<ケセド編> 86.怒り
86.怒り
「これがクティソスの生まれたルーツだよ」
スノウに一通り語り終えたハチが言った。
「クティソスは元々人間‥‥だったのか‥‥」
「そうだね。ニンゲンとして生まれ、ニンゲンとして育った。その生活が突如軟化病によって奪われた。それを救ってくれたのがアラドゥ‥‥僕の永遠の親友だよ。だが、それも天使ハシュマルによって奪われた。僕らはなす術なかった。力がなかったためにね‥‥。この地下空間にいたクティソスたち約12,000名は甲殻で守られた自身の肉体を失って死ぬことも許されない悲しき彷徨ウ憎念という存在へと変えられてしまったんだ。君は既に見ているよね。大骨格コスタにいた無数のツァラトゥたちを。彼らも元々はニンゲンなんだ。このヒンノムに住むことを許されず、天上にあるアガスティアにも住まうことを許されなかったために、何の光も通さない大骨格コスタを彷徨うことしか出来ない存在になったんだ」
「‥‥‥‥」
「不幸中の幸い‥‥とでも言うのかな‥‥この地下空間では僕以外がその生を奪われてしまったけど、南にある街のヒジマにいた約1,000人のクティソスと偶々悲鳴の谷クグカへ行っていた八色衆はハシュマルの粛清の犠牲にはならなかったんだ」
「‥‥‥‥」
「そして、連れ去られてしまったアラドゥ無き後、あれから何人もの軟化病患者が死んでしまった。中には恨みの連鎖、同調なのか、軟化病で亡くなった者がツァラトゥになってしまうケースも出てきたんだ。ツァラトゥになってしまうと、ニンゲンもしくはクティソスだった頃の意識はなくなり、人族の精気を吸い取るだけの渇いた無意識体になってしまうから、その犠牲者も出始めたんだ。ツァラトゥを野放しにしてしまうと、この世界から人族は絶滅してしまうから、僕が大骨格コスタ域へと送ってきた」
ハチは話すことが苦しいのか、眉間に皺を寄せながら必死に声を絞り出しているようだった。
「それでも精気を吸われて殺されてしまう者が多くいてね。そこで僕らはそれを未然に防ぐ手段を講じることにしたんだ。八色衆がクティソスたちを引き連れて街を訪れているのを君も見ただろう?あれは、ニンゲンを襲おうとしたのではなく、軟化病を発症した者を葬っていたんだよ。被害が出る前に僕らは軟化病患者をニンゲンの状態の時に殺すことにしたんだ。極論すれば、襲って殺すのも、ニンゲンとしての尊厳を守るために殺すのも同じ殺害行為だけどね‥‥。僕は元々冥府の番犬だ。その手が汚れても痛くも痒くもない。でも八色衆の子たちの手まで汚させてしまったのは本当に申し訳ないと思っているんだ‥‥。元々はニンゲン。同族を殺すことほど辛いものはないよね。でも、どの街でも感謝されるんだよ?自分たちには殺せない。それを代わりにやってくれるクティソスたちには本当に辛い思いをさせてしまって申し訳ない‥‥感謝の言葉も尽きないってね‥‥。八色衆たちはそんな嫌な役を何年も何年も負って生きているんだ‥‥。それをさせてしまっている僕こそがその罪全てを背負うべきなんだけど‥‥」
「‥‥‥‥」
スノウは言葉を失ってしまった。
本来人間を導き救う立場であるはずの天使が、姿が人間とは全く違う状態になってしまったからという理由だけで、大量のクティソスたち生を奪った。
本来であれば軟化病を治す救いを与えるべきであったはずだ。
信仰とはただそこにあれば無条件で得られるものではない。
救いを与え、導き、向かうべき道を指し示してこそ、それを享受した者たちの心に信仰心が生まれるものであり、単純に書物による信仰の押し付けや、建物、彫像を強制崇拝させて得られるものではないのだ。
天使ハシュマルが行った粛清のきっかけとなった信仰心の問いかけは正に横暴極まりない信仰を勝ち取るものとは真逆の恐怖で支配する独裁そのものだった。
スノウは天使ハシュマルのそのやり方に怒りすら覚えていた。
雪斗時代に受け続けた周囲の人々からの不条理な蔑み、貶める行為と重なってしまったのだ。
普通に生きたいだけなのに何故そのような残酷な行為を強いることが出来るのか。
そこにどんな大義名分があるのか。
(弱い者を貶めることが許される大義名分などない‥‥)
一部の力を持った者たちによる支配。
一部の力を持った者たちが作り上げたルールを守らなければならない世界。
ホド、ティフェレト、ゲブラー、ケテル、ネツァクと旅をしてきたが、人間不信であったスノウにとっては仲間に救われ、仲間と共に必死に成長し駆け抜けてきた時間だった。
だが、そこには一貫して弱き者たちにとっての平穏はなかった。
人間、亞人、悪魔、天使、魔王、神、どれも強き者がルールを作り、私欲のために弱き者をコントロールする世界だった。
力ある権力者たちは不完全で不均衡な倫理観を押し付け、自分たちの決めたルールを人道的なものとして世に浸透させる。
人を欺いてはいけない。
人を傷つけてはいけない。
人を殺してはいけない。
だがそれは弱者に対してのみ適用されるものだ。
ルールを守れない弱者は排除されるが、力ある権力者たちはルールを守らなくても罰を受けないルールを持っている。
金があれば人を殺しても良い。
