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五話

 その瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。十年ほど前の出来事――。


「ベラドンナも来月で六歳になるわね。誕生日の贈り物、何か欲しいものはあるかしら?」

「欲しいものですか?」

「なんでもいいから、欲しいものを言ってごらん。我がアメシスト公爵家で手に入らないものはそうそうないからな」

「なんでも……うーん?」


 両親から誕生日の贈り物は何がいいかと問われ、わたくしは頭をひねって考え込んだ。

 ふと、思い出したことをお願いしてみる。


「あっ……わたくし、仔犬が欲しいです! 犬を飼いたいです!!」


 可愛い仔犬を連れ歩いている人を見て、羨ましいなと思っていたのだ。


「あら、そういえば最近、犬を飼うのが流行っていましたね。連れ歩いている貴族をよく見かけますわ」

「なるほど、犬か。貴族の嗜みとしてはいいかもしれないな。よし、わかった。考えておこう」

「わぁ、嬉しいです! ありがとうございます!」


 犬を飼えることになって、楽しみで仕方なかった。


 どんな子がわたくしのところに来てくれるのだろうと想像する。

 フワフワだったり、モコモコだったり、それともクルンクルンだったりするのかしら。

 そんなことを考えては指折り数え、心待ちにしていたのだ。


 誕生日はまだ少し先のことだったけど、公爵家お抱えの庭師のところで仔犬が生まれたと聞いては、居ても立ってもいられなくなって、ちょっと強引にお願いして見せてもらいに行った。


