18. 師匠と元弟子
アデルが目を覚まして数日が経過した。
日に日に意識もはっきりとし、少し硬いベッドの感触にも、静かで閉塞感のある病室にも慣れてきた頃だった。
医師によると、巨大汽化獣にやられた時の背中の傷が思ったよりも深く、完全に塞がるにはまだまだ時間がかかるらしい。
けれど、元々治癒力が高いおかげか、こうして長時間身を起こしていても問題ない程度には回復している。
病室の開け放たれた窓から外の排気煙が細く侵入し、ゆっくりと渦を巻くように広がっていく。
アデルはぼんやりと、その煙の動きを眺める。戦いの余韻はまだ身体の奥深くに残っていたが、こうして病室の静寂に包まれていると、それもどこか遠い出来事のように思えた。
穏やかに流れる時間に浸っていると、廊下の方から軽快な足音が聞こえた。
「師匠、朗報ですよ」
扉の向こうから顔を覗かせるのはユリウスだった。
室内に入るなりどこか上機嫌な様子で、ベッドの脇にあった丸椅子を引き寄せ腰を下ろした。
「独立が正式に認められました。これで俺も晴れて一人前の上級隊員です」
「……そうか」
アデルは小さく頷きながら、窓の外に視線を戻す。喜びもあったが、とうとう手元を離れてしまったのだと思うと心臓がちくりと痛む。
すると、ユリウスは不思議そうに首を傾げた後、突然ふっと吹き出した。
「なに笑ってるんだ」
「いや、師匠が寂しそうにしてるから」
「っ……別に、そんなことは」
「ふふ、それはどうだか」
反射的に言い返すが、その反応自体が図星だと白状しているようなものだった。
ユリウスは勝ち誇ったように微笑むと、ゆっくりと目を伏せる。
「まあでも、俺としては願ったり叶ったりなんですよ。これでもう誰の命令に従う必要もなくなりましたし、俺の意志で師匠の隣に立てますからね」
「……お前」
アデルは思わず目を瞬かせた。そして
「今までも散々、命令を無視して好き勝手やってきただろう。なにを今更」
心底呆れたように肩を落とすアデルに、ユリウスは軽く肩をすくめながら口を開く。
「そうですけど。でも、師匠に指図されるだけの関係だと、やっぱり色々とやりづらかったんですよ」
「やりづらかった……?」
「そう。例えば、師匠を助けたくても命令違反になる、とか。任務中に隣にいたくても指示を優先しなければならない、とか」
ユリウスの言葉にアデルはギクリと肩を震わせる。
「そ、そんなこと……」
「ありましたよね? 俺が隊員になってから何度も。この前だって」
にっこりと笑いながらユリウスが畳みかけてくる。
この前——ユリウスを遠ざけるために敢えて彼を他の班と組ませ、自分は彼が追って来れないところで単独任務を遂行した時のことを言っているのだろう。
ますます居心地が悪くなり肩を縮こませるアデルに、ユリウスは一つ息を吐いた。
「でももう、そういうのは関係ない。今は、俺の意志で師匠の隣にいられるんです」
真剣な瞳で見つめられ、アデルは返す言葉を失った。昔から変わらないはずなのに、独立した途端にユリウスの言葉が妙に重く響く気がするのは気のせいだろうか。
「これからは師匠がどこへ行こうと、俺は遠慮なく追いかけますからね」
冗談めかしているようでいて、その瞳はまるで一片の迷いもない。
にやりと笑うユリウスに、アデルはこめかみを押さえながら「……勝手にしろ」とため息をついた。
「——そういえば、今回の活躍で師匠は特級に昇進するんでしたよね?」
何気なく放たれたユリウスの言葉に、アデルは小さく「うぅ……」と唸った。
「なんですか、その反応」
「いや……別に……」
「普通、嬉しいとか光栄だとか思いません?」
アデルは曖昧に視線を逸らす。ユリウスの言うことはもっともだ。けれど、素直に喜べないのも事実だった。
「……正直、不安しかない」
「師匠が?」
ぽつりと零したアデルに、ユリウスは目を瞬かせた。
「上級になった時も思ったが、私は前戦よりも後方支援向きなんだ。特級なんて肩書き、考えただけでも荷が重い……」
討伐任務の多い特級は、戦闘能力の高さが求められる。
