1. 約束
「一度でも私に勝てたら、なんでも言うことを聞いてやろう」
そんな約束を交わしたのは三ヶ月前。
有能だがあまりにも適当で軽口がすぎる弟子を御すために、思わず口をついて出た言葉だった。
「言いましたね」
心なしかユリウスの瞳がギラリと光って見える。
いつもはどれだけ叱られようと嫌味をかけられようと、どこ吹く風とばかりに飄々としている彼が、珍しくアデルの挑発に食いついてきた。
「言質は取りましたよ。いつか絶対にあなたを超えてみせるので」
「ああ、よく励めよ」
しかし、弟子のユリウスがどれだけ優秀だろうと、上位階級の自分に追いつくのは不可能だろう。
そう高を括っていた……のに。
(そんな馬鹿な……)
「はい、師匠の負けー」
広場に掲示された最新の討伐成績を見て、アデルは膝から崩れ落ちそうになった。
ユリウスの名が、自分の上にある。
僅差ではあるものの、確かに弟子が師を超えた瞬間だった。
「なにか不正が……?」
「第一声でいかさま疑うって酷くないですか?」
顔色一つ変えずにさらりと突っ込むユリウスにアデルは目尻を尖らせた。
「いや、だっておかしいだろう。私が十年かけてようやく登りつめた境地だぞ。それをこんな……ちゃらんぽらんな弟子ごときにたった三ヶ月で追い越されるなんて……」
頭を抱えるアデルをまるで残念な人でも見るような視線で優しく見下ろしながらユリウスは口を開く。
「師匠、知ってます? 俺、こう見えて天才なんですよ」
「それな、面接試験の常套句だとばかり思ってた」
「あー、いますよねぇ。大して実力もないのに選ばれることに必死で自分を誇張するやつ」
「お前、絶対友達いないだろ」
いや、分かっていた。ユリウスの才能は最初から規格外だった。
弟子にしてからというもの、並の隊員が何年もかけて身につける技術をまるで遊ぶように習得していく姿を何度も目の当たりにしてきた……それでも。
この十年、誰よりも努力を重ねてきたという自負がある。
死に物狂いで戦い、鍛錬し、ようやく掴んだこの地位を、たった三ヶ月で超えられたなどと、どうして簡単に受け入れられようか。
信じられないものを見た気分で掲示板を見つめ直すアデルに、ユリウスは口元を歪めて楽しそうに笑う。
悔しげに顔を上げると、ユリウスは勝ち誇ったようにじっとアデルを見下ろした。
不安になるほどにこやかな笑みを向けられ、反射的に身構える。
「さてと、"なんでも"言うことを聞いてくれるんでしたっけ」
ユリウスの言葉にアデルの背筋が一気に凍った。
声色から彼の本気度が窺える。
「"聞く"だけというわけには……」
「いくとお思いですか? まさか師匠ともあろうお方がご自身で仰った約束を反故にするはずがありませんよね?」
わざとらしく口調を強めるユリウスに、アデルはしどろもどろになりながら目を泳がせた。
師としての矜持が悲鳴をあげているが、「なんでも」と言ってしまった手前、前言を撤回するなど許されるはずがない。
「ぐっ……わかった」
しぶしぶ頷くと、ユリウスは満足そうな顔をした。
こちらへ、と誘われるがままに人気のない場所へ連れて込まれる内に、アデルの中で不安がどんどんと加速する。
(しかし、なにをやらされるんだろう。日頃の恨みや鬱憤をここぞとばかりにぶつけられるのだろうか……)
一つ呼吸を置き、「……あ、ありえるー!!」と心の中で絶叫した。
(正直心当たりしか無さ過ぎる! 任務は死ぬほどハードだし、めっちゃ厳しく指導したし、雑用も沢山押し付けた! だって弟子、めっちゃ有能だから! して欲しいことを言わずとも色々と察してすぐ動いてくれるから! 使い走りされ続けたらそりゃ良い気持ちしないよな! それとも、あれか!? 断りもなく勝手に弟子の道具を使ってしまったことを未だに根に持っているのか!? 弟子、他人に自分の道具を触られるの嫌うからなぁ! いや、それとも……)
嫌な汗が吹き出る中、彼女の心中を知ってか知らずかユリウスは余裕綽々の笑みを浮かべる。
「目、閉じてください」
予想外の指示に思考が一瞬停止した。
——が、ユリウスの声に有無を言わせない響きを感じ、いよいよ観念したアデルはおとなしく指示に従う。
「……承知した」
(ああぁ完全に殴られるコースだこれ! 平手か拳か手刀か!?)