「うわぁ、なんて可愛いらしいの」


 ちっちゃくて、まんまるで、ぷくぷくで、ころころで。

 あまりの愛らしさにとろけてしまいそうな心地で、じゃれ合って遊ぶ仔犬たちを夢中になって眺めていた。


「目が開いて動き回るようになったんで、本当にやんちゃ盛りですよ。見ている分には、このくらいか一番可愛いんですがね。ほほほ」


 じゃれ合う仔犬たちの中で、少し変わった姿の、ひときわ小さい仔犬に目が留まる。


「あら? この子……この子だけ、他の子と違うのね。耳が片方だけ折れてる……体もなんだか小さいみたい」

「ああ、その子は最後に生まれた子で発育が悪く、生まれつきの耳で治らないんですよ。顔もなかなかに不細工なもんで、きっと貰い手はつかんでしょうね」


 その子は体が小さいから他の仔犬に押し負けてしまうけど、それでも元気いっぱいに遊んでいた。


 眺めていれば、尻尾を振りながらちょこちょことわたくしのところまで駆けて来る。

 手を差し出すと、嬉しそうに頭を摺り付けてきた。

 そっと抱き上げてよく見ると、片耳が折れていて顔には不規則なブチ模様があり、片目の周りにはハートマークみたいな柄が入っていた。

 そのユニークな見た目が、わたくしはとても可愛いと思ったのだ。


「ブサイクだなんて、そんなことない。こんなに愛らしくて可愛い子、他にいないわ……」


 可愛いと褒められたのが嬉しかったのか、その仔犬は鼻を鳴らし、わたくしの頬をペロペロと舐めてきた。

 くすぐったくてクスクスと笑い、その子をぎゅうっと抱きしめる。


 温かくて柔らかくて、トクトクと鼓動が伝わってくる。

 自分よりも小さなその命が、わたくしは愛おしいと感じたのだ。


「この子がいい……わたくしがこの子を飼います!」

「えっ! こんな不細工じゃ、旦那さまがお許しになりませんよ?」


 庭師は驚いて止めようとしたが、どうしてもと一生懸命にお願いした。


「そんなことないわ。誕生日に仔犬を飼ってもいいって言ってくれましたもの」

「そ、そうなんですか? ……でも、この見た目では……」

「わたくしはこの子がいいの! 大事にして大切に育てるから、だからお願い! ね? いいでしょう?」


 仔犬を離すまいと抱きしめ、潤んだ目で見上げると、庭師は困り果てたようにため息をついた。


「はぁ……お嬢さまがそこまでおっしゃるなら、旦那さまにお聞きしてはみますが、お許しにはならないと思いますよ……」


 それから、わたくしは邸宅に帰って、母に仔犬のことを話したのだった。

 嬉々として仔犬の可愛い特徴を説明すると、母の表情はしだいに曇っていき、なぜだかわからなかったけれど、どんどん不安な気持ちになっていった。

 父が帰宅してから、両親が庭師の舎宅へと出向いたと召使たちから聞き、わたくしは心配になってこっそりと様子を見に行ったのだ。


 すると、庭師の舎宅から父の怒鳴り声が聞こえてきた。


「本来なら廃棄されるような奇形ではないか! なんて滑稽な醜い姿をしているんだ……見ているだけで不愉快になる!!」


 庭師は激高する父にたじろぎつつも、落ち着かせようと宥める。


「だ、旦那さま、申し訳ございません……あの、ですが、お嬢さまはこの仔犬を大層気に入っておられて――」

「私の娘がそんな醜い犬を連れ歩いて、他の貴族たちから笑い者にでもされたら、どう責任を取ってくれるんだ?!」


 庭師の予想通り、完璧主義で外見至上主義な公爵家では、仔犬の個性的な姿は受け入れられなかったのだ。


「そんな出来損ないの奇形、さっさと処分してしまえ!!」


 隠れて話を聞いていたわたくしは、父の剣幕と不穏な雰囲気に動揺し、思わず出ていった。


「できそこない……? しょぶん……? しょぶんってなんですか?」

「!?」


 わたくしの声に振り返った両親は、とても驚いた顔をしていた。


「ベラドンナ、いつからそこに……?」

「お、お嬢さま……」


 言葉の意味がよくわからなかったけれど、両親の反応から良くないことなのだろうと察し、不安で堪らなかった。

 わたくしはあの仔犬に駆け寄り、ひしと抱きしめる。


「……この子を、どうするんですか? この子は、どうなるんですか?」


 父を見上げれば、苦虫を噛み潰したような顔で怒鳴る。


「そんな醜い犬は、貴族に相応しくない! 我々、アメシスト公爵家の者は王族に次ぐ高貴な貴人なのだから、模範となる貴族らしい振る舞いをしなければならない! ゆえに、貴族らしい血統の美しい犬を――」

「貴族らしくなければならないのなら、貴族らしくないわたくしも……しょぶんされてしまうのですか?」


 まっすぐに見上げ、疑問を投げかけた。


「なっ、何を言っているんだ、ベラドンナ!」

「馬鹿なことを言うんじゃありません!!」


 狼狽える両親へ、わたくしは目に涙を浮かべ、必死に懇願する。


「お願いです……わたくし、いい子にします……貴族らしくしますから……だから……だから、この子をしょぶんしないでください……この子に酷いことしないでください……お願いします……っ……」