しかし小柄なアデルにとって、戦闘は決して得意な分野ではなかった。
むしろ偵察や修繕作業の方が、よほど向いている自覚がある。普通の隊員なら一撃で仕留められる相手も、自分の場合は手数を増やさなければならない。持ち前の瞬発力が成せる技ではあるものの、常に力不足を感じてきたのも事実だった。
辛うじて上級まで登り詰めることはできたが、これ以上の昇進は望めないと、ずっと思っていた。
「師匠なら大丈夫だと思いますけどね」
にやりと笑うユリウスに、アデルはじっとりとした視線を送る。
「お前な……なにを根拠に」
「師匠も、なんだかんだ言って最短年数で昇進しているじゃないですか。それだけの実力があるのは確かなんですし、こつこつと実績を積んだからこそ、上に認められたわけでしょう?」
ユリウスは当たり前のような顔をして言ってのける。
「それはそうだが……」
アデルは口ごもる。
ギルドへの貢献度を考えれば、評価されたこと自体に疑問はない。
ただ、特級という肩書きに見合うだけの能力が自分に備わっているのかという不安が拭いきれないのだ。
「それに——」
ユリウスが少しだけ身を乗り出す。
「いざとなったら、師匠のことは俺が守りますから」
にこりとしながら放たれる言葉に、不覚にもアデルの鼓動が一気に高まった。
動揺を悟られないように「そうか……」とだけ返し、ユリウスの視線から逃れるように窓の方を向く。
必死に暴れる心臓を落ち着かせようとするが、頬の熱は引く気配がない。
一拍置いてベッドが軋む音がする。急に近付いた気配にアデルは思わず肩を震わせる。
「——アデル」
低く甘い声が耳朶を掠める。
恐る恐る顔を上げると、少しだけ眉を寄せて微笑むユリウスと目が合った。
そっと伸ばされた手が頰に触れる。親指が唇をなぞり、そのまま後頭部まで回されると優しく引き寄せられた。
顔を背けようとするものの、すぐ引き戻されてしまい、アデルの顔色に焦りが生まれる。
それを楽しむかのようにユリウスは回した手に力を込める。そして、額同士が触れ合いそうな距離が、どんどん縮まっていき——
「アデル、来たわよー」
扉が勢いよく開かれ、病室の静寂を破るように明るい声が響いた——ナルコだった。
「……っな! ナルコ……!!」
アデルは弾かれたようにユリウスを突き放し、急いで距離を取った。友人の突然の訪問に心臓がばくばくと脈打ち、汗がだらだらと流れる。
一方ユリウスは全く動じることもなく、「残念」と苦笑混じりに肩をすくめた。
状況を察したのか、ナルコは意地悪く笑いながら慌てふためくアデルの顔を容赦なく覗き見る。
「お邪魔だったかしら」
「い、いや、来てくれて嬉しい」
「そお?」
なにかを探るようなナルコの視線を受けて、アデルの挙動がどんどんぎこちなくなっていく。
不意にユリウスが顔を近付けた。そしてアデルの耳元でそっと囁く。
「——続きはまた後で」
「後も先もあるか離れろ!」
即座に言い返しながら抵抗するアデルに、ユリウスは笑いながらゆっくりと距離を取った。
そんな二人の様子を見て、ナルコは小さく笑いながらベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「はい、これ。頼まれていた着替え」
ナルコがベッド脇のテーブルに布地の包みを置く。
微かに洗い立ての花の香りが漂った。
「いつもすまない。助かる」
礼を言いながら包みを受け取ると、真顔のナルコと目が合った。
「傷の具合はどう?」
「大分良くなった。あと数日で退院できると思う……でっ!?」
突然、額にカツンと衝撃が走る——ナルコに指でおでこを弾かれたのだ。
予想外の痛みに額をさすりながら疑問符を浮かべていると、ナルコは「はぁ……」と肩を落とした。
「あんたはもう……無茶し過ぎなんだってば」
「ナ……ナルコ?」
呆然とするアデルにナルコは目を尖らせながら腕を組んだ。
「巨大汽化獣を討伐したのは立派だったよ。けど、満身創痍になるまで無茶をしていい理由にはならないよね。おまけに怪我を隠したまま戦場を派手に動き回ったんですって? そんな無茶ばかりしてたら身がいくつあっても足りないわよ」
