番外編:昇進と不安
遠くから夕刻を告げる汽笛が聞こえた。
病室の開け放たれた窓から侵入した煙が部屋中をぐるりと旋回しながら尾を引いていく。
ベッドの上で身を起こしているアデルの手には、新しく支給された仕事着のジャケットが握られていた。
「考えれば考えるほど、身分不相応としか思えない……」
「え——」
ぽつりと漏らした言葉に、ユリウスはベッド脇の椅子で小さく眉を寄せた。
アデルの表情にいつものような覇気はない。どこか所在なげに視線を落とし、ジャケットの襟元を指先でなぞっている。
滅多に見せない彼女の弱音に、ユリウスの内心がざわりと騒いだ。
身分不相応——まさか、自分たちのことを言っているのか、と。
「互いに不釣り合いだから」と別れを切り出されるのではないか、と不安がよぎる。
「”特級隊員”だなんて、柄でもないのに……」
よく見ると、ジャケットの襟に「特級」の印が鈍く光っている——ああ、なるほど。彼女の気落ちはこれが原因か。
先日の巨大汽化獣討伐が業績に影響し、アデルの特級入りが決まった。それは、彼女にとっても思ってもみない昇進だった。
けれども彼女にとっては誇りよりも、今は重圧や不安の方が強くのしかかっているのだろう。
さっきからやたら襟元をもぞもぞしていると思ったら、階級章を触っていたのか。
うなだれながら頭を抱えるアデルにユリウスはふっと表情を緩めた。
「——なんだ、そんなことか」
思わず口をついて出た言葉にアデルは口をムッと尖らせる。
「なんだとはなんだ」
「いや、今のは流石に師匠の言葉が足りなさ過ぎですって。そんなに神妙な顔されたら、なにか悪いことでも言われるんじゃないかってドキドキしますよ」
「そうか、悪かったな!」
空気を振り払うようにいつもの調子で口を開くと、アデルは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
その仕草も、師匠然としていた頃と比べて随分と幼く感じる。口調は変わらないが、気を許して少しずつ素が出てるのが伝わり、ユリウスの頬が自然と緩む。
しばしの沈黙のあと、ユリウスはふいに視線を窓の外へと向けた。
「俺、上層部がなにを考えているのか、なんとなく想像できます」
唐突な言葉にアデルは首を傾げた。
ユリウスは小さく笑って肩をすくめる。
「ほら、今って絶賛人手不足中じゃないですか。いくら才能があったとは言え、適当にやり過ごしてきた俺ですら上級に昇進できたくらいですよ」
「自分で言うか?」
“才能”を強調するユリウスをアデルはジト目で睨む。こういうときだけは、やけに自信満々な態度をとるのが彼らしい。
「でも、考えてもみてください。人命がかかっている業種に俺みたいな協調性のない人間を昇進させるのって、かなりリスクがあると思いません?」
「……自分で言うか?」
先ほどと同じ言葉を繰り返しながらも、アデルの声は呆れが滲んだ。
少しでも自覚があるのなら早急に態度を改めてもらいたいところだ。
「まぁ、そんな『優秀だけど扱いが難しい』人間を即戦力ある人材にまで育て上げたのが、他でもない師匠ですし」
アデルはわずかに目を見開いた。彼の語るそれは、自分には過ぎた評価のように思えてならなかった。
自分はただ、目の前の任務に向き合って、最低限の責務を果たしてきただけだ。
教えたというより、あの気まぐれで奔放な弟子に引っ張られるようにして、ここまで歩んできただけ——そう思っていた。
「そんなの……お前が勝手に育っていっただけだろう」
顔を背けてぽつりと返す。まっすぐに褒められるのはどうにも苦手だ。
それでも、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを、否定はできなかった。
「師匠がちゃんと導いてくれたからです」
穏やかにそう告げるユリウスの声音に、アデルの肩がほんのわずかに緩む。
認められることの喜びと、くすぐったさと、なにより——無条件で信頼を寄せてくれる人がいることの心強さ。
にやりと笑うユリウスに、アデルは小さく溜息をついた。
いつもそうだ。不安や劣等感に呑まれそうになるたびに、彼の言葉に救われる。
「……お前、本当にずるいやつだな」
「お褒めいただき光栄です」
まだ傷は癒えきっていない。退院も間近とはいえ、不安も多い。
けれど、不思議と心は軽かった。