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穴穴家電

作者: ワッキーマン

               一


 わたしが「穴穴家電」なるものを知ったのは一枚の朝刊の折り込みチラシだった。いつもならチラシなどというものは、即ゴミ箱行きと決まっているのだが、その朝は少々事情があってチラシを読まずにはいられなかったのである。

 事情というのはわが家の電子レンジで、好い年をしながら独身暮らしのわたしには欠かすことのできない神器ともいえる重要な機械なのだが、昨晩突然ぷつんと音がするとスイッチを押してもうんともすんとも言わなくなり、おかげで近所のコンビニで買ってきたメンチカツを冷たいまま食う羽目になったのである。まだ買ってわずか二年なのだが、電子レンジというものはそんなにやわなのかと冷たいカツをくわえながら思わず蹴飛ばしてやりたくなったがそれも大人気ない。考えてみれば人間だって平均寿命はあっても、個体によって寿命は大きく違うのだ。いわんや機械である。買った翌日に火を噴くテレビだってあるだろうし、納車されたばかりの新車がエンストを起こす場合もあるだろう。二年もったというのは案外幸運かもしれん、などと考えながら昨晩は眠りについた。

 そして朝である。今晩は冷や飯を食うわけにもいかぬし、かといって料理など面倒くさいことをするつもりはさらさらないし、その技術もないので、電子レンジを買わなければならない。電気製品と言えば冬葉原と相場は決まっているが、一〇万や二〇万の品物を買うわけでもなし、たかが一、二万程度の機械を買うために往復一〇〇〇円を超える電車賃を払っていたら、冬葉原が安いとは言っても電車賃で相殺されてしまう。しかも時間もかかるわけでいかにわたしが暇だと言っても時間の無駄は金の無駄。結局損をすることになるのである。それなら近所の電気屋さんで買った方がよほど利口だ。といっても近所に電気屋さんなんてあったかしらとすぐには思いつかない。後で電話帳で調べようと思って何気なく朝刊を開いたら「穴穴家電」という名前のチラシが目に飛び込んできたのである。

 

<穴穴家電。凄い!凄すぎる!まさに家電の穴場!穴穴家電をよろしく!>

 

 大きな文字で書かれたその下に、商品が紹介されている。電子レンジはすぐに見つかった。安い。五〇円である。そんな、あほな。リサイクルショップか。はたまた一〇〇円ショップか。わたしは不思議に思ってチラシを隅から隅まで眺めたが、リサイクルや中古品ショップではないように思える。第一、電子レンジはバカみたいに安い値段だが、他の商品は必ずしも安いとはいえなかった、パソコン、五〇万円。いまどき五〇万円出してパソコンを買う客などいるのだろうか。その下には「破格の値段」と書いてある。そりゃ確かに破格だが。冷蔵庫一〇円。あのねえ。一口チョコじゃないんだよ。冷蔵庫だよ。モノクロテレビ二〇万円。アンティークショップか、ここは。モノクロテレビを好き好んで買うやつはいないと思うが。確かに希少価値はある。だからといって二〇万円てのはどうもねえ。留守録機能付き電話機、一円。

 ざっとカタログの表面を見てため息が出た。何とも滅茶苦茶な値付けである。広告の謳い文句「凄い!」というのはある意味当たってる。破格に高く破格に安い。

 いささか呆れかえって、カタログの裏面を見てわたしはさらに目を丸くした。

 

<特価品コーナー! あなただけにお知らせします!>


 あなただけにお知らせしますって、チラシにでかでかと書いて全然「だけ」になってないじゃないの。でも呆れたのはそんな些末なことじゃない。特価品と称して売られていたのは、ポルノビデオの数々だったのだ。というかポルノビデオのはずだ、というのは印刷されているビデオの表紙が何ともいい加減で公衆便所の落書きのような絵ではあるものの、何となく卑猥であったことと、表題が相当おかしいのだが一応ポルノビデオを連想させるようなものであったためわたしはそう判断した。例えば<今夜も濡れていこう><大きいことはいいことだ><穴は濡れてこそなんぼのもんですばい><びっしょりホテル>、こんな様なタイトルが並んでいる。まあポルノビデオと判断して良いのではないだろうか。価格は何と一円で横に<おまえさんも一発いこう!>と書いてある。ちらりとチラシの下段に目を落とすと、<当店のオリジナルビデオです>と書いてある。どうやらこの店はポルノビデオも自作しているらしい。道理で奇妙奇天烈な店名だと思った。

 わたしは再びため息をつくとチラシを床に投げ捨て朝刊を読み始めた。大量の文字が不規則に並んでいる。ある文字は大きく、ある文字は小さく。恐らく多くの重要な情報がそこには記載されているのだろう。しかし毎度のことながら何度読み返してみてもさっぱり頭に入らない。きちんと読んでいるつもりなのだが、「あ」とか「い」とか文字が頭を素通りしていくだけで、何を言おうとしているのかまるで理解できない。トップ紙面が無理でもせめてテレビ欄くらいと思って新聞を裏返し、テレビ欄に目を移してみてもやはり数字と文字が「見える」だけで情報が何も伝わって来ない。いつからこのようなていたらくになったのか。新聞を定期購読しているということは、かつては読めたはずなのにいつから読めなくなったのか。そのうちにむかっ腹が立ってきて、いつものように二頁ほどめくったところで新聞をテーブルに叩きつけると、先ほど床に投げ捨てたチラシがふわっと宙に舞い上がった。そうそう、新聞なんてどうでも良い。もっと大事なことがわたしにはあったのだ。電子レンジ電子レンジ。確か五〇円だったな。冬葉原に行ってもそんな値段で売っているわけがない。チラシには書いていないが多分リサイクルか処分品だろう。何日持つか怪しいが、何せ五〇円である。捨てたと思っても惜しい金じゃない。それよりもこの値段なら現品限りに間違いないだろうから今日行かなければ早々と売り切れてしまうかもしれない。できれば開店と同時に行ったほうが良い。いや、案外開店前のパチンコ屋よろしく大行列ができているかもしれない。出遅れたらまずいぞ。

 わたしは時計を見た。午前九時だ。いつのまにこんな時間になったのか。六時半に起きたはずなのに無意識のうちに時間が過ぎている。チラシを見た。開店は一〇時だ。地図を見ると歩いて一〇分ほどのところにある。これはいかん。新聞と悪戦苦闘している暇はない。急いで出かけなければ。いつもだらだらと暇つぶしのような日々を送っているのだから、たまには朝駆けしないとな。人間やるときにはやらねばならない。

 わたしは皺だらけのシャツ、薄汚れたジーパン、よれよれの冬物ジャンパーといういつもの服装に急いで着替えるとチラシを鷲掴みにして部屋を出た。朝日が瞼を叩く。冷たい空気が頬を切る。冬である。一応快晴である。わたしは目眩を覚えたが気を取り直し、そのまま駆け足でマンションの階段を降りて表玄関の扉を開け路地に出た。

 この辺りは高級とは言えず、かといって下町の風情があるわけでもないごく普通の住宅街である。鉄筋コンクリートのマンションと古びた木造住宅が乱雑に立ち並ぶ。わたしは路地を挟んで壁沿いに交互に立っている電信柱に身を隠すようにしながら早足でジグザグに進んだ。電信柱を見上げると鴉がいる。柱を転々と渡り歩く鴉。何となく今のわたしに似ているではないか、と考えると少し不愉快になった。そうやって目立たぬよう目立たぬよう最大限の注意を払いながら路地を進んだ。明るい時間帯に住宅街を歩くほど嫌なものはない。特に平日は辛い。朝からぼうっと家で過ごす退屈さには慣れたが、平日の外出には全然慣れない。いや永遠に慣れることはないだろう。何と言っても街を歩いている人間に慣れない。平日の日中だから歩いているのは大抵主婦である。老若は関係ない。買い物かごをぶらさげた子供連れの主婦が数人集まってあちこちで立ち話をしている。実にのどかで平和な絵図だが、わたしがその側を通るだけで空気が凍り付くのがわかる。主婦達のわたしを見る目がおぞましいものを見る目に変わるのだ。だからといって見られるのが怖いわけではない。見るのが嫌なのだ。子供連れの主婦が団子状態になって世間話をしているその光景が堪らなく嫌なのだ。絶対に見たくない。会いたくない。だからこうやって忍者のように電子柱に身を隠しながらつつつと路地を進んでいるのである。何、交差点を左に曲がって小さな路地を入り少し行ったところに目的の電器屋はある。すぐ近くだ。

 忍者技の甲斐あって、何とか恐怖の主婦軍団に出くわすことなく、目的地の傍まできた。車が一台やっと通ることが出来るような狭い路地に入ると左手に小さな月極駐車場があり、その先に「穴穴家電」はあるはずだった。わたしは看板を探しながらつつつと前進したが、気がつくと大きな通りに出てしまった。チラシの地図を見ると大通りに出るまでの間に店があるはずで、あれ、おかしいな、と思って引き返すとまた駐車場に戻ってしまった。いったい何度往復しただろう。つつつと動いているものだから爪先が疲れてくる。しかしどこにも看板はない。というか、電器屋どころか薬屋も煙草屋もおよそ店がありそうな雰囲気の通りではないのである。もう一〇時近い。この様子では、行列ができているとはとても思えないので、それはそれで一安心だが、目的の電器屋さんを見つけないことには、わざわざ冷や汗をかきながら朝駆けしてきた意味がない。わたしは腓返り寸前のふくらはぎをさすりながら、もう一度駐車場からゆっくりと歩いてみた。今度はつつつではなくずずずと歩いてみた。

 おや? 音が聞こえる。いや歌だ。小さな音だが駐車場の脇を進むにつれて聞き分けられる程度に大きくなってくる。駐車場を過ぎて一軒の木造住宅を過ぎてさらに数歩歩くと今度は音が小さくなる。どうやら音は駐車場のすぐ隣にある木造住宅から聞こえてくるらしい。わたしは引き返すとその木造住宅をじっくりと観察してみた。どこにでもある平屋造りの一戸建住宅である。築何十年と経っているのだろう、壁の傷み具合から相当古い家に見えるが、面白いことに玄関に掛かっている表札が真っ白だ。空き家かしら、と思ったが、よく見ると玄関の扉が少し開いていて中から光が漏れている。まさかね。これが電器屋さんってことはないよね。ただの家じゃないの。しかしここを行き過ぎるとまた交差点に出てしまう。地図が示している「穴穴家電」の位置は確かにここなのである。

 わたしは思い切って玄関の傍まで行ってみた。すると例の歌の音量が次第に大きくなり、歌詞がはっきりと聞き取れるようになった。ラテン調の軽やかなリズムにのって曲が流れてくる。

「穴場だよう、アナアナ。穴場だよう、アナアナ。あなたを待ってますう、アナアナカデン――」

 やっぱりそうである。どうもここがあのチラシにあった店のようだ。

「穴場だよう、アナアナ。穴場だよう、アナアナ。あなたに会いたい、アナアナカデン――」

 なかなかノリの良い曲である。わたしはいつのまにか片足の爪先でリズムをとっている自分に気がついた。いやいやそんなことをしている場合じゃない。ふと時計を見ると一〇時丁度じゃないか。なんだかんだ言って一〇分の道のりに一時間もかかってしまっている。何たる時間の無駄。

