15. 不穏な影
——地底の奥深く。縦横無尽に張り巡らされた無数の鉄パイプが低く静かな唸りを響かせる。
錆びついて今にも崩れそうな鉄板が重なるように道を形造り、踏みしめるたびに鈍い悲鳴をあげた。
排気煙が風に乗って尾を引き、アデルの黒髪を無遠慮に撫で付ける。
深部へと進むにつれ、設置された結晶ランプの光が徐々に細く途切れていった。
(微かに鉄の匂いと規則的な足音——汽化獣が近くにいるな)
依頼書の通り、彼らはこの辺りを根城にしているうようだ。
アデルは呼吸を整え、慎重に周囲を見渡した。
この任務は討伐ではなく、あくまでも偵察。故に、団体よりも小回りのきく単独行動が求められていた。
そして危険度が高い分、独立した上級階級以上でなければこの任務に従事することは許されていない——すなわち、ユリウスと距離を置く理由としては都合がよかった。
ふと、自嘲気味に口元を歪める。
どうしても、気持ちの整理をつけるために時間が欲しかった。
——ユリウスが独立を望んでいると知った時、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。
いざ彼が自分の手を離れることになって、ようやく自分の中に芽生えた感情を自覚した。
けれど、今さら気づいたところで、何になる?
アデルがどんなに望もうと、彼の心はとっくの昔に離れているというのに。
その現実が、酷く苦しかった。
(……駄目だ。今は任務に集中しないと)
沈んだ気分を振り払うように顔を上げる。
心を奮い立たせるように一歩踏み出すと、微かに金属を擦ったような鈍い咆哮が聞こえた。
すぐさま声のする方へ駆ける。足音を立てないよう、気配を殺し細心の注意を払いながら。
身を潜めて様子を伺うと、煤けた鉄柱の向こうで二体の大型汽化獣が牙をむき対峙していた——どうやら縄張り争いの最中のようだ。
次の瞬間、二体の汽化獣は同時に飛びかかると、もつれ合うように地面を転げ回り、激しく爪を振りかざした。
金属を引っ掻くような耳障りな音、巻き上がる砂埃と鉄片。
ぶつかり合った衝撃で青白い火花が散る。
一つ間を置いて、鈍い轟音と共に熱を帯びた風圧がアデルを鋭く撫でた。
「……っ!」
頬にピリッとした痛みが走る。
どうやら今の風圧で飛んできた破片が頬を掠め傷をつけたようだ。
(深部が魔窟と囁かれている理由はこれか)
目の前で繰り広げられる壮絶な戦闘に、アデルの額に一筋の汗が伝う。
少し足を踏み入れただけで、大型汽化獣の縄張り争いに出くわすほどだ。
(正直、この場に長居するのは危険すぎる……だが)
アデルの灰色の爪隊員としての好奇心が疼く。
汽化獣の生態は未だに不鮮明な部分が多い。研究機関が日々その解明に挑んでいるものの、得られる情報のほとんどが戦場からの断片的な報告に過ぎないからだ。
至近距離で汽化獣を観察する機会などそう訪れることはなく、この状況はまたとない好機とも言える。
今どれだけ詳細な情報を持ち帰れるかによって、今後の研究を進展させるための鍵になるやもしれない。
討伐計画にもきっと役に立てるはずだ。
慎重に呼吸を整え、相手の動きを見極める。
敵に気取られず、最も近づける地点はどこか。万が一襲われた場合、どう逃げ道を確保できるのか。
全身の感覚を研ぎ澄まし、すぐさま動けるよう臨戦態勢を取った——その時だった。
オオオオォォォ……
突然、背後から低い唸り声が響いた。
ぐん、と周囲の空気が凍りつく。なんだ、この緊張感は……。
ズン、ズン……と地響きがどんどん近付いてくる。
ゆっくりと振り返ると——
「——っ」
そこには、今まで見たこともないほどの巨大な汽化獣が姿を現した。
金属の骨格を思わせる堅牢な装甲、軋むような音を立てながら動く四肢。
煤けた体に纏わりつく崩れ結晶が周囲のランプを反射してちらちらと輝いている。
ゆらり……と汽化獣は立ち上がった。
鉄塊に身を潜めるアデルを悠々とまたぎ、二体の大型汽化獣の元へと歩みを進める。その巨体が一歩踏み出すたびに床が震えた。
(なんだ、あれは……)
驚きのあまりアデルは目を見開く。
今まで相手をしてきた大型汽化獣よりも遥かに大きい。深部の奥地にはこんな怪物が潜んでいたというのか。
縄張り争いをしていた大型汽化獣の一体が巨大汽化獣の接近に気付き、警戒の咆哮を上げる。
——瞬間、巨大汽化獣が地面を蹴った。
轟音と共に、巨大な前肢が振り下ろされる。
一撃で、大型汽化獣の一体が吹き飛んだ。
ゴゴゴオオオオォォォ……!!!
壁に叩きつけられ、派手な音を立てながら下から崩れ落ちる。
そしてそのまま動かなくなってしまった。
(……! 一撃で……!)