平常を装っているつもりだが、心の叫びは止まることを知らず、握りしめた手が僅かに震える。
ユリウスは、そんな師の姿を静かに見下ろしていた。
——ゆっくりと手を伸ばす。
指が頰に触れた途端、アデルの体が大きく跳ねた。
そのまま頰を包み込むように手を滑らせると、アデルはぎゅっと目を閉じたまま硬直した。
(……まぁいいさ、これで弟子の気晴らしになるなら頬の一つや二つ貸そうではないか。さぁ来い、厳しい修行で培ったその成果を見せてみろ!)
覚悟を決め、衝撃に備えて身構える。
しかしいくら経っても痛みはおろか、なにも起きる気配がない。
やがて、「……はぁ」と盛大なため息が聞こえた後、頬に添えられた手がゆっくりと離れた。
「……やっぱやーめた」
「え」
困惑して目を開けると、ユリウスは呆れたように肩を竦めた。
「そんなに身構えられたらもう、なにもできないですよ。まるで俺が師匠をいじめてるみたいになるじゃないですか」
急に肩の力が抜け、半泣きになりながら胸を撫で下ろす。
「た、助かったぁ……」
「ビビり過ぎですって」
「……だって! なんか凄くシリアスな空気出してくるから! いつ拳が飛んでくるかと気が気じゃなかったんだぞ!」
涙目で抗議するアデルにユリウスは目を瞬かせた。
「ちょっと待て、なんで拳?」
「だって……私は師匠として未熟だし、そのくせ指導は厳しいし、理不尽さにおいてはどこよりも苦労かけてるから……きっと嫌われているのだろうな、と」
語尾に近づくにつれて声がどんどん小さくなっていく。その様子を見て、ユリウスは深いため息をついた。
そして意を決したように口を開く。
「尊敬してますよ。師匠のこと、ずっと」
「弟子に遅れを取っても、か?」
「遅れを取っても、です」
「そこは嘘でもフォローせんか」
「無理ですね。俺、こう見えて正直者なので」
にたりと口角を上げる弟子に、アデルはようやく顔を綻ばせた。
「私は、お前のことを少し見くびっていたのかもしれない。いい加減で適当な弟子だとばかり思っていたが、どうやら考えを改めなければならないようだ」
「えぇ、師匠の中で俺の好感度どんだけ低いんですか?」
「まぁ聞け。勝ち越されたことは悔しいが、同時に弟子の成長に喜びを覚える自分がいる。そして、自分がそんな情を抱く日が来るとは思ってもみなかった」
アデルの言葉に黙って耳を傾けるユリウス。
そんな弟子に穏やかな眼差しをむけた。
「今までお前をぞんざいに扱ってしまっていたよな。お前があまりにも有能だから、つい甘えが出たのかもしれない。思えば仕事道具をこっそり拝借した時も、お前はなにも言わなかったな。きっと私が師匠だからと言いにくかったのかもしれないが、これからはそんな配慮必要ないからな」
アデルの真剣な言葉に、ユリウスは目を見開いた。
そして、ぼそりと呟く。
「師匠……」
「ん、なんだ?」
「仕事道具の件、初耳です」
アデルの顔が一瞬で青ざめた。