 少し自己嫌悪に陥りながらわたしはわずかに開いた扉の隙間からまるで泥棒のように中を盗み見てみた。その瞬間に勢いよく誰かが扉を開けたので扉に額をしたたかぶつけたわたしは「いてえええええ」と叫びカウンターパンチをくらったボクサーのようにその場にへたりこんでしまった。

「へえい、いらっしゃい、いらっしゃい。穴穴家電ただいま開店。あれ、お客さんお早いですねえ」頭の禿げた丸顔のオヤジが怪訝な顔をしてわたしを見下ろしている。オヤジは藍色の作務衣を着込んでいて、染物屋の作業場から出てきたような身なりだ。電器屋に似つかわしくないがこのオヤジが電器屋の店長なんだろう。扉を全開放したせいで、先ほどまで控えめに流れていた音楽が、結構な音量となって家から通りに向かって流れていた。

「穴場だよう、アナアナ。穴場だよう、アナアナ。あなたを待ってますう、アナアナカデン――」

 阿呆のように口を開けてへたりこんでいるわたしに深々と頭を下げると、店長らしき禿頭のオヤジは家の奥に引っ込んだ。わたしはゆっくりと立ち上がりジーパンの土を片手で払うと恐る恐る家の中、いや店内に足を踏み入れた。

 一応電器屋さんである。

 普通の一軒家らしく靴脱ぎ場があるので一瞬、靴を脱ぐのかと思って下駄箱とスリッパを探したが、見当たらないのでそのまま土足で廊下に上がり左手を見ると一般住宅の居間とおぼしきフローリング仕立ての大部屋に雑然と電器製品が積んである。雑然というのは、普通なら映像製品、音響製品、白物家電など分類して陳列しているものだが、そういった規則性がまったくないからだ。かなり大きなスペースなのだが、真正面から見ただけでも左端には大型冷蔵庫、その上に小型テレビ、その上にビデオデッキ、その上に懐中電灯が積まれているし、右端を見ると洗濯機、その上に中型ワイドテレビ、その上に食器乾燥機、その上に髭剃り器らしきものが積まれているという、不規則極まりない陳列、いやこんなものは陳列とは呼ばない、羅列だ。正面から見ると三列構成になっていて、真ん中の列には褐色漆塗りの重厚な洋服タンス、その上に小型ステレオ、その上に電話機という具合に並んでいるが、そもそも何で洋服タンスなんてあるのかわからない。単なる陳列台に使用しているのかもしれないが、それにしては高級品に見える。

 わたしはその居間、いや売場をぐるりと一周してみた。窓がいくつかあるがいずれも真っ黒なカーテンが降りていて、朝だというのに天井の照明の弱々しい光だけが頼りである。裏取引で入手した骨董品を地下倉庫で物色するような怪しげな雰囲気があるが、目の前にある品物は全然怪しくない。左から見ても右から見ても表から見ても裏から見ても先ほどのような電器製品が無秩序に天井まで届かんばかりの高さで積み上げられている。時々、本棚や食器棚のような調度品があったり、コートや靴などの衣服さえ見かけるが、一体何なのか。電器製品が傷つかないように保護しているつもりなのだろうか。

「電子レンジはと……」

 そうであった。わたしは電子レンジを買いにきたのである。ゴミの山かピカソの絵かと頭がおかしくなるような商品の無秩序ぶりに感心している場合ではない。早く買ってつつつと家に帰らなければ、昼飯の支度で街に繰り出す主婦軍団と出くわしてしまう。ぞろぞろと兵隊のように列を成して行進する彼女らから身を隠すのは忍者とはいえ難しい。早く電子レンジを探すのだ。

 わたしはレンジ、レンジと復唱しながら、ゴミの山、いや商品の山をさらに一周してみた。だが見当たらない。もう一度、目を凝らしながら一周してみたがやはり見当たらない。ついでにおかしなことに気がついた。値札がないのである。いやそれだけではない。商品の名前すら書いてないのである。今さら気づくのもおかしな話だが、商品だけがそこにあるのだ。例えば大型の白い冷蔵庫がどんと目の間にあるのだが、普通は「XX製電器冷蔵庫 品番○○」という具合に名前が貼ってあり、多少の説明書きがあり、値段が書いてあるものだが、全然それらしき札が貼られておらず、ただひたすらどんと置いてあるだけなのである。もちろん大抵は製品そのものにメーカーのロゴがついているのでどこの製品かはよく見ればわかるが、製品の素性がさっぱりわからない。新製品なのか古い製品なのか、どのような機能がついているのか、高速製氷とか脱臭機能とか省エネ設計とか最近では色々とあるはずだが、そのあたりがさっぱりわからない。いやそもそもこいつは冷蔵庫なのか、という疑念さえわいてくる。冷蔵庫って書いてないのだから、もしかすると単なる小物入れかもしれん、そんな気がしてくるのである。

 わたしは冷蔵庫らしき物の前で思わず腕を組んで考え込んでしまった。そう考えてみると先ほど見たテレビも本当にテレビなのか疑わしくなってくる。ただの台なんじゃないだろうか。洗濯機も怪しい。大きなゴミ入れじゃないだろうか等々、疑惑は疑惑を呼びわたしは一歩もその場を動けなくなってしまった。

 そのときである。わたしの右肩をぽんと誰かが叩いた。

「ひいい」

 わたしは真夏の河原の焼け石を素足で踏んだ小僧のように何度か飛び跳ねるとその場にしゃがみこんだ。首を一八〇度回転させて後ろを振り返る。思わず頸椎が鈍い音をたてた。痛いがそれどころではない。恐る恐る目を上げると、先ほどの禿頭のオヤジがいた。口を尖らせ少し首を傾けながら不思議そうにわたしを見下ろしている。

「どうかなさいましたか」よく見ると立派な体格、骨太な顔の輪郭、鋭く光る目、禿頭とあわせて相当いかついオヤジだ。

「あ、あの、ここのご主人様ですか」わたしは小声で尋ねた。

「いかにもここの主人ですが」オヤジは首を傾げたままだ。顔に似合わずアイドル歌手のように甲高く若々しい声である。

 わたしはゆっくりと立ち上がった。やっぱり店主か。店主を何で「様」づけで呼ばなければならないのだ。わたしは客である。

「あのですね、ここは電器屋さんですよね、そしてわたしは客ですよね」憮然とした振りを装いながらわたしは強い口調で言った。ちょっと怖かったからいつでも逃げられるように、横目で出口を確認しておく。

「仰るとおりです。あなたはお客様。わたしは店主。それがなにか」オヤジはまだ首を傾げたままだ。変わったのは下向きだった顎が前に突き出ただけ。斜頸か、このオヤジ。

「それならよろしい」少し安心。「ところでここの商品には値札がついていないのだが」

「値札? それが何か」

「それが何かって、値札がなければ値段がわからんじゃないか。それに説明書きもないから、製品に関する情報もわからんぞ。まあ、一応チラシは持ってきたが」わたしはジーパンのポケットのチラシを鷲掴みにして取り出した。

 オヤジは作務衣の襟を正しながら、かかかと笑った。

「お客様、当店ははじめてですね。確かにお見かけしたことのないお顔ですね。当店では値段はお客様がつけるのですよ。わたくしどもがつけるのではありません」

「はあ? 客が値段をつける?」わたしの口はあんぐりと開いた、

「はい。そこの品物を見ていただいて、ふさわしい値段を付けて下さい。ふさわしい値段をね。わたしどもはお客様の言うとおりにいたします。あ、それとも、お客様は電器製品のほうではなく、あちらのほうをお探しで?」オヤジは、最後のほうになると急に声を潜めた。

「あちらって何だ?」

「あちらですよ。チラシの裏側」

「あ」わたしは例のポルノビデオの広告を思い出した。思わず顔が赤くなる。

「ば、ばかもの。わたしは好い年した大人だ。ポルノビデオなんて興味あるわけが」

「いやいや」オヤジが遮るように言った。いつのまにかそのいかつい顔が鼻先数センチのところまで近づいている。気持ち悪い。

「男はいつまでたってもアレが好きですからな」オヤジはまたかかかと笑った。

「違うんだ。わたしは電子レンジを買いに来たんだ。あ、そうだ。チラシにはあったけど、さっきから商品を探していたんだが、電子レンジがないじゃないか」わたしはオヤジの迫力に二、三歩後ずさりながら言った。

「電子レンジ? もちろんありますよ」オヤジは、ゴミの山の右手に回り込むと、山積みになった商品のおよそ中央部に積まれた小さな本棚の扉を開いた。すると本棚の中からいくつかの電器製品が現れた。その中に黒塗りの電子レンジがあった。

「あ。そんなところに」わたしは声を上げた。「隠してどうするんですか。売り物でしょうが」

「別に隠しているわけでは。何せこれだけのスペースに大量の商品を置いてますのでねえ。例えば……」

 オヤジは、奥に積まれていた<ボーズ>製スピーカーをゆっくりとゴミの山から引き抜いた。するとすっぽりと抜けた穴の奥からDVDプレーヤーが顔を出した。まるでからくり部屋である。

 何を考えているのだ、とわたしは呆れかえった。商品が見えなければどうしようもないじゃないか。いや、まあいい、電子レンジは見つかった。しかも相当上等な機種だ。チラシでは確か五〇円だったから、これが五〇円なら超お買い得だ。わたしは電子レンジさえ買えば良いのであって、このおかしな店にこれ以上つきあう気は無いのだから。

「なるほどねえ。ところでこの電子レンジはいくらだっけ」わたしはオヤジの行動を無視してさりげなく聞いてみた。オヤジはまた首を傾げている。

「さっき言いませんでしたっけ。お客様が値段をつけるのですよ。わたしに聞かれても困ります」

 ため息が出た。

「ああ、そうだった、そうだった。ええと、チラシでは確か五〇円だったなあ」わたしはそう言うとオヤジの顔色をちらりと伺った。いいや、あれは印刷の手違いで実は五万円なんです、などと言いかねないと思ったからだ。だがオヤジの反応はわたしの予想を裏切った。

「チラシ? 五〇円? ああ、そう書いたかもしれませんね。でも、そんなことは問題ではありません。お客様次第なんですよ。その電子レンジにふさわしい値段をつけてくれれば良いのです」

 うむむ、そうきたか。わたしは内心困ったと思った。自由に値段とつけろと言われても、それはそう簡単なことではない。重厚な黒塗りの電子レンジに目をやった。電子レンジの外観から判断する限り、二、三万はする製品と思われる。自由な、ということになると一円でも良いわけだが、それでは余りに非常識に思えてきて、とてもそんな値段をつける勇気はない。かといって二万円というのなら、わざわざチラシを見て飛んできた意味がなくなってしまう。一万が適当なのか、五〇〇〇円が適当なのか、第一わたしの値段のつけかたによってはこのいかつい禿頭オヤジがぶち切れるかもしれない。背は高くないががっしりした格闘家タイプの体格だ。喧嘩になったら柳か糸こんにゃくかというようなひょろひょろしたわたしがかなう相手ではないし、喧嘩というものは例え口喧嘩であっても避けたい気弱な性格なのだ。ずばりいくらって言い切ってもらったほうがずっと気が楽なのだが、このオヤジはわたしに任せるという。ああ、困った困った。

