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ペロ

作者: 月津 裕介

 線路の音が変わり、車窓に人見川が見えてきた。河原に茂るアシが風に吹かれ、一斉に金色の美しい波を作って川上へとのぼっていく。過去を覆い隠すようにして。

 この街に帰ってきたくなかった。そんな僕の気持ちなどお構いなしに、祖母はいままで何度も帰って来いとせっついてきた。それでも何かと理由をつけて帰らなかったのだが、今回ばかりは違った。

 先月、ペロが死んだ。

 夏休みもとうに終わった九月末の祖母からの電話に、嫌な予感がしたのは確かだ。涙混じりの震えた声の中に、『死』という単語が潜んでいた。それを耳にしたとき、心の奥底に抱え込んでいた塊が一瞬にして、砕け散っていった。

「すぐに帰ってきなさい」命令口調で訴える祖母の声が遠くに聞こえた。

 怖かった。ペロの屍骸を見て、ペロを避けていた自分が冷たい人間、いや、弱い人間だったのだと認めなければならなくなりそうで。こんな僕といて、ペロは幸せだったのだろうか。結局、僕は理由をつけ、すぐには帰らなかった。

 降り立った故郷の駅は、暮らしていた二年前とまったく変わっていなかった。しかし、階段をおりてロータリーに出てみると、向かいにあった本屋がテナントビルごとなくなっていた。電車通学だった高校の帰り道、そこで毎月一冊の文庫本を選ぶのが、ささやかな楽しみだった。いまだに店主の顔を憶えている。眼鏡の奥の細い目がいつも疲れて見えた。その目が文庫本をレジに持っていったときにだけ輝いた。あの人は、どこに行ってしまったのか。

 そんな哀愁に浸りながらバスを待っていると、前方から視線を感じた。向かいの乗り場に立っている恰幅のよい女性からだった。彼女は僕が気づいたと分かると頭を下げてきた。すぐにPTA絡みで行事によく来ていた、中学のときの同級生の母親だと分かった。

 無視するわけにもいかず頭を下げた。すると彼女は嬉しそうに何度も会釈を返してきた。

 あの子が帰ってきた――。そんな思惑がロータリーを飛び越え伝わってきた。

 僕はこの街である意味、有名人だ。幼い頃起きたある事件のお蔭で、僕自身は何もしていないというのに、突如世間に注目される存在となっていた。それ以来、時が経っても、こうして好奇の目を向けられる。

 結構だ。どう思ってもらってもいい。そんな視線には慣れきっている。

「シュン!」目の前に停まった白のワンボックスから突然、声を掛けられた。懐かしいその響きに目を見張ったが、運転席に居たのは黒縁の眼鏡をかけた見知らぬ女だった。

「久しぶりじゃない」と女が言う。

「ユキ……?」口から先にその名が出ていた。

 女は肯くと、八重歯を覗かせた。本当にユキだった。髪を後ろで束ね眼鏡とエプロンをしているせいか、すぐには分からなかったが、確かにユキだ。

「何、帰ってきたの?」

「お、おう。お前こそ、こんなとこで何やってんだ? そんな格好しちゃって」

 随分と久しぶりなせいか、緊張して早口になってしまう。

「ちょ、ちょうど駅に、配達があって、はは」

 彼女も緊張しているようで、互いに対処方法を模索するような変な空気が生まれた。

 御国雪絵。彼女が年上に見えたのは仕事中のせいだろう。車の側面には、『和菓子の千国堂』というあずき色の文字が並んでいた。まだ大学生で、アルバイトという身分でしか社会に関わったことのない僕には、彼女が少し離れた世界の人間に見えた。

 会ったのは何年ぶりだろう。中学校を卒業して以来、いや高校のとき一度、彼女がペロに会いにうちにやって来たことがある。それ以来だから、おそらく、三年ぶりだ。

 以前、僕は彼女の家の隣に住んでいた。いわゆる幼馴染という間柄。彼女の家は和菓子店を経営していて、この地域では有名な老舗。昔からお土産と言えば、『千国堂のきんつば』と言うほどその名が通っているのだが、近年では新興勢力の洋菓子『幸福ラスク』に圧されているらしく、『きんつば』の名はあまり聞かなくなっていた。それだからか、今日は定休の水曜日だというのに、彼女はこうして休まず働いている。やはり隣に住んでいた僕たち一家の存在が少なからず影響しているのだろう。お店の隣には、廃墟と化した事件現場がまだ残っている。そんなところで人にあげるお土産を買おうなんて、世間の人は思わないのかもしれない。誰だって『幸福』のほうがいい。

「ペロが死んだんだ」と伝えると、ユキはゆっくりと肯いた。

「そ、そうだよな? そりゃあ、知ってるよな?」

「狭い町だもん……」悲しんでくれていた。徐々に彼女に対する親しみが甦ってくる。

 僕とユキとペロ。幼い頃、よく一緒に遊んだ。僕の家でペットとして飼われていたペロは、ユキのことが大好きで、彼女が来るたびに大喜びして彼女に飛びついていた。

「重いよぉ、ペロぉ」困った彼女の顔を、ペロは何度も舐めて喜びを表現していた。僕が無理やり引き離そうとすると、怒って吠えるので静かにさせるのが一苦労だった。

「家に帰るの? よかったら送ろうか?」

 不意な誘いに戸惑った。有り難かったが、なんだかぎこちない車内を想像してしまい、僕はすかさず手を横に振った。「いいよ、仕事中だろう?」

「ちょうど用が済んだところだし、全然いいよ?」

「いや、いいって、いいって」断った手前、意地になった。

「そ、そう……」

 残念そうに言った彼女を見て、少し申し訳ない気持ちになった。「じゃあ、また……」

「あっ、ちょっと待って!」彼女が手を上げるのを見て、勝手に声が出ていた。彼女が目を丸くしていた。このまま別れたら、二度とユキに会えない。そう思った。この街に帰ってくるのはこれが最後のつもりだ。ならば最後に、ペロに会いに行くのに、このユキが一緒にいてもおかしくはない。幼き日に密接に関わっていた彼女なら――。

「明日って時間……あるか? ペロの墓参り……一緒にどうだろう?」

「明日はちょっと……。あっ、ううん、ちょっと待って」

 断りかけた彼女は、しばらくハンドルを握ったまま考えていた。

「用事があったらいいよ」と付け加えると、彼女がこっちを向いた。

「いいよ、何時?」

 黒縁眼鏡の奥に、慣れ親しんだ褐色の瞳があった。


「遊ぼ?」幼い頃、僕が遊びに行くと、ペロはすぐに起きてきた。起き上がると、いつも背筋を反らせて伸びをして、最後に大きなあくびをした。

「今日は何して遊ぼうか?」

 おやつ隠しゲームがいい、とペロが言う。

「またぁ、そう言ってただ、お菓子食べたいからなんじゃないの?」

 はははぁ、ばれたかぁ。そう言ってペロは垂れた頬を揺らして笑った。

 ペロは僕の生まれる一年前から飼われていた。ちょうどその頃、姉が亡くなったばかりで、両親がその寂しさを紛らわせるために飼い始めた。ペットという立場だったけれど、幼い僕にとっては、先に家にいたお姉ちゃんであり、一番の親友だった。

 ペロは身体がとても大きかった。というより太っていた。近所で飼われていた黒のゴールデン・レトリバーより、幅が倍以上あった。散歩にも連れて行ってもらえず、ずっと家の中で飼われているのだから、仕方のないことだろう。だからボンレスハムのようになってしまった。でもそのお蔭で、その分厚い脂肪が低反発クッションのようで、気持ちよかった。僕は眠くなると、ペロのところに行って一緒に昼寝をした。ペロはそんな僕を歓迎し、いつも優しく包み込んでくれた。温かくて、とても心が安らいだ。まるでお母さんのおなかの中にいる赤ん坊になったように、ぐっすりと眠ることができた。

 ペロを外に出すことは家の決まりで禁止されていた。昔はよく両親が散歩に連れていったそうなのだが、ある日、声を掛けてきた小さな女の子に噛みついてしまい、それ以来、外出禁止となってしまっていた。そんなことがあったからなのか、ペロは両親からあまり可愛がられていなかった。ずっと地下にある窓のない部屋でひとり寂しく暮らしていた。「吠えて近所迷惑になるから、ここでしか飼えないのよ」と母は言ったが、僕の知るかぎりでは、ペロが近所迷惑になるほど吠え続けるのを見たことがなかった。「そんなに酷かったの?」と訊くと、母は「パパが毎日診てくれているから、ああやって落ち着いていられるのよ。ほんとうに昔は酷かったんだから」とむくれ顔で教えてくれた。母は相当ペロを嫌っているようだった。内科の開業医である父は、毎日ペロの体調管理をしていた。時折、栄養剤らしき液体を注射し、足りない栄養を補ってあげていた。そのお蔭でペロは散歩に行かなくても病気らしい病気をすることはなかった。

 ペロを飼っていることは、家族だけの秘密だった。どうやら人間に噛みついたペットは殺処分されるという決まりらしい。それに反対する両親はペロを守るため、こっそりと家でかくまっていた。誰かに知られたら、市役所へ通報され、ペロが捕まって殺されてしまう。初めてそれを聞かされたのは、いつのことだったろう。おそらく二歳か三歳のときだ。毎日のように忠告されていたせいか、僕はいつの間にかペロが悪い人間に連れていかれる夢を何度も見るようになっていた。苦しくてつらく、目が覚めるたびに夢だと分かってほっとした。そして誓った。

 僕がペロを守る。絶対に守るんだ。そう思うことで、とても力が湧いてきた。

 しかしそれが、幼稚園のときに崩れた。隣に住むユキに見つかってしまったのだ。

 幼稚園から帰り、おやつを食べたあと遊ぶ約束をしていた彼女は、僕を驚かせようと僕の家に忍び込んだ。そして前から気になっていた一階廊下奥にある鍵の掛かったドアを開けてしまった。彼女の前に、地下へと向かう真っ暗な階段が現れた。大抵の女の子なら、そこで怖くて引き返してしまうところだが、当時やんちゃだった彼女は躊躇うことなく明かりを点け、階段を下っていった。

 耳を裂くような悲鳴が家じゅうに響いた。ちょうど台所でヤクルトを飲んでいた僕は、噴き出してしまった。あわてて階段を下りていった僕の前に、腰を抜かし地下室を指差すユキの姿があった。背筋が凍る思いがした。と同時に、ユキを怒鳴りつけていた。

「なんで勝手に開けたんだよ!」

 半べそをかいた彼女は前を見たまま、わなわなと震えていた。

 そこにペロがゆっくりと近づいてきた。どうしたの? ペロは愛くるしく鼻を鳴らした。僕はユキを安心させようと、ペロの頭を撫でて見せた。次第にユキの顔から恐怖の色が消えていくのが分かった。「大丈夫、撫でてみて? 絶対に噛みついたりしないから」

