17. 想い
ぼんやりとした視界の中で天井の木目がゆっくりと焦点を結ぶ。
消毒薬の匂いが鼻をかすめ、かすかに揺れるカーテンの向こうからは淡い街灯が漏れていた。
「……ここは……っ……」
鈍い痛みが背中に走り、アデルは眉を寄せる。
——頭が重い。身体が思い通りに動かない。
指に力を込めると、布の感触が伝わった。どうやら、医療施設のベッドの上らしい。
意識を完全に取り戻したのは、その直後だった。
「やっと気が付きましたか」
聞き慣れた声がした。ゆっくりと横を向くと、そこにはユリウスが座っていた。
椅子の背にもたれ腕を組み、目元に濃いくまを作ったまま、じっとこちらを見つめている。
「ユ、リ……ウス……?」
声を出すと、自分でも驚くほど掠れていた。
ユリウスは深くため息をつき、額に手を当てる。
「ったく……勘弁してくださいよ。一生目覚めないかと思いました……」
「ど……のくらい」
「一週間ですよ。一週間も、ずっと……」
「そう、か……一週間——」
アデルはぼんやりと霞んでいた意識が次第に鮮明になるにつれ、慌てて上半身を起こそうとした。
「けほっ……あれから……どうなった……!? 巨大汽化獣は……くっ……!」
けれど、すぐに襲ってくる倦怠感と鈍い痛みに阻まれ、ベッドに身を沈める。
そんなアデルを宥めるようにユリウスは肩に手を添えた。
「落ち着いてください師匠。もう大丈夫です。ちゃんと討伐できましたから」
「討伐、できた……」
その言葉を聞いて、ようやく記憶が追いついてくる。
必死に戦ったこと、そして最後の瞬間——ユリウスや仲間と共に仕留めたことを思い出し、アデルは大きく息を吐いた。
「そうか……そうだったな……」
呟きながら、アデルは天井を仰ぐ。
まだ全身が重い。それでも、巨大汽化獣を倒したという事実が、心の奥に確かな安堵を落としていく。
隣から盛大なため息が聞こえてきた。
その音に促されるように視線を向けると、ユリウスがベッドの端に肘をつき、掌で顔を覆っているのが見えた。
「……ユリウス?」
掠れた声で呼びかけても、すぐには反応がなかった。
代わりに、彼の肩がわずかに震えているのがわかる。
「……ずっと、生きた心地がしなかった……」
くぐもった声が漏れ、指の隙間から覗く額には深い皺が刻まれていた。
何かを必死に堪えるように息を漏らす。
「業務時間外になっても師匠が戻って来ないし、単独任務だから全然足取りが掴めないし、地底の様子もいつもと違うし……あなたの身になにかあったんじゃないかと……」
低く抑えられた声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。
ユリウスがここまで感情を露わにするのは珍しい。
それだけ、心労をかけてしまったのだと思うと、いたたまれない気持ちになる。
「心……配、かけた、な」
ようやく言葉を紡ぐと、ユリウスは大きく息を吐いた。
「——本当ですよ。元気になったら覚えておいてください」
「それ、は……怖いな」
薄く笑いながらそう応えると、ユリウスは僅かに口元を緩める。
ユリウスのことだから、きっとまた容赦のない条件を叩きつけてくるに違いない。
けれど、久々の軽口の叩き合いは不思議と心地良かった。
アデルも存外、この応酬が気に入っているのかもしれない。
まるで、いつもの二人に戻ったみたいだった。
「ひとまず、師匠の意識が戻ったことをギルド長に報告してきます。それまで安静にしていてください」
ユリウスが椅子から立ち上がる。
アデルの目の前から彼の存在が遠ざかろうとするのを見て、思わず手を伸ばし——気付けば彼の袖を掴んでいた。
「……師匠?」
ユリウスが振り返る。
その優しげな眼差しに、喉の奥が焼かれたように疼く。
「どうしたんですか、急に。ひょっとして、寂しくなりました?」
まるで普段通りの冗談めかした口調。
いつもならここで「ふざけるな」と一喝していたところだろう。
けれど今は、彼のからかうような言い方が、酷く心に沁みた。
「……うん」
ユリウスの表情が一瞬固まる。
頷いた瞬間、自分の中で何かが決壊した。
「——行かないで、ずっとそばにいて」
声が震えそうになるのを必死に堪える。
それでも胸の奥に積もったものが、堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。
「本当は……寂しかった。ユリウス、が……独立することが。それを、相談もされなかった、ことが……」
視界が滲む。息が詰まる。
ユリウスが独立すると聞いた時の、あのどうしようもない喪失感。
気づかないふりをして、割り切ったつもりでいたのに。
どれだけ平静を装っても、彼が遠ざかることが、たまらなく悲しかった。
「ユリウスの、ことが……好きなんだ」
言ってしまった。
胸の奥に押し込めていた想いを、ついに。
「……なんで、今なんですか」
ユリウスの声が静かに震える。
普段はどんな時でも冷静さを崩さない彼の声が、感情を滲ませて揺れるのがわかる。
一度深く深呼吸をした後、ユリウスの瞳が真っ直ぐアデルを見据えた。
「——俺が、独立を決意した理由を知ってますか?」
問いかけられて、胸の奥がざわつく。
この先に続く言葉を——本人の口から直接告げられるこの瞬間を、心のどこかで恐れていた。
意気消沈しながら首を横に振ると、ユリウスは苦笑気味に口を開く。
「師匠と弟子という関係性から脱却して、もう一度あなたに告白するため、だったんです」
「……え」
告げられた真実に思考が止まる。理解が追いつかない。
彼が独立を決意したのは……告白のため?
言葉の意味を理解した瞬間、心臓が大きく跳ねる。
ユリウスはアデルを見限ったわけではなかった——それどころか。
不器用で奥手なアデルに自分の気持ちを伝えるために、弟子という立場を捨て対等な存在になるために、ユリウスは自ら独立を選択したとのだ、と。
「それしかないと思ってました。どうやっても、あなたは俺のことを弟子としてしか見てくれなかったから」
「ユリウス……」
掠れた声で彼の名を呼ぶ。それ以外に、なにを言えばいいのか分からなかった。
言葉を詰まらせていると、ユリウスの顔がゆっくりと近付いてきた。熱を帯びた視線が絡まる。
「——もう一度、言ってくれませんか」
「……っ」
低く囁くような声に、アデルの喉が鳴る。
視線を落としそうになった瞬間、ユリウスの指先がそっと顎に触れた。
その先を促すように、逃がさないとでも言うように。
「……好きだ、お前のことが」
震える唇から紡がれた言葉。
それを聞いたユリウスが、僅かに目を細める。
「もう一度」
まるで確かめるように、優しく、けれどどこか意地悪く。
ユリウスは微笑みながら、アデルの言葉を待っていた。
「……ユリウスのことが、好——」
その先の言葉は続かなかった。
噛み付くように唇を遮られ、口の端からくぐもった息が漏れ出る。
刺激を与えられる度に肩が跳ね、ぎゅっと閉じた眦から一筋の涙が溢れる。
まともに抵抗も出来ない中、ただ、なされるがまま、何度も何度も、角度を変えるように深く口付けられた。