「いくらになさいます?」オヤジがまた鼻先数センチまで顔を近づけてきた。

「うううううううう。ああああああ。どうしようかなああ。いくらにしようかなあ」わたしは冷や汗を垂らしながら考えた。一番無難な方法、無難な方法。「ああ、そうだ。やっぱり五〇円にしておきます」わたしは閃いた。五〇円ならチラシに書いてある以上、オヤジも逆らえまい。値を自分からはつけないと言いながら、チラシではつけている。この値段を選択するのが一番無難だ。もっとも五〇円という金額自体は全然無難じゃないが。

「五〇円?」

 オヤジはしばらく考え込んだ。無表情である。不愉快な値段なのか。ぶち切れるつもりか。背筋がぞくっとした。わたしはいざとなったらチラシをばっとオヤジの目の前に突きつけようと身構えた。しかし。

「毎度ありい。五〇円にて落札」オヤジはニコニコして言った。そうしてわたしから五〇円受け取ると、電子レンジを指さして言った。「申し訳ないですが、当店では梱包しませんので、そのままお持ち帰りになってくださいませ」

 わたしはほっと胸を撫で下ろすと、本棚の中からお目当ての商品を取り出し小脇に抱えると居間を出た。出る瞬間にオヤジが呟いた。

 「お客様って四角四面な人ですね。チラシにこだわらなくて良いものを」

 わたしの心に少し引っ掛かる物があったが、まあ良い。目的の品物は手に入れたのだ。しかも破格の安値で。この気味の悪い店はさっさと立ち去ろう。

 そう思って小走りに居間から廊下に出ると、並ぶようにして居間を出たオヤジが廊下の反対側の奥に消えていこうとする。わたしはレンジを小脇に抱えたまま、その後ろ姿を目で追いかけている内に、廊下の奥の薄闇に妙なものが見えたような気がして足を止めた。何か暖簾のようなものがぶら下がっているのである。オヤジはその暖簾の向こう側に消えていった。

「なんだ? 何の暖簾だ?」わたしは気になって仕方がなかった。一刻も早くここを立ち去りたいという思いと、あの暖簾になんて書いてあるのかを確認したい好奇心がぶつかりあった。そして好奇心が勝った。

 わたしは廊下の奥に向かってゆっくりと歩いていった。暖簾の文字が確認出来るまで歩み寄っていった。そしてようやく文字を判読できた。

 

 <穴穴酒処>

 

 そう書いてある。酒処だって? そういえば暖簾の奥から何やら人の声が聞こえてくる。ここの家の家族か? 昼飯の時間が近いから食事の支度か? それにしても何で暖簾がかかっているんだろう。これじゃまるで食堂か居酒屋かとにかく食い物の店みたいじゃないか。いや、しかしそんなことはどうでも良いのだ。早く帰らないと主婦連中の怒濤の攻撃にあってしまう。時計を見ると一一時を回っている。まずい。もう時間の余裕はない。わたしは踵を返して玄関の方に歩き出した。すると背後から声がかかった。

「お客様、この暖簾が見えるんですか」

 オヤジの声である。わたしは振り返った。オヤジが暖簾から顔を出している。

「はあ? もちろん見えるよ。何だい、その酒処ってのは」

「ほう、見えるんだ。お客様には」オヤジは暖簾の脇で腕組みしながら感心したように言った。「なるほどわかりました」

 既に靴脱ぎ場近くまで来ていたわたしが振り返るとオヤジが手招きしてわたしを呼んでいる。

「お客様、まあそう急ぎなさんなって。いらっしゃいらっしゃい! 穴穴酒処へ。美味いよ。破格の値段だよ」そう言ってオヤジは廊下の奥から盛んに手を振る。

 迷った。時間にしてわずか数秒、いやコンマ数秒かもしれないが、激しい葛藤がわたしを襲った。理由はわからない。行くべきだという思いと、絶対に行ってはならないという思いが真正面からぶつかりあった。そしてわたしは踏み出した。暖簾の方向へ。決心してしまえば後は簡単だった。廊下を小走りに進んで暖簾を片手で払いのけた。小脇には五〇円の電子レンジ。揺れた暖簾が軽く鼻を撫でた。

                   

                   二 

 

 目の前に白いおしぼりが一個あった。わたしはくの字型に曲がった小さなカウンターのほぼ中央に座っている。横目で右を見ると、すぐ隣にはくたびれた灰色のスーツを着込んだサラリーマン風情の男がひとりでちびちびと酒を飲んでいる。白髪がほぼ頭髪を占拠しつつあることと、痩せこけた頬をびっしり皺が覆っていることから相当の年輩者、五〇代後半、定年間際のサラリーマン、あるいは定年退職後の隠居生活に入った六〇代といったところか、いずれにしても背中から腰にかけての線が人生の黄昏時を感じさせる。さらにその右隣には、三〇代くらいの男女がわいわいがやがや騒ぎながら飲み食いしている。冬だというのに、男は半袖シャツ一枚に綿パン、女はタンクトップ姿の軽装で、ときどき嬌声をあげて抱き合ったりしているところを見ると、恋人同士かなにかだろう。酔っぱらった恋人同士は周りに気使うことなくふたりだけの世界を作り上げるものだが、彼らを包む空間がまさにそれだ。横目で左を見ると、ひとりの女が酔いつぶれる寸前なのか、カウンターに左頬をだらしなくつけて、どろんとした目でこちらを見ている。葬式から帰ってきたのかと思うくらい頭の先から爪の先まで黒ずくめ。長い黒髪、細面でなかなか整った顔立ち、要するに美形といっておかしくない「いい女」なのだが、泥酔状態では色気もへちまもない。時折ぶつぶつ何か呟いているうえに、目がすわっていて少し怖い。だが不思議と初めて会ったような気がしないのはなぜだろう。横顔に妙な親近感を覚える。

 さらにその左隣にはカーキ色のジャンパーの若い男がひたすら丼飯をかきこんでいる。よほど腹が減っているのだろう。丼茶碗に隠れて顔がよく見えないが、つるつるに剃り上げた坊主頭に髭面。余り目をあわせたくない世界の住人かもしれない。その向こう、壁際の席では椅子にあぐらをかいて黒縁の眼鏡をかけた青白い顔の青年が百科事典と見間違うような分厚い本を熱心に読んでいる。テーブルにはオレンジジュースのペットボトル。高校生だろうか。学生服に身を包んで本を読む姿は酒処だとひどく場違いに思えるが、本人は一向に気にしていないようだ。

「ご来店ありがとうございます」

 カウンター越しに正面から声がかかった。うつむき加減に席に座り周囲の観察に夢中になっていたわたしは一瞬驚いて顔を上げた。例のオヤジがニコニコしながらこちらを見ている。気がつくと、両手をわたしの方に伸ばし何やら小さな紙切れを握っている。

「わたしはこういうものです。これからもごひいきに」オヤジがそう言って軽く頭を下げた。よく見ると差し出された紙切れは名刺のようだ。わたしは反射的に自分の名刺を探したが、よく考えるとそんなものはない。つい最近まではあった気もするが少なくとも今はない。それに酒場の主人や旅館の仲居さんから挨拶がわりにもらう名刺とサラリーマン同士の名刺交換は違う。一方的に貰えばいいのだ。再びこの店に来るかどうかもわからないのだから。

 わたしは軽く会釈をして名刺を受け取った。名刺にはこう書いてある。

 

<穴穴酒処 主人 堀部安兵衛>


「堀部安兵衛?」わたしは思わず声を出してしまった。同姓同名か。それにしてはなかなか粋な名前だが、本名だろうか。

「オヤジさん、これって本名かい」と聞き返すわたしに、オヤジはまた例のごとく首を傾げると、何とも不思議なこと聞くものだという表情をする。不思議なのはこちらなのだが。

「本名? それは異な事をおっしゃる」オヤジは真面目な顔で言った。

「へ?」

「本名とはどういう名前のことでしょう」

「どういうといっても、本名っていうのは」わたしは言葉に詰まった。簡単な質問ほど答えづらいものはない。「人間が持って生まれた名前だよ」

「持って生まれた名前? 人も猫も犬も生まれたときには名前なんか無いですが」

 そりゃそうだ。オヤジは正しい。だけど、なんだか屁理屈のような気がする。負けてはいかん。わたしは堀部安兵衛という名前が本名かどうか聞いているだけなのだ。こんなところで言い負かされてはいかん。「いやつまりだな、オヤジ」

「戸籍上の名前ってことですかい、お客さん」オヤジはため息をついた。

「あ、そうそう。それだよ」何だ。ちゃんとわかっているじゃないか、とは言わない。オヤジは明らかに次の口上を準備しているからだ。

「そりゃ愚問というやつですよ、お客さん。ここは酒処ですよ。役所じゃあるまいし、戸籍上の名前を語る必要なんかどこにもありません。芸能界だってそうじゃないですか。芸名しか意味を持たないでしょう」

「ううむ」

「酒処だって同じですよ。彼がA、彼女がBとわざわざ識別するのは印が無いとやり取りに不便だからです。ポチだろうがタマだろうが、それこそ電信柱でも茶碗蒸しでも構いません。名前は名前です」

「ううううううむ、確かに」

 せ、説得されてしまった。これ以上は聞けない。堀部が本名なのかどうか知りたい気がするのだが、こう理詰めで来られてはどうしようもない。わたしは諦めた。まあ良い。いつか聞き出してやる。堀部安兵衛め。

「そうだ。ここにおられる方々は常連さんなので、一応ご紹介しておきましょう」堀部のオヤジは、ポンと手を叩いた。

「あ、ちょっとその前に何か飲ませてくれよ」わたしは喉が乾いていた。今は丁度正午。昼飯時が終わるまでは主婦軍団が怖くて外に出られない。どうせ暇なのだから、昼酒もたまにはいいだろう。飯ついでに一時間ほど時間をつぶしていこう。

「あ、そりゃそうですねえ。気が利かなくてすみません。で、何になさいます」堀部のオヤジは頭をカリカリとかいた。

「とりあえずビールを一本くれ」

「あいよ」オヤジはすかさず冷蔵庫からビールを一本取り出すと、グラスと一緒にわたしの目の前に置いた。「でいくらにしますか」わたしの顔を覗き込む。

「はあ?」ビールに伸ばしかけたわたしの手が止まった。「いくらって?」

「品物の値段はお客さんに決めて頂くと言いませんでしたっけ」堀部オヤジの目がビー玉のように丸くなる。目が丸くなるのはこちらのほうだ。

「ここもそうなのか」呆れ果てた。そもそも電器屋さんの奥に飲み屋があること自体あり得ない話なのに、値段はすべて客が決めるなんて輪をかけておかしな話じゃないか。だがしかし、真剣な堀部オヤジの眼差しを見ていると値段を決めない限りビールを飲ませてはくれなさそうだから、何がどうあっても、好むと好まざるに関わらず、この目の前の美味いしそうなビールにありつくためには決断しなければならぬ。