能力があれば人を殺しても良い。
何故なら、自分たちはルールを決める側で守るべき立場にないからだ。
何故なら、自分の決めたルールを守らない弱者が悪いのだから。
スノウの脳内は怒りで破裂しそうになった。
今まで必死に駆け抜けてきた数年間だったが振り返ると、一部の権力者が多数の弱者を搾取する世界、多くの者たちにとって “とても生きづらい世界” なのだと改めて実感し、この不自由な世界を壊したいという怒りが湧いてきたのだった。
今でこそスノウは力を持っている。
信頼すべき強き仲間がいる。
だが、それを持ち得ない者の逃げ場のない ”苦” を痛いほど知っている。
知っているからこそ、不条理な世界を壊す力を得たスノウは、怒りを行動に変える時が来たのだと思った。
そんなスノウの思いなど知る由もなくハチは話を続けた。
「これが僕らの全て。軟化病と共に生まれ、いつの日か軟化病がなくなったら、滅びゆく種族なのかもしれない。これまで行ってきた全ての業に報い、きっと地獄に落とされるのだと思う。でもせめて、あの子たちだけは極楽浄土へ昇り、”苦” から解放されることを望むよ‥‥。そう、これが僕の望みだね」
スノウは握る拳から血を滴らせながらやっと言葉を捻り出した。
「それで、アラドゥはどうなったんだ?」
スノウにはもはやクティソスの悲劇に触れる余裕はなかった。
触れた瞬間に怒りで全てを破壊しそうな衝動に駆られたからだ。
「分からない。探してもいないからね。さっきも言ったけど、今の僕の望みはあの子たちが ”苦” から解放されること。アラドゥもそれを望んでくれている。もし僕がアラドゥの消息を少しでも辿ろうとした瞬間にハシュマルはあの子たちをツァラトゥへと変えてしまうだろうからね。あの時、感情を持たないはずのアラドゥが僕らを ”家族” と言ってくれた。あの言葉だけで、僕は十分生きていける。そしてあの子たちが ”苦” から解放された時、アラドゥもまた、望みが叶って生きていて良かったと思ってくれるんじゃないかと勝手に思ってる。だから彼のことは常に想っているけど、探すことはしていないよ‥‥」
ハチはとても悲しそうな表情で言った。
「そうか‥‥。だが、偽善の街クルエテの地下にあった施設‥‥あれは間違いなくクティソスを生み出すものだった。クティソスを生み出すことが出来るのはアラドゥしかいないのなら、神託者教会のベルガーはアラドゥの力を使っているのだと思わないか?」
「‥‥‥‥君の推理は正しいよ。そして僕はこの会話も既に観ている。観た上で君を今回の調査に送ったんだ。予知を観た時は心臓が口から飛び出てしまうのではと思うほどの衝撃だったけどね」
「正直だな。そしてお前は自分では動けないアラドゥの消息をおれに辿って欲しいと思っているな?」
「そ‥」
「いい。答えなくていい。もうお前を疑うのは止めた。これはおれの判断、おれの責任で行動するものだからな」
「スノウ‥‥」
ハチは目から涙を溢し始めた。
スノウの言葉までは予知できていなかった流れの中、その言葉にハチは感情が溢れてしまったのだ。
「そしてもし、ベルガーがアラドゥの力を使ってクティソスを軍力として利用しているのなら、その背後には天使ハシュマルがいる。いないとしてもどこかで繋がっているはずだ」
(そして、このクソくだらない世界を天使が操っているのなら、おれはそれを丸ごとぶっ壊して変えたい‥‥)
スノウは本心は心の内に留めた。
「その真相を突き止めて、悲しい連鎖を止めてやる。そしてもしアラドゥが生きているなら、解放する。そのためにはおれはお前たちとは別行動しなければならない」
「!!」
ハチは驚きの表情を見せた。
「お前がどこまで予知し、おれ達との共闘が必要だと言ったのかは分からないしもはやそんなことはどうでもいい。だが共闘はここで終わりだ。お前たちはお前たちの出来ることをやれ。おれはおれがやるべきことをやる。だがこれだけは覚えておいてくれ。おれは思いやりある弱者の味方だ。善とか悪とかは関係ない。何が善で何が悪かすら、権力者の作り出したルールであり無意味な押し付けだからな。おれはおれの目的のために行動する」
「スノウ‥‥」
ハチは言いたい言葉を飲み込んで、奥にある引き出しを開け何かを取り出した。
それは固く封印された封筒だった。
「これはとある人物から受け取った手紙だよ。君に渡すように言われている。でもこの封筒を開けるのは今じゃない。窮地に立たされ道が閉ざされようとした時だからね。それまでは開けちゃだめだよ」
ハチはスノウに封筒をスノウへと渡した。
「これは誰が書いたんだ?」
「それは言えない。今は君のために言うべき時じゃないんだ。だが信じてほしい。君がそれを開けるべきと思った瞬間に開けてほしい。それが君にとって最良の選択となるはずなんだ。様々な意志と選択の流れが、その封筒を開ける瞬間に影響している。僕は既にその予知を観ている」
「そうか。分かった。信じよう。おれが開けるべきと判断した時、この封筒を開けることにするよ」
「有り難う。信じてくれて」
ハチは少し悲しそうに笑みを見せた。
いつも読んで下さって本当に有り難うございます。