 僕が勧めると、彼女はおずおずと手を伸ばし、僕にならいながらペロの頭を撫で始めた。ペロはその手の感触を味わうかのように、気持ちよさそうに目を細めた。

 僕は安心したが、ユキがあんなに大きな声を出したので、診療中の父に気づかれたんじゃないかと心配になったが、しばらく経っても誰も来なかったので、そのままふたりの交流を続けさせた。思っていた以上に、家の防音対策はしっかりしていた。ちょうど母が買い物に出ているときでよかった。もし居るときだったら……。想像するだけで息が苦しくなった。すぐに殺処分のことをユキに伝えた。聞いた彼女は泣き出した。そして震えながらも何度も肯き、「絶対に言わない」と誓ってくれた。

 それからだ。僕とペロとユキ、三人の秘密の日々が始まったのは。いま思えば、この頃が一番幸せだったのかもしれない。僕は両親がいないときを見計らい、ユキを呼び出してペロと一緒に遊んだ。そのうち地下室だけでは物足りなくなり、ユキと相談しペロを外に連れ出そうということになった。初めは部屋から出ることを怖がっていたペロだったが、ふたりして何度も「大丈夫だよ」と励ますと、ゆっくりとだが、ようやく初めの一歩を踏み出すことができた。それからは階段を上っていけるようになり、上からボールを落として下でキャッチする、といった遊びもできるようになった。僕たちは広いリビングのある二階まで連れて行きたかったのだが、ペロはなぜかそれだけは拒んだ。どんなに励ましても、ドアの先の廊下ですら震え、けっして出ようとはしなかった。僕たちも無理強いはせず、「まずは手前にある物置まで行ければいいよ」と言って励ました。

 ペロは僕たちと遊ぶことをとても喜んでいた。何度も転がり、飛び跳ねては、喜びを全身で表現していた。そしていつも帰り際に、「また来てね?」と鳴くのだった。

 だが、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。小学校にあがる直前に父が死んだ。患者にインフルエンザをうつされたのがきっかけだった。毎年ワクチンを射ち、感染しても重篤化することはなかったのだが、その年はこともあろうに脳症を併発してしまった。高熱のあと、幻覚や言動異常などの神経障害が四日続き、五日目の朝、母が様子を見に行くと、父の身体はすでに冷たくなっていた。

 死んだばかりの父は、顔からは赤みが消えてはいたものの、揺すればすぐに目を開けてきそうに見えた。天国で姉に会えたのだろうか? そんな安らいだ笑みを浮かべていた。

「まだ道半ばじゃない。これから私ひとり、どうしていけっていうの?」

 そう言って母は顔がぐしゃぐしゃになるほど泣いていた。僕がいるよ。そう伝えたかったが、その悲しむ姿に圧倒されてしまい、結局、僕は声を掛けることができなかった。


 玄関を開けると、エプロンをした祖母がすぐに出迎えにきた。「お帰り。もう、着いたら電話して、って言ったじゃない。おじいちゃんにお願いしてたのよ?」

 駅に着いたら、車で迎えに行くと言っていた祖母の好意を無視し、僕は敢えてバスで帰ってきた。「まあいいわ、ご飯、もうちょっとでできるから待ってて。お父さん、瞬が帰ってきたわよ。バスで帰ってきたんだって」

 居間の戸が引かれ、照明が現れると、下に祖父の姿が見えた。真っ白な白髪頭になっていた。下を向いたまま祖母の呼びかけにも反応せず、テーブルに広げた新聞を見続けている。

「お父さん、瞬が帰ってきたわよ」

 祖父は面倒くさそうに、「あぁ?」と顔を上げると、僕を見て興味ないとばかりに新聞に視線を戻した。何も変わっちゃいない――。予想通りの反応に、僕は心の中で舌打ちをした。ふん、どうでもいい。どうせ帰ってくるのはこれが最後なんだ。次に帰ってくるのは、あんたの葬式の時かもしれないな。そう言ったら、どうなるだろう? 昔のように、感情まかせに声を張り上げ、雷を落とすのだろうか。

 しかし、目の前の白髪頭を見て、それはもうないのかもしれない、と思った。二年ぶりに見る祖父は絵本に出てくる仙人のように痩せこけていた。肉が削げ落ち、窪んだ鎖骨の形が遠目からでも見て取れた。その昔、鬼軍曹と近所で恐れられ、事あるたびに僕と衝突していたあの頃の生気はすっかり消え失せていた。ペロが死んだからか。そんな祖父の姿を見たせいか、祖母の頭にも前より白髪が増えたように見える。「お線香あげてやって」

 仏壇にペロの遺影が置かれていた。見覚えのある写真だった。きょとんとこちらを見つめるペロの顔が枠いっぱいに収まっている。おそらく高校一年のときに僕が撮ったものだ。買ってもらったばかりのスマートフォンが嬉しくて、いろいろなものを撮った。「それは何?」と首を傾げるペロが可愛くて何枚も撮り、その中から良いものを祖母の携帯に送っていた。ほんとうに死んだんだな。遺影を見て改めてそう思った。線香に火をつけ手を合わせると、少しばかり記憶が甦ってきたが、涙は出てこなかった。危篤の連絡を受けても帰らなかったくらいだ。覚悟していたし、それがペロの宿命だと思っていた。

「やっぱり太りすぎが良くなかったみたい」と拝み終えるのを待っていたかのように、後ろにいる祖母が話し始めた。「無理してでも外に連れ出すべきだったわ。そうすれば、もう少しは長く生きていられたんだろうけど……」

「いまさらそれを言うな。無理強いはさせない、って皆で決めたことじゃないか」

 顔をあげた祖父が祖母を睨みつけた。「そうなんだけど……」

 ペロはずっと屋内で暮らしてきたせいで、外に出ることを異常なほど怖がった。僕とこの家に引き取られてきたとき、祖父たちがなんとか散歩に連れだそうとしたのだが、どうしてもだめだった。玄関の前で突っ伏し、尋常でないほど身体を震わせながら懇願するような目で恐怖を訴えてくるのだった。

 そんなペロを一度、祖父が力尽くで外に連れ出そうとしたことがあった。地面を引きずられ、鳴きじゃくるペロを見ていられなかった。止めようとした僕たちを払いのけ、祖父は「このままじゃいけないんだ」と唾を飛ばし、決してやめようとしなかった。そして門の手前まできたところで、抵抗していたペロが突然立ち上がった。

 どうしたんだ? ペロは何を思ったか、自ら門のほうへと向かっていった。するといきなり、門石の角に自らの頭をぶつけ始めた。まるで何かを振り払わんとばかりに何度も何度も。祖父は呆然とそれを見つめていた。僕たちが取り押さえたときには、顔面が血だらけになっていた。周りの土には、黒々とした血痕が何カ所も残っていた。

「大学のほうはどうなの? 順調?」

 まったく会話をしようとしない僕と祖父の間を取り持つかのように、料理を作り終えた祖母が話しかけてきた。「順調だよ」そう言って、ぬか漬けのきゅうりを口に放り込み、見たくもないNHKニュースに視線を戻した。重苦しい空気の中、懐かしい塩気が口の中に広がっていった。

《……本日午前、***の山中で女性の遺体が発見されました。現場は県道から百メートルほど入った山道脇で、遺体のまわりには女性のものとみられる衣服が散乱し……》

「ちっ」ニュースを見た祖父が大きく舌打ちをした。あわてた祖母がリモコンを取り、チャンネルを替えようとした。

「替えなくていい!」

「でも……」祖母がしゅんとなった。

《……遺体は死後数日とみられ、警察は二十四日から行方不明となっている**市の大学生、寺**美さん(20)とみて捜査を進めています……》

「ったく、何にも変わっちゃいねえ」

 二十年前の事件が僕たちの間を何度も往復していた。いま流れたような類のニュースは、うちではアンタッチャブルだ。アナウンサーが淡々とニュースを読み上げる中、きゅうりを噛む音だけが食卓に響いていた。


 二十年前、この街でも同じような事件があった。僕の生まれる前の話だ。場所は人見川沿いにある三ツ丘公園という地元の人しか知らないようなちっぽけな公園だ。いまでこそ近くに高層マンションが建ち並び、道路も整備されているので夜でも明るいが、当時は街灯も殆どなく、夜になったら真っ暗で、まったく人気のない所だったらしい。

 そこに自転車に乗った女子高生がやってきた。僕はその人のことを写真でしか見たことがないが、きっと、しっかりした人だったんだろうな、と思っている。写真の中のその人は、その大きな瞳でいつも僕のことを見据えていた。

 篠原希里。僕の姉だった人だ。彼女はもう、この世にはいない。

 高校二年の暮れ、アルバイトである程度まとまったお金を作った僕は、当時その事件を担当した弁護士と連絡を取り、東京で会った。もちろん祖父たちには内緒だ。電話の向こうで僕の名前を聞いた弁護士は初め、守秘義務があると理由をつけ、会うことをためらっていたが、僕が残されたたった一人の遺族としての苦しみを訴え続けると、口外しないことを約束に渋々承諾してくれた。

 駅ビルにある喫茶店に現れたのは、千鳥柄のブレザーを着た小柄で頼りなさそうな老人だった。醸し出すその枯れたような雰囲気から、疲労が感じ取れた。せっかく会いに来たのに、ちゃんとした話が聞けるのだろうか。鞄から取り出す書類をゆっくりと積み上げていく老人を眺めながら、僕は少々不安になりかけていた。

「早速ですが、覚悟はできていますか?」

 顔を上げた彼の眼が僕の眼をしかと捉えてきた。その変わりように僕はたじろいだ。

「電話でもお伝えした通り、悲惨な事件の様子が生々しく表現されています」

「だ、大丈夫です……お願いします」


 二十年前の二月、当時、駅前にあったドラッグストアで姉がある少女の万引きを目撃した。そのときの状況を、姉から翌日聞いたという同じ部活の同級生が証言していた。

 肌を突き刺すような寒波が全国的に到来していた日だったそうだ。姉は部活帰りに、残り少なくなったリップクリームを買いに、そのドラッグストアへ立ち寄った。商品を探しながら棚を移動していくと、ちょうどリップクリームの売場を見つけたところで、制服姿の少女と目が合った。少女の動きが、ぴたりと止まった。かわいいピンク色をしたくちびるが半開きのままになっていた。

 なんなの? 姉も動けなくなったそうだ。すると次の瞬間、少女の腕が動き、その手がバッグの中へと消えていった。姉は見ていた。少女が手に持っていたものを。それが何であったかも瞬時に理解していた。なぜなら自分がいままで使っていた、今日まさに買おうとしていたリップクリームだったからだ。