「わかったわかった。大瓶一本かあ。三〇〇円でどうだ」わたしは怖々オヤジの顔色を伺った。

「どうだってのは困ります。それでいいって言ってしまうとあたしが値段を決めたことになっちまう。言い切ってくださいな」オヤジが食い下がる。また同じ展開だ。いつのまにかふたりはカウンター越しに身を乗り出して睨み合っていた。

「よおおおおっしゃあ。三〇〇円でいこう」わたしは唾を飛ばしながら大声で怒鳴り散らした。

「承りました! 三〇〇円で落札!」オヤジも負けじと怒鳴り返す。

 はあはあ、息を切らしながら席について右と左を確認する。あれ? 誰もこちらの様子を気にする者はいない。相当な大声だったはずなのだが。他人事には全く興味がないってことか。まあ良い。注目されるのは苦手だ。

 わたしはビールをグラスに注ぎ一気に飲み干した。「くああああ、美味い!」と思わず叫んだところで、オヤジが朗々と語り始めた。

「では常連さんをご紹介しましょう。お客さんの右隣の方が、あ、そのスーツの方ね。その方が<るうずべるとさん>」

 わたしは反射的に頭を軽く下げた。<るうずべるとさん>も軽くこちらに頭を下げる。視線はカウンターに落としたままだ。黙々と杯を重ねている。

「その右隣の方おふたりが、金さん銀さん。確かご夫婦とお聞きしました」

 <るうずべるとさん>越しに「どうも」と声をかける。しかし金さん銀さんご夫婦はお喋りに夢中でこちらに気づかない。どちらが金さんでどちらが銀さんなのかもわからない。

「続きましてえ」堀部オヤジの口調が結婚式の司会者のようになってきた。

「左隣の方が、あ、酔いつぶれている。え、大丈夫? まあ、ほどほどにねえ。彼女が<椿姫>さん。なかなかお綺麗な方でしょ。飲んべえだけど」

 わたしは顔をこちらに向けてカウンターにうつ伏している<椿姫>に軽く会釈をした。<椿姫>がニヤリと笑った。やはり見覚えがある顔立ちだ。

「その左隣の方が<鉄砲玉>さん。相変わらずよく食べなさる」

 <椿姫>がカウンターにのびているので<鉄砲玉>さんの姿はよく見えるのだが、相変わらず丼飯をかきこんでいて顔が見えない。とにかく何だか危険な香りのする男だから、声はかけないでおこう。

「最後に一番奥の席で本を読まれている方が<鴎外先生>です」

「<鴎外先生>? 学校の先生なのかい。あるいは作家さんとか」学生服を着た作家さんなどまずあり得ないと思ったが一応訊いてみた。

「いやあ、職業は知りません。名前が<鴎外先生>なんです」堀部オヤジが<鴎外先生>に目で合図を送ると、<鴎外先生>は分厚い本をカウンターに置き、黒縁眼鏡をきりきりと整えるとわたしの方を見て言った。「わたしが<鴎外先生>です。よろしく」

「はあ、よろしく」頭が痛くなってきた。とにかくビールを飲んで何か食おう。

「で、お客様のお名前は?」堀部のオヤジがニコニコしながらわたしに尋ねた。二杯目のグラスを半分まで飲んだところでわたしはビールを吹きそうになった。そうだった。紹介されたのだからわたしも名前くらいは話さないといけないのだった。とはいってもどうすればよいのだ。さきほども言ったように名刺はないし、車も運転できないので免許証もないし、保険証もないし、何も身分証明となるようなものは持っていない。そもそもわたしの本名って……。やばい。こりゃやばいぞ。

「お名前ですよ。お客さんの名前。あ、また変なこと考えているでしょう。あなた、四角四面だから」堀部オヤジが呆れたような顔をする。「四角四面だなあ」

 おお、そうだった。何も本名を名乗る必要はないのだった。そう言われたばかりじゃないか。何でも良いのである。適当な名前で良いのだ。

 「か、からす……」頭の中に突然電柱にとまっている鴉の姿が浮かび、自分でも気がつかないうちにそう呟いていた。「<からすうたまろ>です」

「ほう、<からすうたまろ>さん? なるほど、いいお名前ですな。皆さん、この方は<からすうたまろ>さんと言います。これからちょくちょく来られますのでよろしく」堀部オヤジはご満悦だ。馬鹿言え。今日だけだ。二度と来るつもりはない。こんな変な店。勝手に常連にするんじゃない。とは口に出して言えないから、わたしは愛想笑いを浮かべながら飲みかけのビールを飲み干した。とにかく早く飯を食って帰ろう。

「オヤジ、お品書きをくれ」そうである。さっきから密かに探しているのだが、品書きの帳面もなければ壁の貼り紙も無い。これじゃ何を頼んで良いかわからない。手際の悪い店である。

「はい、お客さん」オヤジはカウンターの陰にしゃがみこむと黄色い花柄の帳面を取り出しわたしに差し出した。さてさて何にするかなとお品書きであるはずの帳面を開いてわたしの首は数センチほど伸びた。何も書いてない。どの頁を開いても白紙である。厚手の紙をいくらめくっても真っ白だ。仕掛けでもあるのかと帳面を振ってみたが何も落ちてこない。ははあ、さてはまだ何も書いてない予備の帳面を間違って渡しやがったな。わたしはむっとして堀部のオヤジに向かって怒鳴った。

「何も書いてないぞ。こいつは未完成版じゃないのか。腹が減ってるんだよ。ちゃんとしたものをくれ」

「はあ」堀部オヤジがまた首を傾げて不思議そうにこちらを見ている。その表情は見飽きたぞ。何でもいいからお品書きを持ってこい、と言いかけたそのとき。「それがお品書きですが」グラスを探していた手が一瞬宙をさまよった。

「これがお品書き?」わたしはもう一度、手元の帳面をぺらぺらとめくってみた。白紙に間違いない。「何も書いてないんだよ。ちゃんと見ろよ。オヤジ」と白紙のお品書きを開いてオヤジに見せる。

「だからお客さんが書くんですよ」オヤジの怪訝な表情は相変わらずだ。

「客が書く?」

「もおおううう。何度も言っているじゃないですか。お客さんも困ったおひとだ。お客さんが全部決めるんですよ。お客様は神様です」堀部のオヤジが自慢げに言った。最後の台詞が決まったと思ったのだろうか。

 わたしはと言えば、白紙の帳面を右手で高々と掲げたまま、固まっていた。言葉が出ないというやつだ。堀部のオヤジが冗談のつもりで言っているにしてもうまく切り返す言葉が見つからないし、受け流すこともできないし、第一オヤジが冗談ではなく掛け値なしの本気で言っていることは内心わかっていた。

「まあ、手をおろしなさい。<からす>の旦那」<るうずべるとさん>が徳利を横に倒して言った。すかさず「堀部さん、もう一本つけてよ、一〇〇円でね」とオヤジに声をかけると、ほぼ食べ終わった焼き魚に未練がましく箸をつけた。「あいよ」と堀部オヤジが返す。

 わたしはお品書きをカウンターにそっと置いた。変だ。変すぎる。変だ変だと思っていたがあんまりだ。異常だ。狂ってる。いんちきだ。とんちきだ。非常識だ。理不尽だ。思わずわんわん泣きたくなった。しかしそれは余りに格好悪い。ここは長居すべきではない。よく考えると周りを見渡してもおかしな連中ばかりじゃないか。ひょっとすると精神異常者の集まりかもしれん。その代表が堀部のオヤジだ。絶対まともとは思えない。このままじっとしていると何をされるかわかったもんじゃないぞ。あ、そうだ。ぼったくり居酒屋ということもあり得るな。何でも好きな値段でどうぞなんて言っておきながら、後で莫大な請求が来るとか。そもそも電子レンジを五〇円で買ってそれで帰るはずだったのに、いつのまにかここにいてビールを飲んで飯を食おうとしている。ここで数万円ぼったくっておけば電子レンジのお代が安くても帳尻があう。そうだ、そうに違いない。うまいことはめられたのだ。早く逃げ出さなきゃ。

「ああ、わかった、わかった、オヤジさん。これがお品書きね。わかってるって、ちょっと聞いてみただけだ」わたしは気にかけていない振りを装い作り笑いを浮かべながら思案した。かといって何か一品くらいは頼まなければならんだろう。ビール一本じゃあ、かえって何を言われるかわかったもんじゃない。因縁をつけられるのはご免だ。あの<鉄砲玉>とかいう男なんか、いかにも危なそうなやつだからな。ここの用心棒かもしれん。あんなのと喧嘩になったら半殺しにされてしまう。ここは一品だけ安めのものを頼んで帰ろう。何がいいかな。かけそばかうどんあたりが無難か。いや待てよ、ここの常連さんが食べているものを頼めばいい。出来るだけ安そうなやつを。

 わたしは<るうずべるとさん>が食べている焼き魚を見た。

 あれは何の魚だろう。見たところ秋刀魚だが、いささか季節はずれだし確認が必要だな。とんでもない高級な魚だったら堪らない。

「あ、あの、<るうずべるとさん>。その魚、美味しそうですね」

 <るうずべるとさん>は答えない。一生懸命焼き魚の骨の間に残った身をつついている。一片の身さえ残さないぞという強烈な気迫が漂っている。魚料理を食べている人はときに魚と格闘している風に映るが、今の<るうずべるとさん>はまさにそんな感じだ。「なんて魚ですか? 秋刀魚ですか?」とわたし。

「え?」<るうずべるとさん>はようやく魚との格闘を終えてわたしを横目で見た。格闘の直後だからか少し息を切らしている。「ああ、そうですよ。秋刀魚の塩焼きですよ」

 よしそれにしよう。秋刀魚なら値段も手頃だ。そう吹っ掛けられることもないだろう。

「オヤジさん、秋刀魚の塩焼き、オレにもくれ」わたしはわざと横柄に言った。小心者と思われたらまずい。足元を見られる。

「あいよ。でお値段は」<鴎外先生>の注文を受けていたオヤジがわたしの方を振り返った。

「あ、そうだった、そうだった、一〇〇〇円で頼む」

 そのときである。場全体の空気が一瞬凍り付いた。「頼む」の「む」を言い終わるやいなや、カウンターの客全員がわたしに視線を向けたのである。余りの圧力に寒気さえ覚えたわたしは、怖々<るうずべるとさん>の表情を見た。正面を向いたままなので横顔しか見えないが口をぽかんとあけて今にも泡をふきそうだ。左目は眼窩から飛び出しそうに見開かれている。左手に一合徳利、右手に杯。徳利を傾けたままの姿勢で固まっている。

 オヤジに目を移した。オヤジのほうはいつもの調子だ。首を傾げながらじっとこちらを見ている。そして言った。「四角四面だねえ」しばらく間があって思い出したように「あいよ」というと手元の魚をさばき始めた。周囲の絵も少しずつ動き出す。会話が一瞬止まっていた金さん銀さん夫婦も再びやかましく喋り始めた。<鉄砲玉>の顔が再び丼茶碗に隠れて見えなくなった。時計が再び回り始めたのである。

