一重で避けながら地面に転がり落ちた。
だが、そこに安堵などあるはずもなく、危機的な状況には変わりなかった。
崩壊の中心――その瓦礫と爆風の只中に、アクレオスは当然のように無傷で佇んでいた。
衣の端一つ乱れず、ただ虚ろな瞳の奥で、なおも渦巻く蒼と紅の魔力が形を変えていく。
恐怖が具現化した嵐は衰えることなく、むしろ生き物のように脈動し、次の獲物を探しているようだった。
あの嵐に触れた瞬間、肉も骨も灰になる。身を挺したところで、盾になることすら叶わない。
――いま、この場にいること自体が、死の宣告であるような、考えうる中で最悪の状況にダリアンは落とされた。
周囲は崩れた塔の破片が飛び散り空を覆っていた。
巻き込まれた兵の悲鳴があちこちで上がり、血と土の焦げた匂いが入り混じる。
しかし、そのような者たちに構う暇など、運良く生き延びた者にあるわけがない。
見捨てて逃げるか、一緒に死ぬか、その二択を迫られた多くの兵たちは我先にと、逃げ出していた。
だが、その中にあって、ダリアンは立ち止まっていた。
”オリヴァに殺されかけ、仲間の助力を受けながら、このままおめおめと帰るわけにはいかない”
それは何の意地だったのだろうか、ヴァンパイアの血、ネクロハイヴ禁術書館の司書としての誇り──ともかく、これまでにない感情が、胸の奥で弾けた。
「ふたりは逃げろっ!」 ダリアンは背後のふたりに振り返りざま、怒鳴るように叫んだ。
しかし、そのネクロハイヴ禁術書館の末席からの進言を、ロロとリアラは互いに視線を交わし肩をすくめる。
「──ふふっ、じゃーん! これ見てよ」
ロロは懐から紅色の液体が入った小瓶を取り出し、得意げに掲げてみせた。
「僕にはこのダリっちの血で作った試薬があるからさ。即死じゃなかったら、まあ、何とかなると思うんだよね」
そう言って笑いながら、ロロはダリアンの一歩前へ出た。
「じゃ、そゆことで、リアラよろしく~」
そして振り返り、リアラに小瓶をなげてよこすと、ロロはアクレオスに向かって飛び出した。
「私は運動は不得手ですが、ロロくんのサポートくらいはできます」
リアラは小瓶を受け取りながら、静かにそう語り、ロロの後を追った。
巨大な魔力の渦が吹き荒れる。立ち向かっていったふたりの痕跡を消すように、瓦礫が崩れ、光が割れる。
「────……」 ダリアンは言葉を失い、拳を握りしめた。
だが、それも一瞬。彼らの覚悟を見て、死の恐怖など、もうどこか遠くへ消えていた。
ロロとリアラの意を汲み取り、ダリアンは職務の遂行に全力を向けた──
アクレオスは、自らが跡形もなく吹き飛ばした塔の残骸の中で、あの肖像画の前から一歩も動いていなかった。
だが、その周囲では、制御を失った底なしの魔力の奔流が渦を巻き、瓦礫も兵も、すべてを呑み込みながら破壊し続けている。
「アクレオス! 僕がわかるかいっ、ロロだよっ!」
ロロは吹き荒れる魔力の渦を、まるで舞うように器用にかわしつつ叫んだ。
しかし、アクレオスからの反応はない。その目はまるで、何かに憑りつかれているようでもあった。
「ダメかっ」 ロロは唇を噛み、再び駆ける。
その背後で、リアラは静かに魔術を編む。淡い光の粒がロロの姿をゆらめかせ、アクレオスの感知を惑わせた。
「ロロくん、がんばって……」
リアラの声は震えていたが、その手は決して止まらなかった。
そして、アクレオスの注意がロロたちに向いている中で、ダリアンはひとり音もなく闇へと溶けていた。
ヴァンパイアの隠密能力を最大限に発揮し、息を殺し、影に潜み、如何なる感知も届かない闇から、魔王の背後へと忍び寄る。
そして、ふたりの力を受けて、破滅の渦を潜り抜けたその指先が、無防備なアクレオスの首元に触れた──
だが──もたらされた結末は、成果に対して全く逆だった。
ダリアンの身体は、触れた瞬間弾け飛んだ。その瞬間、ダリアンですら何が起こったのか分からなかった。
ただ、全身を内側から引き裂くような衝撃が襲い──爆ぜた。
魔王のその身体はそのものが、放つ渦と同様に相反する属性を内在し、何物も触れることを許さないのだ。