 少女は姉を睨みつけると、何もなかったかのように背を向けた。

「ちょっと待って!」

 思わず声が出てしまったそうだ。振り返った少女の眼が殺気に満ちていた。

「何?」少女が脅すように言った。

「いまの……」

 また、見つめ合ってしまった。

「どうかしました?」少女の後ろから中年女性が現れた。黄色いエプロンをしていたので、すぐに店員だと分かったそうだ。姉は焦った。なぜなら少女を突き出すつもりなど、さらさらなかったからだ。バッグの中に入れたものを戻してもらえればいい。ただそれだけで良かった。なんとか大事にならないようにと、姉は頭を巡らせた。だが、それがいけなかった。何もしゃべらないその沈黙が、返ってその場に不自然な空気を生んでしまった。

「ちょっと中まで来てもらってもいい? あっ、あなたもよ!」

 店員は立ち去ろうとしていた少女に声をかけた。裏の事務所へと連れて行かれたふたりの明暗は真っ二つに分かれた。持っていたバッグの中身を半ば強制的に確認され、一方はリップスティック以外にもマニキュアやファンデーションなど多数の盗品が見つかり警察に突き出され、もう一方は無罪放免、逆に万引き犯を呼び止めてくれたということで感謝され、学校までお礼の電話が入った。姉は落ち込んでいたそうだ。少女への謝罪の気持ちでいっぱいだった。

「ひさしぶりに同級生に会ってびっくりしてて」「遠目からメイクのチェックしてて」

 そんな気の利いた一言が、あのときなぜ思い浮かばなかったのか。

「あなたのせいじゃない!」そう同級生は何度も励ましたと言う。


 万引き事件から一ヶ月近く経った、春休みに入ったばかりの土曜の夜のことだった。

 姉の携帯にクラスメイトの男から電話がかかってきた。画面に表示されたその名に姉の胸が高鳴ったのは想像に難しくない。ひそかに想いを寄せていた相手だったらしい。

 姉は寝間着を着替え、親に気づかれぬよう、こっそりと家を抜け出していった。

 まだ寒いはずの夜に、ペダルをこぎ、好きな男との待ち合わせ場所に向う姉の気持ちはどんなだったのだろう。告白されるかもしれない。そんな期待や不安が身体の中を行き来していたに違いない。通常十五分はかかる家から三ツ丘公園までの道のりを、そのときの姉は十分ほどで走破したらしい。

 公園に着いたとき、まだクラスメイトの姿はなかった。姉は街灯の下に自転車を止めると、周囲を見回した。

「何してるの?」

 突然後ろから声をかけられた姉は、振り返った。そこに立っていたのは、クラスメイトの男ではなかった。見たことのない大柄な男(少年A)だった。

 まずい――。姉は思ったはずだ。

「こんな時間に女の子ひとりじゃ危ないんじゃない?」と少年Aが言った。

「お、男の子を、見ませんでした? こ、高校生くらいの……」

 言葉を絞り出す姉に、少年Aは笑いながら言った。

「いやぁ、俺も高校生だけど? 『元』が付くけどね? はは、はは」

「すみません、ここじゃなかったみたいです」姉はゆっくりと自転車へ向かっていった。ハンドルを握り、スタンドを蹴ったところで足が止まった。公園の出口に五人、男が並んでいた。ポケットに両手を突っ込んだ男たちは皆、にやにやと笑っていた。

「ほんとだったんだな? この子、すげえ、可愛いじゃん」

 後ろにいる少年Aの声が弾んでいた。

「だろう? お前好みだと思ったんだよ」と前にいる男のひとりが歯を覗かせた。「この子でいいんだな?」と確認する少年Aに、キャップ帽を被った小柄な男が肯いた。

「希里ちゃん、残念ながらあなたのダーリン、**くんは来てくれないよ?」

 少年Aがクラスメイトの男の名を口にした。それを聞いた姉はどんなだったのだろう。失望、いや絶望。きっと男の僕には計り知れないほどの恐怖を感じていたに違いない。

 少年Aが近づいてきた。「ねえ、希里ちゃん?」と彼が姉の肩に手をかけようとしたとたん、姉はその手を振り払い、自転車に飛び乗った。しかしペダルを踏み損なってしまい、自転車ごと体勢を崩してしまった。すぐさま前にいる男たちが駆け寄ってきた。無数の黒い腕が四方八方から伸びてきた。絶望の中、姉はクラスメイトの男の名を叫んだ。すぐに口が塞がれ、みぞおちに拳が叩き込まれた。姉は崩れていった。

 ひとり離れて傍観している男と姉の目が合った。キャップ帽の男。姉の中で、その尖った顎と半開きのくちびるが、ドラッグストアで振り返った少女のそれと重なったかは定かでない。少女の証言によると、地面に押し倒された姉がずっと自分のほうを見ていたそうだ。それも許しを請うような悲しい目をして――。


 姉の遺体が発見された翌日、加害者とされる無職の少年Aと高校生ら数人が逮捕された。彼らは姉に暴行を加えた挙げ句、全裸のまま川辺に放置していった。遺体のいたるところに内出血がみられ、検死の結果、死因は「窒息死」と診断された。

 こんなことで殺されるなんて――。その犯行動機の稚拙さに、世間は時世を嘆いた。逮捕された高校生たちの中には、あの万引きをした少女も含まれていた。少女は姉を逆恨みし、交流のあった不良グループの少年たちに姉を脅迫するよう依頼した。姉を誘い出すため、交友関係を洗い出していくと、姉がクラスのある男子生徒と噂になっていることを知った。それだ。少年たちは下校中を待ち伏せ、その男子生徒を駐車場の隅に連れ込んで脅した。勇ましく抵抗する男子生徒を少年Aが容赦なく殴った。「これを毎日続ける」そう脅すと、翌日現れた男子生徒は苦笑いしながら頭をさげてきた。

 そしてその週末の夜、男子生徒は姉に電話をかけた。本来ならば、別のかたちでしたかったであろう姉との待ち合わせ。それも、その約束を反故にするために――。

 姉が逃げようとしたことで、謝罪させるという当初の名目はすっかりと消え去ってしまった。口を塞がれ、巨漢の少年Aに馬乗りになられた姉に為す術はなかった。少年といっても十七、八の精力旺盛な男たちだ。事は次第にエスカレートしていった。途中、姉は隙をみて逃げだした。そんな状況になっても諦めていなかった。垣根を越え、川へ向かっていった。追ってくる少年たちを見て、さらに土手をくだっていった。初めはあざ笑っていた少女だったが、次第にその光景を見ていられなくなり、こっそりとその場を去っていった。捕まり川辺で泥だらけになった姉は、去っていこうとする少年たちに、こう吐いたそうだ。

「あんたたち、絶対に許さない! 一生台無しにしてやるから!」

 それを聞いた少年Aが逆上した。姉の顔を泥に突っ込み、体重をかけ押し込んでいった。手足をばたつかせる姉を見て、少年たちが止めに入ったが、「殺すぞ!」と睨まれ、なす術がなかった。以降、人が殺されるところを傍観するしかなくなってしまった。

 犯人逮捕後、姉を誘い出した男子生徒と勾留阻止で釈放されていた少女のふたりが行方不明になった。数日後、男子生徒の水死体が同じ人見川の下流で発見された。まさか姉が殺されるとは思っていなかったのだろう。罪の意識に苛まれての入水自殺だったようだ。部屋に残されていた遺書には姉への謝罪が延々と綴られていた。

 可愛そうに。仕方なかったのよ――。同情の声が、そこかしこでささやかれた。一方の少女のほうは、いつまでたっても行方が分からなかった。どこかの山奥で、首つり自殺でもしているのだろう。男子生徒とは違い、同情の声は聞こえてはこなかった。

 その後、殺人を犯した少年Aは懲役十五年、犯行を計画し暴行に加わった二名に懲役三年、その他の少年たちには、執行猶予がついた。


 翌日、ユキが車で迎えに来た。携帯に連絡してくれれば門の前まで出ていくと伝えていたのだが、なにを思ったか彼女はインターフォンを押した。祖母に呼ばれ、まずいと思って玄関に出ていくと、そこに立っていたのは、楚々とした淑女だった。昨日とは打って変わって、白いブラウスに紺色のロングスカート。顔の大部分を占めていた黒眼鏡がなくなり、代わりに横からまっすぐな黒髪がおりていた。ユキは僕を見ると、挨拶代わりに小さく手を上げた。

「着く前に連絡くれ、って言ったのに」

「ごめん、うちの御菓子を持ってきたものだから」

 祖母の手には、すでに彼女の店の菓子折があった。

「こんなにたいそうなもの、頂いちゃったわよ」と祖母が僕を責めるような目で覗ってきた。この子とまだ関係があるの? そんな疑念が、ひしひしと伝わってきた。

 そんなんじゃないから。僕は祖母を安心させるよう、首を横に振ってみせた。

 昨晩、墓の場所を祖母に訊ねたとき、「誰と行くの?」と訊かれ、「友だち」と言っておいた手前、気まずかった。

「ほんと、綺麗になったわねえ、雪絵さん……」

「いえ、そんなこと」

 謙遜して手を振るユキに祖母は付け加えた。「ほんと綺麗……」

 祖母はユキやこの包装紙を見ると、思い出してしまう。あの事件のことを。

「やっぱり歓迎されていないみたいね……」ピンクの軽自動車に乗り込んだとたん、ユキが言った。ハンドルに手をかけ、まっすぐ前を見つめるその横顔が悲しげに見えた。

「そう? そんなことないだろう」と僕は敢えて気づかないふりをした。

「そんなことある!」彼女は頬を膨らませ、エンジンボタンを押した。

 申し訳なく思う。彼女なりに思うところがあるのだろうが、僕からしてみれば、彼女にはなんの過失も責任もない。昔、ただ僕の家の隣に住んでいて、ただ僕と同い年で、ただよく一緒に遊んでいただけだったのだから。

「さて、っと」気持ちを入れ替えるように、ユキは両手で自分の頬をたたいた。

「で、なんで昨日急に私を誘ったの?」

「え? なんで、って、足があったほうが、いいじゃないか」

「うそ?」と彼女が見つめてきた。「う、嘘じゃない」そう答えたときにはすでに鼻翼を動かしてしまっていた。それを見た彼女が、してやったりと、その八重歯を覗かせた。

 相変わらず鋭いな。前にいる幼馴染に感心するとともに、仕方ないと腹を括った。

「実は俺……もう、ここに帰ってくるつもりはないんだ……」

 ユキはぴくりと眉を上げると、すぐに顔を曇らせた。そんな彼女に、僕は自分の決意をずらずらと伝えていった。彼女はそれを黙って聞いていた。

「だから最後にペロの墓参りにはユキと一緒に行っておきたい、そう思ったんだ……」

「とりあえず出るね?」話を切った彼女は車を発進させた。スピーカーから最近の流行らしき曲が流れていた。アップテンポな曲で、いまの車内に似つかわしくなかった。

「もう帰らない」と一方的に伝えたが、考えてみれば、失礼だったのかもしれない。ユキはここで暮らしているのだ。そんな彼女にある意味、「あなたとも縁を切りますよ」と言っているようなものだった。