 何だ何だ何だ。今のは一体何だ。わたしの背中を冷たい汗がつたっていった。何なんだ。一〇〇〇円がおかしいのか。何でなんだ。少し高いかもしれないが、そんなにおかしな値段じゃないし、第一安過ぎるならともかく高い値をつけて驚かれる筋合いはないじゃないか。わからん。しかし気になる。何だかすごい失態を演じてしまったようなそんな気がする。これは聞いてみるしかないな。

「あの、<るうずべるとさん>?」

 <るうずべるとさん>は、また酒をきゅきゅきゅとやっていた。テーブルには既に徳利が四、五本並んでいる。かなりの酒好きと見た。

「はいはい、<からすうたまろ>さん、何ですか」

「何でさっきみんなあんなに驚いたんですか」皺だらけの顔に赤みがさしている。<るうずべるとさん>の表情をじっと下から覗き込む。

「ああ、あれね」きゅきゅきゅと杯を重ねる。「そりゃ驚きますよ。一〇〇〇円でしょう? 一〇〇〇円。そりゃ犬でも猫でも驚きますよ」

 犬や猫は驚かないと思うのだが、と言いかけてやめた。だからその一〇〇〇円が一体何でそんなに驚きなのかがわからないんですよ。

 わたしの心の中を見て取ったのか、<るうずべるとさん>がぽつりと言った。

「最高値ですよ。この店のこれまでの注文の中で最高値。しかも秋刀魚の塩焼きにね」

「最高値? 一〇〇〇円が、ですかあ。じゃあ、<るうずべるとさん>のその塩焼きはいくらなんです」

「これですか。五円です」<るうずべるとさん>はまたきゅきゅきゅと杯を重ねた。

 わたしはといえば頭の中が真っ白である。ご、五円だとお。

「ふ、ふざけやがって……」と小声でつぶやく。わざわざ声量を落としたのはおそらく、いや間違いなく、この酒場では<るうずべるとさん>が当たり前であって腹を立てているわたしのほうが非常識だと推測されるからだ。あんたがふざけてんだよ、と言われるのが目に見えているのである。なんと言っても<るうずべるとさん>も他の客も常連、わたしは新参者、酒場にはその酒場ならではの常識が、文化が、マナーがあることくらい、わたしも知っているのであるからして、ここはぐっとこらえるしかない。第一、わたしはここの常連になるつもりなどないのだ。ビールと一〇〇〇円の秋刀魚の塩焼きを食ったら出て行く一見客に過ぎないのだから。

「くわばらくわばら」と何気に一言呟くとカウンターに左頬をつけたままの姿勢で<椿姫>が唇を歪めながら皮肉っぽく言った。

「なにがくわばらなの」

 まさか酔いどれ女に聞こえているとは思わなかったので思わぬ不意打ちに驚いたわたしは少し身体を引き気味に構えて<椿姫>を見た。改めて見てみるとやはりなかなかの器量である。年の頃は三〇前後。上目遣いにこちらを見る目は異様に大きく黒く、紙切れのようなはかなさを感じさせる青白い顔に肩まであろうかと思われる長い髪がかかり、髪の毛の隙間からのぞく唇は肉感的で、ニタニタ笑いは癖なのだろうが妙にその表情が似合う。妖艶というか凄惨というか白い着物を着せて墓場に立たせたら「美人お化け」として名をはせること間違いなしだ。

「そのひとに余り深入りしないほうがいいわよ」<椿姫>の唇が動いた。他には指ひとつ動かさない。長い首はカウンターに載せたままだ。まるでろくろ首。

「そ、そのひとって」わたしはろくろ首に向かって言った。

「そのおじさんよ」<椿姫>の黒い瞳が動いて<るうずべるとさん>を見た。真綿を濡らすように<るうずべるとさん>の身体に視線が染みとおる。<椿姫>の瞳が少しかすんでいるように見えた。泣いているのだろうか。真っ黒な目の玉はすぐに強い光を取り戻すとわたしのほうをぎょろりと見て「昼間から酒ばかりくらってる情けない人。そうやってどんどん何かを失っていくことに気がつかない」とため息をつく。

 昼間から飲んだくれているのはお互い様だろうと言いかけたがやめておいた。大きく見開かれていた<椿姫>の目が次第に光を失いながらゆっくりと閉じていき薄紫の瞼に完全に覆い尽くされるとそのまま眠ってしまったからだ。

「完食ううう」誰かの奇声が店内に響き渡った。どうやら<鉄砲玉>のようだ。丼茶碗を高々と頭上に掲げている。「おやじい。うまかったぜ」<鉄砲玉>はご満悦だ。

「ありがとうございます。それで結局のところ何杯食べなさったんで」

「二十一かな。いや、二十二かな。途中まで数えていたんだが忘れちゃった。とにかく自分の歳の数まで食うのが目標だったんだけど、それはクリアーしたはずさ」

「二十二杯だとお」とわたし。

「二十二杯ですな」と<るうずべるとさん>。

 もはや驚く気力もない。どうやらいつのまにか免疫ができつつあるようだ。

「じゃあ行ってくるぜ」<鉄砲玉>は空の丼茶碗をカウンターに叩きつけるように置くと、意を決したように立ち上がり、使い込んだカーキ色のジャンパーのファスナーを胸元まで一気に引き上げた。ジャンパーを通してたくましい胸の筋肉の隆起が透けて見える。剃り上げた坊主頭に血管が浮き出ている。大量のカロリーを摂取して体内の血液が沸騰しているのだ。<鉄砲玉>はカウンター越しに堀部のオヤジに小銭を手渡すとジャンパーの懐から迷彩色の野球帽を取り出し目深にかぶった。ゆっくりと入り口に向かって歩き出す。

「いってらっしゃいませ」堀部のオヤジが馬鹿丁寧に額が膝につくかと思うほど深くお辞儀をした。<鉄砲玉>は振り返ることなく、癖なのか両肩をくいっとすぼめて首を数回ひねる仕草をしながら「おうよ」と威勢良く言葉を返し、そのまま暖簾の向こう側に消えていった。

「仕事に行くのかな」わたしは<鉄砲玉>の背中を見届けると正面を向いて堀部のオヤジに話し掛けた。オヤジはまだ深々とお辞儀をしたままだったが、わたしに話し掛けられてもとの姿勢を思い出したらしい。慌てて顔を上げると返事をせずに「おっと失礼」と呟きながら背後のガスコンロから焼き物を取り出しおろし大根を添えて皿にのせるとわたしの目の前に置いた。

「秋刀魚の塩焼きでございます」

 おお、そうだった。すっかり頼んでいたことを忘れていた。薄く焼き目のついた秋刀魚の姿形と立ち昇る香ばしい匂いで口のなかに唾液が一気に噴出する。思わずよだれが出そうになり慌てて大量の唾液を飲み込むとわたしは一口、二口と塩焼きを味わった。ついでにビールをもう一本注文した。

「仕事でございますよ。体力をつけるんだと言っていつも大量の丼物を食べなさってからああやって出かけるのでございます」堀部のオヤジが思い出したようにわたしの問いに答えた。

「何の仕事だい」塩焼きの味は格別だった。皿の上の一品はあっというまに骨だけになった。残った骨を未練がましくひとしゃぶりしてからビールを一杯ぐいと飲み干す。

「さあねえ。仕事の内容までは知りません」とオヤジ。

「あのガタイだ。肉体労働だな」とわたし。

「身体を張る仕事だといわれてましたが」とオヤジ。

「あの強面だ。やばい仕事かもしれんな」とわたし。

「仕事があるだけ幸せというものです」と<るうずべるとさん>。

 わたしは<るうずべるとさん>を見た。ビールでほろ酔い加減になったせいか、秋刀魚の塩焼きで空きっ腹が楽になったせか、初対面の人間に接したときに必ず感じる胃の中がもぞもぞするような不快感が薄れてきたわたしは、改めて冷静に右隣に座っているこの初老の男を観察してみた。相変わらず一合徳利と杯で熱燗をちびちびと飲んでいる。くたびれた灰色のスーツの皺とたるみから、覇気に欠けた痩せた体躯は容易に想像がついた。細い首、薄い胸、丸くすぼまった背中、小さな尻……。

「あっ」わたしは思わず声を上げた。<るうずべるとさん>が一瞬振り向きかけたがすぐ横顔に戻りきゅっと杯を飲み干した。

「あ、足が……」

 なんと、<るうずべるとさん>の左足が無かったのである。大腿部からごっそり無い。灰色のスラックスは腰の少し先からだらりと下に垂れており、地に付いているのは右足ただ一本だったのだ。

 気がつかなかったのだろうか。この酒場に入ってこの席に座ってからそれなりの時間が流れているが、隣席の男性の左足がないことに今まで気がつかなかったのだろうか。右足なら死角になって見えないこともあるだろうが、左足である。わたしの席に近いほうの足である。しかも他の常連客とは異なり<るうずべるとさん>とは何度か言葉を交わしている。それなのに気がつかなかったというのか。どうも合点がいかない。

「し、失礼。足が悪かったのですね」わたしの胸のつかえは降りなかったが、ここは一言かけておくべきだろう。覚えはないが、気がつかないうちに何か失礼なことを言った可能性もある。詫びておくにこしたことはない。

「足?」<るうずべるとさん>が怪訝そうな顔をした。わたしの顔がひきつっていたのだろうか。わたしの視線を追いかけて到達した先、自分の膝元をうつむき加減に見た<るうずべるとさん>が一瞬ぎょっとした顔をした。そのまましばらく自分の存在しない左足を見つめていたが、何事も無かったような温和な表情に戻ると再び杯を重ね始めた。そして呟いた。

「堀部さん。今度は足だよ。片足が無くなっちゃった」ため息をつく。

 堀部のオヤジがカウンターから見を乗り出して<るうずべるとさん>の腰から下を覗き、少し悲しそうな表情をして呟いた。「今度は足ですか」

「足だよ。参ったなあ。これじゃ歩けない。堀部さん、松葉杖とは言わないが、杖くらいあるかね」

「何か支えになるものを後で探して持ってまいりましょう。なあに、心配ご無用。何なりと都合はつきますよ」

 わたしは思わず割って入った。「どういうことですか。もともと足が不自由なのでしょう?」正直余り答えは聞きたくなかったのだが、聞かずにはいられない。頭蓋骨の中で脳みそがぐらりと揺れた。

「もともと? ありましたよ。さっきまであったんですが」<るうずべるとさん>が鼻で笑って言った。「初めから無ければ杖くらい持ってきます」

「ど、どういうことですか」答えは本当に聞きたくないのだが自分に歯止めがかからない。

「左足は、今日、いやさっき、ここで無くしたんですよ。いつのまにか……」

「……」

「いえいえ、よくあることなんです。無くすのはこれが初めてじゃないので。ただ足というのはいささか不自由ですねえ。ちょっと予想外でびっくりしました。堀部さん、もう一本つけて」へえと堀部のオヤジが返す。<るうずべるとさん>は横顔のまま左目でわたしをちらりと見た。