空中に弾き飛ばされたダリアンは、何もできず地に叩きつけられた。
骨の軋む音が耳に届くより早く、視界が赤く染まり、意識が霞んだ。
決して、魔王アクレオスを甘く見ていたわけではない。
だが、ダリアンは、禁術書の回収という職務の前に、心のどこかでアクレオスまで救わんとしていた。しかし、それはあまりに愚かで、大それた願いだった。
あのオリヴァですら、正面から向き合おうとしなかった魔王の力は、あまりに途方もなく──ダリアンは、手も足も出なかった。
その身が千切れるほどの衝撃を受け、ダリアンはその場に倒れ伏したまま動けず、意識を保っているのが精一杯だった。
だが、アクレオスの渦は容赦なく、身動きの取れないダリアンへと襲いかかった──
その瞬間、ダリアンは闇に落ちた……
──痛みも、光も、音さえもない。底の知れぬ虚無の中を、ゆっくりと沈んでいく。
何もない闇に落ち、”ああ、ここまでか”──ダリアンは死を悟った。
しかし、その死の世界になぜか、聞きなれた声が響いた。 「私が、余計なことをしたばかりに……」
やがて、闇の中に微かな光が灯り、さらに言葉が続いた。
「動かないでください。これでも治癒の魔術は得意ですので……」
やさしい波動が、壊れかけた肉体を包み込む。冷たい虚無に温もりが差し込み、途切れかけた鼓動が、力を取り戻していく。骨の軋みも、焼けるような痛みも、すべてが静かに溶けて消え去っていった。
「……さあ、もうよろしいでしょうか」
その最後の声に振り向くと、ダリアンは闇から解き放たれた──。
ダリアンは、数瞬前の戦場に戻っていた。
眼前では、ロロがまだアクレオスを前に相手をしていた。吹き荒れる魔力の渦は、一切衰えていない。
そして、すぐそばには、あの声の主であるマクスが立っていた。
「どうして……」 思わず口をついた疑問に、マクスはただ目を伏せる。
だがその答えよりも、彼の視線は別の存在に釘付けになった。
マクスを従えるように立ち、魔王の渦を正面から見据える影──その持ち主は、アルテアだった。
アルテアはゆるりと歩みを進め、この災禍の中をとても静かに通り抜け、アクレオスの前に進み出る。
「私はお止めしたのですが……」
マクスは目を伏したまま、懺悔でもするかのように言葉を絞り出し、ダリアンに告げた。
「これから何をご覧になっても、決して邪魔をしてはなりません」
その忠告の意味を、ダリアンはまだ理解していなかった。
そしてそれを待たず、アクレオスはアルテアを前にして、一層猛り狂った。際限のない魔力が溢れ、より巨大な渦を形成し、世界を埋め尽くす。周囲にまき散らされていた魔力の渦と重なり合い、それらすべてが唸りながら、アルテアたったひとりへと向けられた。
それに対しアルテアは、一切何もせず、ただ立っていただけだった。
魔王の攻撃に身構えるでもなく、術を唱えることもなく、ただ静かにそこに立っているだけだった。
その姿は、まるで罪を受け入れる聖女のようであり、あるいは、すべてを赦す母のようでもあった。
そして、その瞬間は訪れた。
破滅の渦がアルテアのか細い体に触れる。そして、一切容赦なく、その四肢を無残に切り裂き、鮮血を飛び散らせた。
「──アルテアッ!」 ダリアンの叫びは音にもならず、誰にも届かぬ虚空へと弾けた。
──だが──
裂かれたはずのアルテアの身体は、崩れ落ちなかった。血肉が霧のように散ると、闇へと還り消えていく。
そしてその闇は再び集まると、瞬く間にアルテアの形を取り戻していった。
まるで、彼女だけが世界の理から外れたように──いや、世界がその存在を拒むことを諦めたかのように。
アクレオスの渦は、そのアルテアを前にして、恐怖を振り払うようにより一層吹き荒れる。
だがそれでも、どれほど細かくその身体を切り裂いても、アルテアの影は消えず、ただそこに立っていた。
頭も、心臓も、魔核さえも切り裂かれても、それでも死なないヴァンパイア──。
