実感②-バケモノ対策課、一人で豚退治編
月曜の朝から、葵は上機嫌だった。
感情をあまり露にしない彼が珍しく、誰が見ても機嫌がよさそうだったのだ。係長の三宮伊吹が「何かいいことでもあったのか?」と聞くと、「朝、クモが玄関にいたからです」と適当なことを答えるほどに。
伊吹も葵とは別方向ながらずれているところがあり、「おお、それは縁起がいいな!機嫌もよくなるはずだ」と特大スマイルで返した。この不思議なずれ方を、葵は面白いけどめんどくさいなと子供のころから思っている。
廊下で大量の資料を抱えているご婦人の資料を持ってあげたり、給湯室の高い棚が届かない女性職員の代わりにおぼんを取ってあげたり、虫が苦手な樹の代わりに男子トイレのゴキブリを始末したり、貧血を起こした若い女子職員を医務室に運んだり、バケツに躓いた八神課長を倒れる寸前にキャッチしたり、虫が苦手な樹の代わりに彼の机に現れたクモを逃がしたり。
上機嫌の葵は朝一から善行を積んでいく。
もちろん普段から誰か困っていれば無視はしないし、素行がいいからこそ、人気があるのだ。
ただこの日の葵はいつにも増して優しく、きらきらしていたという。貧血を起こした女子は、「お姫様の気分を味わえた」と自慢したところ、しばらく周りの女子職員から無視を決め込まれたとか、されていないとか。
その上機嫌が終了したのは午後2時だった。
課内には課長と葵の二人しかいない状況、誰も駆除が終わっていない状況、他の仕事がある課員もいる状況、自然環境課は通常業務が忙しく手を貸せない状況…そんな中、唐揚げが「感知」してしまった。
「え、どうしよう葵君。弱くはない、かな」
「…一人で行きます」
「え、大丈夫?」
「課長来てくれますか?」
「お腹痛い」
「だめなら電話します。早急に誰か寄越してくださいね」
葵は日本刀を入れた猟銃用ケースと、お守りが描かれた小袋を作業着のポケットにしまった。
一人での駆除は初めてだった。というより、これまで一人で駆除に出た課員は皆無だ。課としても、葵としても初めてのことで、どう転ぶかわからない。これまでのような大したことのないヤツならば、一人でも不安はなかったが、弱いヤツの方が少ない今、いかに優れた能力と武術を持つとは言えど、いつもの何倍もの緊張は嫌でも強いられる。
それでも今は、一人で行かねばならない。メガネを外して車を降り、日本刀を取り出した。
到着した東南地域の山間には、弱くはなさそうな妖物が待っていた。巨体の豚型。前足が異様に太くぼこぼこしたイボが沢山あり、耳と尻尾はない。
質量がヤバそうだな、と対峙する。どちらも間合いを図り、動き出しは慎重になっている。葵の足元で小枝がぱき、っと折れる音がした。
はっとした瞬間、豚が葵をめがけて走って来た。そのまま切れる、と袈裟懸けに刀を振るも、豚は寸ででひらりと避け、葵を飛び越えて背後に周った。急いで豚の方に向き直り、間合いを取り直すも、豚はまた襲ってきた。葵は近くの木に急いで登る。
豚は木には登れないと見え、下から仰ぎ見ている。このまま樹上にいても解決しないことは百も承知だ。このまま降りていけば勢いで突けるのでは、と刀を下に向け、飛び降りた。
豚は意外にも俊敏で判断力に優れ、葵は飛び降りるだけになってしまった。急いで刀を持ち直し、走り出した。豚は追いかけてくる。
そういえば、とポケットの中の小袋を思い出した。小袋を取り出し、迫る豚の前にお守りを突き出した。
豚は止まる、というより手足を動かしてもこれ以上進めない、そういう風であった。葵は左手でお守りを突き出しつつ、右手で豚の喉から日本刀をぶっ刺した。閃光とともに、豚は溶けていった。
これはやはり有術だ。葵は確信すると同時に、感じたことのないほどの緊張と不安から解放され、その場にしばらく座り込んだ。
退勤時間ぎりぎりで役場に戻ると、唐揚げ課長と樹が抱きついてきた。「良かったー!!生きてるー!!」と大げさに騒ぐ。「簡単に死にませんから離してください、暑い」と冷ややかに対応した。ぼっちゃりとがっしり系に殺されたら、たまったものではない。
課長は「はー、終業前で良かった~定時で帰れる~。あ、報告書は書いてから帰ってネ」と時間でさっさと退勤してしまった。
俺も唐揚げって登録しようかなあ。とぼんやり考えた葵だった。
実はこの時、葵はメガネをかけ忘れていた。彼のメガネは出力の強すぎる有術を抑えておくものだが、へとへとで忘れていたし、抑える必要もないほど疲れていた。
素顔の葵を見かけてしまった女子は狂気し、男性陣の目も惹いていた。メガネには顔のきらめきを抑えておく役割もあったらしい。
他部署だけでなく、駆除で見慣れているはずの環境部も同様だった。緊張感走る仕事中と、落ち着いた室内では全然違って見えたのだ。
ただ、退勤することしか頭にない課長はそんなこと気づきもしないし、誰よりも素顔を見慣れている向日葵は今更何も思わなかった。
向日葵はメガネかけ忘れてる、と帰るついでに言おうとしたが、最近入職した一宮あさひが「アオイくん、メ・ガ・ネ」と先に指摘してしまった。あ、車だ、まあいいや、と葵はそのまま報告書作成を続けた。
「アオちゃん」
帰ろうとしている樹が声をかける。
「女の子のアオイちゃんも見てみたかったナ…」
樹はそっと葵を抱きしめ、帰っていった。
野生動物対策課の前を通った八神幸次は、一人残業に励む葵を見つけ、声をかけた。
「葵君、午前中は助けてくれてありがとう」
「ああ、いえそんな」
にしても、と幸次は葵の顔を至近距離でじろじろ眺める。知り合い程度の人に顔を近づけられるのは、変な緊張感である。
「素顔、予想以上にかっこいいねえ。きっとあのアクセサリーも似合うねえ」
「ああ、向日葵から受け取りました、ありがとうございます」
「そうそう、あれね、某高級ブランドの男女兼用デザインでさあ。シンプルだからさりげなく付けられそうと思って、お土産に渡してもらったんだよ。そういや、向日葵ちゃんもあれと同じデザインの色違い持ってったねえ。あの子がゴールド、君シルバー。じゃあ、帰るね。残業頑張って」
今日はみんな一言多いよな、と葵は報告書の作成に戻った。




