4 ピメント=ヴァン=タカメッツという男(1)
視点が変わります。
ピメント=ヴァン=タカメッツは、自分が極めて凡庸な男だと自覚している。
ピメントは、このエピス王国に二十以上ある伯爵家のうち、中の中の中くらいに位置するタカメッツ伯爵家の次男として生を受けた。
使用人らに傅かれてわがままお気楽次男坊として育った幼少期も。
優秀な兄への劣等感を募らせ拗らせた思春期も。
大した才もない次男として身の振り方を案じ将来への不安に悩まされた青年期も。
どれをとっても、四十路を歩む今となっては、中流伯爵家の次男坊としては実に平凡な来し方だったと思うのだ。
なのに。
おかしいではないか。
口を開くと、はく、と息が出ていく。でも、肺には新たな空気が入ってこない。
苦しい、と思う前に全身を襲うこの冷たさは、圧倒的な恐怖なのだろう。
どうしてこうなったのかなどと考える前にピメントがまず思ったのは、おかしい、ということだった。
凡庸な自分は平凡に生きてきたつもりだ。40年余りも生きていれば、予想外のことも奇想天外なこともそれなりに起きた。
しかし、それらは全て自分以外のところで起きたことだった。その余波が我が身に降りかかることはあっても。
こんな非現実な状況に自分がおかれるなんて。
おかしいではないか。
平凡な自分が、こんな非常識な事態に陥るなんて。
おかしいだろう。
首には細い子どもの脚が巻きつき、ピンポイントでピメントの息の根を止めてくる。
がむしゃらにその足を外そうとするも、指の先から力も体温も抜けていくようで、自分の手も体もまるで使い物にならない。
つい数瞬前まで目の前に立っていた痩せっぽちの、その胴すらピメントの片腕で簡単に折れそうなガリガリの少年の足が、今やピメントの生命の帰趨を握っていた。
自分と同じ赤髪で、トーガシュという名を持つ少年。生意気な口をきいたから分からせてやるため手を上げようとしただけなのに。
少年は音もなくピメントの肩に跳び乗り、そのまま足で首を圧迫して気道を的確に塞いだ。
標準体型というには厚みがありすぎる大の男が全身で暴れているのに、全く緩むことのないガリガリの脚。
常識では考えられない事態に直面し、苦しさと混乱の中でピメントの頭に浮かんだのは。
(ああ、こいつも『怪物』だったか)
という諦めのような感慨だった。
◇◇ ◇ ◇◇
ピメントと異なり、兄のパーニシュは非凡なほどに優秀であった。
幼少期は、兄上って頭がいいのだなあ、くらいにしか感じていなかった。
しかし、十代になって王立学院に入り、実に平凡な成績を修めるようになった頃、比較対象が増えたことで、ふと、入学前の兄の自宅学習の進度が異様に早かったことに気づいた。それは、優秀と持て囃される生徒と比べても異様に思えた。
そして、それにもかかわらず、学院で兄が天才などと持て囃されているわけでもないことにも気がついた。
パーニシュは、確かにその学年の成績優秀者の一人だったが、あくまで常識の範囲内の優秀さと認識されていたのだ。
一度、試験前に図書室でパーニシュが同級生と勉強会を開いているのを見かけたことがある。その雰囲気は実に和やかで、パーニシュは、分からないところを学友に訊いてさえいた。しかし、ピメントは、学院に入る前からパーニシュが学院卒業レベルの知識を淀みなく解説している様を見かけていたのだ。
平凡な子どもであった当時のピメントはその違和感を言語化できなかったが、今なら分かる。
パーニシュは、ただ学問において秀でていただけでなく、自らが集団の中で浮くほどの才を持っていると自覚するだけの視野の広さも、中流伯爵家を継ぐ者として周囲に埋没すべきと判断できる政治的バランス感覚と判断力も、そして実際に周囲に合わせて振る舞える演技力も行動力も、全て持ち合わせた異端児だったのだ。
自分の平凡な身の程を思い知った頃、ピメントは、そんな兄を胸の内で『怪物』と呼び始めた。
学院時代も後半となり、傑物の兄がいればさぞやタカメッツ伯爵家の行く末は安泰だろう、そしてスペアである自分はいずれ用無しになるだろう、とピメントが自分の将来を不安に思い、進路に悩んでいた頃、隣国に留学していたパーニシュから一通の手紙が届いた。
曰く、留学先でひょんなことから隣国の王子王女と友誼を結んだ。そして王女を娶ることとなった。中位伯爵家にそのまま王女降嫁とはしづらいものの、隣国との友好関係を確固たるものとした功績もあってパーニシュに新たに侯爵位が叙爵される予定となった。自分が新たに家を興すつもりだ。ついては、進路についてお前なりに考えはじめていただろうに心苦しいのだが、タカメッツ家の伯爵位はピメントに継いでほしい云々。