どんなヴァンパイアであっても、そのようなことはできない。誰よりもダリアンは、それが良く分かっている。その再生能力は、精々千切れた四肢を繋ぐ程度だ。アルテアの力はそれを明らかに逸脱していた。
どれほどの攻撃を重ねても、絶対に消えないアルテアを前に、追い詰められたのは魔王の方だった。
アルテアからは一切の攻撃は無い。しかし、ついにその力は限界を迎える。
魔王アクレオスの全力を持って滅することのできない存在に、魔王は底知れぬ恐怖に襲われた。
「ひ……っ」 その口から、魔王とは思えぬ声にならない悲鳴が漏れる。
その瞬間、アクレオスは生まれて初めて後ずさった。排除できない恐怖を前に本能が怯え、どうすることもできなかった。
だが、アルテアは無言のまま、それよりも早く歩みを進める。一歩、また一歩──そして、ふたりの距離は無くなっていった。
アルテアはアクレオスへ手を伸ばした。しかし、触れた瞬間、その手はダリアン同様に爆ぜ、霧のように散った。
だが、次の瞬間には形を取り戻し、再び伸ばす。また触れ、また破壊され、また再生する。
その無意味な反復は、まったく意味など無かったが、アクレオスを恐怖で満たすには十分だった。
ギリギリの理性が、死への原初的な恐怖を拒み、彼の魂を締めつける。
「魔王…… カイリス……」 ──それが、魔王アクレオスの最後の言葉となった。
アクレオスは、ただひたすら恐怖から逃れることを願った。だが、その手段など分からず、ただ震えた。
そしてそれは、魔王でありながら、願いは神への懇願となり、祈りの形を成した。
”助かりたい”──”逃げたい”──”いなくなりたい”──そして、”元に戻りたい”
その瞬間、アクレオスが携えていた禁術書『核融合切縫』が開かれた。
まさに禁術書が、神が願いを聞き届けたかのごとく、溢れる光がアクレオスを満たした。
光に抱かれたその瞳にはもはや、力も、恐れも、何もなかった。──ただ、安堵だけがあった。
そして光が静かに消えたとき、そこにはもう、アクレオスの姿はなかった。
魔王が消えたあと残されたのは、禁術書と、横たわるカレンとナイアスだけだった。
すべてが終わり、アルテアは音も無く禁術書を拾い上げた。
ここに至るまで、一切の感情の揺らぎすら見せず、彼女は淡々と禁術書の背を撫でた。
やがて振り返ると、崩れた瓦礫の中、オリヴァが兵を率いて彼女の前に跪いていた。
「カイリス・アルテア・セレノストラ──
魔王を倒した者が、魔王となる。この掟、よもやお忘れではありますまい。どうか、玉座にお戻りを……」
魔王を討ち滅ぼした新たな魔王に、オリヴァは伏して願い出た。しかし──
「それは、生ある者の掟でしょう」
その言葉だけを残して、アルテアはオリヴァの前を静かに通り過ぎた。
その背中を止める言葉を、オリヴァは持っていなかった。
そして、それはダリアンも同じだった。
戻ってきたアルテアをマクスが恭しく頭を垂れ迎える中、ダリアンは言葉を失っていた。
脳裏に焼き付いている光景は神話そのものだった──
破滅の権化たる魔王を、死を超越した存在が、恐怖の底に沈め凍てつかせた。
それはダリアンの理解を超え、これが現実なのか疑わせた。
そして何よりも、アルテア──彼女こそが、ネクロハイヴ禁術書館を創り上げた魔王カイリスその人であったこと。
その事実が、ダリアンの中のこれまでの世界を静かに壊していった。
しかし、考える間もなく、崩れた瓦礫の影からロロが駆け寄ってきた。その顔は土と煤にまみれ、ロロもまた必死だったことを物語っている。
「ねぇ、アルテア様! お願いだよ、あのふたりを助けて……!」
ロロは熱のこもった手で、そのままアルテアの衣に縋りつきながら懇願した。
僅かでもアクレオスと言葉を交わしたロロにも、思うところがあったのだろう。その想いは、誰よりも真っ直ぐで、カレンとナイアスをあのままにしておくのは、忍びなかったようだった。
そしてそれは、ダリアンの胸の奥にくすぶっていた願いを、声にしたものでもあった。
しかし、アルテアの返事を待たず、ロロの背中からリアラが手を回すと、そっとアルテアから引き離した。