敵の実力が桁違いだと、一瞬で悟る。
もう一体の大型汽化獣も戦意を失ったのか、低い唸り声を上げながら後退していく。
——この存在こそが、地底の調和を乱す元凶。恐れをなした汽化獣たちが縄張りを追われ、より上層へと逃げ出していた理由——
アデルの喉が、ひりつくように乾く。戦慄と共にこの巨大な脅威を見つめた。
巨大汽化獣は目の前の鉄塊に興味を失ったのか、次の獲物を探すように首をめぐらせた。
その視線が——アデルの潜む場所に向けられる。
(……まずい!)
背筋を凍らせた瞬間、巨大汽化獣の目がぎらりと光った。次の標的を定めたかのように、一歩、また一歩とこちらに迫ってくる——
***
「——で、あの子となにがあったのさ?」
カウンター越しに腕を組み、ナルコはじっとユリウスを見つめた。
「なにって、なんの話です?」
ユリウスは涼しい顔でグラスを傾け、琥珀色の液体を一口飲む。
仕草は飄々としている。けれど普段なら余裕たっぷりに返すはずの言葉が、どこか引き延ばされたように遅い。
ナルコはその様子を見逃さなかった。
「はぁ……」
深々とため息をつくと、カウンターに肘をつきながらユリウスを覗き込む。
「アンタねぇ、ここに一人で来るなんて、珍しいじゃないの。しかも酒なんか飲んで。悩みがないとは言わせないよ」
「悩み……ねぇ」
一瞬、視線を落とした後、おどけたように肩をすくめてみせる。
「俺が悩むようなタチに見えます?」
「そう見えないから余計に気になるんじゃないの。今の弟子君、酷い顔をしてるよ」
ナルコにすかさず指摘され、ユリウスは僅かに目を見開く。
なるほど——相当思い詰めた顔をしているのか。表には出ていないと思っていたが、指摘されたのはこれで二人目だ。
ユリウスは小さく笑った。
「別に俺はなにも変わってませんよ。師匠に避けられていること以外は」
「それが大問題なんでしょ?」
「……まあ、そうですね」
ナルコの言葉に観念したのか、ユリウスはグラスを置いた。そして、静かに息を吐く。
「師匠から、なにか聞いてます?」
「聞いてないけど、およそ想像はついてるわね」
ナルコは即答した。
「大方弟子君が勝手に独立を進めて、それを風の噂で知ったアデルがショックを受けて、弟子君を遠ざけようとしている、ってところでしょ」
「——まいったな。独立の話がもうここまで届いてるんですか」
「酒屋の娘をなめないでよね。これでも裏では情報通として名が知れているんだから。弟子君の情報なんてその日の夜には入手してたわよ」
「……はぁ」
ユリウスは苦笑いし、グラスの中身をじっと見つめる。
「俺、今までの人生でフラれることなんてなかったんですけどねぇ……」
「ちょっとモヤっとする発言だけど、まあ事実だろうね」
「師匠って、そういうところ鈍いですよね」
「否定はしないけど」
ユリウスはカウンターに肘をつき、掌で顔を覆うようにしながら静かに笑った。
「正直、どうしたもんかって感じですよ。俺のこと、弟子としてしか見てなかったのは分かってますし。でも、だからって想いを伝えないまま簡単に諦めたくはなかったし……」
「……ふーん」
ナルコはユリウスをじっと見た。
意外だった。あのユリウスが、こんな風に誰かに執着を見せるとは。
それだけアデルに本気ということなのだろう。
「じゃあ、待つの?」
「待ちますよ。何年でも……とは言いませんけど」
「うんうん、それで?」
「でも、ただ待つだけじゃ駄目だと思うんです」
ユリウスは指先でグラスの縁をなぞりながら、ぼそりと呟く。
「このままじゃ、師匠はいつまで経っても俺のことを"弟子"って枠から外してくれない。だから……ちゃんと、独り立ちしないと」
「……なるほどね」
ナルコは感心したように頷くと、グラスを手に取った。
「それが、独立を決意した理由ってわけか」
「まあ、そんなとこです」
ユリウスは苦笑しながら、グラスの中の酒を一気に飲み干した。
「俺、今度こそ"弟子"じゃなくなるんで。そしたら……もう一回、ちゃんと伝えますよ」
その声は、いつもの軽薄さとは違っていて——どこまでも真剣だった。
ナルコはしばらく黙っていたが、やれやれといった様子で腰に手を当て顔を綻ばせた。その時——
ドン、と扉が開く音が聞こえた。
店内に慌ただしく入ってきたのは、今日の任務を合同で受けた同期だった。
「やっと見つけた。探したぞ、ユリウス」
「どうしたんだ急に」
駆け込むように現れた隊員の姿に、ユリウスは小さく目を瞬かせた。
焦りに満ちた表情に、不穏な予感が胸を掠める。
「前隊員に通達だ。地底の様子がおかしい。動ける者は大至急、捜査に向かうように、と」
「なにかあったのか?」
「わからない。現場も混乱していて……聞くところによると、上層に多数の汽化獣が押し寄せているとか……」
同期の言葉に思わず息を呑む。
汽化獣が上層まで群れを成して押し寄せるなどありえないからだ。
一体、地底でなにが起こっているというのだろうか。
「それと——心して聞いてほしいんだが」
「まだなにか?」
言いにくそうに言葉を呑む同期にユリウスは怪訝な顔をする。
急かすようにじっと見つめると観念したのか、同期は恐る恐る口を開いた。
「——アデル隊員が、まだ任務から戻っていないんだ」
「え」
その瞬間、全身の血の気が一気に引いた。