 信号で停まったところで、ようやく彼女が口を開いた。

「つらいものね、シュンにとって、この街は……」

 その通りなだけに何も答えられなかった。スピーカーから女性シンガーが、《ダーリン、私のハートを捕まえてよ》と場違いなサビを繰り返す。

「よし、じゃあ、最後だから楽しく行こう! ペロに会いに!」ユキが無理矢理っぽい笑顔を作った。

「なんか悪かったな、もう帰らないなんて言って……」

「なんで? 別にいいんじゃないの? いずれシュンはそうするだろうな、って思ってたから。それにいまも似たようなもんじゃない。遠い北海道になんか行ってるんだから」

 そう。ユキは分かっていた。僕がずっと街を出たいと思っていたことを。

 そういえば。運転するユキの横顔を見て、当時の記憶が甦ってきた。

 中学卒業後、ユキとは別々の高校に進学したため、会うことはなくなっていたのだが、二年になったばかりのとき、突然、彼女がペロに会いにやってきた。

「シュンは大学に行くの?」ペロと遊び終えた彼女が、帰り際に訊ねてきた。

「まあ一応、そのつもりだけど……」

 そのときの僕は素っ気なかった。少し綺麗になったユキへの照れもあった。

「どこの?」「北海道……」「遠いね……?」「まあ……」

 会話が続かず、気まずい雰囲気になった。そこで祖母が言った。「わざわざそんな遠くに行かなくてもねえ。東京のほうが近いし、行ける実力もあるのに」

 するとユキが口を開いた。「シュンの行きたい所に行かせてやってくれませんか?」

 そのときの祖母の驚いた顔を、いまでもはっきりと憶えている。

「シュンはずっと苦しんできたんです……」ユキの目にうっすらと涙が滲んでいた。

 あのときと同じ横顔が目の前にあった。あのあと祖母がユキについて、ぶつぶつと言っていたが、僕は気にしなかった。ユキが分かってくれていた。それだけで充分だった。


 父が亡くなったあと、母は悲しみにふけることもできず、次々に案内される葬儀の段取りを消化していくだけで精一杯のようだった。時折つく溜息に、「何やってるんだろう? 私」という一言が混じっていた。僕はもちろん、父が死んでとても悲しかったが、ペロのことも気になっていた。ペロの餌やりや体調管理はいままで医者である父がずっとやってきていた。母は世話をしてくれるのだろうか? いままでの接し方からして、あまり期待はできそうになかった。好きか嫌いか、その答えは考えるまでもなく、後者のほうだった。

 僕はペロに餌をあげようと思い、葬式を終えソファでぐったりしている母に、何かあげるものはないかと訊ねた。なんの反応もなかった。仕方なく踏み台に乗って冷蔵庫を開け、入っていたスライスチーズと魚肉ソーセージをペロのところへ持っていった。そのおいしさにペロは目を丸くして喜んでくれたが、僕は母の対応のほうが気になっていた。

 ちゃんと世話をしてくれればいいのだけれど――。

 その願いはすぐに打ち砕かれた。翌日、学校から帰ってくると、異臭が鼻を突いた。

 厭な予感がした。リビングに向かっていくほど、臭いは濃くなっていった。テーブルの上に洋酒瓶が何本も並んでおり、窓からの斜光を浴び、どれも美しい夕焼け色に輝いていた。テレビには古いドラマが流れていたが、その前に母の姿はなかった。

 ソファの横から素足がのぞいていた。ママ? その足をたどっていくと、太ももをあらわにした下着姿の母が壊れたように横たわっていた。見てはいけないものを見てしまった罪悪感にかられた。このままでは風邪を引いてしまう。僕は目を覆いながら、「大丈夫?」と声をかけた。母は「ううん?」と唸りながら、虚ろな目を僕に向けた。

 すると、母の目がぱっと開いた。「なぜ、気持ちよく寝てる人を起こすの?」

 母がいままで見たこともない形相で、僕のことを睨んできた。視界から色が抜け落ちて動けなくなった。まるで、空っぽの世界に放り込まれたような感覚だった。

 母はぼさぼさになった髪を掻きむしり、声を張り上げた。「なんなのよ、あんた!」

 空っぽの世界が大きく揺れた。斜めに傾きながら大きく揺れる。起き上がった母は臭い息を吐きながら僕を責め立てた。なぜ? なぜ、こんなに叱られるのか分からなかった。怖くて悲しいはずのに、不思議と涙は出てこない。初めてのことで対処方法が分からない。足に力が入らなくなった。ラグマットに膝をつき、床に手をついた。その先に割れたポテトチップスが落ちていた。上から母の罵声が容赦なく降り注いでくる。重たくて強くてすべてが聞き取れない。「なんであんたじゃなくて、お父さんなのよ!」

 その一言で現実に引き戻された。どういうこと? いつの間にか先ほどのポテトチップスが母の足に踏まれ、粉々になっていた。同じように僕の心も粉々に砕け散っていた。

 ふん! 鼻を鳴らした母は服を拾い始めた。背中や腕、ところどころに寝跡が付いていた。その全身を夕日が照らしている。ごめんねママ、全部僕が悪いの――。そう乞えば、許してくれるのだろうか。前の優しかった母に戻ってくれるのだろうか。そばにいるのに、母がとてつもなく遠かった。疲れているんだ。お葬式があんなに大変だったんだ。パパを悲しむ時間もなかったんだ。今日はめずらしく機嫌が悪いだけなんだ。きっと、そうだ。そう自分に言い聞かせた。

 母はその鬱憤をペロにも向けた。それは、ペロの餌を母が持っていくのを見て、世話をしてくれるんだ、とほっとした後のことだった。まもなくして、下から聞き慣れない音が聞こえてきた。コンビニ弁当を食べていた僕は、急いで階段を下りていった。開いた扉の間から、「きゅう」という歪んだ音が聞こえてきた。

 ペロ――? 母の足がまっすぐに伸びていた。その先には、スリッパを脇腹で受け止めるペロの姿があった。ペロが顔を歪めている。どういう――こと?

 ふたたびスリッパが動いた。蹴られたペロが、きゅうと声を洩らした。それでも母はやめなかった。そんな仕打ちを、ペロは床にうずくまりながらも必死に耐えていた。

「やめて!」たまらず僕は飛び込んでいった。スリッパが尻に当たった。痛い、と思うと同時に、身体がペロに向かっていた。ペロがまた声をあげた。だが、ぶつかったのが僕だと分かると、ペロは心配そうな目を向けてきた。その目から僕は勇気をもらった。

「やめてったら!」母に向い、両手を広げた。

 身体を張ってかばう僕を見て、母ははっとした表情を見せた。だが、それは一瞬だけのことだった。すぐに元の生気のない顔に戻ると、「何のつもり?」と睨みつけてきた。

「やめてよ! 何でこんなことするの?」

「この子、部屋の外に出てたのよ!」

「だからって蹴ることないじゃん!」

 言い返した僕を母はしばらく見つめていた。

 ふん! 母はわざとらしく鼻を鳴らした。「ふ~ん、そういう態度を取るのね? 分かったわ」と母は怒りをぶつけるように、思いきり扉を閉めて出ていった。

「大丈夫?」僕はペロの身体を撫で、何度も慰めた。おなかが空いたペロは早くエサがこないかと階段の下で僕を待っていたそうだ。そこにいままでやって来たことのない母が現れ、見つかってしまった。ママが怖い。ペロが僕の胸に頭を寄せてきた。ぶるぶる震えていた。そして昔、一階に出ていったときにも同じようにされたんだと言った。ペロが外に出るのを怖がっている理由がようやく分かった。僕はペロを抱きしめて誓った。

 大丈夫、必ず僕が守るから――。


「六時半よ、早く起きなさい」

 次の朝、身体を揺すられ目を覚ました。寝ぼけ眼の視界に母の背中がぼんやりと映った。起こしにきてくれたんだ。いつもと変わらぬ母の行為に安堵し、いっきに身体が温かくなった。あれは夢だったのか? 悪夢のような昨日の出来事が鮮明に甦ってくる。よかった、やっぱり機嫌が悪かっただけだったんだ。少しだけお尻が痛んだが、僕は自分にそう言い聞かせた。顔を洗ってリビングに入っていくと、母が先に朝食を食べていた。

 厭な予感がした。母以外の席には朝食が置かれていなかった。

「僕の分は?」と言いかけたところで言われた。「もう、あんたのご飯作んないから」

 目の前が真っ白になったかと思うと、空っぽの世界でまた独りきりになっていた。テレビを見る母が、ご飯やおかずを次々と自分の口の中に入れていく。「ママ……?」

 聞こえていたはずだ。なのに母は振り返らなかった。振り返らない、と決めているように見えた。どうしていいか分からずその場に立っていると、眩暈がしてきた。すがるようにして椅子の背もたれに手をついた。情報番組の乾いた笑い声が、遠くから聞こえてきた。今日はすぐに涙が出てきた。泣いた。わざと声をあげて泣いた。けれど母は、煩わしそうな顔をするだけで、声をかけてきてはくれなかった。空っぽの世界から、今度は真っ黒な大海へと放り込まれた。誰も助けてくれない。誰も来てくれなかった。誰もいないのだ。僕は息を詰まらせ、何度もしゃくりあげた。止めようとしても止まらなかった。

「早く学校に行きなさいよ。そのために起こしたんだからね」

 母の声が遠くから聞こえてきた。涙で滲んだ視界に、おぼろげな母の顔が映った。

「『家でご飯が出ない』なんて、学校で言っちゃだめよ? 騒ぎになって誰か来たら、ペロが連れて行かれちゃうからね?」

 気がつくと肯いていた。母に言われ、そうするしかなかった。腹を空かせたままランドセルを背負い、学校に向かった。昨日のこと、怒ってるんだ。やり過ぎたのかな? でも、止めなきゃペロは……。母の笑った顔を思い出そうとしたが、なかなか浮かんでこなかった。父に向けて笑う横顔だけはいくつも出てきたが、僕に向かっての笑顔は結局、なにひとつ出てこなかった。きっと学校から帰ったころには元のママに戻ってるさ。そう期待しつつも、ランドセルを背負う僕の足取りは重かった。

