4. 二日酔いの日
朝の光が差し込む部屋の中、アデルは布団の中で小さく丸まっていた。
頭はガンガンと響き、喉はカラカラ。そして体の奥からこみ上げる猛烈な後悔が、胃の不快感とともに襲ってくる。
(やらかした……)
アデルは頭を抱えた。
昨夜の記憶は断片的だが、最悪なことに——酒に溺れ、醜態を晒し、挙句の果てには迎えにきたユリウスに背負われて帰ったことだけはしっかり覚えている。
しかも机の上にはご丁寧に家の鍵と『師匠へ。他人に鍵を渡す時はもう少し慎重になってください。無防備すぎますよ』と書かれた手紙……もとい注意書きが置かれていた。
(なにが怖いって、字面から弟子の感情が一切読めないところなんだよなぁ!)
ずうぅん……と胃が重たくなるのは二日酔いのせいか、それとも弟子の反応が気になるせいか。
(絶対からかわれる……いや、怒られるか……?)
なんにせよ、ユリウスに多大な迷惑をかけてしまったことだけは明白だ。
まずは謝罪せねば、とアデルは覚悟を決めて部屋を出た。
「……昨日は、すまなかった」
ギルドでユリウスの姿を見つけるなり、アデルは神妙な面持ちで声をかけた。
一方ユリウスはというと、ギルドの椅子に悠々と腰を掛けて朝の紅茶を楽しんでいた。その穏やかな態度が逆に怖い。
「へえ、師匠が俺に謝るなんて珍しいですねぇ。昨日はよーく眠れましたか?」
すかさず意地悪そうに口角を上げるユリウスに、アデルの肩がびくびくと震える。
「本当に申し訳ない……弟子に醜態を晒すなんて、師匠失格だ……」
「えぇ、確かに見事な醜態でしたね。ナルコさんから聞きましたよ。『弟子に追い抜かれるなんてぇぇ!』って泣き叫んだんですってね」
「やめろぉぉぉぉ!!」
アデルは叫びながら頭を抱えた。
「思い出したくない……! いや、思い出させないでくれ……!!」
「いやいや、俺も大変だったんですよ? 重いわ酒臭いわ、しかも背負っている途中で肩によだれかかれるし……」
「わ、悪かったってばあぁ……!」
顔を赤くしながら悶えるアデルの様子にユリウスはくすりと笑う。
「いやぁ、今日なんだか師匠が良い反応するから可愛く見えてきました。いつもは絶対に弱味とか見せてくれないんだもん」
「……あまり調子に乗るなよ」
「えー、俺にそんな態度取っていいと思っているんですか? ナルコさんから聞いた師匠のあーんなことやこーんな姿、いっぱい暴露しちゃおうかなぁ」
「うわぁぁぁぁ……ナルコの裏切り者おぉおぉ!!」
今度は青ざめながら、ガクッと肩を落とした。
これ以上なにを言っても余計にからかわれる未来しか見えない。
「私は……私はもう酒を断つ……!!」
「どうせまた飲みますって」
「ぐっ……」
決意を口にするも即座に切り捨てられ、アデルはなにも言えなくなる。
意気消沈する師匠を前に、ユリウスは肩をすくめながら微笑んだ。
「まあ、別に気にしてませんよ」
「……え?」
「師匠も人間なんですし、たまには弱音を吐いてもいいと思いますよ。俺の前では言えないこともあったでしょうし」
アデルは目を瞬かせた。
「お前……」
「ただし」
ユリウスはニヤリと笑い、指を一本立てた。
「次は俺も飲みに誘ってくださいね。師匠だけずるいですから」
「……ああ、もう! お前は本当に……!!」
アデルは頭を掻きむしりながら、それでもどこか安堵するように、ユリウスの言葉を噛み締めた。
そんな師匠の様子をユリウスは微笑ましそうに見つめ、「まぁ、でも……」と続ける。
「師匠のあーんな姿を見るのは俺一人で十分だから」
聞こえないほど小さく呟いた——