 涙が頬を伝って落ちる。

 ぽろぽろと次から次へとこぼれ落ちていく。


 『しょぶん』が恐ろしいことのような気がしたのだ。

 もう二度とこの子に会えなくなる、そんな気がして、息が詰まって苦しくて、嗚咽をもらして泣きじゃくった。


「この子に、酷いことしないで……っ……うぅ……」

「っ!!」


 両親は絶句し、言葉にならないようだった。


「……っ……なんてことだ。こんなつもりじゃなかった……はぁ」

「ベラドンナ、あなた……」


 困惑した表情でため息をつき、両親はわたくしの前に膝をついて言った。


「すまない……お前を悲しませるつもりはなかったんだ。そんなに、その仔犬がいいなら、飼ってもいい。酷いこともしない。だから、泣かないでくれ、ベラドンナ」

「あなたのことを心配して、言い過ぎてしまっただけなのよ。ベラドンナ、泣かないでちょうだい。本当に処分するなんて、そんな酷いことしないわ」


 こぼれる涙を拭いながら、両親の顔色を窺う。


「本当、ですか……?」


 両親はわたくしの手を取り、頷いて答える。


「ああ、もちろん」

「本当よ、安心して」


 庭師も、不安げに目を向けるわたくしに微笑み、穏やかな口調で言う。


「お嬢さま……もし、お嬢さまのところで、飼えなくなったとしても、ワシがこの子の面倒をみますから、だから心配しなくて大丈夫ですよ」

「……うん、ありがとう……」

「こんなにお嬢さまに大事に思われて、この子は幸せですな。ほほほ」

「……うん、そうだといいわ……」


 腕の中で無邪気に尻尾を振る仔犬が愛おしくて、そっと抱きすくめた。

 ただ、両親が庭師に目配せをしていた様子から、やはり貴族としては望ましくはないことなのだと、幼心に感じてはいた。


 その後、夜に両親が声をひそめて話しているのを、たまたま聞いてしまった。


「あの子はまだ幼いから、我々の責務や貴族のあり方がまだ理解できていないのです。じきに理解できるようになりますわ」

「社交界にも出ていない子供だから、仕方なくはあるが……貴族の目に触れる機会があれば、嫌でも自覚してくれるだろうか」


 完璧でなくてはならない、美しくなくてはならない。

 貴族の中の貴族である、高貴な身分に相応しい振る舞いを。

 我々は貴族たちの模範であり、憧れの目標として率いていかなければならないのだから――そう教えられてきた。


 だけど、わたくしは完璧じゃない仔犬を可愛いと思う。愛おしいと思ってしまう。


 そんなわたくしは、貴族らしくない。

 貴族としては、きっと恥ずべきことなのだろう。

 それでも、そんなどうしようもない気持ちを抱えていても、わたくしは貴族らしく振る舞わなければならないのだ――そう思っていた。


 それから、誕生日を迎えてしばらく経ったある日。


「ベラドンナ、お前の婚約が決まった」

「わたくしの、こんやく?」

「そう、あなたはこのブリリアント王国の第一王子、アレクシス殿下の婚約者になるのです」


 突然、王子との婚約を告げられた。


「順当にいけば第一王子は王太子となり、お前は王太子妃だ。そして、ゆくゆくは王妃になる。大変に名誉なことだ」

「最も高貴な王族の婚約者になるのですから、その身分に恥じない立派な淑女になるよう努めなさい」

「……はい、わかりました」


 両親に言われるまま、望まれるままに返答する。

 そこに、貴族らしくないわたくしの考えや気持ちは要らないだろうから。


「明日、第一王子のお披露目会で顔合わせすることになった。お前もそのつもりでいなさい」

「アメシスト公爵家の娘として、きちんと挨拶できるようにしておくのですよ」

「……はい、わかりました」


 両親の話では、第一王子のお披露目とあって、王侯貴族が一堂に会するのだそうだ。


 貴族の子女たちが大勢集まる、そんな場所に出向くのは初めてのことで、わたくしはとても緊張していた。

 なにせ、貴族らしくもないわたくしが、最も高貴な王族の婚約者になるのだから。

