12月2日
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※後々追加するかも知れません
・実話
・不思議体験
・思い出話
【文字数】
約3500字
あれは、冬のある寒い朝だった。
目を覚ますと、顔の真横に人の足が立っていた。
顔面を挟み込むように、二本。黒い靴下と、グレーのスラックスの裾が見えた。
仰向けで、顔も真っ直ぐ上を向いていたのに、最初に目に飛び込んで来たのは顔の真横のそれで。当時まだ6歳だった俺は、その足が何となく誰のものか理解しつつ視線を天井に向けた。
祖父が、ニコニコしながら俺の顔を真っ直ぐ見下ろしていた。
一張羅の、グレーのスーツを着て。
「じいちゃん」
俺は呼びかけた。そこにいるはずのない人へと。
「どうしたと?」
「病院行っとるとやないと?」
「帰ってきたと?」
「病気、治ったん?」
祖父はニコニコした満面の笑みのまま、何も答えない。ただじっと、俺の顔を見下ろしてニコニコしているだけ。
そのうちに、寝っ転がったまま話しかけるのは失礼なんではなかろうかと気が付いた。当時の俺は詳しい礼儀とかはまだ分からない歳だったけど、それでも、人と話すときはちゃんと起きなくちゃ、と考えた。
そうして、身体を起こした。
それで、目が覚めた。
12月に入ったばかりの寒い朝。祖父なんてもちろんどこにも居なくて、話したかったのに影も形も姿が見えなくて。
布団の上に尻餅ついたみたいに座り込んで、じいちゃんと話したかったな、ってぼんやり思った。
当時はエアコンなんて普及してなくて、寝ていた二階の部屋は冬の空気で冷え冷えとしていて。でもそれがかえって清冽さを感じさせて。
何となく、布団から立ち上がった。
窓の外から朝日が射し込んで来ていた。
祖父の建てた古い家だったから、二階の窓であっても下半分は磨りガラスの飾りガラスで、透明なのは上半分だけ。6歳の子供がその透明ガラスから外を覗くには、やや背伸び気味にならざるを得ない。
だけれど、家の前の道の先、小さな川を越えたその向こうの丘のてっぺんから顔を出し始めた朝日から何となく目が離せなくなって。
完全に目を覚ましてしまったこともあり、しばらくずっとその朝日を眺めていたのを憶えている。
だけどそこはやっぱり6歳児。
見飽きたのか、それとも再び眠気が来たのか、いつの間にか布団に戻ってまた眠ってしまったのだった。
「ほら起きり。じいちゃん帰ってきたよ」
その母の声で起こされた時には、もう昼前になっていた。
ビックリした。
だってちょうど、そのじいちゃんの夢を見た直後のことだったから。
慌てて起きて、急いで階段を降りた。
じいちゃんが建てた家は元は平屋で、二階は田舎の農家に特有の養蚕のためのスペースを改築したものだったから、階段も子供が昇り降りすることを想定した作りになってないので、昇りはともかく下りは6歳児にはちょっと怖い。それでもなるべく急いで、その下の居間の母の元へと向かう。
「じいちゃん帰ってきたと!?」
「帰ってきたよ。あんたも挨拶し」
母にそう言われて連れて行かれたのは、じいちゃんの部屋ではなく座敷だった。
天皇皇后両陛下の肖像が掲げられた床の間のある座敷。亡くなったひいばあちゃんやほとんど会ったことのない伯父さんや、誰かよく知らない、もう亡くなった親族たちの写真も飾られている座敷。盆や正月には親戚一同が集まって夜通し酒盛りが行われる、座敷。
そこに、白い布をかけられた、見たことのない長方形の大きな箱が置いてあった。
「じいちゃんよ」
努めて素っ気ない調子で、母が言った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
祖父、清、享年70歳。胃がんだったと知ったのはずうっと後のことだった。
親父は七人兄弟の下から二番目で、長男は生後1週間で亡くなったと聞いているから実質六人兄弟。次男の伯父は肺がんで亡くなって、俺は葬式に出たことしか覚えていない。三男の伯父は早くに東京に出て向こうで家庭も持って跡継ぎを外れた。だから四男の父が跡継ぎということになる。
父の姉ふたりはどちらも福岡で嫁に出て、親戚の集まりには必ずやってくるからよく知ってる。どっちもよく喋る、やかましい伯母たちだが嫌いじゃない。
