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第一編 人命返還論

 それは、赤い月の夜だった──

 深い闇の森が、血風に染まる。月が流した涙のような鮮血に、木々は蠢き、風は鉄の匂いを孕み、静寂は咆哮に破られた。

 この森は、生が罪となる魔界の狩場。誰しもが喰らい合い、誰しもが死に近い。

 その中で、ひとりの若いヴァンパイアが、多くの死を積み重ねていた。


 その足元には、血に染まった同族が、無造作に転がっている。彼の胸奥の激しく脈打つ鼓動が、鉄錆の味と荒い呼吸を捲し立てる。だが、傷だらけのその身体は、未だ鋭い眼光を失わぬまま、眼前の影を射抜いていた。

 次の瞬間──その影が左右に割れ、二体のヴァンパイアが牙を剥いて襲いかかった。

 左右同時の攻撃に、逃げ場はない。

 一瞬の隙は死を招く状況に落とされた若者は、躊躇わず足元の死体を右の敵を目掛けて蹴り上げる。そして、その反動のまま一瞬で、反対側の影を強襲し仕留めた。裂かれた肉からは暗紅の血液が噴き出し、弧を描いて落ちていく。

 残された影が、死体を振り払い前に出ようとする。──だが、もう遅かった。

 若者の鋭い爪が、死体ごと影を切断し、骨と肉を引き裂いて地に叩きつけた。


 夜風に乗って嗜虐の残滓が漂う。静寂が戻るとき、ただ暗闇だけが微かに鼓動を刻んでいた──


 生き残った若いヴァンパイアの手には、それでも、何も残らなかった。

 恋人を殺した相手に、見事復讐を成し遂げたにもかかわらず、何も得られなかった。

「アルテア──……。」

 すべてが終わった最後に、目を閉じて、その名をささやく。けれど、喉に残るのは、飢えと渇きのみだった。

 その飢餓感に耐え切れず、若者は祈るように膝を折り、何もない手を握る。息を止める魔界の森に、動くものは、その血にまみれて喘ぐ姿だけだった。


 そして、手を解き、目を開けた時、──彼女が現れた。


 闇から生まれたかのように、その輪郭は暗黒の森と一体化し、曖昧に揺れている。その中に、霧のように漂う青白い四肢が、雫のように音もなくこちらへと滑り流れる。

 目の前に立つ、人の形を模した幻想のような女。その雪を溶かしたような白い肌。光すら拒む漆黒の長い髪。なにもかもに、生の痕跡が見当たらなかった。

 若者は覚悟した、”これが死神なのだ”、と。

 目が合った、その瞳の奥には、生も、死も、祈りも届かぬ深淵があった。そのまなざしから、逃げる理由も、逃げられる道理もなく、ただ、身を委ねた。

”ここで死ぬ──、ああ、それもいい……”

 若者は、再び目を閉じた──


 だが、救いは訪れない。

 いつまでも、この体に生温かい感覚が残っている。”そんなものもういらない”と、差し出したにもかかわらず、死神は一向に奪いに来ない。若者は、ついに耐え切れず、目を開ける。

 すると、目の前から死神の姿は忽然と消え去っていた。


 若者は無意識に立ち上がった。そして、ただ赴くままに、その影を追って、身を引きずるように歩き出した。

 それは不思議な感情だった。覚悟を侮辱されたような憤りと、命を奪われなかった安堵は矛盾し、胸の中で弾ける。自分の今の行動に、自分でも説明がつかない。あるいは、ただもう一度、死神の姿を見たいだけなのかもしれなかった……。


 死神の後を追う若者は、森を抜けると、廃墟となった城跡に辿り着いた。果たして、本当にその影を追えているかすらあやふやだったが、若者は導かれるように、その朽ちた城門をくぐり、剥がれた石畳に囲われる中庭を通り、恐らくはこの城の象徴であっただろう崩れた石像の前で立ち止まった。


