10. 二人の関係
「俺たち、付き合うことになりました」
「あらー」
ユリウスの宣言を聞いたナルコは口元を手で覆いながら目を輝かせた。
完全に面白がっている時の顔だ。
「……おいこら待て! 私は承諾してないぞそんなこと!」
即座にアデルの怒声が飛んだ。周囲の客が「なんだなんだ?」とこちらに目を向ける。
けれどユリウスは悪びれもせず、肩をすくめながら得意げに笑った。
「なんでも言うこと聞くって約束してくれたの師匠じゃないですか」
「無効だそんなもの! 大体お前、功績に対して対価がデカすぎだろ!」
「えー、今回の弟子君の功績、相当大きかったんじゃないの? 数十年に一人の逸材って噂よ?」
ナルコがわざとらしい調子で口を挟む。完全にユリウスの味方らしい。
「師匠のために俺、頑張ったのに……」
「嘘泣きやめろぉ!」
大げさに肩を落とし目元を拭う素振りを見せるユリウスに、アデルは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
賑やかにギャンギャン言い合う二人を見てナルコは一言「ある意味普段通りじゃないの」と呟いた。
「——それで、飲み物は?」
「酒、強いのを頼む……なんだそれは」
訝しげに眉を潜めるアデルの視線の先には、案内された席で椅子を引きながら待機するユリウスの姿があった。
何故だか少し得意げだ。
「女の子扱いしてるんですよ。ほら、こうしたら特別大切にされてるって思うでしょ?」
「いらん、椅子くらい一人で座れる」
ユリウスを無視してつかつかと対向の席に向かい憮然とした表情で座るアデル。
その様子を目撃したナルコは、やれやれとため息を吐いた。
「また可愛げのないことを……はいアデル。弟子君も同じのね」
口を曲げたままナルコからグラスを受け取ったアデルは、気難しげに酒を煽る。
やがて額のシワが消え、代わりになんとも気の抜けた表情になっていった。
「……はぁ、生き返る」
いとも簡単に機嫌を直すアデルにユリウスは苦笑する。
「結局酒は絶ちませんでしたね」
「い、いいんだよ。今度からは気を付けて飲むから」
アデルは気まずそうにグラスから目を逸らした。その様子を見て、ユリウスがにやりと笑う。
「まぁ、俺の前でなら、また前みたいになっても良いですからね」
「えぇ怖っ……お前なにを企んでいるんだよ」
「別に?」
グラスを傾けながら、どこか含みのある笑みを浮かべるユリウス。
そんな二人を傍目で観察しながらナルコは首を傾げた。
(意外ねぇ。もう少し取り乱すかと思ったのに)
アデルのことだから弟子に突然告白されたら、顔を真っ赤にして慌てふためくか、あるいは全力で否定するか、そのどちらかだと思っていた。
それなのに、確かに怒鳴りはしたものの、ユリウスの言葉を本気にしている感じはしない。むしろ、どこか受け流しているようにも見える。
——これは、ひょっとして。
(……弟子君の告白、伝わってなくね?)
もしかしてアデルは、ユリウスの言葉をただの冗談だと思っているのでは?