 僅かな隙も見せてはならない、貴族らしい完璧な振る舞いをしなければならないのだ。


 登城前の馬車の中で、わたくしは束の間の癒しを求め、愛犬に抱きついて話しかけていた。


「ラブ……わたくし、上手くできるかしら? 不安だわ……」


 目元のハートマークが特徴的な愛おしい仔犬に、わたくしは〝ラブ()〟と名付けた。

 ラブは常に明るくて元気いっぱいで、そんなラブが一緒に居てくれるだけで、わたくしは励まされる気持ちになる。

 今も、抱きしめられているのが嬉しいのか、忙しなく尻尾を振って、懸命に鼻先を擦り付けてくる。

 ふんふんと鼻息がくすぐったくて笑ってしまう。


「ふふふ。ラブはいつも元気をくれるわね。ありがとう……」


 お返しにおでこに口づけていれば、入場の手続きを終えた父が戻ってきて、馬車の扉が開く。


「さあ、行こうか。犬を連れてはいけないから、馬車に置いていくんだ」

「はい、わかりました……」


 わたくしが父の手を借りて馬車から降りようとした――その時、遠くで子供たちの笑う声が聞こえ、その声に反応したラブが馬車から飛び出してしまう。


「あっ! ラブ、どこへ行くの?!」

「ベラドンナ、危ないっ!」


 慌てて馬車から飛び降り、ラブを捕まえようとしたけど、父に腕を掴まれて止められた。


「待って! 待って、ラブ!!」


 どんどん駆けて行ってしまう後ろ姿に焦り、わたくしは父の手を振り払い、ラブの後を追いかけていった。

 ラブは子供たちの声のする方へと駆け、屋外のパーティー会場へと入っていく。


 突然の乱入者に驚いた貴族たちが声をあげる。


「きゃっ! なにっ?!」

「何かが足元を駆け抜けたぞ!」

「犬だわ! 犬が迷い込んでいるわ!!」


 わたくしは人混みを掻い潜り、息を切らせてラブを追いかけた。


「はぁ、はぁ……っ……ラブ!」


 ようやくラブが足を止めたのは、パーティー会場の中央、貴族たちの注目を集める場所だった。

 周りを囲う貴族たちが距離をとりつつも、汚物でも見るような嫌な目でラブを睨む。


「……まぁ、なんて醜いのかしら。あんな不細工な犬は見たことがありませんわ」

「まさか、貴族があんな不細工な犬を飼うはずもないし、野良犬がなぜこんなところに紛れ込んだのだ」


 ラブが尻尾を振りながら歩くと、近くにいた貴族の子女が甲高い声で喚く。


「いやぁ! こっち来ないで、気持ち悪い!!」

「しっ、しっ! あっちに行けったら! この不細工犬!!」


 容赦ない罵声の言葉に胸がズキリと痛む。


 ラブはただ純粋に子供たちと遊びたかっただけなのに……。


 ラブの個性的な姿は、やはり貴族たちには受け入れられない、醜いものに映っているのだ。


 見た目が少し変わっているというだけの理由で、わたくしの愛する存在は否定された。


 どうしたって埋まらない溝がある。相容れることのできない価値観。

 貴族らしくないわたくしは――


「近衛兵! 早くあの犬を捕まえろ! 殿下が危ない!!」


 ――取り返しのつかない失態を犯してしまった。

 ラブがある人物の足元に駆け寄り、擦り寄ったのだ。


「っ!?」


 それは、一目でわかる。

 王族然とした、高貴な佇まいの王子。

 わずかな隙もない美しい完璧な容姿、他を圧倒する存在感、貴族の中の貴族。


 足元のラブへと彼が視線を落とす。


『こんな醜い出来損ないの犬など処分してしまえ!』

 そんな言葉が脳裏をよぎり、わたくしは恐怖に震えた。


 お願い、やめて! ラブに酷いことしないで!!

 そう叫びたいのに、身体が強張って過呼吸になり、上手く言葉が出てこない。


「……っ……!」


 ラブは何も悪くない、悪いのはわたくしなの!

 貴族らしくないことをしてしまった、不安だからとラブを連れて来てしまった、わたくしのせいなの!

 だから、お願い! ラブに酷いことしないで!! ラブを処分しないで!!!