 『カイリス・A・セレノストラ』──石像の台座には、太古の大魔王の名だけが残る。 

 歴代の魔王にあって、その名こそ、世界を滅ぼしすべてを我が物とした、唯一の存在。

 その闇の力は、生あるものを喰らい尽くし、魂すら恐怖の淵へと沈め、死者でさえも絶望の吐息を漏らしたと伝えられる。

 しかし、その名は今や神話に埋もれ、記憶の彼方へと沈み、魔族ですら語る者はほとんどいない。


「ダリアン・アザール・ノクシガー……」

 魔王の名をなぞるように唱えた自分の名は、何とも矮小で、弱々しい。

 その音の一つひとつが、虚空に吸われ消えてゆく。あまりに軽く、一片の灰の価値もない。

 死神にすら見放されたこの命は、生きることさえままならない、虚ろの淵に沈むただの影だった。


 だが、名が消えた去ったその瞬間、朽ちた荒城が騒めき出した──


 中庭の石畳が軋み、城壁は波打つように歪み始めた。

 足元から染み出した黒い淀みは、まるで意志を持つかのように這い広がり、音もなく周囲のすべてを呑み込んでゆく。

 目に映る光景が黒く塗りつぶされ、そこにあるはずの廃墟は、音も無く崩れ去っていった。ただ一つ、空に浮かぶ赤い月だけが、その闇の世界に存在を許された。

「──これは……何だ?」

 思わず漏れた声が、黒の虚空に消えていく。ヴァンパイアであるダリアンですら、見たことのない闇の術だった。

 その中心に、ただひとり置き去りにされた彼の声に応えるように、闇の奈落から、膨大な『知』が姿を見せた。


 文字の書きなぐられた紙片、鉄錆の匂いを閉じ込める紙束、それらを綴じる革表紙。膨大な量のそれらが、闇から生まれ、周囲を埋め尽くさんと積み上がっていく。

「これは……紙? いや、書物?」

 それらは、瞬く間に地となり、城壁となり、回廊となり、塔となり、城の輪郭を形成してゆく。しかし、それだけでは留まらず、書は城に溢れ、城の外に溢れ、その周囲を覆い尽くして、外界から完全に分断された世界を作り上げた。


 ダリアンは言葉を失い、書に埋め尽くされた歪な城の広間らしき場所に、ただ立ち尽くす。魔界でもない、天界でもあるはずがない、完全なる別世界に、理由も前触れもなく落とされて、混沌と混乱の中にあった。

 ──そのとき。

「「「フフフフッ! 久しぶりのお客さんだ!」」」

 その中にあるダリアンを脅かすように、幼げな声が響き渡る。その声は多くの書物に遮られ、反射して、幾重にも重なって、書物から発せられているかのように耳に届いた。

 ダリアンは、出所の分からない声の主を探し、あたりを見渡す。すると、その視界の下から声がした。

「こっちだよ!」

 その声に導かれ下を向くと、声の印象と完全に一致する、まだ幼い男の子が笑顔を向けていた。その子は友達にでも接するように、初対面のダリアンに無邪気に手を振っている。

「──子供?!」

 その無垢な瞳と愛らしい少年の仕草は、あまりにこの光景に不釣り合いで、ダリアンを戸惑わせた。なにも分からないダリアンに、この書物の城に君臨する王の姿は、まるで天真爛漫で、逆にその怪物性を匂わせた。


 この王の前で、どう振舞うかをダリアンは思案した。

 このような城を築き上げ、そこに引きずり込む大魔術を行使できる魔族の格は、自分よりも遥かに高い。この子供がもしこの城の王であるなら、見た目は幼く見えても、王としてふさわしい力を備えているに違いなかった。

 しかし、その考えに割って入るように、また別の声が現れる。

「ロロくん。お止めなさい…。お客様に、そのような振る舞いは。」

 艶やかで優雅な女性の声が、王を窘める。そして現れるその姿もまた、その声に相応しい形を纏っていた。

「え~…。いいじゃないか。どうせ同じことなんだから…。」

 子供のロロは親に歯向かうように、馴れ馴れしくも悪戯っぽく反発する。

「いけません。物事には順序というものがあるのですよ。」

 そして、親もまた、それが日常であるかのように、子供をあやす。その様子は、本当に親子であっても不思議でないほどに、家族の温もりに包まれていた。

 その姿は、ダリアンに認識を変えさせた。この城の王は、彼ではなく彼女なのだ、と。

 ──しかし、早々に、王はその理解を崩壊させた。


「改めまして…、ネクロハイヴ禁術書館によく御出で下さいました。

私は、リアラゼル・キヴァレス。よろしくお願いいたします。」

「そして──」

「僕は、ロロ・ゼバラフ。どうぞよろしくお願いします。」

 ふたりは並んでダリアンに正対すると、深々と頭を下げた。

 ダリアンに、その言葉の意味は理解できても、その行為の意味は理解できなかった。この城の王であるはずの者に、頭を下げられる。一体何を見せられているのか、認識が追いつかない。