 その晩、食卓に僕の夕食が出てくることはなかった。代わりに鍋を渡された。缶ビールを持ってにやける母を見て、厭な予感がした。渡された鍋は、ペロに餌を持っていくときの容器だった。それがいままでより明らかに重かった。そこにプラスチックの椀が差し出された。

「そんなにペロが好きなんならさぁ、一緒に食べなさいよ、ってさ。ふふふ」

 鍋を落としそうになると、「ちょっとぉ!」と母の酔眼が吊り上がった。

「しっかりしてよぉ? せっかく作ってあげたんだからさぁ」

 黒い滴が心の中にぽとんと落ちた。「何ぼうっとしてんの? 早く行きなさいよ!」

 階段を下りながら鍋の中を覗いてみた。べとべとした粥のようなものの中に、刻まれた大根や人参のへたが入っていた。最近のペロの餌だった。これを食べるのか。そう思うと、涙が出てきた。ペロは舌を出して飛び跳ねた。それを見て、溜息が洩れた。喜ぶペロの皿に鍋の中身を落としていった。食べる気がせず、全部ペロにあげた。こんなにいいの? と見上げるペロに、僕は「いいんだよ、好きなだけ食べて」と無理に笑った。

 そんな嫌がらせを始めても、母は決して僕に暴力を振るわなかった。おそらく僕の身体に痕跡が残ってしまうと、学校でばれる恐れがあると考えていたからだろう。後でそう思った。

 こうされる前から、母が僕のことを嫌っていることは薄々感じていた。表立って厭なことをされるわけではなかったが、いつも母が遠かった。僕ではないどこかに母の心があるような気がしていた。甘えようと近づいていくと、一瞬だが、不快なものでも見るような目で見られた。そして僕が躊躇したのが分かると、母は仕方なさそうに僕を抱き寄せるのだった。

 母に嫌われることが怖かった。だからいつも、母の顔色を覗っていた。

 ペロと同じものを食べられるようにはなったものの、僕はいつもお腹を空かせていた。絶対的に量が足りていなかったからだ。冷蔵庫や納戸には、食べる物がたくさん入っていたが、それらに手をつけることはできなかった。母にばれると、翌日の食事が一切なくなるからだ。平日は学校の給食があるのでまだよかったが、休日ともなると、週明けまで空腹を我慢し続けるしかなかった。

 そんな僕たちを、ユキが助けてくれた。見かねた彼女が親に言おうとしたので、あわてて「ペロのために」と言って、思いとどまってもらった。代わりに彼女は食べ物を持ってきてくれた。そのお蔭で僕たちはなんとか食いつなぐことができた。

 ある朝、登校中の僕の前に警官が現れた。最近そこで事故があったせいか、横断歩道で交通整理をしているようだった。いつものように僕は緊張した。普通にしていよう、普通に。しかし、そう考えれば考えるほど、なぜか頭がぼうっとしてきた。なんか変だ。そう思いながらも空腹のせいで力が入らなかった。警官が怪訝そうに僕のことを見ていた。まずい、まずいぞ。そう思うと、さらにぼうっとしてきた。ぼやけた視界の中で警官が近づいて来るような気がした。あっ。つまづいてしまった……転ぶ……あれ? 痛くない。何かに支えられていた。それは力強く、ごつごつとしていたが、とても温かかった。

 気がつくと知らない部屋で寝ていた。横には心配そうに眉をさげる母の姿があった。

 ママ――。たちまち温かい気持ちに覆われた。いまなら甘えてもいい。僕は抱きしめてもらいたくて両手を伸ばした。すると左腕に何かが引っ掛かり、ちくりと痛みが走った。見ると、腕から白いチューブが伸びていた。それは脇のポールに掛けられたビニール袋へとつながっていた。どういうこと? 母に救いを求めた。母の顔は先ほどとはまったく違っていた。吊りあがった眉の下で、充血した目が僕を否定していた。

「なんてことしてくれたの!」と母は僕をなじった。その罵声とともに点滴の針が僕の腕を突いてきた。こともあろうに僕は、警官の前で倒れてしまったらしい。病院へ運ばれ、ランドセルにあった番号から、こうして母が呼び出されていた。マスクをしていても母からはアルコールの臭いがした。朝から飲んでいたとあっては、かなり体裁が悪かっただろう。タクシーでやってきたのは、担任の先生がとっくに帰ったあとだった。

 病院から注意を受けた母は昼酒をやめ、前のように普通に食事を出してくれるようになった。恐れていた市役所の人が来ることもなく、僕もユキもほっと胸を撫でおろした。

 だが、ペロに対する暴力はいっこうに終わることはなかった。むしろエスカレートしていった。僕に手をあげない分、存在すら知られていないペロは母の恰好の標的だった。それは朝晩の餌の時間だけでなく、日常となっていった。

 ある晩、母が風呂に入ったところを見計らい、地下へ下りていくと、部屋でペロが倒れていた。大丈夫かと抱きしめると、ペロは苦しそうに肯いた。口の先が切れていていた。先ほど母が下から戻ってきたばかりだった。

 寝ていたら、蹴られたんだ……。ペロは虫の息で答えた。もう死んでもいい……。

「そんなこと言わないで、ペロ」

 励まそうと思いながらも、ペロが痛々しくて次の言葉を見つけられなかった。目尻に付いていたかさぶたが剥がれ、半乾きの血液が浮き出ていた。他にいくつもかさぶたがある。鼻の頭にも、顎の横にも。床には焼かれた毛が散り散りになって落ちていた。

 シュンに抱かれて死ねるなら……。ペロは僕の腕の中で次第に意識を失っていった。

「ペロ! ペロ!」何度呼びかけても、ペロは目を開けなかった。「ペロ!」抱きしめると、鼓動が頬に伝わってきた。よかった、生きてる。ほっとして息を吐いた。なんでこんなことを……。僕はペロを見つめた。ペロが何をしたっていうんだ。悪いことなんか、何もしてないのに……。じわじわと熱いものが膨らんできた。いままで味わったことのない感情だった。またいつかこうなる……。罪もないペロが、なぜこんなにまでされなければならないのか。力不足の自分が情けなくなった。

 怒り。

 膨らんだ感情はいつしか全身を覆っていた。止めなきゃいけない――。

 僕は、母を殺害すると決めた。


「シュン? 大学って、楽しいところ?」

 信号を右折したところで運転するユキに訊かれ、どう答えていいか迷った。

「きっと、楽しいところなんだと思う」

「そう……」ユキはそれだけで僕の大学生活をイメージできたようだった。

「変わってないね」「変われないんだ」

 もちろん、変わろうとした時期もあった。

 去年の四月、大学に入学したばかりの頃だ。僕は僕なりに変わろうと決意し、僕なりの勇気を出してみた。初日からそばに座っていたクラスメイトに声をかけ、暗にこれからの大学生活をともに楽しもうじゃないかと陽気な性格を装ってみた。そのお蔭か、高校までひとりでいることの多かった僕に、授業中や休み時間、さらに昼食の時間までも共有するふたりの友人ができた。だがそれは、やはりと言っていいほど、長くは続かなかった。

 夏休み明けの学食でのことだ。昼食を食べ終わったあと、前に座るふたりが、示し合わせたように肯き合ってから、僕にスマートフォンを向けてきた。画面のウィキペディアには、あの事件のタイトルが表示されていた。早いな。真っ先にそう思った。覚悟していた暗い未来が、勢いよく引き寄せられてきた。隠しても仕方ない。僕はその事件の当事者であることを素直に認めた。「そんなこと関係ないじゃん」と言っていたふたりは、結果、僕から徐々にフェードアウトしていった。

 ふたたび、ひとりでいるようになった。こんな遠いところまで来たというのに、結局、未来は開かなかった。

「場所や環境じゃなかった。どこにいても同じなんだ」

「そう……」ユキが切なげに言った。

「別にひとりでいても、いいんじゃない? 別にさ。昔からそうだったじゃない」

 おそらく僕を特別扱いしないのは、祖父たちの他にいるとすれば、ここにいるユキくらいだろう。久しぶりだというのに、接し方は幼い日のままだ。昨日の緊張はなんだったのだろう。いつの間にか彼女と、昔のように飾らない会話ができるようになっていた。


 その後、僕の家で起きた事件のあと、僕とペロは祖父母のもとに引き取られたが、彼らの家が同じ学区内にあったため、僕は引き続き同じ小学校に通うこととなった。先生たちを交え、祖父たちは僕を心配して転校させることも検討していたそうだが、これだけ事件が報道されたのでは、どこに行ってもすぐにばれてしまう。それなら友だちのいる現在の学校のほうが、という結論でそのままとなった。しかしそこで、地獄が待っていた。

 事件後、久しぶりに登校した僕は、学校で見せ物となっていた。知らない下級生の子たちまでが振り返り、「あの人だ」とばかりに隣の子の肩をたたいた。

 まだ節度を知らない小学生は、ほんとうに恐ろしい生き物だった。クラスのみんなが僕のことを「シュン菌」だと言って避けるようになった。いつも一緒に遊んでいた仲の良かった子でさえもだ。瞬の菌だから、シュン菌。シュン菌はみんなの間を嫌われながら伝染していった。感染力は凄まじいもので、感染した子は皆、ペロのモノマネをしなけばならなかった。四つん這いになり、きゅうきゅうと鳴いて飛び跳ねては、次の候補を追いかけた。この遊びはスリル満点だったようで、男女みんなが机の角に身体をぶつけながら必死に逃げ惑っていた。笑い声と叫び声が入り交じった歓喜が教室じゅうに響いていた。

 僕はそれを黙って見ているしかなかった。いや、正しく言えば見ていられなかった。席に座り目を閉じ、耳を塞いで耐えていた。

「やめなよ!」突然、大きな声がして、ぴたりと静まり返った。

 僕は恐る恐る目を開いた。黒板の前にユキが立っていた。彼女はふたつ先にある別のクラスだ。「こんなのやめなよ! いじめだよ? みんな分かってるの?」

 教室が、しんとしていた。

 いじめだよ? ユキの言葉が時間差で心に突き刺さってきた。僕はいじめられてるんだ。とうとう、いじめられる人になったんだ。僕はそんな弱い人間に――。

「なに格好つけてるの? あなたもペロと一緒に遊んでたんでしょ?」

 そう言ったのは、以前からユキのことを嫌っていた気の強い女の子だった。

「あいつに付けようぜ?」リーダー格の男の子が言った。昼休み、いつも一緒に遊んでいた大の仲良しだった。最後に感染していた男の子がユキの腕に僕の菌を付けたが、彼女は動じなかった。何もなかったとばかりに皆を睨みつけていた。

