5. 不器用
——無能なお前を育ててやってるだけ感謝しろ。
そう言われるたびに、悲しみと不甲斐なさで心が塞がった。
誰にも気付かれないよう、息を潜めながら生きることを覚えたのは、もう随分と前のこと。
幼い頃に両親を亡くしたアデルは、母方の親戚に引き取られた。
けれど、そこで待っていたのは、外からは見えない言葉の暴力だった。
——お前さえいなければ。
そんな言葉を何度も背中で聞いた。親戚の子どもと比べられ、何をやっても劣っていると罵られた。勉強も、力仕事も、家事でさえも、どれひとつ「できた」と褒められることはなかった。
いつの日かアデルは、誰の手も借りずに生きられるようになりたい、誰の迷惑にもならない存在になりたい……そう強く願うようになった。
そして十二歳になったある日、アデルはなにも言わず家を出た。
持ち物は着替えと、密かに親の形見を売って手にした小銭だけ。行き先などなかった。
ただ、もうこれ以上、あの家に「いさせてもらう」ことに耐えられなかったのだ——
外の薄明かりが窓際を明るく染める頃、アデルはまどろみの中からゆっくりと意識を浮上させた。
胸の不快感が酷い。昔の夢を見た後はいつも憂鬱な気分に苛まれる。
もう終わったことだと心から割り切れたらどんなに楽だろうと、アデルはため息を吐きながら上体に力を込めた。
「——ん、あれ……」
まばたきを繰り返しながら、重たい頭を枕から離す。
身体の節々に違和感がある。とくに背中、そして眼球の奥がじんわりと痛い。
(なんかだるい、頭が重い、気分が冴えない……)
風邪でもひいたのだろうか。そう思いながら、額に手を当ててみる。
熱は……なさそうだ。
やれやれ、とアデルは肩を竦めた。
この程度であれば休むまでもない。が、ただでさえ弟子に業績を抜かれた分の遅れを取り戻さなければならないというのに、こんなところで体調を崩すとは情けない、と落胆する。
(最近たるんでるな。もっと気を引き締めなければ)
気だるさの残る体をなんとか持ち上げ、壁にかかっている仕事着に手をかけた。
「いやいやいや、なんで仕事に出て来てるんですか」
ギルドの待ち合い広場で顔を合わせるなり、ユリウスは顔を引きつらせた。
目ざとくアデルの様子を見抜いたらしく、呆れたように大きく息を吐く。
「なにがだ?」
とぼけたように返すアデルだが、いつもより低く掠れた声しか出ない。
「なにがだ、じゃないですよ。絶対に今、体調良くないでしょ。顔色悪すぎますって」
「おい……あまり声を張り上げるな。頭に響くだろ」
容赦ない言葉が目の奥をぐわんと振るわせ、アデルは渋い顔で眉間を指で押さえる。
それを見たユリウスが「ほらー、もう悪化してるじゃないですか」と肩を竦めた。
「まぁ、少ししたらいつもの調子を戻すだろう」
「だから、なにかあってからでは遅いんです」
「大袈裟なやつだな。別に熱があるわけでもあるまいし」
「その油断が命取りになるんですよ。師匠の分の仕事も俺がやっておくので、今日のところは大人しく早退してください」
「は? なんでお前に指図されなければならないんだ」
アデルは顔をしかめ、ユリウスを睨みつけた。
目の前の弟子は本気で心配しているのだろうが、今のアデルにとって、その気遣いが逆に腹立たしい。
「指図って……そんなつもりはありませんよ。俺はただ、師匠に無理をしてほしくないだけです」
「そうやって、私が休んでいる間にまた業績を抜かしてやろうという魂胆だろ」
「なんでそうなるんですか」
呆れたように眉を下げるユリウスに、アデルは余計に苛立ちを覚えた。
——なにも知らないくせに。
どれほど必死の思いでこの場所を獲得したと思っている。
放浪の末にたどり着いたこの場所で、がむしゃらに突き進んで、血の滲むような訓練を重ね、何度も限界を超えて、ようやく掴んだ上級隊員という地位を。
戦い方も、武器の扱いも、全てが後れを取っていたあの頃を。
自分の不器用さが嫌というほど目に付いて、人の三倍は努力しなければ追いつけないと悟った時の絶望を。
どれほど悔しい思いをしたことか。何度どろどろに恥をかいてきたことか。
知らないくせに、休めなどと簡単に言ってくれるな。
『——お前は本当に無能だな』
夢で見た光景が脳裏をよぎり、心臓がすっと冷たくなる。
額に影を浮かべながら、アデルは声を落とした。
「いいか、この場では私の方が立場が上だ。師が決めたことにいちいち口出しするな」
アデルの内側にあるものを敏感に感じ取ったのか、ユリウスは、ふと真剣な目を向ける。
「なにかあったんですか」
「……別に、なにもない。行くぞ」
短く返し、アデルは依頼が貼り出されている掲示板のほうへと歩き出す。
ユリウスはしばらくその後ろ姿を見つめていたが、やがて小さく息をつき、追いかけるように歩を進めた。
***
「——やっぱり今日くらい休みませんか?」
「ただでさえ人手不足なのに、こんなことで休むわけにはいかないだろ」