 その彼に追い打ちをかけるように、リアラゼルは言葉を続けた。


「さて、ダリアン・アザール・ノクシガー様。今宵は、何を御所望ですか?」


 ダリアンは、戸惑いの中にあっても、その言葉だけは聞き逃さなかった。緊張が肌を刺し、咄嗟に身を固くさせる。その言葉の真意に関係なく、ダリアンは身構える。

「なぜ、俺の名前を知っている!」

 胸の奥のざわつきが、反射的に声を張り上げた。初めて会った者に自分の名を呼ばれ、疑念以外の感情を抱けるはずがない。それは、無条件で警戒心を高めさせる。

 そんな彼を前にして、リアラゼルはそれと分からないほど、ほんの少し眉をひそめた。

「だって、君は名前を捧げたじゃないか…。」

 そして、その問いを横取りするように、ロロが答えた。ロロは、リアラゼルの感情を代弁するように、分かりやすく呆れたような言葉を漏らす。

 それはダリアンに、認めたくない事実を突きつける。

 あの台座で魔王の名に連ねた囁きが、この状況を招いたというならば、それは生贄の儀式に酷似する。それはつまり──、だがしかし、そうならば、ふたりの言動の辻褄が合わない。


「──ここは……、なんだ?」

 言い淀みながら、怒りではなく、どうしようもない困惑が胸を締めつける。理屈では説明できない異界の書館に、解けない疑問だけが、ただ積み上がる。

「…それもさっき、言ったんだけどな…。」

 対してロロは、理解の遅い馬鹿を相手にでもするように、子供のような煽りをみせる。

 そのロロをダリアンから隠すように、リアラゼルは手をかざす。そして、ゆっくりと静かに話し始めた。

「─…このネクロハイヴ禁術書館に、何も知らず招かれた方は、私が知る限り…、あなたが初めてです。」

「もし、望まれるのであれば、この書館の役割と、あなたの権利について、お教えしますが如何しますか?」

 その穏やかな声には、一切の敵意は込められていない。そのどちらの答えを選んだとしても、何の害も及ぼさないことをダリアンに予感させる。その安心は、自分の置かれた状況の理解を追いつかせた。

「……。分かった。頼むよ。」

 ダリアンは、一度息を吐くと、警戒を解き彼らを頼った。

 未だ、自分の置かれた状況に一切の解は出ていない。しかし、生を見放し、死を願った若者の想いは、いつの間にか、この書館の外に置き去りにされていた──


「──では、私に付いて来てください。」

 ダリアンの返答に、リアラゼルは静かに身を翻し、迷いなく奥の廊下を進んでいった。ダリアンはその後を追う。

 書館の内部は、進むほどにまた別の空気に変わっていくのをダリアンは感じた。それは、ここが禁術書館であることを思い出させるように、冷たく、重くなっていく。その威圧感の発生源が書であることは明白だった。

 その途中で、ロロは、唐突に何かを思い出したように別の通路へと駆けて行き、それきり姿を見せなかった。

 それからふたりは、一つの部屋の前で足を止めた。

「ノクシガー様。少々、ここでお待ちください。」

 リアラゼルが丁寧に頭を下げると、扉の向こうへと消えていった。

 ダリアンは言われるがまま立ち尽くす。目の前の扉は、沈んだ紫に塗られ、その表面は微かに紋様が揺れ動いているようだった。

 それから間もなく、リアラゼルが戻ってきた。

「どうぞ、お入りください。」

 今度は彼女が扉を開け持つと、ダリアンひとりで中へ入るよう促す。

 その部屋の中は、また別の空気が流れていた。壁面には、乾いた鉄の匂いを放つ分厚い魔書が隙間なく並ぶ。それを背に、重々しい机と対の椅子。それは、書に囲まれたこの書館にある書斎といった、何とも奇妙な趣のある部屋だった。

 そしてその中心に、ひとりの男性が立っていた。

「こんばんは、ノクシガー様。ようこそお越しくださいました。

私は、オーレマクス・サルヴィル・ドラゼリスと申します。ぜひ、マクスとお呼びください。」

 その男は、ダリアンと目が合うと、これまでのふたりと同じように挨拶をし、深く礼をした。


「さて、リアラより話は承りました。

貴方が知るべきこと、すべて私からお話しましょう。どうぞ、こちらへ。」

 そう促され、対面する席に座ると、マクスはすぐに話を始めた。その男の口調は、リアラゼルとはまた違い、穏やかでいて、どこか気高い響きを帯びていた。言葉と仕草の端々に滲む品格が、場の空気すら静かに整えていくようだった。

