3. 複雑な師匠心と
「どうしたのアデル。いつにも増して辛気臭いわね」
カウンターに肘をつきながら酒場の娘、ナルコは苦笑いを浮かべた。
アデルは肩を落とし、グラスの縁をなぞる。琥珀色の液体が揺れた。
「ほっといてくれ……色々あって落ち込んでるんだ」
「ふーん? ——そういえば、あんたのとこの弟子君、大活躍したらしいじゃないの。なんでも異例のスピードで上位階級まで昇進したんだって?」
「ぐふっ……」
痛いところを突かれ突っ伏すアデルの様子に色々と察したナルコは「……あー、あんたの頭に生えてるキノコはそれが原因か」とひとりごちた。
アデルは無言のまま、ゆっくりとグラスを口元に運び、一気に煽る。
喉を滑り落ちるアルコールの熱が喉を焼くが、日に日に増していく胸の中のもやもやが消えることはない。
目を閉じると、頭の中にユリウスの勝ち誇った笑顔が蘇る。
「……あいつの成長が誇らしくて嬉しい気持ちに嘘はないんだ。けど、それ以上に、辛くて、苦しくて……」
アデルはグラスを握りしめたまま呟いた。
ユリウスの討伐成績が自分を上回ったと知った瞬間、膝から崩れそうになった。
信じられなくて、思わず不正を疑ってしまうくらいに。だけど、それは揺るぎない事実だった。
認めたくはないが、ユリウスの実力はもう自分と同等か、それ以上にあるのだろう。
「私はずっとあいつの前を歩いていたつもりだった。でも、気づいたらすぐ背後にいて……ついに追い越された」
グラスの縁をなぞる手が、かすかに震えていた。
ナルコはそんな彼女をじっと見つめた後、ふっと笑う。
「そりゃあ、いつかは抜かれるでしょうね。師弟ってそういうもんだもの」
アデルの顔が曇る。
師匠として、弟子の成長は素直に喜ぶべきことだ。
けれど、それだけでは片付けられない妙な焦燥感が胸を焦がした。
まるで、心にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚。
すっかり沈黙してしまったアデルの様子にナルコは口元を緩め、意味ありげな視線を向ける。
「でも、あんたも気付いてるでしょう?」
「……なにを」
「あの人はとっくに、"師匠と弟子"の枠を超えて、あんたを見てるってことに」
アデルは息を呑んだ後、すぐに吹き出した。
「まっさか! そんなわけないだろう」
笑い飛ばすように言ったが、ナルコはやれやれ、と肩をすくめた。
「……ほんと、鈍感って罪ねぇ」
「なんだよそれ。私のことからかってるのか?」
「まさか。……けどまぁ、ある意味、弟子君が可哀想かもね」
ニヤリと口角を上げるナルコに、アデルは不機嫌そうに頬杖をついた。
「……あいつがそんな風に思うはずない。私たちは師弟なんだぞ?」
「出た。あんたのその”師弟”宣言。それ、本人の前で言わない方がいいわよ」
「事実だろ」
「事実ねぇ……どうでもいいけど、あんまり弟子君をいじめないのよ」
「なっ……いじめてなんか!」
「まぁまぁ、この際だから愚痴や弱音を全部吐き出しちゃいなさい。ほら、グラス空いてるわよ」
ムキになるアデルを見て、ナルコはますます愉快そうに酒を注いだ。
この後どうなるか全く考えないままに——。
***
「だいたい、なんなんだあいつは! 弟子のくせに……!」
呂律が怪しくなりながらも、アデルはやけくそ気味に酒を煽る。
グラスを傾けるたび頬がじわじわと紅潮していった。
「いつもいつも軽口ばかり叩いて、かと思えばふざけた態度を取ってみたり……一体誰が仕事のミスを尻拭いしていると思っているんだ!」
「おおー、あんたがそこまで感情的になるなんて珍しいわね」
まるで面白いものを見るかのようにケタケタと笑うナルコを睨みつけると、再び酒を飲み干した。
がつん、と木製のテーブルが鈍い音を立てる。
「私の方がずっと経験あるのに、なのに、なんで……! なんで追い越されなきゃならないんだ……!」
気づけば目尻が熱くなっていた。
「ううう……私は、師匠なのに……!」
ついに酒の勢いに任せて大泣きし始めたアデルの様子に、ナルコは爆笑しながら手元のおしぼりを差し出した。