「こいつ、すっげぇ免疫持ってんじゃん! だから一緒に遊べたんじゃねえ?」

 リーダーの一言に全員が大笑いした。そんな中、先ほどの気の強い女の子がユキに向かって走りだした。彼女はユキの腕を触ると、そばにいた男の子にその手を付けた。

「はい、ユキ菌! いや、ユ菌ね?」彼女はそう言うと、笑いながら逃げていった。

「うわっ!」と誰かが叫んだ。すると教室は再び歓喜の渦に飲み込まれていった。ユキの菌が僕の菌と同じように嫌われていった。逃げ惑う子たちの中には、幼稚園のときユキと仲の良かった大人しい子の姿もあった。ユキは教壇の端をつかみ、顔を伏せていた。

 泣いてる――? そんな彼女を見て、自分が惨めになっていった。

 でも動けないでいた。助けてもらったのに、何もできないでいた。これでいいのか? これで……。立て、立って、彼女を守るんだ! 今度はお前が彼女を守る番だ。今度はお前が。自分を鼓舞し続けた。そして立ち上がろうと足に力を込めたそのときだった。

「なに騒いでるんだ!」先生の登場で、僕の勇気は未遂に終わった。

 それからしばらくの間、嫌がらせは続いた。そしてみんなが飽きたころ、僕はひとりでいることが当たり前な人間になっていた。ユキのほうはその事件の当事者でないということもあり、持ち前の明るさでその困難を乗り越えていた。彼女とは中学まで一緒だったが、学校側の配慮があったからか、同じクラスになることは一度もなかった。時折、廊下などで見かける彼女は、いつも誰かと楽しそうにおしゃべりをしていた。その横を通り過ぎるたびに僕は、ほっとすると同時に、彼女がどんどん離れていくような気がした。

 ペロとユキ。楽しかったあの頃が、二度と訪れない遠い日へと変わっていった。


 母の出かけた隙に、リビングにあるパソコンで人殺しの方法を検索した。初めはパソコンの扱いに戸惑い、次にまだ学校で習っていない漢字ばかりの文章に戸惑った。しかし、コピー&ペーストで辞書検索を繰り返していくうちに、うっすらとだが意味が分かるようになっていった。そんな中でも驚いたのは、世の中には死にたいと思っている人が大勢いる、ということだった。調べていけばいくほど、自殺や殺人などの関連グッズがお薦め商品として、ズラリと画面の下に紹介されていった。

 ふだん目にする日用品の中に、危険なものがいくつもあることを知った。害虫に吹きかける殺虫剤やタンスに入れておく防虫剤など、殺傷目的で作られたものはもちろん、食器用洗剤やガソリン、灯油など、日常手に触れることの多いものにまで、飲めば危険なものが多かった。中でも、あるトイレ用洗剤にお風呂の入浴剤やキッチンにある漂白剤を混ぜると、有毒ガスが発生するという記事に興味を引かれた。料理や飲み物に毒物を入れても、味や臭いですぐにばれてしまうと思っていた。仮にうまくいったとしても、死体を解剖されたとき、きっと真っ先に疑われるのは僕だ。そんな危険を冒すより、この目に見えない毒ガスで寝ている隙に……。小学生ながらも、これは名案だ、と思った。

 病院の物置にあったトイレ用洗剤がネットで見たものとまったく同じだった。よし、あとは入浴剤だ。僕は引き出しを開け、使わずにいたお年玉の封筒の中から千円札を抜き取った。

 リビングに下りていくと、いつの間にか母が帰っていた。驚いた僕は思わず声を出しそうになったが、寸でのところで抑えることができた。

「何しようとしてるの?」

 振り返った母は人間離れした形相をしていた。その後ろでパソコンが光っていた。

 気づかれた? いや、そんなはずは……。検索履歴は毎回必ず消していた、はずだ。

 僕が黙っていると、母がゆっくりと近づいてきた。怖くて足がすくんだ。

「私に何かしようとしてる? 殺人……って、何?」

 耳を疑った。母が迫ってくる。「殺害……って、何?」

 なんで? ばれたのか? 僕の前で母は止まった。怖くて見上げられない。床にある母の片足が浮いた。かと思うと、それが後ろに振られ、勢いよく迫ってきた。

 痛い。そう思ったときには身体が後ろに飛んでいた。床に尻餅をついたあと、蹴られた膀胱が燃えるように痛んだ。「ぼ、僕、何もしてないよ?」

 そう言ったとたん、横からまた蹴られた。母の足が脇腹に当たり、思いきりキッチンカウンターの角に肩がぶつかった。

「とぼけんじゃないよ! 私とあんたしかいないのに誰がパソコンを触るって言うの? 白状しなさい! 私を殺そうとしてるでしょう!」

「……ごめん、ちょっと使っただけなんだ。でも殺すなんて……なんでそう思うの?」

「調べものしようと思って、パソコンに『さ』って入力したら、たくさん出てきたのよ。殺人、殺害、……サン*ールって何? トイレ用洗剤で私を殺す気?」

 すかさず、もうひと蹴りがきた。僕は避けようと後ろに下がったが、間に合わず右の脛を蹴られてしまった。痛かったが、蹴った母のほうも痛かったらしく、足の先を押さえていた。

 いまだ、逃げるしかない――。僕は急いで立ちあがり、玄関へと走った。

「な、何? 逃げるの?」後ろから母の罵声が聞こえてきた。

 僕は階段を駆け下りていった。一階に下り、玄関に向かおうとしたところで、母の声がした。「ペロがどうなっても知らないよ!」

 足が止まった。悪魔の声に聞こえた。ペロ……。

 僕は踵を返し、奥のドアに走った。母が下りてくる音が聞こえたが仕方なかった。地下に行って、扉を閉めてしまえばいい。そうすれば何もできない。手摺りを使いながら落ちるように階段を駆け下りていき、地下室の扉を開けた。「ペロ!」

 部屋の中が、しんとしていた。いつものように真っ暗だが、その中からペロが起き上がってくることはなかった。どうしたんだ? ペロ……。

「もう逃げられないわよ」

 見上げると、母が階段の上に立っていた。

「信じられない子だわ、親を殺そうとするなんて。ここまで育ててあげたっていうのに、なんでこうなるのかしら? あ、そうか。もう親じゃないってことか」

 そう言うと、母は嬉しそうに高笑いした。「どうしたの? 早く入りなさいよ。そうすれば、ずっとペロと一緒にいられるわよ?」

 母は要らなくなった物を見るような目で僕を見ていた。逃げられないと分かっているからか、下りてこようとしない。僕は母を睨みつけた。すると母が、にやりと不敵な笑みを浮かべた。それを見て、僕は気づいた。もしかして――。ぎゅっと胃が縮み上がった。

「気付いた? 次にこのドアが開くのは、いつになるのかしらね? 半年後? いや一年後にしておくわ。それまでそこでペロと仲良くしててね?」

 上にある地下室用のドアは、ペロが見つからないよう万一に備え、外側から鍵が掛けられるようになっている。

「ちょっと待って!」

 手を伸ばす僕を笑い見ながら、母は内開きのドアノブに手を掛けた。悪魔のような母の笑顔に、すべての運命を握られていた。「じゃあねぇ、瞬ちゃん?」母がドアを引いていった。消えてゆく廊下の光とともに、自分の未来も消えてゆくようだった。

 きゃっ? と弾んだ母の声が聞こえたのは、その直後だった。かと思うと、ドアの動きがぴたりと止まった。振り返る母の後ろに、大きな影が重なっていた。あれは――?

 次の瞬間、母がたじろいだかと思うと、その身体が階段を転げ落ちてきた。急な傾斜に加速度を増してくる。僕は地下室に避難した。骨を打つ鈍い音が一定のリズムで聞こえてきた。一番下まで落ちてきた母の身体は、その勢いをそこで止めるしかないとばかりに、がつん、と大きな音を立てて踊り場の壁にぶつかって止まった。最後に後頭部を強打した母は、床にそのまま崩れ落ちていった。

 静まり返った。僕は恐る恐る母に近づいていった。脚を折り曲げ横たったまま、母はぴくりとも動かない。

 シュン? はっとして見上げた。大きな影が見覚えのある姿に変わっていた。

「ペロ!」僕は階段を駆け上がっていき、ペロを思いきり抱きしめた。廊下の向こうにある物置の戸が開いているのが目に入った。「外に出たの?」

 ペロは震えながら肯いた。シュンが蹴られたのが分かったから……。

「助けに来てくれたの?」

 シュンが来たと思ったら、すぐにママが来て……。ペロは下を見て、すぐに顔を背けた。倒れている母に怯えているようだった。

「ありがとう、ペロ。ペロが物置に行っていなかったら、僕たちはいま頃……」

 暗闇の生き地獄が見えた。想像するだけで、喉元まで吐き気がのぼってきた。

 僕たちは母の様子を見に階段を下りていった。母は白目を剥いたまま動かなかった。もしかしたらと思い、母の口に手を近づけてみた。空気の揺れが、まったくなかった。

 ――死んでる。ふっと力が抜け、床に尻餅をついた。殺そうとしていたのに、実際に死んだのを見て怖くなった。突然降ってきた死に、戸惑った。

 天罰が下ったんだ。これでいいんだ。これで良かったんだ。自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返した。ペロがきょとんとした顔で、僕を見つめていた。

「もう大丈夫だよ」そう言って抱きしめると、ペロは僕の胸に鼻をこすりつけてきた。

 母の身体を一階までペロと一緒に運んだ。もちろん、ペロが見つからないようにするためだ。死んだ母はとても重く、伸び垂れた長い手足がとても邪魔だった。持ち上げやすい体勢を試行錯誤しながらペロに下から身体で押し上げてもらい、階段を一段一段摺り上げていった。そうやって母の遺体を一階の階段下まで運び終えると、ペロに言った。

「下の部屋で隠れてて。これからたくさんの人が家に来て騒がしくなると思うけど、絶対に出てきちゃだめだよ? 鍵を掛けておくからね?」

 ペロは不安そうな顔で肯いた。僕はペロに少しばかりの食料を与えると、ドアに鍵を掛け、二階から母が転げ落ちたことにして、ユキの家に助けを求めにいった。

 すぐにあわただしくなった。大勢の大人たちが家の中に入ってきた。救急車が来て、母が担架に乗せられ運ばれていった。それを眺めていると、救急隊員に「ここのお子さん?」と訊かれ、寄り添ってくれていたユキのお母さんが肯き、「一緒に乗って!」と連れて行かれそうになった。ペロを残していくわけにはいかない。あわてた僕は「いやだ!」と抵抗した。「おばさんも一緒だから」とユキのお母さんに何度も説得されたが、僕は死にものぐるいで泣きじゃくった。「仕方ないわねぇ」そんな言葉を残し、結局、ユキのお母さんだけが救急車に乗っていった。申し訳ないと思いつつも、内心ほっとしていた。これで大丈夫だ。これからはここで、ペロとふたりで生きていくんだ。あとから思えば、残された子供を周りの大人が放っておくことなど到底ありえないのだが、そのときの僕は本気でそう思っていた。