進路について決めかねていたこともお見通しかよ、けっ、この怪物が。てか、ひょんなことってなんだよ、ひょんなことで高貴な方々と友誼結ぶなよ、友誼結んだだけで一介の伯爵子息が王女娶れたら身分制度なんて簡単に崩壊するだろうが、だから怪物って呼ばれるんだよ怪物め。と一通り毒づいたものの、隣国王族にパーニシュが目を付けられたということは意外に思い、ピメントは少し安心した。怪物でも周囲を欺ききれない人間らしさがあったのだなと。
スペアである自分が伯爵位を継ぐなんて、と慄いたのも束の間、ピメントが卒業し、パーニシュが帰国すると、あれよあれよという間にピメントが後継となる環境は整っていった。ピメントの足りない部分を補う方法や人材がいつの間にやら用意されていて、一方で、これだけは努力しろという課題がパーニシュにより示され、当然ピメントは抗えなかった。ただの人間が怪物に敵うはずがない。
パーニシュと隣国王女の婚約が内定してから約20年の間は順調そのものだった。
両親が相次いで亡くなるなどの不幸もあったが、ピメントは伯爵位を継ぎ、家庭も築き、また、パーニシュも恙なく結婚し、主に魔術方面で様々な功績を上げて新侯爵として国内で確固たる地位を得た。
ピメントとしてはただ流されていただけだった。全てを難なくこなしてみせた兄は、やはり怪物だ、と何度も呟いた日々だった。
ただ一点、未だ兄夫婦に子がなかったことだけは気になっていた。しかしそれも、どうせ兄のことだから、何か諸々のバランスやら何やらを考えているのだろうか、と楽観視していた。
その兄夫婦に子が生まれたのが約6年前。パーニシュの婚約時から約20年が経っていた。
その子が、何を隠そうトーガシュであるのだ。
タカメッツ家に特徴的な真っ赤な髪に、隣国王族によく見られる紫色の瞳がその証。
もっとも、ピメントが誕生祝に駆け付けた時は、まだ髪は赤みを帯びた薄い金色で、ずっと寝ていたから瞳の色も見ていなかったが。
そして、ピメントが誕生祝に訪れてから間を置かず、パーニシュ一家は賊の襲撃に遭った。パーニシュも、隣国王女であった妻も、それから使用人ら数名も無残に殺された。トーガシュも、両親共々殺されたと思われていた。
現場は凄惨極まりなかったが被害者は辛うじて身元確認ができ、トーガシュについても、髪や瞳の色は判然としないものの、赤子らしき遺体が見つかったため、死亡として処理された。
隣国の元王女も被害者であったため、捜査は国の威信をかけて行われたが、結局よくある強盗殺人事件だとされた。早々に捕まった賊は以前から貴族の馬車襲撃や屋敷侵入を繰り返しており、その背後関係を調べても何も出てこなかったのだ。
ピメントは呆然とした。
まさか、兄がこんなにも早く死ぬなんて思わなかった。しかも、ただの強盗殺人なんかで。
怪物なんだから、そんなものから家族を守るなんて容易だろう。嘘だろう。自分は悪夢でも見ているのか。本当は、兄は生きているんじゃないのか。
何度問いかけても、兄が死んだという現実は変わらなかった。皮肉にも、兄のこの20年の間の功績でもある魔力判別システムが、遺体が兄とその妻であることを証明していた。
ピメントが呆然としている間にも、物事は恙なく進んで行った。兄は死んだにも関わらず。
パーニシュがいなくなっても、その仕事は然るべき人に引き継がれ、財産や爵位関係もあるべき人らの手によりあるべきように手配された。パーニシュが、自分に万一のことがあったときのために、と日頃から全てを整えていたのだという。
タカメッツ伯爵家はピメントを家長として回るように機能しており、既に後継者たる自分の子もいるし、兄が亡くなった影響は、心情的なものを除けば、ほとんど無かった。いや、無いようにされていたのだ、兄の手で。
呆然としていたピメントは、数年ほど呆然とした後、さすがに思い至った。
兄は、自分が殺されるかもしれないと分かっていたのかもしれない、と。分かっていたからこそ、死後のことを全て手配してあったのだ。
一体誰に、どうして、何があったのか、などは凡人の自分には分からないし、分かりたくもない。
兄一家を殺した奴に恨みが無い訳ではもちろんないが、あの兄が自分と家族の死まで甘受しなければならない相手だ。自分のような凡人が対峙できる相手であるはずもない。
ピメントの推測でしかないが、兄がタカメッツ伯爵位を継いだ上で侯爵位に昇爵されるのではなく、自分で新たな家を興すことにしたのは、死後の混乱を小さくするためではないか。
裏付けるものはないが、ピメントはこの推測が当たっていると確信している。
しかし、そうなると、パーニシュは、王女と婚約した頃から、すなわち20年前から、自分が死ぬことに備えていたことになるのだ。
そんなまさか、とは、ピメントはもう思わない。
だって、兄は怪物なのだから。