「ほらほら、泣くのはいいけど鼻水くらい拭きなって」
「ナルコおぉぉ……! 笑うなああぁ……!」
「それは無理」
ピシャリと言い放った後、感慨深そうにナルコはアデルの肩に手を置いた。
「でもさ、あんた、それだけじゃないんでしょ?」
「……え?」
ナルコはにやりと笑い、アデルの肩を軽く叩いた。
「悔しいだけなら、泣かないでしょ。寂しいんじゃないの?」
「……!」
アデルの泣き声が、ひくっ、と小さくなる。
「弟子に先越されて、遠くに行かれそうでさ。応援したいけど、手放すのは辛くて……」
(……遠く……行く……)
断片的な単語に大きく反応し、アデルの目から再び大粒の涙が溢れる。
「……やだぁ」
それを見たナルコは「ようやく本音が出たわね」とアデルの背を撫でた。
「それにしても、相当溜め込んでたのね。アデルがここまで酔って大泣きするなんて」
「泣いてなんかあぁぁ……!」
アデルは慌てて否定するが、涙でぐしゃぐしゃのままでは説得力がない。
「はぁ……まったく、面倒くさい師匠だこと」
そう言いつつも、ナルコはどこか楽しそうだった。
こんなにも感情をぶちまけるアデルは珍しい。それだけユリウスのことを真剣に思っている証拠だ。
「こりゃ明日、地獄の二日酔いだねぇ」と宣いながら、ナルコは楽しそうにアデルの頭をぽんぽんと撫でるのだった。
***
ナルコから連絡を受け、ユリウスは急いで酒場まで迎えに来た。
そこには、カウンターに突っ伏し、ピクリとも動かないアデルの姿があった。
口元はだらしなく開いており、赤く腫れ上がった瞼はまるで道化師のよう。
「……師匠、完全に出来上がってますね」
目の前の光景を見て心底呆れたようにため息をついた。カウンターの向こうでは、ナルコがグラスを磨きながらクスクスと笑っている。
「いやー、最初はね、ただの愚痴大会だったんだけどさ。途中から『なんで追い越されなきゃならないんだ!』とか言い出して、挙句の果てに『弟子が遠くへ行ってしまう!』って大泣きしちゃってねぇ」
「……はぁ」
ユリウスはまたもため息をつきながら、アデルの背中を軽く叩いた。
「師匠、帰りますよ。立てます?」
「……む、り……」
ぐでぇぇ……と、アデルの身体が椅子からずり落ちる。
どうやっても一人で立てなさそうだ。
「仕方ないですね……背負いますよ」
そう言って、ユリウスはアデルの腕を肩に回し、軽々と背負い上げた。その様子を見ていたナルコがニヤリと笑う。
「いやぁ、いい弟子じゃん。文句を言いながらも、最終的にはちゃんと面倒見てくれるんだもんねぇ」
「勘弁してくださいよ……こんないい年した大人を背負うの、なかなか骨が折れるんですから」
「でもさ、ちょっと嬉しいでしょ?」
その言葉にユリウスの肩がピクリと反応した。ナルコは続ける。
「だって、弟子君のこと『怖い』とか言いながらも、結局頼るのはあんただし。なんだかんだで弟子君のこと信頼してるってことじゃない?」
「……」
ユリウスは黙ったまま、少しだけ背中のアデルの重みを感じる。
普段あれほど警戒心が強く、なかなか心を開いてくれない師匠。
でも、こうして背負われることを拒まなかったのは――確かに、信頼の証かもしれない。
「……まぁ、嫌いじゃないですよ。面倒な人ですけどね」
「ふふっ、素直じゃん」
ナルコが楽しそうに笑う。
ユリウスは少しだけ苦笑しながら、ぐったりとしたアデルを背負い直し、店の扉を押し開けた。
「じゃあ、連れて帰ります。ありがとうございました」
「はいはい、また来なよ。次はちゃんと二人で飲みにおいで」
「考えときます」
そんな言葉を交わしながら、ユリウスは夜の街へと歩き出す。
背中のアデルは寝息を立てながら、時折わけのわからない寝言を漏らしていた。
「……ユリ、すま……」
「なんですか、今さら」
呆れながらも、アデルを落とさないよう慎重に運ぶ。
先ほどナルコが言っていた言葉が脳裏をよぎる。
——挙句の果てに『弟子が遠くへ行ってしまう!』って大泣きしちゃってねぇ……
「ほんと、世話の焼ける師匠ですね」
そう言いながら、彼の足取りはどこか優しげだった。