 そんな僕に、そんな夢などは叶わないのだ、とすぐさま現実が否定を突きつけてきた。

 警察がやってきたのだ。鉄のように冷たい顔をした警官たちは、僕が「ママは二階から落ちた」と何度訴えても、なぜか首をひねった。立っていた場所がいけなかったのかもしれない。僕が廊下の奥にみんなを行かせないようずっと動かないでいると、後ろでずっと僕のことを見ていた細い目の警官が、「その先、見させてもらってもいい?」と訊ねてきた。

「こ、この先はだめなんです……」咄嗟のことで、つい、まごついてしまった。

「なんで駄目なんだい?」細い目がさらに線のようになった。

「だって……。そう! 大事なものがあるから!」

 その答えがまずかった。「大事なものって?」

「それはそのう……僕の大事なもの……」困窮した僕に、細い目が怪しいとばかりに迫ってきた。「だめ!」両手をひろげた僕を、冷たい手がいとも簡単に押しのけていった。

「だめだってば!」他の冷たい手が僕の腕を後ろからつかみ取り、引っ張っていった。先を行く警官たちの背中がどんどん離れていった。「行くな! 行かないで! お願い!」

 警官たちは物置を調べたあと、対面にあるドアノブを見つけ、サムターンを回した。

「シェルター……?」ドアを開けた細い目が鼻をつまんだ。警官たちは肯き合うと、階段を下りていった。僕はペロに伝わるよう叫んだ。「そっちに行っちゃいけない!」

「これは?」途中で一メートルほどの毛を拾った警官たちは、顔を見合わせ、問い質すように僕を見上げた。僕も死んだ母も、そんな長い髪をしていなかった。

 階段を下りたところで警官たちが騒ぎ始めた。床に血がついている――。

 しくじった、と思った。でもまさか、ここまで人が来るなんて思ってもみなかった。

「君、本当はここで」

 カタン。細い目が僕に振り返ったところで、横から音が聞こえた。心臓が止まりそうになった。「なんだ?」と全員が地下室のほうを向いた。警官たちは肯き合い、おのおのの腰から警棒を抜き取った。

「やめろ!」

 飛びだしていく僕の前で、容赦なく地下の扉が開かれた。


 僕たちは別々の車に乗せられた。「ペロを殺さないで!」

 訴える僕に助手席の細い目が振り返り、「大丈夫だよ、絶対にそんなことしないから」と頬を弛ませた。病院では、女の人が毎日やってきて、ペロや僕の死んだ両親のことなどを、いろいろと訊いてきた。女の警官で「婦警さん」と言うらしいのだが、とても穏やかで優しい人だった。ペロが殺処分されることを伝えたら、彼女もまた頬を弛ませて笑った。

「大丈夫、絶対にそんなことしないから。いまは別の病院で手当を受けているの」

 その人に、あなたはずっとだまされていたんだよ、と教えられた。初めは信じられなかったが、その人が毎日来てあまりにも優しくしてくれるので、次第に、信じてもいいと思うようになっていった。母の身体を一階に運んだことはすぐにばれ、「すぐに救急車を呼ばないとだめじゃないか」と叱られたが、「ペロを守りたかったから」と伝えると、呆れた顔をされながらも、なんとか許してもらえた。

 ペロが母を押したのか、驚いた弾みで母自身が足を滑らせたのかどうかは定かでない。敢えて僕もペロに訊かなかった。どちらにしろペロがあそこにいなかったら、いま頃僕たちは、地下室で飢え死にしているのだ。

 一週間ほど経ったある日、トイレに行くふりをして一階まで行ってみた。婦警さんからは「絶対に他の階に行っちゃいけない」と何度も念押しされていたが、空き時間だらけの毎日で僕は冒険心を抑えきれなくなっていた。売店のチョコレートに目を奪われていると、真っ黒に日焼けした男の人に肩をたたかれた。「もしかして瞬くん?」その人はなぜか僕の名前を知っていた。肯くと、その人はすごく嬉しそう顔をして、そのチョコレートを買ってくれた。「ちょっとだけ、話聞かせてもらってもいい?」

 僕は迷ったが、チョコレートを買ってもらった手前、断るわけにもいかなかった。目の前に座り、目線を合わせてきたその人は、「マリンさんは?」と訊いてきた。

「マリンさん? 僕は『マリンさん』なんて人、知らないよ?」

「知らないのかい? マリンさんは、君の家の地下室にいた人のことだよ?」

「なんだ、ペロのことか」

 いや……。その人は首を振った。

「その人はペロじゃないんだ。ほんとうの名前は『麻凜』っていうんだ」

「ちがう、ペロだ!」僕が何回否定しても、その人は苦笑いするばかりだった。ペロはペロだ。僕はその人が嫌いになった。帰ろうとする僕の腕を、その人がつかんだ。

「ほんとうに君は何も知らないんだね? いいかい? 君の言うペロという女性は、九年前に行方不明になった高校生なんだ。名前は『風戸麻凜』。それに彼女は亡くなった君のお姉さんに万引きしているところを見られて……」

 なんのことかさっぱり分からず、僕は、んん? と首を傾げるしかなかった。


 僕の両親は娘を殺害された恨みから、下校中だった風戸麻凜を車で拉致し、そのまま自宅の地下シェルターに監禁した。内科医だった父は毎日、脳の萎縮する薬剤を打ち続け、彼女から脱走する意思を奪っていった。そして僕が生まれると、彼女のことを「ペロ」という名のペットなんだと教え込んだ。幼い僕はなんの疑いもなく信じるしかなかった。

 発見後、十年ぶりに帰ってきた我が子を見て、祖父たちは呆然と立ち尽くしていた。お尻まであった髪は病院で切られ、風呂に入って身体は綺麗になったとはいうものの、車を降りてきた百キロ近くある女が、実の娘だとは信じられなかったようだった。後日、高校時代のペロの写真を見せてもらったが、そこに写っていたのは、いま流行のアイドルグループでセンターを張れそうなほど可愛い女の子だった。祖父たちとは逆の意味で、僕も信じられなかった。その外見以上に祖父たちは、ペロの行動を見てショックを受けていた。特に祖母は顔を手で覆い、おいおいと声をあげて泣いていた。言葉を発せず、きゅうきゅうと鳴くだけの我が子にいくら声を掛けても、また同じ鳴き声を返されるだけだった。僕が何と言っているのか伝えると、「何で分かるの?」とさらに涙を流しながら僕を抱きしめてきた。昔のアルバム写真を見せると、ペロはようやく祖父たちのことを思い出したらしく、その太った身体を弾ませて喜んだが、ふたりはそれを見て、さらに悲しみをあらわにしていた。

 そんなペロでも彼らが大切にしたのは言うまでもない。失われた歳月を取り戻そうとするかのように、毎日、彼女の好きな食べ物を与え続けた。そのせいで、ペロはさらに太っていった。それでも僕はみんなの笑顔を見て、やっとみんな幸せになれたんだ、と嬉しく思った。

 ペロは、みんなで食卓を囲んでいるときが、一番幸せそうだった。内容を理解しているのかは分からないが、僕らの話にじっと耳を傾け、みんなが食べ終わるまで席でずっとにこにこと笑っていた。僕はそんなペロを見ていて、嬉しいと思う半面、自分の不条理な生い立ちに、だんだんと苦しめられるようになっていった。いつの間にか僕も成長していたのだ。みんな僕のことを知っている。そうと思うと、外に出るのが怖くなっていった。街の人たちも、学校のみんなも、僕のことをじろじろと見てきた。好奇と同情の入り混じった視線。あの日以来、それをずっと浴び続けてきたのかと思うと、消えてしまいたくなった。消えてこの世界からなくなってしまえば、どんなに楽なんだろう。僕は生きる希望を見つけられないでいた。

 高校を卒業したら、絶対にこの街を出よう。でないと、未来は開けない。次第にそう思うようになっていった。

 僕はペロと、遊ばなくなった。


 高校時代、深夜の勉強中にのどが渇き、台所に下りて麦茶を飲んでいたときのことだった。「まだ起きてたのか」トイレに起きてきた祖父が不意に声を掛けてきた。随分久しぶりのことで戸惑った僕は、目を合わさず、うんと肯いた。「勉強、大変なのか」

 続いてきた質問に面倒だなと思いながらもまた、うんと答え、堪らず麦茶を口にした。しんとなった空気から祖父が、むっとしたなと思った。怒鳴られると覚悟し、ひそかに身構えた。すると祖父が、ふうと大袈裟な息を吐いた。

「……勉強もいいが、たまには麻凜とも遊んでやってくれないか」

 意外な言葉に、なんと返せばいいか分からなかった。「え? あ、うん」

「認めてやってくれ、麻凜のことを。たとえそれが篠原家の報復だったとしても」

 自分に言い聞かせるかのように、祖父は言った。

 そんなこと分かってる。分かっているさ。

 中学からの帰りだった。道端で突然、声をかけられた。

 瞬くん? 見上げるほど大きく太い、『巨漢』という表現がぴったりの中年男性がそこに立っていた。記者ではなさそうだったので、すぐに肯いてしまった。するとその人は、その大きな手で僕の両肩をぐいとつかんできた。僕は逃げようとしたが、すごい力で身動きが取れなかった。その人はまじまじと僕を見つめてきた。まずい。

 後悔した僕にその人が言った。「ごめんな?」

 拍子抜けした僕はその人を見上げた。とても悲しげな目をしていた。ごめんな? 繰り返されるその一方的な言葉に僕は困惑した。そして僕が抗うと、その人は手を放し、「ごめんな?」とまた言った。僕は逃げた。その人の目が、同情の色に変わる前に――。

 その後、姉の事件の老弁護士に会ったことで、その人が誰だったのか分かった。

 少年Aが僕に会いにきていた。なぜかは分からない。分からないが、これだけは分かる。彼は僕に会ったことにより、さらにもうひとつ十字架を背負ったはずだと。

 そんなこと分かってるさ。去っていく祖父の背中に向かい、僕は心の中で繰り返した。

 それが祖父との最後の会話らしい会話だった。大学に合格したときも、家を出て行く日もふたりの間に会話はなかった。送り出す祖母の後ろにも、その姿はなかった。

 引き取られてきたときは小学校の三年生だった。それから随分と長い間、祖父とはとても仲が良かった。だが、僕が中学生になったあたりから次第に衝突するようになった。僕が反抗期に入ったということもあったが、一番の原因は僕がペロを避けるようになったからだ。いま思えば、祖父の言うことも尤もだと思う。仲の良かった友だちを急に嫌いになったからといって避けてしまえば、相手は堪ったものではない。ペロが寂しがっていることはなんとなく感づいていた。見ていた祖父たちも辛かったのだろう。なんとかふたりを元のように仲良くさせようと思うのは当然のことだ。けれど当時、中学生だった僕がこの特異な現実を素直に受け入れられるはずもなかった。僕が言い返すようになると、祖父は逆上し、額に血管を浮かび上がらせて怒鳴った。初めは物凄く怖かったが、慣れてくるとそんな祖父を冷静に見れるようになっていた。それがまた気に喰わなかったのだろう。祖父はさらに声を張り上げてきた。それを受けた僕もさらに心を閉ざしていった。