体調不良を引きずるアデルは、こめかみを押さえながら歩き続ける。
ユリウスはため息をつきながら何度目かの説得を試みるが、それでもアデルはそう簡単に折れてくれなかった。
パイプを伝い、二人はゆっくりと地底へ降りていく。上層から漏れる蒸気のせいで、視界は霞んでいた。
遠くで汽笛が鳴り響き、鉄と油の匂いが鼻を掠める。
足元のパイプは湿気を帯びており、不意に踏み外せば転落しかねない。
それでも、アデルは迷いなく進んでいった。
「師匠……どうしても行くんですか?」
「当たり前だ」
「はぁ……わかりました。でも、絶対に無理しないこと。これが条件です」
「わかってる」
地底は、地上とは異なる独特な空気が流れている。
上層の街灯すら届かず、そこかしこに設置された結晶ランプの灯りだけが頼りだった。
壁一面には無数のパイプが張り巡らされており、蒸気が漏れ出し、時折鋭い音を立てる。
「……気を引き締めろよ」
アデルの言葉に、ユリウスは小さく息を吐く。
「はいはい、師匠こそ無理しないでくださいね」
「言われなくても——」
その瞬間、背後の鉄壁が轟音を立てて弾けた。
二人は一瞬で臨戦態勢を取る。白煙の向こうで、黒い影が蠢いていた。
——絶対に無理しないこと。
中型の汽化獣が群れを成し、一斉にアデルとユリウスに飛び掛かった。
アデルはいつもの機敏な動きで汽化獣を次々と仕留めていく。その動きは不調を微塵も感じさせない。
向かってくる汽化獣を薙ぎ倒し、振り向きざまに切り付け、左右からの攻撃を受け交わし、舞い踊るように戦場を駆け抜けた。
中型の群れに遭遇したのであれば、近くに大型の汽化獣がいる可能性は限りなく低い。
数は多少多いが、普段通りに対処できれば問題ない……はずだ。
ズキリ、とこめかみに鈍痛が走る。視界が霞む。
だが、その程度で根を上げるほど生半可な覚悟で隊員をやっているわけではない。
自らの手で地位を切り拓き、死守し続ける——それは、アデルにとっての”自分の存在証明”でもあるのだから。
(仮にもしここで命を落とすようなことがあれば、それは私の力量がそこまでだというだけだ)
汽化獣の攻撃を紙一重で交わしながらアデルは口角を歪めた。
体の異変を意識の底に押し込み、まるで呪文のように思考を繰り返す。
(大丈夫、問題ない、まだ動ける、まだやれる)
そう言い聞かせながら、いつも通りに振る舞おうと必死に刃を振るった——。
クロウの刃が蒸気を切り裂き、黒い煙が弧を描きながら宙へと舞った。
その姿は、いつもの戦いと何も変わらないように見えた——傍から見れば、の話だ。
ユリウスの目は誤魔化せなかった。
確かにアデルの動きは速い。だが、微妙にいつもと違う。
切り返しがほんの僅かに遅れる。狙いが甘くなる瞬間がある。そして何より、呼吸が荒い。
「……師匠」
ユリウスは最後の敵を薙ぎ払いながらアデルにつかつかと近付く。
「なに?」
「戻りますよ」
「は? 何言って——」
アデルが言い終わる前にユリウスは彼女の手首を掴み、後ろに引いた。
「っ!?」
次の瞬間、すぐ真横を汽化獣の鋭い爪が掠めた。
即座にユリウスが切り付け、汽化獣はパイプの屑と化す。どうやら仕留め損ねた個体が潜んでいたらしい。
あと一瞬反応が遅ければ、アデルの肩に深い傷を負わせていただろう。
「今の、無理してないって言えます?」
ユリウスは掴んだ手を離さないまま低く呟いた。
アデルは歯を食いしばる。確かに今のは危なかった。けれど、自分はまだ動ける——そう言いかけたところで、ユリウスの真剣な目に気付いた。
「さっきのもそうです。少しずつ、ズレてきてる」
「……」
「もう一度言います。戻りますよ」
同じ言葉を、今度は少し強い口調で繰り返す。
それでも渋るアデルにユリウスはため息をつくと、腕を引いたまま退路を辿り始めた。
「待て、まだ——」
「これ以上無理するようなら、こっちにも考えがありますけど?」
ユリウスの声は終始穏やかだったが、その奥に潜む静かな怒りを感じて、アデルは思わず口を閉じる。
(……こいつ、本気だ)
背筋に恐怖が走る。
これ以上逆らえば、間違いなく何かしらの報復を受けるだろう。しかも、恐らくかなり厄介な形で。
アデルはしばらく沈黙した後、観念したように息を吐く。
「わかった、戻る……うおっ!?」
しぶしぶ頷いた瞬間、ふわりと体が持ち上がった——ユリウスに抱き抱えられたのだ。
「おいこら離せっ! 私はまだ歩けるぞ!」
「上層にたどり着くまではこのままです。無理した罰だと思って諦めてください」
「なっ……ちゃんと戻るって言ったよなぁ!?」
「判断が遅すぎるんですよ」
じっと睨まれ、アデルはうぐっ……と口をつぐむ。
彼の言葉には珍しく一切の茶化しがなかった。
ユリウスは大きく息をつくと、アデルの頭に額をコツンと寄せる。
「……もうちょっと自分を大事にしてくださいよ」
その言葉に、アデルは何も返せなかった。