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6. 師弟関係



「——師匠」


声をかけられるやいなユリウスの腕が伸び、後ろから抱きすくめられるような形で引き戻される。

不意打ちのような動きに驚き身をこわばらせていると、不意に頭上からユリウスの声が甘く響いた。


「そこ、床が薄くなってますよ」


視線を戻すと、足元の鉄板の一部が赤茶けて錆びついていることに気付く。

見るからに劣化しており、もし全体重をかけていればあっさりと崩落していただろう。


もっとも仮にこのまま進んでいたとしても、アデルほどの技量があれば、床に足を置いた瞬間に異変に気付き、跳躍で難を逃れることもできるだろうが。


「……」


不満げな表情でなにかを言いたそうにユリウスを見上げるアデルだが、当の本人は事もなさげに飄々としていた。



体調を崩した日から数日が経った。

あの日以来、ユリウスの距離が妙に近い——気がする。以前から遠慮のない弟子だったが、最近は特に拍車がかかっているようだ。

それだけなら無視を決め込めば済む話だが、クロウを手入れするアデルの隣に座り、肩が振れるほど近付いてきた時はさすがに注意した。


「……おい、刃物を研いでる最中に顔を寄せてくるな。手元が狂ったら危ないだろ」

「えー、別にいいじゃないですか。師匠の手さばきを見て盗むのも弟子の仕事ですよ」


悪びれもせずに笑いながら、ユリウスはさらに身を乗り出す。

居心地の悪さに思わずアデルは顔をしかめた。


「お前の場合、度が過ぎるんだよ。大体なんで最近そんなに近いんだ」

「師匠こそ、なにをそんなに過剰反応してるんですか」


ギクッ、とアデルの手が止まった。

それに目ざとく気付いたユリウスは、途端に黒い笑みを浮かべながらわざとらしく声を上げた。


「あれー、師匠もしかして、ついに俺のことを意識しちゃいました?」

「黙れ」

「俺がちょっと近づいただけで肩が跳ねますし、覗き込むとすぐ視線を逸らしますし——」

「調子に乗るな……わっ!?」


唐突にアデルの肩を抱き寄せ、顎をくいっと持ち上げた。

身体が密着し、アデルの表情がこわばる。


「もし俺がこうやって距離を詰めたら——師匠どんな顔をするんですかねぇ」


緑の視線が甘く絡み、いい知れぬ動悸が込み上げた。


「——っ、ユリウス!!」


ついに堪え切れなくなり感情のまま叫ぶと、ユリウスはあっさりと身を解放した。

肩で息をしながら睨みつけるアデルを見てにやりと口角を上げるユリウスの表情がどこか意地悪い。


「……ふざけるのも大概にしろ。いいか、あくまでもお前は弟子で私は師匠だ。私を超えて浮かれる気持ちはわかるが、師弟間の礼儀はちゃんと守れ」


動揺を悟られまいと腹に力を込め、気を引き締めようとするが、指先がわずかに震えているのを感じる。


——アデルは、もともと異性に対する免疫がほとんどない。

それどころか男性という存在に対して無意識に警戒心を抱いている節がある。


ギルドで共に過ごす仲間たちに対してこそ表面上はそつなく振る舞っているものの、必要以上に踏み込まれることを極端に嫌っていた。

それは幼少期、心を許せる存在もないまま他人の家に預けられ、自尊心を踏みにじられ続けてきた名残からだろう。

誰にも頼らず、寄りかかることもせず、心も許さず、ひっそりと生きる——それが自分の心を守れる唯一の手段だった。

当然ながら恋愛ごとにも縁がなかった。

だからこそ、ユリウスのように馴れ馴れしく距離を詰めてくる存在は異質だった。


それに加えて——ユリウスに抱えられながら地上へ戻る羽目になった、数日前の出来事が未だに頭を離れない。

彼が不用意に近付いてくるたびに、アデルの頭の中ではあの時の記憶が蘇る。

恐怖とも動揺ともつかない得体の知れない感情が胸の奥をざわつかせるのだった。


「師弟……ねぇ」


ユリウスの低い声が響いた。

