罪煙 ~煙る中に揺らめく罪業を分かち合う者~
「はっ、はぁ……! うっ」
人気の無い狭く長い裏路地を男性が何度も背後を振り返りながら走り、店の裏手に置いてあるゴミの袋に躓き転倒する。
直ぐに起き上がろうとするものの、男性は相当長く走っていたのか地面に手を着いたまま中々起き上がれない。
「おいおい、待ちなよ。そんなに生き急いだって良い事なんて何もないぜ?」
その男性を追うように後から革靴の音を鳴らしながら別の男性が歩いて来る。
追ってきた男は、本当に男性を追っていたのかと思える程にゆったりとした歩みであり、声音も落ち着いており走る相手を同じく走って追いかけるなどはしていない様であった。
「人生最期の日だってんだから、男なら余裕を持ってどしっと構えときなさいよ」
転倒した男性の目の前まで来て立ち止まった男は、そう言いながらくたびれたトレンチコートの内側のポケットに手を入れて皺の入った煙草の箱を取り出し、指で箱を叩きながら小さく飛び出た煙草の一本を引き抜く。
「火、あるかい? ……ああ、いや、悪いね。そういや昨日のお店で綺麗なお姉ちゃんから貰ったライターがあったな」
そう言ってあちこちのポケットを探ると、目当てのものを見つけたのか年嵩のいった顔に似合わず嬉しそうに、無邪気そうに笑ってからライターを取り出して火を点けて煙を吐き出す。
「ふう……疲れた後の煙草は良いもんだね。あんたもそう思うだろ? もう若くないんだから、あんま追いかけっことかさせないで欲しいとは思うけどな」
「…………!」
トレンチコートの男の軽口に返答するでもなく、悔し気に歯を噛み締めた男は転倒したままの状態から、もはや起き上がる気力すら無くしている様子である。
「あ、おたく、もしかして俺が意味もなくただ吸いたいから煙草を吸ってるとか思っちゃってる? 残念だけど、これも仕事のうちなのよ」
そう言って紫煙を吐き出すトレンチコートの男は、この場の緊迫感に似付かわしくもない苦笑を困ったように浮かべて言う。
「……俺をどうするつもりだ?」
やっと返事が来た事に対し、トレンチコートの男はきょとん、と呆気に取られたように固まると、次には声を出して笑った。
「――ははっ、どうするも何も。さっき、人生最期の日って、言ったと思うんだけどなあ。自分がどうなるかどうかなんて考えるだけ無駄だって、ここで終わりなんだからさ」
「そう簡単に諦めていると思われるのは癪だな。野生動物だって抵抗ぐらいはするだろう」
「……そうかい。じゃあ好きに抵抗すると良い。ただ、それを許すかどうかは俺次第って話にはなるけどな」
膝を立てた男に対し、トレンチコートの男も目を細めてそう言うと、やる気も無さそうに適当な手招きをする。
男が膝立ちの状態から背後に手を回し、銃を引き抜いてトレンチコートの男に突きつける。
――が、それに対するトレンチコートの男は避ける素振りを見せるでもなく、また構えたりする事もなく、ただ気だるげに煙草の紫煙を吹き掛けるだけだった。
「う、あ……っ?」
だが、その効果は劇的であった。
男は銃を取り落とし、両掌で顔を覆い、俯いたまま、がたがたと震え始める。
「やあ、やあ、参ったね。それぐらいで参っちゃう?」
トレンチコートの男は、今しがた自身が撃たれそうだった事を感じさせる事もなく、微苦笑を漏らして男を見下ろす。
「さて、今どんな気持ちだい? 俺は煙を媒体にして、自分が犯した罪を相手に共有させるって事が出来ちゃったりするんだが、あんたにゃ何が見えてんだい? 軽いとこから行くと、ありきたりに親兄弟を殺した場面でも見えてるかい? それとも無差別にその場に居た人を意味もなく殺した場面?」
微苦笑を浮かべたまま次々に質問を投げかけると、煙草を咥えたまま次には両手をぱちんと鳴り合わせる。
「ああ、もしくは重い罪も共有されちゃったかな? これもまたありきたりだけど、非人道的な薬の人体実験だとか、わざわざ延命処理を施した相手を延々と拷問にかける所とか」
そうして次に思いついたように人差し指を立てて言う。
「あ、そうそう。両親を殺してわざと孤児にした子供を引き取って、そいつをこちらの言う事だけを聞く感情の無い道具にして爆弾を括り付けて突っ込ませたりとか、そういう事も色々やったっけ? あんた、一体どれを味わってんだろうね?」
「お、前……こんな事が許されると……!」
なんとか顔を上げた男の顔は涙や鼻水に塗れて見られたものではなかったが、それでもそれだけは何とか言葉にする事が出来た。
だが、それに対するトレントコートの男の反応はまたも困った様な苦笑だけである。
「あははは、許されないから俺の罪を共有したあんたがそんな事になってんだろう? 人には持てる罪悪感に許容量があるってのが俺の持論でね。ま、それも個人差はあるだろうけど……ま、俺はその個人差によって許容できる罪悪感ってのが多いのさ。だからこんな能力で仕事が出来る。いやはや、飯のタネに困らないってのは素晴らしい事だよな?」
「う、え……!」
「あらら、吐いちゃったよ。誰が片付けるんだよ……ま、吐瀉物よりは血の方がマシか。ばいばいね」
吐いた男に対して、トレントコートの男は嫌そうに眉を顰めると、直ぐに懐から取り出した銃で男の頭を撃ち抜いた。
「いやあ、煙草を吸うだけで相手が勝手に戦意喪失するんだから、ホントに楽な能力だわ」
そう言いながら、くたびれたトレンチコートを小さく靡かせて男は来た方向に振り返る事もなく、事切れた男性の横を抜けて裏路地の先に消えて行く。
その場には物言わぬ死体が一つと、空気に混ざった煙草の匂いだけが残されいた。