他に五男の叔父がいて、あんまり子供は好きじゃない人だから特に仲良くはしなかったけど別に嫌われてもいなかったから、普通。
そういう伯父や伯母たちを育てたじいちゃんは、戦前戦中に小倉にあった造幣局だか造兵廠だかの工場長として勤めていて、戦後は地元に戻ってきて、長く保護観察司をやっていたそうだ。カンサツシだったって話だったから、国家公務員の保護観察官ではなくて、多分その下につく民間の“観察司”の方だと思う。
そんなじいちゃんは明治生まれらしく、天皇皇后両陛下を敬愛する人で、地域と社会に多大な貢献をしていたらしい。いわゆる名士というやつだ。子供だったから詳しくは知らないけど、そんなだったから、じいちゃんの家にはよく知らない大人が訪ねてきていたし、住んでいた町ではどこに行っても、「ああ、あんた清さんの孫な」で通るのが幼心に不思議だった。
公民館でも、近所の購買店でも、少し離れた畜産農家でも、製材所でも、知らない大人に「あんた、清さんの孫やろ」と声をかけられて可愛がられた。まずじいちゃんの名前が出るから、いつも全然怖くなかった。
そんな俺は物心ついた頃からじいちゃん子で、いつもじいちゃんの後ろで家の仏壇にじいちゃんの真似して読めないお経をあげたり、公民館について行ったり、朝早くにじいちゃんと並んで四方拝したり、一緒に庭の池の鯉にエサをやったりしていた。
実際にじいちゃん家に同居していたのは、多分4歳から7歳までの短い期間だったと思うけど、今でもその頃の記憶は色々鮮明で、たくさん憶えている。自分の人生の原風景と言えば、そのじいちゃんと過ごした日々のことだった。
座敷に祭壇が組まれ、その前にじいちゃんの棺が置かれ、座布団がたくさん並べられて弔問客が大勢やって来て。言われるがままに焼香して、棺の中のじいちゃんの死に顔を見て。じいちゃんは今際の際に口が閉じなかったらしく、白布で顎を縛って無理やり口を閉じられていたのを憶えている。歯痛の人がよくやるやつだ、って思った。
近所のお寺さんから和尚がやって来て⸺この人も顔見知りだ⸺葬儀をやって、そのあと隣町の火葬場で荼毘に付した。棺ごと穴に入ってくのを見送って、出てきたら棺なんか全然なくって、大人たちに言われるがままに箸渡しをした。灰の山に埋もれる白い固形物がじいちゃんだとは思えなかったけど、何となく、これでもう二度と会えないのは理解した。
そのあと和尚のお寺に上がって、納骨堂に骨壷を納めて手を合わせて、それからみんなで家に戻った。参列者に和尚も交えて昼食会をするためだ。うちの地元では、葬儀を取り仕切ってくれた和尚への謝礼の意味も込めてお昼を振る舞うのだ。
それが終わり、参列者の人たちが帰って行って、遺族だけを集めて和尚の説法を聴く。子供だからなかなか大人たちの話に口を挟めなかったけど、どうしても話したい一心で声を上げた。
朝方にじいちゃんが夢に出たこと、たくさん話しかけたのに一言も返してもらえなかったこと、ちゃんと話をしようと身体を起こした拍子に目が覚めたこと、その時ちょうど夜明けの頃だったことも、興奮気味に話した。
大人たちは幼子の拙い話を静かに聞いてくれて、あんたじいちゃん子やったけん、最後にお別れしに来てくれたんやねえ、良かったねえと口々に言ってくれた。
ちなみに、じいちゃんが臨終したのは夜明け頃のことだったそうだ。
つまり、まさに死の瞬間、じいちゃんは俺の元にやって来た、ということになる。
「ばってん良かったなあ」
最後に締めるように、和尚が言った。
「もし声かけられとったら、今頃お前もあの世さい連れてかれとったかも分からんぞ」
そう言って和尚はゲラゲラ笑った。
うちのじいちゃんは生きてるやつを道連れに連れてったりしねえよ!
何もかも全部、台無しだよ和尚!
そんな和尚はうちのばあちゃんと伯母ちゃんたちと母とに物理でも言葉でも散々叩かれて、慌てて逃げ帰って行った。
それが俺の、最初の霊体験。
でもホント、あの時一言も声を返してくれなかったのは、多分和尚の言うとおりだったんだろうと今でも信じている。
心霊体験だけど怖くない、ちょっと不思議な経験でした。
あまりに鮮烈だったので、それからン十年経ってるのに詳細に憶えています。多分、死ぬまで忘れない。