「よくあるって……」聞くな。聞くんじゃない。心の中から叫び声が聞こえる。

「よくあるんですよ。二、三日前だったかなあ。これもね……」<るうずべるとさん>が、皺だらけの顔をゆっくりとわたしに向けた。<るうずべるとさん>の顔を初めて真正面から見た。背筋が凍りついた。

 ――<るうずべるとさん>の右の眼球が無かった。ただぽっかりと真っ暗な空洞があるだけだった。暗い空洞はどこまでも深く長く続いていた。


            三


 鴉の鳴き声で目が覚めた。毎朝のことである。割れんばかりに雨が窓硝子を叩く土砂降りの朝も、突風でバルコニーのポリバケツや物干し竿が暴れてけたたましい音をたてる朝も同じだ。窓を締め切ってカーテンを二重に下ろしていれば、じめじめした暗い部屋に一筋の朝陽も射しはしないが、鴉の声だけはいかなる騒音をもかいくぐって耳に届く。そうして目を覚まし枕もとの時計を見ると決まって針は六時半を指している。なぜ六時半なのか。この時刻に何か意味があるように思えるのだがどうしても答えが見つからない。しばらく布団の中でもぞもぞしながら考えてみるのだが駄目なのである。そのうち考えることに飽きて布団から抜け出し洗面所で顔を洗うのだが、その頃には「なぜ六時半なのか」という疑問すら忘れてしまっている。長い間洗濯していないためいたるところが染みだらけの寝巻き姿のままコーヒーを沸かし郵便受けから新聞を抜き取り小さな丸テーブルに投げ捨てるように置くと、コーヒーが沸くまでのつかのまの時間、居間の窓を開け放し首を出して外をぼんやり眺めるのが習慣だ。冬のこの時期、この時間、外はまだ薄暗く景色の判別は難しいが、そのままじっと見ていると景色が次第に輪郭をあらわにしてくる。その様子を見ているとまるで生き物のようだと思う。巨大な獣が瞼をゆっくりと開ける仕草に似ている。どうやら今日は晴れのようで空はこうしている間にも青く染まりつつあるが、本当に青いのかどうかわたしには自信がない。この数ヶ月、よどんだ水の中に棲んでいるがごとく視界がどんよりと曇っているからである。部屋は小さな賃貸マンションの三階にあるので窓から下の路地を見下ろせる。路地を見下ろすと丁度出勤の時間と見えて、住宅街であるこの界隈に住む働き手たちが駅に向かっていささか早い速度でぞろぞろと歩いていくのがわかるが、いくら目を凝らしてみても彼らの姿はぼんやりとしたままでようやく人であることがわかる程度にしか判別できない。そのくせ、目を上げてはるか遠くの電信柱を見ると、てっぺんにとまった一羽の鴉が翼をはためかせる姿は羽の震えまで見分けられるほどくっきりと見える。昨日の朝も一昨日の朝も同じ鴉を同じ場所で見たと断言出来るくらいに。鴉のほうもわたしのことを覚えているのか、じっとこちらを凝視している。ほんの数秒か、数分間か、数時間かわからない。その間時間は止まっている。いかほど時間が経ったのかわからないが突然身震いが起きて我に返る。寒空に寝巻き姿で窓から身を乗り出していたがゆえの震えではない。長い時間外を眺めていると何やら得体の知れない恐怖に襲われ不安になるのである。長居は禁物。コーヒーはもう沸いている。急いで窓を閉めテーブルに戻る。愛用のマグカップに注いだコーヒーをすすりながら新聞を手に取る。毎朝の決め事。

 昨日は奇妙な日だった。居間の片隅に裸のまま置かれた黒い電子レンジを見ながら思った。秋刀魚の塩焼きを食べて帰ろうと思ったのだが、揚げ出し豆腐、納豆まぐろと立て続けに注文し、最後の「締め」にてんぷらそばを食べる頃にはビール大瓶を一〇本近く空けており、相当酔いが回って店を出たのは夕方近い四時ごろだった。夕食の支度で買い物に出かける主婦軍団と出くわすのが恐ろしかったが、酔っているために意外と大胆不敵に行動できて、そのせいか見つからずに済んだものの意外な長居をしてしまった。そそくさと引き上げるつもりだったのに、帰る素振りを見せると堀部のオヤジがしょぼくれた寂しそうな目で引き止めるので、まるで子犬を捨てに行ったものの非情に徹しきれずその場をなかなか立ち去れないでいる飼い主と同じ状態となり結局四時間も過ごしてしまったのだ。だが本音をいうと、妙に居心地が良かったというのもある。<るうずべるとさん>を除けば常連さんとほとんど言葉を交わすことはなかったが、他人をまるで気にしない彼らの振る舞いがかえって心地よく、慣れるに従って彼らを気にしなくなっていったわたし自身も気持ちよく、ただ席に座ってビールを飲み酒の肴を食することだけで時間を消費していくという行為が当初の居心地の悪さから快感に変わっていくのがはっきりと自覚できたのだった。まるで「穴穴家電」、いや「穴穴酒処」というあの小さな店内の空間だけが、切り絵のように周囲の風景からくりぬかれ、住宅展示場のショーケースに収まった縮小模型のごとく平穏で安全な居場所に居るかのような心地よい安堵感がじわりじわりと胸に染みていくのが実に快感だったのである。

 そんなこんなでビールだけとはいえ店を出る頃には相当酔っ払ってしまっていたわたしは、部屋に戻ると無性に眠くなり抱えてきた電子レンジを床に置くなり眠ってしまい、そのまま夕食もとらずに朝を迎えた次第である。本来キッチンにあるべき電子レンジが無造作に居間の片隅に置かれているのはそういう理由による。

 かれこれ十二時間以上も眠ってしまったのか。腹が空いている道理である。コーヒーを空きっ腹に流しこむと傷口に熱いお湯をかけたように胃がうずく。かといって朝食をとらない習慣が身についているわたしの部屋にパンなどあるわけもなく、冷蔵庫には酒類以外、雑魚一匹入ってはいない。さてどうするか。昨日夕食をとらずに眠りこけてしまったのが悔やまれる。このまま昼まで我慢するのはどうやら無理のようだ。少々面倒だが、朝飯を食いに出かけるか。時計を見るとかれこれ七時過ぎになる。この時間では飲食店といっても喫茶店くらいしか開いていないだろう。近所に喫茶店は思い当たらない。仕方がない。駅の売店でパンでも買ってくるか。わたしはシャツ、ジーパン、冬物ジャンパーといういつもの服装に着替えると、外に出た。廊下からは背の低い民家が数件並んでいるのが見下ろせる。屋根の鴉がふとこちらを振り向いたような気がした。いつものやつだ。わたしは逃げるようにマンションの階段を駆け下りて路地に出た。さすがにこの時間、恐怖の主婦軍団はいない。旦那様を送り出した後の二度寝を決め込んでいるか、子供の朝飯の準備に忙しいか、いずれにしても恐ろしい思いをしなくて済むのだから結構なことだ。路地を兵隊さんの行進のように規則正しく歩くサラリーマンたちの陰に隠れるようにしてわたしは駅の方角に向かった。

 しかし道半ばで妙なことを思いついた。ここまでは「穴穴家電」にいたる道と同じである。今いる交差点を右折すれば駅。左折すれば穴穴。わたしは交差点で立ち止まり考え込んだ。まさか……こんな早朝に……電器屋さんが……いや居酒屋さんが……。

「開いているわけないじゃないか」と呟いてみたものの、どうも胃の中に異物がしこまれたように胸元がすっきりしない。何せあの奇天烈なお店である。万が一ということもある。しかもここから穴穴まではわずかな道のりなのだ。だがおかしなもので、昨日かの店で秋刀魚の塩焼きを注文したあたりまでは、こんなばかばかしい店二度と来るものかと固く心に決めていたのだ。それが翌日、こんな早朝、酒処としては開店しているはずもないような時間に一応覗くだけ覗いてみようかという気になっている。見たいような見たくないような、行ったほうが良いような良くないような、何かに手をつけながら途中で投げ出すときの後味の悪さ、一方で変なものには関わらないほうが良いという心の声も聞こえてきて、実に中途半端で宙に浮いたような嫌な感じなのである。このままこの気分の悪さに無視を決め込んでぞろぞろ行進するサラリーマンたちと共に駅の売店に向かうのは難しいように思えたので、わたしはとりあえずかの店の様子を見に行ってみようと決心した。まあ、まず開いているわけがないのであって、閉まっているのを確認すれば、すっきりした気分で売店に行ける。そうやって食った朝飯のほうが気分がすっきりしてはるかに美味いだろうし、時間にしてさほど無駄にするわけでもないのだから良いではないか、そういう風に自分を説得した。

 さてわたしは交差点を左折し昨日と同じ道筋を早歩きで進み、例の小さな路地に出た。昨日は忍者もどきのわたしであったが、早朝の今は周りを気にする必要はない。「穴穴家電」に向かって堂々と歩を進めた。店として当然備えているべき雰囲気が完璧に欠けているので、注意していてもやはり行き過ぎてしまいそうになるのだが、経験というものはさすがに頼りになるもので数歩行き過ぎたところで踏みとどまることができた。そのまま後ろ向きに路地を数歩戻ると例の一軒家が姿を表した。扉は閉まっている。さすがにこの時間では店は開いていないようだ。

 わたしは思わず肩を落とした。ということに気がついて、肩をぐぐぐと無理矢理持ち上げた。余りに両肩に力を入れすぎて、先生に「気を付け!」と号令をかけられた小学生のような直立不動の姿勢になる。店が閉まっていてなぜわたしが肩を落とさなければならんのか。そんな理不尽かつ不合理かつ不条理なことはない。第一、「万が一」などとひそかに期待していた自分に腹が立つ。あんな奇妙奇天烈な店に惹かれた自分が悔しい。しかし精一杯力を入れて支えていても肩はすぐに落ちてしまう。やはり自分はがっかりしているのだということを自覚してさらに落ち込んだわたしは、力なくその場を立ち去ろうとした、そのときである。

「おやまあ、<からすうたまろ>さんじゃございませんか。おはようございます」堀部のオヤジの声だ。先ほどまで閉まっていた扉が開いている。わたしを見つけてよほどうれしいのか満面の笑みを浮かべながら手招きしている。家の中からかすかに「穴穴――」という例のテーマ音楽が聞こえてくる。さすがに早朝ということで音量を絞っているのか小さな音だ。「どうぞ、どうぞ。昨日といい今日といい、開店の時間を狙ったかのように来られますね。勘が鋭いというか、四画四面というか」

「単に通りかかっただけだ。ちょっと腹が減ったので駅の売店に菓子パンを買いに行くところさ。大体開店ってなんだよ。まだ七時半だぜ」わたしは路地に立ち止まったまま腕組みして言った。冷静さを装う。胸の高鳴りを悟られないようにするのは骨が折れる。