「ネクロハイヴ禁術書館。――その始まりは、遥か昔のこと。

かつて、ある魔王が自らの手で、禁術の研究を始めたのが端緒でした。」

「その魔王は、ただひたすらに知を求め、研究に明け暮れました。時の流れに目もくれず、悠久の時をただそれだけに費やしたのです。」

「その結果、城を埋め尽くすほど集められた禁術書から、魔王によって、城から溢れんばかりの新たな禁術書が生み出されていきました。そうして積み上げられた知の結晶が、このネクロハイヴ禁術書館を成したのです。」

 男の口元には、そこに身を置くことの幸せを噛みしめるように、少しの笑みが浮かぶ。

「魔王が作り出した禁術書は、どれ一つとっても、類稀なる魅力にあふれていました。野心を持った魔族の誰もが、それを我が物にせんと画策しましたが、魔王を前にそれを叶えた者は、ついに現れませんでした。」

「──そして、時代は何代も移り変わり、魔王の恐怖と共に、このネクロハイヴ禁術書館の記憶も薄れていきました──」

 そこまで語り、マクスは一息を突く。ダリアンはその話を黙って聞いていたが、まだ何一つ、疑問は解消されていない。目の前に座るこの男が何者であるかすら……。


「けれど今──」

 その語り口は変わらぬまま、男にはどこか愉悦が滲む。

「私共が、この禁術書館を管理しております。」

 静かに告げられたその言葉は、ダリアンの呼吸を止める。取り返しのつかないような不吉を孕ませる。過程を無視したその答えは、新たな疑問を植え付けるが、今それは意味の無いものだった。

「そして……」

 わずかに間を置き、男の視線はダリアンの奥へと沈み込む。

「この禁術書館を訪れた方に、望む禁術書を貸し与えております。」

 ダリアンの不安は的中し、マクスの言葉には悪魔が潜んでいた。

 ──これは、悪魔に対する悪魔の取引。


 禁術とは、神の理に背く禁忌を犯す術。たとえ魔王であっても、神の理には逆らえない。まさにその許されざる領域へと踏み込む行為であり、存在の根幹を揺るがす術である。

 この理を破ろうとする時、術者は必ず代償を支払わねばならない。それは命か、魂か、あるいは存在そのものか。代償の形は術に応じて変わるが、魔族であろうと、その報いから逃れることはできない。

 悪魔は禁術の代償を、自らの身に引き受けるのではなく、巧妙な言葉と契約によって他者に転嫁する。神の理をすり抜けて、その果実だけを奪い去る。まさにそれこそが、悪魔の所業。


 そんな言葉にするまでもない常識を、慈悲でも施すかのように語るこの男に対する信頼は、ものの見事に瓦解した。

「さて、では貴方は、何を望まれますか?」

 ダリアンの心情を無視するかのような男の問いに、答える道理はなかった。そして、問いに対し問いで応える。

「──その目的は何だ? 何を望む?」

 その返答次第では、この書斎も血で染まることになる殺意をダリアンは用意した。


 しかし、そのダリアンを前にして、マクスは怯む様子も見せず、一度目を閉じると、再び同じ視線を向けた。

「……。これは、私の望みではなく、貴方の権利なのですよ。魔王に名を捧げ、ネクロハイヴ禁術書館に貴方は招かれた。その時点で、貴方に与えられた権利なのです。」

「この禁術書館が所蔵する禁術書は、すべてかつての魔王が書き上げた珠玉の術理。ひと度でもこの書に触れれば、凡百の悪魔が遊ぶ禁術など、子供の浅知恵だと悟るでしょう。」