言われてみれば、あの調子でいつも通りのやり取りをしている辺り、アデルが本気の告白として受け取るはずもない。
このままでは、どれだけ言葉を重ねても、アデルには「弟子の戯言」として処理されてしまうだろう。
(これは……てこ入れが必要かしら? いや、でも……)
二人の行く末に悶々と頭を抱えるナルコだったが、アデルの深いため息にピクリと反応する。
「……お前な、この前からなんなんだ」
「なにとは?」
おや? 珍しくアデルの様子が普段と違う。
違和感に気付いたナルコは二人の会話に耳を立てる。
「だから……その、突然あんなことを言ってきたりだとかだな……」
おやおや——ナルコの口角が上がる。
しどろもどろになりながら目を泳がせるアデルは、どこからどう見てもユリウスのことを意識している。
本人は隠しているつもりかもしれないが、第三者から見れば一目瞭然だ。
「ああ、俺が必死にアプローチしていることですか」
事もなげに爆弾発言をかますユリウスにアデルはギョッと目を剥く。
「こっ……声がデカい!」と慌ててユリウスの口を塞ごうとするアデルだったが、彼は軽々と身を引いてそれをかわした。
ナルコのニヤニヤが止まらない。
「だって師匠、超絶鈍感じゃないですか。俺の気持ちにはこれっぽっちも気付かないし、そのくせ思わせぶりな態度ばかり取ってくるし」
「お……思わせぶり……?」
思ってもみない言葉をかけられたのだろう、狼狽えるアデルの頭には大きな疑問符が浮かぶ。
「俺を弄んで酷い人ですねぇ。でもまぁ、師匠に自覚があろうがなかろうが、俺にとってはどうでもいいですが」
そう言って、ユリウスはゆっくりとアデルの方へ身を乗り出した。思わずアデルは身を引くが、背もたれにぶつかって逃げ場がなくなる。
「師匠って、俺がこうやって近づくと、分かりやすく動揺しますよね」
真剣に目を細めるユリウスに、アデルは息を詰まらせる。
顔が近い。声が低い。なんだか火照ったような感覚がするのは酒のせいか、それとも——。
なにも言い返せないまま固まっていると、不意にユリウスが苦笑混じりに吐息を漏らした。
「——ほら、やっぱり思わせぶりだ」
「なっ……!」
アデルの顔に熱が一気に集中する。
「お前な……! 調子に乗るなよ」
「調子に乗ってませんよ。事実を言ってるだけです」
「なにが事実だ……っていうかお前、さっきさりげなく私のことを超絶鈍感って言ったよな!?」
「えぇ……今?」
二人の攻防に思わずナルコは吹き出した。
はじめはユリウスの言葉がアデルに届いていないように見えたが、蓋を開けてみれば——なかなかしっかりと進展しているではないか。
(これは……時間の問題ね)
ナルコはそんな二人の様子をニマニマと眺めるのであった。
風に運ばれた排気煙が細く線を描き室内に流れる。
部屋の窓際で夜風に当たりながらユリウスは、ふぅ……と息をついた。
あの日——アデルに告白した日のことが鮮明に蘇る。
同期に言われるまで、独立について一切思い至らなかった。
きっと、この先もずっと、アデルとこうして一緒にいるものだと、信じて疑わなかった。
だから、アデルから直接「独立するつもりなのか?」と聞かれた時には酷く動揺した。
それと同時に、アデルが心の底でどう思っているのか気になった。
「師匠はどうしたいです?」そう尋ねると、アデルの表情が目に見えて沈んでいくのがわかった。
——彼女も同じ思いだということは間違いなかった。
アデルの心情を悟った瞬間、なんともいえない喜びが込み上げてきた。
だから余計に、アデルの口から「お前が決めたことなら止めない」と言われた時、胸の奥が強く締め付けられるのを感じた。
寂しそうな顔をするくせに、引き止めようともしないアデルに感情が抑え切れず、つい例の『約束』を持ち出してしまった。
(だから、あんな告白を……)
もちろん本気だった。けれど、あの場で『約束』を持ち出すのは卑怯だったと、自分でも思う。
言葉にした瞬間、アデルの金色の瞳が大きく揺れたのを覚えている。
その反応を目の当たりにした途端、緊張と期待がないまぜになって、喉がひどく渇いた。
今まで数々の危険に晒されたことはあったが、この時ほど心臓が跳ね上がることはなかった。
けれど、それでも。
(もう誤魔化すつもりはないから)
ずっと、言葉にしなければいけないと思っていた。
弟子と師匠の関係を飛び越えて、彼女を求めている自分に気づいたのは、もうずっと前のことだったから。
——今度は逃がさない。
ユリウスは夜の街明かりを仰ぎながら、静かに決意を固めた。