***
――時は少し遡る。
「師匠、家の鍵持ってます?」
背中にずっしりとした重みを感じながら、ユリウスはため息混じりに問いかけた。
けれど、返ってくるのは「んー……?」と間の抜けた声だけ。
案の定、まともに返事ができる状態ではない。ナルコの店で煽るように酒を飲み続けた結果がこれだ。
「鍵、あります?」
「……あ……」
アデルはぐらりと揺れながら、ふらふらと手を自身の服の中へと潜らせた。
「うぉっ……ちょっと、師匠」
背中の上でごそごそと動かれて、危うくユリウスはバランスを崩しそうになる。
嗜めるように呼びかけるものの、アデルの動きが止まることはない。
鍵が引っかかって取れないのか、時折「う……」や「……む」などと呟きながら服の中をまさぐり続ける。
背中越しに伝わる柔らかな感触が妙にリアルで、ユリウスは固唾を呑みながら静かに耐えた。
(ったく、人の気も知らずに)
思わず心の中で悪態を吐いてしまう。
密着しているせいで、どうしてもアデルの体温や匂い、息遣いが直接伝わってくる。
長年戦闘職に従事しているだけあって他の女性と比べて引き締まった体つきをしているアデルだが、それでも隠しきれない柔らかさや、しなやかさがあることに気付いてしまい、ユリウスは余計に落ち着かなかった。……無防備にも程がある。
髪から漂ってくる仄かな甘い匂いが鼻孔をくすぐり、腹の底から込み上げる衝動をなんとか抑えていると、不意にアデルが「……あった」と声を上げた。
「ほれ……」
呂律の回らない口でそう呟くと、ユリウスの肩越しに鍵を差し出してきた。
受け取りながらもユリウスはしばし沈黙した。
「師匠」
「んー……?」
「こういう時は、もう少し警戒心を持った方がいいですよ」
「んん……なんでぇ?」
アデルは呆けた声を漏らし、ぐらりと頭をもたげた。
こんな無防備な状態で、こんなに簡単に大事なものを人に渡してしまうなんて。
ユリウスは呆れ半分といった表情になる。
「いいですか。師匠は一応女性で、一人暮らしなんですよ。もし俺が悪い男だったら、どうするつもりですか」
言ってることが理解できているのかいないのか、アデルはユリウスの肩越しにぼんやりとした目でしばらく瞬きを繰り返す。
「……んふふっ」
「え、なに、今の笑い方怖いんですけど」
「……はは……悪い男って……んふふ……お前が……んん、くく……」
「いやいや冗談じゃないですからね。その気になれば師匠のことなんてどうとでもできますからね」
「……くふっ……怖ぁ……ふふ……」
「ちょっと、聞いてます?」
ユリウスは小さくぼやきながら、後ろでくつくつ笑うアデルを背負い直す。
アデルから受け取った鍵で家の中に入ると、慣れた足取りで部屋の奥へと進む。
——彼女の家に入るのはこれが初めてではない。師事して日が浅い頃などは、よく任務終わりに雑用として家まで荷物を持たされたものだ。
最も、泥酔した彼女を運ぶ羽目になったのは今日が初めてだが。
「ほら師匠、着きましたよ」
そう声をかけ、アデルをベッドの上に降ろす。
アデルは「んー……」と曖昧な返事をしながら、もぞもぞと布団に潜り込んでいく。
そのまま寝息を立てるアデルにユリウスは思わず苦笑を漏らした。
「まったく……世話が焼けますね」
布団を首元までかけてやり、ユリウスはベッドの脇に腰掛けた。
アデルの寝顔を見下ろしながら、その穏やかな表情を見つめる。
髪へと手を伸ばす。さらり、と指の間をすり抜けていく感触にユリウスは目を細めた。
「せめて、俺の前だけにしてくださいね」