「その禁術書を、一切の対価なく、貸与させて頂きます。」

 マクスの言葉は、ダリアンの殺意を閉じ込める。不信に対し、理をもって解きほぐす。当然それらが嘘であることも考えられたが、そうでない、その理由がないとも考えられた。

「私どもは、貴方の権利の行使をサポートいたします。必要とあらば、禁術の行使に必要な代償のお手伝いもいたしましょう。

ですので、話を進めるために、まずは貴方に決めてもらわねばなりません。」

 そして、マクスはダリアンを見つめる。


「もう一度、問いましょう。──貴方は、何を望まれますか?」


 その問いに、ダリアンは初めて向き合う。

 願いは決まっていた。ダリアンの望みはたった一つしかなかった。しかし──

 しばらくの逡巡が沈黙を連れてくる。その迷いを権利が解き放つ。そして──


「……。死んだ人間を、生き返らせることは出来るのか?」


 その全てを飲み込んで、ダリアンは言葉を吐き出した。

 そのダリアンに対して、マクスは目を細め、わずかに頷いた。

「死者蘇生の術書。確かに、所蔵がございます。」

「ただし、蘇生術は死の状況に応じて術法が大きく異なります。もう少し、詳しい状況をお伺いします。」

「遺体は、保管されておられますか?」

 その問いにダリアンは目を閉じて首を振る。

「──いや。」

 マクスは続けざまに質問を重ねる。

「では、魂の保管はされておりますか?」

「──いや。」

 二つの問いの解を得て、マクスは少し目を伏せる。そして、選ぶ言葉を決断した。


「──人の魂というものは、我ら魔族のそれとは異なり、極めて脆く、移ろいやすいものです。」

「死後、人の魂は肉体という器から抜け出し、天へと返ってしまいます。

それを防ぐには、肉体から出ないように閉じ込めるか、あるいは、それに代わる箱を用意しその中に封じるか、そのどちらかをせねばなりません。」

「もっとも、これこそが、天使を欺く禁忌、禁術でございますが……。」

「──肉体はすでに失われ、魂も天へ召されたとあれば……、蘇生術を用いたとしても、果たして貴方の望む結果となりますでしょうか。」

 そこまで語り、マクスはもう一度、ダリアンの目を見る。


「それは、誰がための蘇生なのですか?」


 その問いに、ダリアンの答えは詰まる。

 耐え難い喪失感は己の物、だが、彼女も同じだという確証はどこにも、ない。

 つまり、これは紛れもなく自分のためなのだ。そして、禁術に手を出すとは、つまり──


 マクスは、ダリアンの沈黙を受け、別の案を提示する。

「あるいは、過去への回帰術。こちらも選択肢としてはどうでしょうか。」

「貴方の時間を、その人間が死ぬ前にお戻しします。そして、そこに固着させ、別離の無い世界を作り上げます。

外部からの干渉は一切遮断され、二人の永遠の時を過ごすことができましょう。」


「無垢な魂の錬成術。これなどはどうでしょう。」

「人間の魂を99集め、何の穢れもない1つの魂を練り上げる禁術。それを用意した肉体に封じ込めれば、思い通りに動く人間を作り上げることが叶いましょう。」


「──ただもっとシンプルに、人間をかどわかし、事が足りるのであれば、それは禁術とはなりません。

肉を整え、魂を強制する。人間とは、自ら進んでそのような行いをする生き物でございますから……。」


 そのどれもがダリアンの望むものではなかった。そして、再確認させる。

 魔族が人間を愛するなど、魔族には理解できないのだ、と。

 ダリアンは目を伏せたまま、右手を上げ、マクスの言葉を遮る。

「分かったよ…。もう、いい。俺は、彼女を穢したく、ない……。」

 しかし、マクスはダリアンの告白に対して、意外な答えを用意していた。

「ございますよ。天に召された人間の魂を、穢れなく現世に戻す方法も……。」

 その答えは、ダリアンの耳をそばだたせた。


「自ら天界に赴き、花嫁をさらうように、彼女の魂を強奪すればよいのです。

ただ──、そのラストシーンに至る為には、多くの試練がございましょう。」

「──まずは、混沌たる魔界の玉座を奪い、魔王として君臨せねばなりません。そして、闇に蠢く万魔の声を束ね上げ、一つの旗といたしましょう。

そしてそのとき、天に向かって宣するのです──“我が愛のために、貴様らの天を砕く”、と。

そして光と闇の幾千年の戦いの果てに、天使たちをうち滅ぼし、その最果てに──ようやく辿り着くことが叶いましょう。」

「人間の女一人のために、ひとりの悪魔が天界を滅亡させる──。何とも壮大な一大叙事詩。」

「美しい神話ではございますが、ただこれも……、私共の扱う禁術ではございません……。」


 それは、あまりに途方もない話だった。それは、ダリアンに、この目の前の男の認識を改めさせた。

 その言葉に嘘はないのであろう。だが、禁術以上に遥かに重い罪を吹っ掛けてくるこの男は、理解しているのだ。その上で、背負いきれない十字架を背負わせようとしている。希望に満ちた絶望を見せる、紛れもない悪魔、なのだと。