「もっと言ってやってくださいよナルコさん」
傍らでユリウスがそうだそうだと煽る。
「ユリウス……お前な」
「だって師匠、意識を戻したその日の夜に、入院期間を短くしてほしいって医師にごねたらしいじゃないですか」
「な、なんでお前が知ってるんだよ!」
アデルは慌ててユリウスを睨むが、時既に遅し。ナルコの後ろから怒りの炎がゆらめく。
「ア〜デ〜ル〜!」
低く響く怒声にアデルはビクリと肩を跳ね上げる。
「ひぃっ……わ、悪かったってば……!」
ナルコに見下ろされ、アデルは凍りつくように身を震わせる。
すっかり縮こまってしまったアデルを前にナルコは一息吐くと、視線の高さを合わせるように腰を折った。
「……あんたさ、こういうこと言いたくないけど、女の子なんだから、少しは自分の身体を大事にしなさいよ。こんなに傷だらけになって」
「うっ……」
アデルは思わず声を漏らした。
正直、普段の立ち回りに性別を意識したことなどほとんどない。
傷の一つや二つは当たり前。服が汚れることも、血に塗れることも、職務の一環として受け入れていた。
灰色の爪としてやるべきことをやっているだけ——そう思っていたが、改めて指摘されると、どう反論すればいいのか分からなくなる。
「……別に、私は気にしてないし」
「でも、俺は気にします」
言葉を被せるユリウスに、アデルは思わず息を呑んだ。
てっきりユリウスは傷のことなど、どうでもいいのだろうと思っていたから。
「……先に訂正しておきますが、決して傷だらけの師匠が嫌いとか、愛想を尽かすとか、そういうつもりはありませんよ。ただ……」
ユリウスはそこで言葉を切ると、アデルを真っ直ぐ見据える。
その射抜くような瞳に、アデルの心臓がどきりと高鳴った。
「——ただ、俺の知らないところで新しく傷を作られるのは嫌ですね」
そう言ってユリウスはアデルの腕を取ると、ゆっくりとその手に顔を寄せる。
包帯の隙間から僅かに血豆が見え隠れしている——清楚さの欠片もない手のひらを愛おしそうに見つめ、優しく唇を落とした。
「せっかく可愛いのに」
さらりとそんなことをやってのけるユリウスに、アデルの顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
一連のやり取りを見ていたナルコは「ああ、そっか」と納得したように頷いた。
「私がこうして口うるさく注意し続けるよりも、弟子君の方がよっぽど効果あるわね」
「ち、ちが……」
「やっぱりそう思います? 俺としてもその方が色々と都合がいいですけど」
「おい待て……」
「お目付け役としてはなかなか優秀じゃないの。これからもアデルが無茶しないように監視をお願いね」
「お任せください」
「勝手に話を進めるな!」
病室の中にアデルの叫びが響き渡り、ユリウスとナルコの笑い声が楽しくこだました。
「——ところで、弟子君はもう独立してアデルの弟子じゃなくなったんでしょ? なのに、なんで未だにアデルのことを『師匠』って呼んでるの?」
何気なくナルコがユリウスを見やると、彼は肩をすくめて苦笑した。
「長年の癖ですからね。なかなか抜けないんですよ。それに——」
一拍置いてから、意味ありげにアデルの方へ視線を向ける。
「元弟子にいいように翻弄される師匠っていうのも、なかなかそそられるものがあると思いませんか?」
「……理由怖っ!!」
唐突に知らされた事実にアデルは思わず叫ぶのであった。
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最後までご覧いただきありがとうございました。
本編はこれにて終了しますが、需要がありそうでしたら(気力が続く限り)番外編も執筆していこうと思います。
引き続き宜しくお願いいたします。
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