わずかに上げた顔には、いつもの飄々とした笑みも、冗談めいた色もない。

二人の間にピリッと緊張感が走る——けれど。

弟子の威圧如きで怯むほど、アデルもやわな心の持ち主ではなかった。


「ああ。それ以上でも以下でもない」


努めて冷静な声で返す。立場は、あくまで”師”と”弟子”。それがアデルの譲れない線だった。

ユリウスは口角を上げた。笑っているのに、目は全く笑っていない。


「本当にそう思っているのであれば、師匠も相当おめでたい人ですねぇ」

「なにが言いたい」

「俺があなたのことを心から師と仰いでいるとでも?」


ユリウスの挑発とも取れる態度に、アデルの拳がわずかに震える——が。

普段であれば見過ごすことのできない発言だが、ここで感情的になれば余計につけ込まれるだけだ。

込み上げる怒りを堪え、静かに呑み込んだ。


「お前が腹の底でどう思おうが、どちらでも構わない。仮にそうだとしても、それは純粋に私の力不足が招いた結果だ。ただ、事実として私は師であり、弟子を指導する立場にある、それだけだ」


話は以上だ、と言わんばかりに刃を収め踵を返すアデルに、ユリウスはそれ以上言葉を発することもなく静かに佇んだ。

遠く上層の方から定時を告げる汽笛が不気味に響く。



***



(むしゃくしゃする)


苛立ちを募らせながらユリウスは家路に向かう。

顔にこそ出ていないが、普段よりも僅かに強い足音が彼の荒んだ心を反映している。

思い出すだけでも余計に腹が立ち、思わず舌打ちが零れた。


(師弟……ねぇ)


アデルが恋愛ごとに対して明るい方ではない、ということには気付いていた。

けれど、まさかあそこまで鈍感だとは思いもよらなかった。

——いや、鈍感なだけで済めばよかったが、厄介なことに彼女の場合、どれだけ距離を詰めようと、どれだけ手を伸ばそうと、「師弟関係」を持ち出して線を引く。

まるで、それで全て片付くとでも言わんばかりに。


『俺があなたのことを心から師と仰いでいるとでも?』


——本当は、あんな風に言うつもりはなかった。

ただ、あまりにも彼女が鈍過ぎるから、つい、売り言葉に買い言葉でキツい言い方になってしまったのだ。

師弟関係など、もうとっくに——ずっと前から、そんなものは関係なくなっているというのに。


「……本当に、なにも気付いてないんだな、あの人は」


——そう、アデルはユリウスの好意に一切気付かない。

普段は鬱陶しがられる距離感も、アデルが無理をしないように気を配っているからに他ならない。

冗談っぽく振る舞って見せるのでさえ、必要以上に不安を煽らないようにした結果だ。

奥底にある恐怖心が拭えないのであれば尚更のこと、時間をかけてでも少しずつ慣れてもらうつもりでいたのに、それを適当にあしらわれたらもう、伝わるものも伝わらないではないか。


ナルコの店で「ユリウスが遠くに行ってしまう」と嘆いていたと知った時、淡い期待が持ち上がった。

ここ最近のアデルがどことなくユリウスを意識しているような素振りを見せるものだから、余計に舞い上がってしまった。

無理もないだろう、今まで一度も進展と呼べるような変化が見られなかったのだから。

なのに一歩踏み込んだ瞬間、強い拒絶とともに「師弟だから」と切り捨てられてしまった。それでどう納得できるといえようか。


「……師弟関係ねぇ」


こみ上げる苛立ちを振り払うように、もう一度舌打ちする。酒場に寄ろうかとも考えたが、酒を飲んだところで良い気分になれる気が全くしない。

なにより、こんな感情を引きずったまま、アデルとうっかり鉢合わせでもしてしまう方がよっぽど心臓に悪い。


はぁ、と深くため息を吐きながら、ユリウスは髪に纏わり付く排気煙を乱雑に掻き上げる。

薄暗い下層の街路には、夜の気配がじわじわと広がっていた。




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