 外聞などもうどうでもいい。ラブを助けなければと焦り、駆け寄ろうとする。


「……っ!!」


 しかし、父に見つかり、抱き止められてしまった。


 そうこうしている間にも、彼が足元のラブを抱き上げる。

 ラブを掲げ、顔をまじまじと覗き込んだ彼は呟く。


「お前、本当に不細工だな……」


 それから、表情をやわらげて小さく笑う。


「だけど、愛嬌があって可愛い」


 可愛いと言われてラブは喜び、彼の頬をペロペロと舐めた。

 彼はくすぐったそうに笑い、屈託のない笑顔を見せる。


「おい、こら、舐めるな……あははは。可愛いな、お前……」


 お返しとばかりに、彼はラブのおでこに軽く口づけし、柔らかく微笑んだのだ。


 その優しい笑顔を目にした瞬間――胸の奥で何かが弾け、音を立てて芽生えていく感覚があった。

 まるで初めて世界に色があることを知ったような鮮やかさで、彼の笑顔が瞳に焼き付き、わたくしは一目惚れしてしまったのだ。


 なんて美しいのだろう。

 こんなにも美しい人が存在するなんて信じられない。

 わたくしはただただ、輝くように美しい彼を見つめていた。


 このお方だけは、他の貴族たちと違う。

 最も高貴で美しく完璧であるはずの王子が、わたくしの大切な仔犬を可愛いと言ってくれた。

 わたくしの愛する存在を認めてくれた。慈しんで大事に扱ってくれたのだ。

 それが嬉しくて、嬉しくてどうしようもなくて、胸がいっぱいになって、愛おしさが溢れだしてくる。


 彼の側に控えていた従者が焦った様子で言う。


「殿下、そんな汚い野良犬に触ってはいけません! 早く放り出してください!!」

「何を言う? 汚くなんてないぞ。手入れが行き届いているようだし、この人懐っこさは野良犬ではなく、誰かの愛犬だろう」


 腕に抱いたラブを撫でる彼に、従者は顔を青くして諭す。


「高貴な貴族ともあろう者が、そんな出来損ないの雑種犬を飼うはずがありません。飼うのなら、もっと血統のたしかな美しい犬のはずです」


 言い聞かせるように話す従者へ、彼は腑に落ちないといった表情で問い質す。


「今ある様々な血統の犬も元を辿れば、他と違う特徴を持つ犬を固定化したものだろう。犬も人も多種多様な姿形をしていて当然だ。なんの問題がある?」

「問題と言われましても、それが普通ですし……」


 彼は同様に否定的な反応を示す貴族たちを一瞥し、あっけらかんと言ってのけたのだ。


「普通も悪くはないが、他と違うのもユニークで面白いじゃないか。それに、こいつはとぼけた顔をしているが、頭は良さそうだぞ。悪感情を持つ者には近づかず、まっさきに私のところに来た。人を見る目があるようだ」