 ダリアンに、この話に乗ることなどできない。では、彼女への気持ちは嘘だったのか、それも違う。

 答えは出ているはずなのに、葛藤だけがただ胸を焼く。決断をする前に、彼女との日々が未練の絵を描く。

 彼女のすべてが、もう二度と戻らない場所にある。

 ダリアンは、それを再現したいのではなかった。

 ダリアンは、夢の中に溺れたいのでもなかった。

 ただ──、彼女の痛みが心地よかった。


「俺の望むものは、ここにはない。」

 

 マクスは、ダリアンの辿り着いた答えに、最後に一つ質問をする。

「貴方にそこまで愛された女性の名を、聞かせてください。」

 ダリアンは、マクスに嫌悪を抱いていなかった。むしろ、この男に名を聞かれたことは、誇らしくすらあった。

「──アルテア・フロリス。」

 その名を受け、マクスは一瞬だけ、指先と視線を止めた。しかしすぐにその動きも感情も闇に沈むように消えた。

 そして、最後にマクスがダリアンに別れの言葉を口にしようとした、その時──

「お話は終わりましたか?」

 闇を切り裂くように、背後から冷ややかで澄んだ女性の声が響いた。

「はい、彼は禁術を選びませんでした。セレヴィア様。」

 マクスの声は、ダリアンに対してのものとはまた違う、低く、丁寧な敬意が滲んでいた。

 その態度の変化に導かれるように、振り返るダリアンの瞳は、月を染め上げたような銀髪の煌めきが反射し、そして次に、その持ち主であるダークエルフの女性を映しだした。

「そう──。後悔はありませんか?」

 その言葉は問いでありながら、すでに返答を見通しているようでもあった。ただ、選択すること自体に意味を見出している。そんな、定められた審判のような威厳があった。

 ダリアンは、言葉もなく、ただ頷いた。

「ではこちらへ──」

 振り返ることなく、セレヴィアはゆっくりと歩き出す。その背中は銀色に照らされ、魔族でありながら、女神のように輝く。それは、そう、ちょうどこの書館に入る間に見た死神と、対をなす神聖な存在のようだった。

 ダリアンはその後を静かに追う。足音すらも吸い込まれるような静寂の中で、彼の中にわずかに残る未練が、積まれる闇の書の中に溶けていくようだった。

 ネクロハイヴ禁術書館の出口に差しかかると、セレヴィアは一度だけ振り返り、わずかに口元を綻ばせる。


「ダリアン・アザール・ノクシガー様。またのお越しをお待ちしております。」


 それ自体は、他愛のない言葉であるにもかかわらず、彼女の口から発せられたというだけで、ダリアンに予言めいた恐怖を潜めた。


 ダリアンは、朽ちた城に戻ってきた。

 世界は何事もなく元のまま、書館での出来事は、その書に染み込んだ鉄錆の匂いと共に、跡形もなくかき消えていた。

 ただ一つ、ダリアンが戻ってきた場所は、魔族の城には異質な場所だった。

 ──それは、礼拝堂だった。

 祭壇に神はいない。整然と並ぶのは死者の台座、ただそれだけ。祈りも嘆きも存在しない。

 魔族は墓を作らない。肉体が朽ちても、魂があり続け、悠久の時を架け、いつかは相応しい肉体を手に入れて蘇る。ゆえに朽ちた死体に意味はなく、祀る場所も必要ない。

 なのに、あるこの礼拝堂は、その目的も分からない、生と死に取り残された場所だった。


 そしてもう一つ、礼拝堂には影があった。それは──、死神だった。


 死を誘う者が死を弔うその姿は、ダリアンに他の全てを霧散させた。それは、ダリアンの時間を巻き戻す。巡り巡って繰り返す。しかし、その再会は、最初とは違う答えに辿り着く。

「俺を、待っていたのか?」

 会話が成り立つかすら分からぬ相手に、口を突いて出た言葉は、本心とは全くの裏返しだった。

 そして、期待するべきではない死神からの返答は、悪魔に赦しを与えるものだった。

「待つ──、のを望んだのは、貴方ではないですか。」

「人の御魂が移ろいやすいのは、地に縛られることなく、天へと帰り、そして、また返るため。」

「墓とは、死者のためでなく、返るために造られる。」


 ダリアンのすべてを見透かす透明な声は、それは、どんな禁術でも叶えられない魔法をかけた。


「──、ここで、待ってもいいのか?」

 死者のための涙が祭壇を濡らす。その一滴はダリアンに、偽りのない生を望ませる。

「ええ、そのために、あるのです。」

 死神は、ダリアンの望みに応え、生を与えた。


 ──その日より、ネクロハイヴ禁術書館に、新たな席が加えられた──

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