113:予選競技 2
「美桜はどれくらいで泳ぐん?」
ふいに翔稀に聞かれた。
「私?この競技で行くと、1バタが39秒73だったかな。ベストが」
「ごめん、確認やねんけど、“1分39秒73”やんな?」
「当たり前じゃん。世界記録でもあそこに出てる“WR”の数字だよ?私がそんなタイムで泳いでいたら化け物だよ」
「いや、そうやねんけど、2分かもしれんやん?俺やとそれくらい行くやろうし」
「あぁ、そういうことね。ごめん。あと、沙良も同じくらいだったと思うよ。タイムの話で盛り上がった記憶あるから」
「そうなんや」
翔稀が納得すると、今度は由佳から質問が飛んでくる。
「あっ、せや。さっき、沙良お姉ちゃんが言ってた、申し子と超特急の直接対決ってどういうこと?」
「あぁ、それね。えっと、まず、その申し子と超特急って言うのは異名で、申し子っていうのは、日本代表の宮武花梨選手の異名。沙良は略してたけど、一般的には『水の申し子』って言われることが多いかな。あと、超特急って言うのは、『スプリント超特急』って呼ばれる大神遊菜ちゃんのこと。宮武選手が私より2つ上か。で、水の申し子は名前の通り、中学時代からどの競技でも中学記録を更新したりとか、とんでもない成績を残していたことからついた異名で、スプリント超特急は遊菜ちゃんが高校生の時に半フリと1フリで3年連続2冠したときについたんだよね」
「それってすごいことなん?」
今でもあの時の新聞記事は覚えている。それほど衝撃的だったから。
「遊菜ちゃんのほうに関しては、毎年大会記録を更新して、最後の年だけ高校記録も一緒に更新したんだったかな。短距離レースに敵なしで、誰もついてこれていなかったレースが続いていたから、それが由来。宮武選手は中学時代から大会記録とか中学記録を塗り替えていたから、神様が競泳でレコード更新をさせるために生まれてきたんだ。とか誰かが言ったのか、そこから『水の申し子』って異名が付いたの。ただ、2人とも本当にすごいと思ってる」
「他に異名とかってあるん?」
「そうね。あとは~。35歳になっても第一線で活躍し続ける中村雄太郎選手が最近レジェンドって呼ばれはじめているし、遊菜ちゃんと同じで短距離に強い原田直哉選手がクールというか冷たいくらいなんだけど、ちゃんと結果を残すから、冷徹な王子さまって言われてる。まだいたかな」
「今調べてみたら、背泳ぎに白馬に乗った王子様もおるやん」
「あぁ、本田公介選手ね。たしかに、あの人もイケメンだもんな。あっ、それなら、同じ背泳ぎの選手で白井桃香選手は競泳界のプリンセスって言われてるね」
『続いて最終組5組の競技を行います』
美祢さんのアナウンスが聞こえて、じっとスタート側を見る。黒のスイムウェアに黒のスイムキャップで5レーンに立つのが遊菜ちゃん。対して、青のスイムウェアに青のスイムキャップで4レーンに立つのが宮武選手。注目はこの二人と言っても過言じゃないだろう。
そんなことを思いながら笛が鳴り、スタートの準備をする選手を見ている。そして、集中してみていた分、『テイクユアーマークス』と言われて身体が余計に強張る。
そして、スタート合図の甲高い音が鳴り、選手がみんな飛び出していく。
「浮き上がりで2、4、5、8の4人か。積極的に行くな」
たぶん、心の中で思っていたことがぽろっと口に出ていたみたい。でも今はまったく気にしない。あとは、ターンとそのあとだな。
前半のレースは浮き上がりで先に飛び出した選手たちが引っ張る形。ただ、女子だと後半に強い選手が多い。まだ何とも言えないな。
「そーれい!」
どこからかそんな声が聞こえた。……この声は沙良か?どこから見てるんだか。
「今の声は沙良姉か?」
「たぶんね。ただ、どこでみてるのかはわからない。っと。浮き上がりでもまだ競ってるね。遊菜ちゃんが6秒8で、宮武選手が6秒7か。タッチ差。……まだわからないな」
蝶のように羽ばたくバタフライ。理想的なフォームで飛ぶ先頭の2人。生で見られることができて幸せを感じる。
レースは本当に一瞬で、すでにラスト25メートル。見た目、どっちが前に出ているのかわからない。本当にタッチの差で予選のトップが決まる。
「行け!ラスト!」
自然に立ち上がって声が出ていた。いきなり声を出したことにびっくりしたのだろう。メンバーが私を見ていた。
こうなればレースが終わるまで私に歯止めは利かない。レースが終わるまで吠えっぱなしだった。
タイムは58秒46で宮武さんにとりあえず軍配が上がる。遊菜ちゃんはコンマ1秒ほど遅れて58秒59でのフィニッシュ。
「速いなぁ。美桜のタイム聞いたら余計に速く感じるわ。異名が付くのもわかるわ」
「それでもベストプラス1秒だからね。準決勝も決勝もまだまだ伸びると思う。朝イチで身体が動かないのも理由の一つかな。遊菜ちゃんに関しては、タッチも流れていたし、次のレースは修正してくるはず」
「ほんま、よう見えてるわ。見ただけでそんなんわからんって。あと、流れたって何?ゆるんだってこと?」
「そういうこと。ちょくちょくみられることなんだけど、トップが確定とか予選突破が確実な時によくみられるし、浮き上がりのタイミングとか掻いた水の量によって大きく変わるから、一概には言えないけど、力を意図的に抜くことを言うことが多いかな」
「細かいなぁ。ずっと全部全力やと思ってたわ」
「それでも一部の選手だけだけどね。準決勝に残れるか微妙な選手は一瞬たりとも気は抜けないし、常にベスト更新を狙ってた私でもしなかった。短距離になればなるほど、その一瞬が命取りになるから」
『ただいま行われました女子100メートルバタフライの予選20位までのランキングが表示されています』
ターン側にある大型ビジョンに映る結果。もちろん、遊菜ちゃんが2位、宮武選手が1位通過。
「美桜おねえちゃん、タイムの横にある“Q”の文字って何?」
「うん?あぁ、あれね。あれは、次のレースに進める人ですよ~って人。って印。やっぱりコンマ1でなく選手もいるか。辛いな。まぁ、その描写もスイミングの曲の中に入れてんけどな。」
「その選手は準決勝に出られへんの?」
「準決勝は上位16人だけだからね。100分の1秒で泣く選手も、距離が短くなればなるほど多いね。私は準決勝とか決勝とかに出たことないから経験したことはないけど」
「そうなんやね……。ほんなら、ほんまにそのボーダーライン当たりの選手は死に物狂いなんやね。さっき、美桜おねえちゃんが言うてた意味がようわかったわ」
「もしかすると、準決勝も同じ形になるかもしれないだろうし、決勝も100分の数秒の勝負になりそうね。今年は面白いレースが多そう」