「だから七時半開店なんで……。菓子パンなんておよしなさいな。朝はちゃんと食べないと元気な一日は送れませんよ」堀部のオヤジは扉を開けっ放したまま、昨日と同じように手招きを続ける。「何だいそりゃあ」わたしの足は無意識のうちにオヤジの方向に歩き出していた。こうなったら止まらない。「昨日は一〇時開店だったじゃないか。今日は七時半かい」

「開店時刻は適当なんですよ。あえて言うならお客様が来られたときが開店時刻ですかねえ。どうです、客商売の鑑だと思いませんか」オヤジは自慢げだ。

「まあいいや。何か食わせてもらおうか」わたしはオヤジの前を通り過ぎ家の中に入った。背後で扉の閉まる音がした。穴穴のテーマ曲の音量が急に大きくなった。家電が置いてある部屋に灯りがついていないため、すっかり夜が明けているのに薄暗いままの廊下をまっすぐに進むと「穴穴酒処」の暖簾が見えてきた。暖簾の向こうから明るい光が漏れてくる。わたしは何だかうれしくなって暖簾を「あいよ」ってな感じで颯爽とくぐった。

 思わず目を疑った。目の前に昨日と寸分違わぬ光景が展開されていたのだ。暖簾をくぐった先、目の前の席には<るうずべるとさん>、その右横に金銀の夫婦コンビ、左には一席おいて<椿姫>が酔いつぶれていて、奥の席には<鴎外先生>が巨大な本を読みふけっている。ただ違うのは<鉄砲玉>がいないことだけだ。後ろからついてきたはずの堀部のオヤジさえいつのまにかカウンターの中に立っていてあたかもずっとそこで待っていたかのような顔をしてわたしに声をかける。「おっと、いらっしゃいませ、お客様」

 一体どうなっているのか。わたしは思わず左腕の腕時計を確認した。午前七時半。暦は間違いなく一日進んでいる。なのに店の中の風景は何一つ変わっていない。昨日ここで飲んで食べていた時の絵がそのまま持ち越されている。風景に切れ目がない。まるで昨日この店を出てから今までの時間が空間ごと切り取られたような感じだ。

 口をあんぐりと開けたままわたしは昨日と同じ席に座る。布地が擦り切れた安っぽい小さな椅子はわずかに左に傾き、その傾き加減さえ昨日席を立ったときとまるで変わっていないように見える。しかも座ってみるとまるで一〇年来通いつめた店の馴染みの椅子のように尻にしっくりくる。椅子だけではない。小さなカウンター、垣間見える厨房のコンロ、煙で焼けた天井、手入れの行き届かない薄汚れた壁、すべてに愛着を感じる。昨日初めてここを訪れたばかりだというのに、内臓に染みわたるようなこの懐かしさは一体何なのか。

「どうも」<るうずべるとさん>が、横顔を向けたまま挨拶した。左手に徳利、右手に杯。テーブルには空の徳利が何本も倒れている。お馴染みの風景。

「あ。お、おはようございます。み、みんな早いですね」呆気にとられているところに平素と何ら変わらない調子で声がかかったものだから、間の抜けた返事になってしまった。後悔しているところに「あんたまた来たの」と<椿姫>が毒づく。左頬は相変わらずカウンターにつけたまま、水晶玉のような目をぎょろぎょろさせている。いつも同じ姿勢で左頬はさぞ疲れることだろう。床ずれのような有様になっているのではないだろうか、と思いながら「オヤジ、いつもの」とこれまた間の抜けた言葉をオヤジにかけてしまい思い切り後悔する。

「あいよ。ビールに秋刀魚の塩焼きだね」堀部のオヤジは上機嫌だ。

「え。ビール?」

「いつものでしょ」

「まあそうだが朝からビールはちょっとその」

「朝からビールのどこがいけないんだい」

「いや、なんともうしろめたい気が」

「四画四面だねえ」

 堀部オヤジはニコニコしながら、わたしの意見など構わず目の前にグラスを置き、ビールをみちみちと注ぐ。こうみちみち注がれてはもう我慢ならない。わたしは抵抗を諦め、グラスを一気に飲み干した。冷たいビールを流し込んだ瞬間、空っぽの胃袋が大きな音をたてた。

「腹が相当減ってなさるんだねえ。ちょっと待ってくださいよ。しばらくこれでもつまんでおいてくださいな」堀部のオヤジが、目の前にお通しを置いた。何かの和え物のようだ。ようだ、というのはテーブルに置かれたと同時にたいらげてしまったからで、何を食べたかも忘れるほど本能的、瞬間的な行動をとっていたからである。胃袋の片隅に食材のかけらが居座って心なしか腹が落ち着いた。

「じゃあ二本でどうだ」

「三本ね」

「二本半じゃどうだ」

「二本四分の三本ね」

「ああ面倒くせえ」

 右隣から金さん銀さんのやりとりがいきなり耳に飛び込んだ。といっても今に始まったわけではなく、昨日もそうだがこのふたりはひっきりなしに何かしら大声で問答している。右を見ると<るうずべるとさん>がいない。彼が小用か何かで席を立ったために、これまで音を遮っていた障害物がなくなり、金銀夫婦の声量が増したのだろう。いうなればこれまでは<るうずべるとさん>が、衝立のような役割を果たしてくれていたのだ。それにしても奇妙な会話である。二本だ三本だと口から唾を飛ばしながら、いい歳をした男と女が熱論を交わしている。

「オヤジ。何なの、あの二本とか三本ってのは」あおるようにビールを飲みながらオヤジに話しかける。まったく朝一番のビールってのは死ぬほど美味い。

「それがわたしにもよくわからないんですよ。本と言っている日もあれば枚と言っている日もあるし、いつにするとか、どっちにするとか、とにかく朝から晩まで言い争いをしているんですよ」

「喧嘩をしているふうには見えないがね」

「そうなんですよね。わたしも店の中で喧嘩されちゃあ困りますんで最初は気にしていたんですが、肩を抱き合ってがははと笑ってみたり、おでこをくっつけてひそひそ話をしてみたり、仲の良い夫婦の図ってやつを散々見せつけられたもんで最近では放ったらかしです。心配するだけ損でした」堀部のオヤジが定番の品を目の前に置いた。秋刀魚の塩焼き。

「なるほど。まあいいや」金銀コンビのことなど一瞬にして忘れて秋刀魚に飛びつく。頭から攻めるか尾から攻めるか思案していると、こつこつと杖をつく音とぎごちない靴音がした。「よっこらしょ」と<るうずべるとさん>が席に座る。慣れない杖を使って一本足で歩くのは相当手間なようだ。

 秋刀魚は結局頭から食うことにした。何度か箸を運んだところで<るうずべるとさん>に目を向けた。身なりは昨日とまったく同じよれよれのスーツ姿。いつのまにか失った左足。横顔では見えないが、同じくいつのまにか失った右目。心なしか今日は昨日より弱々しく小さく見える。足を無くしたせいか。いいや違う。何か変な感じがする。秋刀魚をつついていたわたしの箸が止まった。背中を冷たい汗が数滴這う。

「<るうずべるとさん>、あの……」

「なんだね」声を聞いて疑問が確信に変わる。

「どうしたんですか、その声」

「ああ、声ね。聞き取りにくいだろう」<るうずべるとさん>の語り口にいかにもおかしくてたまらないという響きがにじむ。「確かに聞き取りにくいだろうねえ」

「なんだか顔が小さくなられたような、いや顎のあたりかな」

「なかなか鋭いお方だ。よく観察してなさる」くくくと笑いをかみ殺している。杯を一杯。

「口のあたりをどうかされたんですか」

「まあね。今朝起きたらねえ」くくく笑いがひひひ笑いに変わる。充分に「ため」を作ってから言った。「口の中が空っぽだったんですよ」

 不思議と驚きはなかった。意味がよくわからなかったからかもしれない。何かを無くしたには違いないのだろうが、一体何を無くしたのか、すぐには思いつかなかった。「口の中?」

「舌とね。歯茎ごと歯を持っていかれちまったんですよ。入れ歯をつくるったってあなた、そうすぐにはねえ。舌もないし、口から空気がすうすう漏れるんで、うまく発音できないんですよ。まったく困ったもんです」いかにもおかしそうに笑う。「おかげでつまみも食えやしない。まあ酒が飲めるからいいんですがね」

「相変わらずの馬鹿ね」ちらりと横目で覗くと<椿姫>が目をかっと見開いて<るうずべるとさん>を睨んでいる。その顔が一瞬赤く染まったがすぐに普段の青白さに戻り、わたしは呆れましたといわんばかりの顔をして目を閉じる。

「舌と歯ですか」そりゃ喋りにくいだろう、と思ったがわたしはあえて口に出さなかった。そもそもそんな問題ではないからだ。この五十をとうに過ぎたと思われる初老の男は一体何なのか。昨日は片足を無くした。その前は目を無くしたという。そして今日は舌と歯を無くした。身体の部品を破れたポケットから小銭を落とすみたいにこうもぽろぽろと無くすのはなぜなのか。しかも痛がる風でもなく惜しむ風でもない。無くなるのが当然だといわんばかりの自然体でちびちびと酒を飲んでいる。誰でも死ぬまで身体の部品すべてが完全無欠であることは不可能だが、<るうずべるとさん>のような失い方は異常だ。近所の派出所にでも行けば、目玉とか足の一本や二本、落とし物として届いているのではないかと思わせるような異様な日常性を感じる。そもそも毎日のように身体の一部を無くしていたらその先は一体どうなるのか。

「探さないんですか」わたしはくぐもった声で聞いてみた。

「探す? 歯茎をですか? 目玉をですか?」<るうずべるとさん>は驚いた様子でわたしを見た。暗い右の眼窩とは対照的に左目が怪しく光る。「そんなことをして何になるのでしょう」

「しかしこんな風に毎日どこかしら無くしているようではいずれ……」わたしは言葉をとめた。

「いずれ? いずれ何です」歯茎を無くしてだらしなく緩んだ口元からひゅうひゅう空気が漏れる。「いずれ、わたし自身が無くなると?」

 ほんの数秒ふたりの間に沈黙が訪れた。わたしは返事をしなかった。<るうずべるとさん>はしばらくわたしを見つめていたが、ゆっくりとカウンターに向き直ると話を始めた。

「いつからだったか、それさえも忘れてしまいそうになるのですが、わたしだって最初からこうだったわけではありません。温和な性格に見られますが、これでも結構短気で直情的でそのせいで損をしたこともありましたが、逆に成功したこともありました。生まれつきそそっかしかったせいか、忘れ物や落し物の類は多かったのですが、すぐ取り返しましたし、なかなか見つからないときも一生懸命探しました。そういうことって誰でもあるでしょう。忘れ物や落し物。ときには自分に過失がなくても相手の悪意で失うこともありますしね。盗まれたりして。でもちゃんと取り返してきた。まあ当たり前といえば当たり前なんですが、そうやってちゃんとやっていた時期もあったんです。でもいつだったかなあ。ううん、やっぱり時期は思い出せない。急にそういうのが面倒くさくなってしまって」

「そういうのって」

「落し物を探したり取り戻したりすることですよ。別に落としたものは落としたままでいいんじゃないかって。盗まれたものを取り返す必要はないんじゃないかって。そんなことにあくせくするよりも自然に楽に生きたほうがいいんじゃないかってね。何かそう考えるきっかけがあったはずなんですが、それも今となっては思い出せません」