 あの家族でいた日々はもうとっくに終わったのだ。ずっとそう思っていた。


 墓石に囲まれた通路を敷石に導かれながら進んでいくと、目的の墓を見つけた。祖母と一緒に来た中学生のとき以来の六年ぶりの訪問だったにも関わらず、すんなりと辿り着けたのは、ペロが僕を呼び寄せていたからなのだろうか。

 納骨は四十九日を待たずして行われていた。それは葬儀当日に、もう事件から十年近く経つというのにやってくるだろう記者たちを気にしての、祖父たちの苦渋の決断だった。

「誰か来たんだね?」とユキが言った。そこには、真新しい彼岸花が供えられていた。黒い墓石は綺麗に掃除され、陽光をまばゆいほどに反射させていた。

「きっと、ばあちゃんが来たんだろう」

 僕はティッシュに包んできた線香を取り出し、ユキに渡そうとした。彼女はじっと墓を見つめていた。彼女なりに思うところがあるのだろう。遠く昔を見つめるようなその眼差しが、なんだか物憂げに見えた。

「お墓、綺麗だと思わない?」

「だからきっと、ばあちゃんが」

「ううん、おじいちゃんよ」

 なぜかユキがきっぱりと否定してきた。

 え?

 彼女は八重歯で下唇を噛み、考えているようだった。

「もう言ってもいいかな? きっと時効だよね? うん、きっとそう、時効よ」

 ユキは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、ゆっくりと僕に顔を向けた。

「実はね、シュンのおじいちゃん、ときどきうちのお菓子、買いに来てたんだ……」

 どういうこと? そう思ったあと、すぐに彼女の言いたいことが伝わってきた。

「ペロのために、か?」

「うん。ずっと、口止めされてたんだけどね」

 ペロはユキの家の和菓子が大好きだった。小さい頃、まだ地下室に監禁されていたとき、ユキがこっそり店の余り物を持ってきた。それを初めて口にしたペロの目がぱっと見開いた。こんなに美味しいものがあるんだとばかりに眉を上げ、「もっと食べたい」と要求してきた。それ以来、ユキが和菓子を持ってくると、ペロは鼻の穴を広げて喜んだ。けれど、実家に戻ってきてからは、「事件のことを思い出すから」と溜息をつく祖母を気遣い、千国堂の包み紙を見ることはなくなっていた。

「この前の日曜もうちに来てくれたんだよ? ここでまた麻凜さんと食べるんだって」

 知らなかった。いくらペロのためとはいえ、あのずぼらな性格の祖父が、僕や祖母に気づかれずに、ずっとそんなことをしていたなんて……。信じられない。戸惑う僕の目に、供えられた彼岸花が映った。その真っ赤過ぎる赤が、祖父のどことも重ならなかった。

「知っての通り、最近うちの店もヤバくってね? そんな中でシュンちのおじいちゃんは、有り難い、常連さんだったの」ユキが搾りだすように言った。

「まだ仲悪いの? おじいちゃんと」

 肯いた僕に、「水曜にシュンが帰ってくるんだって、嬉しそうに話してたんだよ? おじいちゃん。あいつが行く前に墓を綺麗にしておくんだって。あいつはきっと掃除なんかしないし、供え物も持って行かないだろうからって、笑ってたんだよ?」

 あの祖父が? さらに面を食らった。

「おじいちゃん、不器用そうだから、たぶん家では表現できないんだろうけど。シュンは、思う以上に愛されてるんだよ?」ユキの言葉に力が入っていた。

 そう言われ、風戸家を初めて訪れた日のことが思い出された。玄関から大きな男の人が出てきた。でっかい、というのが最初の印象だった。「よく来た!」そう言って祖父は、いの一番に僕を抱き上げた。すべてが大きくて力強かった。軽々と持ち上げられ、顔を上げると、空が近くなっていた。すぐに祖父のことが大好きになった。そのあと何度も叱られたが、それを含めても大好きだった。

 忘れていた。何もかもが重苦しいと思うばかりで、幸せだった幼い頃の記憶にまで、いつの間にか蓋をしてしまっていた。「なぜそんなこと、いま俺に言うんだ?」

「昨日言えなかったからよ!」そう言ったユキは、はっとなって口に手を当てた。

「どういうこと? 昨日って……」ユキは悔しそうに歯を噛んでいた。

「そういえば昨日って、水曜だったじゃないか? お店休みなのに仕事だったんだ?」

 そう言うと、ユキは顔を背けた。何か変だぞ。そう思い、続けた。

「ユキんち、昔っから、ずっと水曜休みだったよな?」

 別に定休日に仕事が入っていても、おかしくはない。経営が厳しいのであれば、尚更のことだ。「仕事だったんだよ」そう言ってもらえば済むことだ。なのにユキは、横を向いたまま答えようとしなかった。ふとした想像が頭をよぎった。

「もしかして……?」

 ユキの目が、ちらと、こちらに動いた。

 待っていた? 僕が帰ってくるのを? まさか、でも、あのエプロン……は?

「だったら、どうなの?」ユキが低い声で答えた。

 え?

「シュンは一人じゃないから。そう思ってるのは、シュンだけなんだよ?」

 顔を向けた彼女は怒っていた。けれど、その瞳はなぜか潤んでいた。

「もうここには帰ってこない、なんて、なに宣言してるのよ! なに自分勝手なこと言ってるのよ! そんなこと言わないで! って止めてもらいたいの? みんなにそう言わせたいの? わたしは言わないよ? 絶対に。そんなナルシストなんか絶対にごめんだわ! そんな自分のことしか考えてない男になんか絶対に、ぜったいに……」

 ユキの頬に光るものが伝っていた。彼女はそれを手で拭い、悔しそうに顔を背けた。

 何も言えなかった。ユキの言う通りだ。僕は自分のことばかりで、祖父たちがいままでどんなにつらい思いをしてきたのか、真剣に考えてみることすらしなかった。逆に僕をこんな境遇にさせたペロを、彼女を産んだ祖父たちのことさえ恨んでいた。そして、それに巻き込まれた僕自身の運命を卑下し続けていた。

 どうせ俺なんか。いつの間にか、心の口癖になっていた。被害者の親に娘が監禁されていた。その娘は事件のきっかけを作った張本人だ。当時マスコミが騒ぎ立てた。気持ちは分かる。被害者の親にしてみれば。

 心ない世論が少なからず聞こえてきた。祖父たちは亡くなった僕の両親のことを表立って批難することもできず、ずっと無言を貫いてきた。そんな彼らを僕は間近で見ていた。でも心の中ではいつも、離れたところから見ていた。僕には関係ない。巻き込まないで。放っておいてくれ。

「勘違いしないでよ? おじいちゃんのため。おじいちゃんのためなんだから。ぜったいに……」鼻を啜りながらユキが訴えた。

「ごめん……」

「謝んないでよ」

 申し訳なく思うと同時に、目の前の幼馴染が、びっくりするくらい愛おしく思えた。

 風が吹き、彼女の髪が舞った。手で押さえきれなかった黒髪が、ところどころ虹色に光って、とても綺麗だった。

「ありがとう、ユキ」

 ユキは応えなかった。目の前の『風戸家』と刻まれた墓石が、神々しく輝いていた。

 それを汐に、僕たちは手を合わせた。

 遅くなってごめん、ペロ……。

 ユキに叱られたせいか、家の仏壇の前より素直になっている自分がいた。

 ペロ、今日は隣にユキもいるんだ。僕とペロとユキ、幼かったあの頃、なんの疑いもなく、友だち同士だった。三人だけの秘密の時間――。それだけに、とても楽しかった。

 純粋だったあの頃に戻りたいと思った。けれど、それが本心でないことも分かっていた。

 ユキの言う通りだね? ペロ。僕はいつも自分のことばかりだ。自分を不幸だと思い込み、うまくいかないと、最後にはすべてを、あなたのせいにしてきた。こんな僕といて、あなたは幸せでしたか? ご存知のとおり、僕は成長するほどに、あなたのことを軽蔑し、避けてきました。それでもあなたは、僕のことを好きでいてくれたのですか?

 昨晩、祖母から聞かされた。ペロは死ぬ間際まで僕が帰ってくるのを待っていたそうだ。

 病室のドアが開くたび、「シュン!」と僕の名を口にしていたらしい。そんなペロの気持ちも知らず、僕は頑として帰ろうとしなかった。いまになって思う。なぜあのとき、祖母から連絡をもらったとき、帰らなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない後悔が心のど真ん中に貼り付いて残っている。

 ペロ、祖父母、そしてユキ……。ずっと僕を見守ってくれている人がいる。

 僕は不幸、不幸だといつも思っていたけれど、実は幸せだったのかもしれませんね? ペロ、あなたは若いころ、過ちを犯してしまったかもしれない。けれど、もう十分にその贖罪を果たしたんだと思います。その短い人生の半分以上、こんな僕を愛することに費やしてくれたのですから……。

 こんなこと言ったら、腹違いのしっかり者の姉に叱られちゃいますかね? こんな僕ですが、よかったら、またそこから見ていてくれますか?

 友だちとして……いや、僕を産んでくれた実の母親として。

 僕の根っこは、どこにいても変わらない。ならば、すべてを受け入れようと思った。

 大学を卒業したら、この街に戻ってこよう。でないと、未来はきっと開けない。

 目を開けると、ユキはまだ手を合わせていた。先ほどからこの幼馴染が、切ないくらい愛おしい。

 顔を上げたユキと目が合った。

「な、何よ?」

 涙の残る彼女が困ったところで、思いきって伝えた。

「ときどき連絡してもいいかな?」

 彼女がまじまじと見つめ返してきた。

「仕事してるかもよ?」彼女が皮肉ってきた。

「だったら、かけ直す」

 彼女は目頭を押さえた。「……出なかったら?」

「何度でもかけ直す」

 彼女が両手で顔を覆った。

「仕方ない。受けて立つ!」

 彼女はその場に座り込んだ。

 忘れていた温もりが身体じゅうを満たしていった。

「昨日勇気を出して、ほんとうによかった……」ユキが何度も肯いていた。

 帰ってくる一番の理由が、できた。


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