 臆面もなくラブを可愛がる彼の堂々とした態度に、貴族たちがざわついて言葉をこぼす。


「……殿下がおっしゃる通り、たしかに愛嬌があるかもしれませんな」

「こうして見ると、個性的なのも案外悪くないかもしれませんね」

「人だけではなく、犬までも惹きつけてしまわれるなんて、さすがは殿下ですわ」


 貴族たちが尊敬し、憧憬する王族。完璧な王子だからこそ、その発言に力があるのだと、幼いながらにそう理解した。


 このお方の側に居たい。彼の笑顔をもっと見たい。

 彼のように、弱いものにも寄り添える、優しい人になりたい。

 人を導き率いることのできる、美しい人になりたい。

 それが、わたくしの心に強く刻まれた願いだった。


「殿下はまだ齢幼いながら、大変博識でいらっしゃるようだ。見識が広くあられるようで、安心いたしました――」


 父が彼へと声をかけて近づいていくと、警戒するように彼の表情が硬くなっていく。


「アメシスト卿……」

「その仔犬は殿下の婚約者となる、我が娘の愛犬でして、大事にならなくて本当に良かった……此度は、ご挨拶をさせていただきたく、娘を連れて参りました」


 父に伴われ、わたくしは前へと出て行き、彼へカーテシーして待機する。

 身分の高い者から名乗るのが礼儀のため、彼はラブを下ろし、姿勢を正して毅然とした態度で名乗った。


「私がブリリアント王国の第一王子、アレクシスだ」

「お初にお目にかかります。アメシスト公爵家の一女、ベラドンナと申します。殿下の婚約者として拝命いただき、大変光栄でございます」


 挨拶をして顔を上げ、わたくしは彼に微笑みかけた。

 彼は不愉快そうにその美しい顔を歪めて呟く。


「またか……仔犬を使ってまで私の気を引こうとは、ずいぶん手の込んだまねをする……」


 唐突に不機嫌になった理由はわからなかったけど、ラブを可愛いと言ってくれたのだから、きっと仲良くなれるはず。そう思っていた。

 屈んで手を広げれば、ラブがわたくしの方へと駆け寄ってくる。ぎゅうっと抱きしめて頬擦りし、抱きかかえる。

 また、彼にラブを撫でてもらいたい。その一心で、わたくしは彼に近づいていき、手を伸ばす。


「あの、アレクシスさま――」


 彼へと伸ばした手は、瞬時に叩き落とされた。


「――っ!?」

「気安く私に触るなっ! 名を呼ぶことも許してはいない!!」


 突然の怒声と剣幕に困惑しつつ、慌てて謝罪する。


「し、失礼いたしました」

「これは政治的な理由でしかたなく結ばれた婚約だ。本当なら婚約者など要らなかった。女に触られたくなどない、近づかれたくもない……」


 吐き捨てるようにして言った彼は、大きなため息を吐き、続いてはっきりと明言した。


「必要最低限でしか関わるつもりはない。私に何かを期待するのはやめろ。応えることはない」

「……はい。わかりました、殿下」


 俯いてそう返答することしかできなかった。


 馴れ馴れしく彼に触れようとしてしまったがためにわたくしは嫌われ、避けられるようになってしまったのだ――。


 ◇


 ――――それが、わたくしと彼の初対面での出来事。

 乙女ゲームでは語られることのなかった裏のエピソード。


 調合室で追加のTS薬を作り終えたわたくしは、温室の腰掛窓にもたれ、夜空に浮かぶ月を見上げて物思いに耽っていた。


 一目惚れしたあの時から、わたくしはずっと彼を想い続けている。

 彼が懸想してくる女性に辛辣なのは、魅力体質の影響で女性が色恋に狂わされないようにと、考慮してのことだと途中から気づいた。

 陰ながらずっと彼を見ていたのだから、誰よりもよく理解している。


 彼の体質の影響で、歪んだ愛や執着に狂ってしまった女性たち。

 罪を犯して僻地へと追放されてしまった彼女たちにすら、苦しい生活をしなくて済むように、国中がさらに豊かに暮らしやすくなるようにと、彼は常に苦心している。

 慈愛深く国民を守る責任感と正義感の強い彼は、理想の王族然とした尊いお方なのだ。


 いくら冷徹な態度をとられていたとしても、本来の彼はとても優しい、思いやりのあるお方だと知っていたから。

 蛇蝎のごとく嫌われ、避けられていたとしても、そんな素晴らしいお方に憧憬し、恋焦がれずにはいられなかった。

 悪役令嬢に転生しているとわかった今でも、彼への恋心が消えないのだから、わたくしはやはり悪役令嬢(ベラドンナ)なのだと実感する。


 でも、彼を傷つけるものは誰であっても許せない。

 たとえ、それが自分自身であったとしても。


 わたくしの女としての激情(恋慕)が彼を傷つけてしまうのならば、そんな感情(もの)は消してしまおう。


 女の身体(ベラドンナ)では魅了体質の影響を受け、色恋に狂って彼を傷つけてしまう。

 それならば、男の身体(ベラノクス)になって陰日向に彼を支えればいい。


 誰よりも彼を想っている、理解しているのは、このわたくしなのだから。

 ゲーム知識で彼の本当の幸せを知っているのは、わたくししかいないのだから。


 彼はわたくしにとって眩しく輝く太陽。

 その太陽の光りを受け、姿を変える月のように、わたくしも姿を変えてみせよう。

 時に姿が見えずとも、そこにはたしかにある月のように、彼を見守る静かな夜となるのだ。


 夜空に浮かぶ欠けた月を見上げ、わたくしは誓う。


「わたくしはベラノクス(美しき夜)として、良き友になりましょう。そして、あなたを必ず幸せにしてみせる」


 ヒロインと結ばれる最高のハッピーエンドへ、最高のエンディングへと導いていこう――。


 ◆

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