124:ヲタクとファイナル
「失礼します。オリエンタルライム株式会社、ミアシスの中川美桜と長谷川沙良です」
ヤバい。少し声が上ずった。そう思ったところでときはすでに遅し。沙良は気づかなかったけど、近くにいた石塚さんが笑いながら声をかけてきた。
「緊張してるね。大丈夫。会長の末永さんもこういう場は意外と弱くてね。周りには見せないから、余裕があれば見てほしいんだけど、水を飲む間隔がものすごく短くなるんですよ。見てて面白いですよ。ただ、お二人にそこまでの余裕はないかもしれませんが……」
そんなことを言う石塚さんの視線は日本水泳協会の会長でもある末永さんがソワソワしながらあっちに行ったりこっちに来たりとかなり落ち着かない様子。
その様子を見て、私の頭の中は完全にマネージャー化していて、挨拶に行こうとしていた。
「沙良、ご挨拶行くよ。挨拶しておかないと」
「せやな。……あっ、名刺持ってない」
「大丈夫。メンバー分は持ち歩いているから。今も名刺入れを懐のポケットに入れてるから。もちろん、式の前にはおいていくし。っていうか、沙良に預けると思うし」
こうなることは、想定済みだ。それに、こういうのを田村さんがいつしかやっていたこと。ちなみに、今、私の懐には、私と沙良のほかにも、メンバー全員分の名刺を隠し持っている。
たまたまだけど、この衣装、本当にスーツのような造りで、ポケットがいくつもあることが本当の救い。誰にも言っていないけど、ヘアスタイルを整えるための小物と、お試しサイズほどのボトルに入った香水も持ち歩いている。
「まぁ、そうなると思うわ。とりあえず、挨拶しに行かなあかんな」
ということで、沙良に私から名刺を渡して石塚さんに一言かける。
「石塚さん。失礼な話かもしれないんですけど、会長の末永さんにご挨拶させてほしいんですけど……」
「あぁ、そうでしたね。一緒に行きましょうか。さすがに緊張しますかね」
ということで、石塚さんにお願いして、会長にご挨拶させてもらうことに。
「会長、よろしいでしょうか?」
「ん?あぁ、石塚君か。ご苦労様。どうかしたかい?」
「今日、このあとの表彰式でプレゼンターをしていただくオリエンタルライム株式会社のミアシスさんから中川美桜さんと長谷川沙良さんのお二人がご挨拶にいらしております」
石塚さんがご丁寧に私たちを会長に紹介してくれる。
「初めまして。オリエンタルライムの中川です。本日はお招きいただきありがとうございます」
「同じくオリエンタルライムの長谷川です。宜しくお願い致します」
「あぁ、お二人が。噂でもお伺いしていますし、さきほどのパフォーマンスも見させていただきました。かっこよかったです。お疲れ様でございました」
「ありがとうございます。そのお言葉をいただけて幸いです。これからもよろしくお願いします」
「あとは、選手たちを心地よく迎えてあげようじゃないか」
会長の視線は、すっとプールの方に向けられる。その眼差しはなぜか、後悔の念が残っているようにも見えた。
だけど、ここで水を差すわけにはいかない。なんとかしてスルーして、私もプールの方に視線を向ける。
「そうですね。本日はよろしくお願いします」
「さぁ。そろそろ決勝競技だね。いいレースが見られたらいいかな」
「そうですね。でも、私は選手たちが後悔のないようにレースをしてもらたらいいかなと。私自身、レースの時は後悔だらけだったんで」
「あと、あれやな。たしか、美桜が話を聞いてたマネージャーさんの話も入ってるんよな?」
「そうね。ロングのレースだからって言って、体力を温存しすぎてラストで飛ばしきれずに人生で唯一だった決勝競技で入賞できなかったって言ってたから、少しだけその話を組み込んだりはしたけど」
「なるほどな。だから、妙に中身がリアルなんだね。それを聞いて納得だよ。さすが石塚くんだ」
「正直なことを言うと、僕もオリエンタルライムさんがデモテープをお持ちされたとき、衝撃を受けたくらいですからね。ここまでリアルに表現してくるか。と思いましたし」
「その言葉を聞けて、私たちは一安心ですかね。まぁ、正直なことを言えば、選手だけじゃなく、マネージャーやコーチ、水泳にかかわるすべての人に届けばいいんですけどね」
「せやな。美桜はそこを真っ先に考えとったもんな。うちは規模がでかすぎるんとちゃうかって思ったけど、いろんな人と話した今なら納得やわ」
たぶん、時間にして10分ほどだったと思う。でも、曲の感想も聞けたし、いろいろな思いも伝えられたから、それなりに有意義な時間になったと思う。
『大変長らくお待たせいたしました。ただいまより第94回日本選手権競泳競技大会、競泳競技、1日目の決勝競技を行います!』
この声の後、モニターには、男子400メートル自由形決勝と画面いっぱいに表示される。
『男子400メートル自由形、ファイナル!出場選手の登場です!第1レーン……』
この声に私のテンションも跳ね上がる。スルスルと吸い込まれるようにモニターの前に寄っていく私と沙良。自分で言うのはどうかと思うけど、まるでゴキブリホイホイのよう。
そして、選手8人が登場。静かにレースに集中する選手たちを鼓舞する様に、鋭い笛の音が4回、短く鳴る。そして、長い笛が1回。
ここまで来たら、私のテンションは最高潮。さすがに本部室の中で、会長も私の後ろでゆっくりしている。さすがにはしゃぐことはしないけど、油断したらはしゃいじゃいそう。
そんなはしゃぎたい気持ちを抑え込んで、レースが始まるのを見守る。
『テイクユアーマークス』
今日の中で一番緊張感のある声。この声に私の心臓がキューっと締め付けられる。
そして、号砲が鳴り、選手8人が飛び出していく。
場内では、熱を高めるためのBGMがスタート直後から流れ出すけど、それ以外はレースの中でスタート前と並び、静寂が支配する時間。ここからデッドヒートを繰り広げられるんだから、期待しないわけにはいかないよね。
そして、わずか7秒ほどで浮き上がってきて腕を回し始める選手たち。ほぼ横一線でレースが進みだし、最初の50メートル。
最初の50メートルは24秒前半で原田選手がトップで入っていった。
さすがのスピードだな。さすがに後続はついてきて最期との差は1秒以内には収まっているものの、ここから差が大きくなるはず。