リアラは何も言わなかった。だが、その沈黙こそが願ってはならぬ願いであることを示していた。
それを理解したロロにもまた言葉はなく、ただリアラの手を強く握り返した。
魔界には、敗れた魔王の居場所はない──力の支配は掟を超えた、魔界の摂理だった。
ましてや、アクレオスが為したことを思えば、オリヴァがそれを赦すはずもない。
あるいは、アルテアが魔王であるならば──だが、到底それと引き換えに望める事では無かった。
その最後に、カレンとナイアスの腕は固く結ばれていたという──
その後、ダリアンたちにまで責めが及ぶことはなかった。
彼らに罪を問うならば、その矛先はオリヴァにも向かう。それは彼自身も望まず、禁術の存在も有耶無耶なままとなった。
力こそが正義の魔界では、弱き者が悪なのだ。その理に逆らってまで、真実を追及する者は、ついに現れなかった。
そうしてこの出来事もまた、魔界の悠久の歴史に綴じられた──
──カイリスはその禁断の儀式『卒都婆玉兎』によって、己を完全なる不死へと昇華させた。
不死となった魔王カイリスの姿は、永遠の支配と暗黒の未来を予感させた。誰もがその終わりなき恐怖を悟り、そして絶望した──。
この不死の術の正体とは、『死との同化』だった。
この術は完璧なものだった。あらゆる者が、あらゆる術を放とうと、カイリスを滅することはできなかった。
彼女は、死そのものとなり、世界の理から見放され、永遠の残響となった。
だが──ある日を境に、魔王カイリスは玉座を捨て、魔界から忽然と姿を消した。側近の誰ひとりとして、彼女の行方を知らず、探ることも叶わなかった。
魔王カイリスの消失は、闇の時代の終わりを告げた。
闇の力は衰え、死者はもう立ち上がることはなくなった。虐げられてきた人間たちは再び希望を取り戻し、世界に再び光が差した。
──歴史の記録からその名が消えた後、カイリスは闇の術に身を沈めるように没頭し始める。
あらゆる禁術書をかき集め、その術理を理解し、秘密を追求し、深い知識を自らの中に封じ込めていった。
不死なる彼女は、悠久の時を誰の声も届かぬ闇の中で、ひたすらに独り禁術書を積み上げ続けた。
数え切れぬ夜が過ぎ、魔王カイリスの名が魔界から薄れ、彼女を知る者すら稀となった頃──。
書の塔と化した異様な城に、ひとりの客が迷い込んだ。その招かれざる客が手にした一篇の禁術書は、たちまちその心を呑み込むと、禁術の深淵へと引きずり込んで虜とした。
やがてその噂が魔界で漏れ聞こえるようになると、叡智と力を渇望する魔族たちが、ひとり、またひとりとその門を潜った。
そしていつしか、それは誰の口からか、ネクロハイヴ禁書館と呼ばれるようになった──。
──ネクロハイヴ禁書館に、アルテアたちは帰還した。
出迎えたセレヴィアの表情には、憂慮も安堵も浮かんでいなかった。彼女がそうであるように、この書館もまた、何も変わらず、ただ静かに在り続けていた。
ダリアンにも、再び司書としての日常が戻ってきた。だがその胸には、これまでとは違う感情が生まれていた。
仲間への信頼、そして期待。それは絆として、彼の中に根を下ろしていた。
そしてアルテアに対しては、崇拝とも忠誠とも異なる想いが芽生えていた。
そうしてそれぞれの日々は、またゆっくりと、何事もなかったかのように流れていく。
外の世界がどう変わろうと、この書館の時は沈んだまま、書架の隙間に蠢く囁きだけが、誰にも知られず真実を紡ぐ。
──その静寂の最奥で、セレヴィアは今回の報告を受けていた。
「──このようなことは、これまで一度としてございませんでした」
ふたりきりの静寂の中、まるで秘め事でも伝えるかのように、マクスは切り出した。
「アルテア様が、司書のために動かれるなど……
いったい何が、あの御方をそうさせたのでしょうか。それは果たして、良き兆しなのでしょうか?」
悲観するマクスの声は、やがて魔書の静寂に吸い込まれていった。
彼女は何も答えず、ただ、静かに目を閉じて、その懺悔を受け止めていた。
セレヴィアは予感した。その兆しは、とても危険なものであることを──