 <るうずべるとさん>は笑っていた。その横顔が一層青白く見えた。柔和な顔をした早朝の幽霊といったところか。

「あなたのいうように、探せば落し物は見つかるかもしれない。でもたとえ見つかったとしてもわたしにどうしろというのです。目玉がなくても足がなくても歯がなくてもここでこうやって美味い酒を飲んでいる。そうやってわたしは幸せに過ごしている。ということはそれらの落し物は最初から不要だったということになりませんか」誰に喋っているのでもない。<るうずべるとさん>の目はカウンターの上の空間を見つめている。空気に対して彼は喋っている。「逆にあっても困るんですよ。使い手がなくてね。あるものは使わなければいかんでしょうが。かえって邪魔なんですよ」ふふふと笑う。

 わたしもいつのまにかカウンターの正面を向いていた。<るうずべるとさん>に言うべき言葉が見当たらなかった。別に彼の言うことに得心したわけではない。むしろ、何か反論しなければとずっと言葉を探していたのだった。だが途中で諦めた。彼の言うことに説得性があるかどうかは別問題として、わたしがどうこう言ったところでこの人を翻意させることは無理であることを悟ったからである。何事にも境界線というものがある。<るうずべるとさん>は境界線を越えてしまっていた。境界線を越えて相当遠くまで足を進めていた。もはや他人の手の届く場所ではない。

 なぜだろう、妙に胸元にこみあげてくるものを感じた。慌ててビールを喉に流し込みこみあげてきたものを押し戻す。空きっ腹にアルコールが効きすぎて胃が荒れたのだろうか。見るとビールが空だ。ビールをもう一本追加する。堀部のオヤジが何食わぬ顔でへいと応じる。

 水滴を光らせながらビールが到着。無言でグラスに注ぐ。そのとき背後で暖簾を擦る音がした。

「はいよ、いらっしゃいませ」オヤジが右手を上げる

「おうさ」背後で威勢の良い声がした。<鉄砲玉>である。

 しかし威勢の良い声と姿が釣り合わなかった。迷彩色の野球帽にカーキ色のジャンパーと装いは昨日とまったく変わらないが足取りが異様に重そうだ。壁に手をつきながら一歩一歩足をひきずるようにしてようやくいつもの席にたどりつき腰をおろすなり「ふう」とため息をついた。帽子を目深にかぶっているため表情が見えない。両肘をカウンターにつき手を組むと深呼吸をひとつして、うつむいたまま「オヤジ、いつものを頼むぜ」と低く呟いた。

 堀部のオヤジの丸い目がきらりと光った。「へい」と答えると、<鉄砲玉>に背を向け冷蔵庫から各種食材を取り出し忙しそうに手を動かし始める。<鉄砲玉>はうつむいたまま動かない。野球帽のつばで暗い影が落ちた顔面から口元がわずかにのぞいているが、少し歪んで見える。歯を食いしばっているのか。<鉄砲玉>を取り巻く空気が異様な緊張感で震えている。

 だが店内の他の連中はまるで気にしていない様子だ。金銀コンビは相変わらず騒々しいし、<るうずべるとさん>は喋り過ぎて疲れたのか杯を置いて居眠りをしている。<椿姫>は相変わらずわたしのほうに横顔を見せたまま眠っているし、奥の先生は本をひたすら読みふけっている。皆、<鉄砲玉>が入ってきたことにすら気づいていないかのようだ。

 こつんと音がした。<鉄砲玉>に気をとられて手元の割り箸を床に落としてしまった。わたしは腰をかがめて床を見た。さっと血の気が引いていく音が聞こえた。目の前が真っ赤に染まった。赤赤赤。相当量の赤い液体が店の入り口から<鉄砲玉>の足跡をたどるように筋を引いて続いているではないか。何箇所か大きな血だまりが出来ている。壁を見ると真っ赤な手形が数箇所。「オヤジ!」わたしはそう叫ぶと席を立ち、椅子に座ったまま動かない<鉄砲玉>の姿を改めて注視した。赤い血がジャンパーの内側から黒い綿パンをつたってとめどもなく流れ出し、緩んだ水道の蛇口のように靴先にぽたりぽたりと落ちている。既に<鉄砲玉>が座っている椅子の下には真っ赤な血溜まりができている。

「オヤジ!」わたしは再度叫んだ。誰も返事をしない。

「大変だ、オヤジ! こいつ大怪我してるぞ」じれったい思いを抑えながらわたしは繰り返した。だが他の客には何の反応もない。ただ堀部のオヤジだけはわたしのほうをちらりと見た。寂しそうに笑うだけで調理の手を休めない。わたしは何がなんだかわからなかった。

「何してるんだ。救急車呼ばなきゃ。見ろよ。この血。すごい出血だぞ。早くしないとやばいぞ」必死に叫ぶわたしを制するように、<鉄砲玉>の前に堀部のオヤジが丼茶碗を叩きつけるように置いた。「あいよ、一丁上がり。いつもの特性丼飯!」

「おうよ、待ってたぜ。これが食いたくてよ」<鉄砲玉>は顔を上げるとニヤリと笑った。その横顔を見てわたしは思わず大きな声を上げた。紙よりも白い顔面を血が何筋にも分岐し川のように流れていた。いつのまにか肘をついたテーブルにも血だまりができている。頭を隠している野球帽のところどころに黒ずんだ染みが広がりつつある。帽子の中は血の海か。わたしは自席にへなへなと座り込んだ。<鉄砲玉>がとても生きた人間のようには思えなかった。大量の出血。血の通わない白い顔。血の赤さと顔の白さだけが頭の中で紅白模様を作った。

「美味いぜ、オヤジ」<鉄砲玉>が絞り出すように言った。丼茶碗を持ち上げる力さえないのか、左手はだらりと下げたまま丼をテーブルに置き、血だらけの右手で箸を持って飯をかきこんでいる。血に塗れたテーブルの上を丼茶碗が音もなく滑り、テーブルから落ちそうになるのを胸で押さえながら<鉄砲玉>はひたすら食い続ける。「うめえうめえ」とときどき呟く。そんな<鉄砲玉>を堀部のオヤジが黙って見守っている。心なしか笑っているように見えるが、目にはときおり真剣な光が宿る。

 なぜだ。なぜ救急車を呼ばない。店の中は血だらけ。<鉄砲玉>も血だらけ。カウンターも丼茶碗も血だらけ。理由は知らないが瀕死の重傷を負っていることは誰が見てもわかる。それをなぜ黙って見ている。しかも丼飯なぞ作りやがって。他の連中も見向きもしないし、一体みんな何を考えてるんだ。わたしは半ば放心状態で席にのけぞって座ったまま思いを巡らせた。何度も何度も繰り返し周囲を見渡しても常連客の誰ひとりとして様子が変わらない。<るうずべるとさん>は居眠りをやめて再び杯を重ね始めた。金銀夫婦は「二個でどうだ」「いいや三個」「じゃあおまけつきでどうだ」てな具合で意味不明な問答を続けている。<鴎外先生>は不動。気がつくと<椿姫>がこちらを見ていた。お目覚めのようだ。テーブルに頬をつけたまま上目遣いで呟いた。

「気にしても無駄よ」

「え。無駄ってなんだ、無駄って」

「だから無駄なのよ」<椿姫>の瞳が妖しく燃える。「あのひとどう思う」

「え。どう思うって、どういう意味だ」わたしはのけぞってた背中を何とか直立に戻し努めて冷静に話した。

「生きているって思うかってことよ」<椿姫>が眉をあげた。

「どういう意味だ」

「そのままの意味よ。彼は生きていると思うか」

「<鉄砲玉>がし、死んでるってのか」みぞおちに杭を打ち込まれたような痛みが走った。

「聞いているのはわたし。あなたがどう思うかでしょ、肝心なのは」<椿姫>はそう言うと小さなあくびをしてまた眠りについた。

「おおい、ちょっと待て」といってももう遅い。お姫様は軽い寝息を立てている。

「うめええ」<鉄砲玉>が叫ぶ。しかし声に力がない。

「おかわりはどうです」と堀部のオヤジ。

「ちょっと待ってくれ。食べるからよ。必ず食べるからよ。ちょっと待ってくれ。まだ半分しか食ってねえんだ」と<鉄砲玉>。

「急がなくてもいいですよ。ごゆっくりお食べなさいな」とオヤジ。

「ああ、わかってる。ゆっくりとな」と<鉄砲玉>。

 必ず食べるから、必ず食べるから、と<鉄砲玉>は盛んに繰り返しながら箸を動かす。しかし両手の自由が利かないうえに、動作そのものがビデオのコマ送り再生のように遅く、なかなか食が進まない。目が見えねえ、目が見えねえ、とそのうちぼやき始めると、箸が虚空を彷徨い始めた。箸を使うのが無理と諦めたのだろう、今度は手で飯をかきこみ始めた。必ず食べるから、相変わらずそう呟きながら。そのうち面倒くさくなったのか、丼茶碗に顔を突っ込み始めた。丼茶碗が<鉄砲玉>の顔を飲み込んだままガタガタと動く。突然動きが止まる。<鉄砲玉>の声が途絶えた。丼茶碗に顔を突っ込んだまま、彼の両手がカウンターの下に力無く落ちた。そのまま微妙なバランスを保ちながらぴくりとも動かなくなった。

「おかわりは無理でしたね。残念だ」堀部のオヤジは<鉄砲玉>に向かって両手を合わせた。目を閉じて何か呟くとそのまま何事も無かったかのように、調理の手を動かし始めた。

 <鉄砲玉>は死んだ。丼飯を食いながら。理由は知らない。死んだという事実だけが残った。瀕死でここまで来たのは丼飯を食いたかったからか。最後まで丼飯にこだわって死んでいった。

 わたしは奇妙な格好をした<鉄砲玉>の死体を見てふと感じた。あるいは彼はここに来たとき既に死んでいたのかもしれない。彼を見て得体の知れない恐怖を感じたのはそのせいかもしれない。

 <椿姫>の安らかな寝顔を見ながら、珍しく常識はずれなことを思いつくものだと自分ながら不思議な気持ちになった。そんな自分が少し愛しく思えたのはなぜだろうか。

 

                四 

 

 鴉がいつ頃から気になりだしたのか。少なくとも数日前とか数週間前とかごく最近のことではない。二、三ヶ月、いや半年、記憶を遡るに従って最初は着色されていた様々な景色が次第に色を失い景色の数もひとつひとつ消えていって最後にぼんやりとした灰色の渦巻きだけが残る。それ以上は追いかけても追いかけても景色は変わらない。ひたすら灰色の渦巻きが続いているだけ。わたしはその渦の中心をひたひたと歩くだけで進んでいるのか下がっているのかさえわからなくなってしまう。埒があかないのでそれ以上追いかけるのはやめることにした。だから鴉が気になったのがいつ頃からか、なぜ気になるのか、さっぱりわからない。

 鴉、鴉というからさぞかしわたしの住むマンションの界隈には鴉が多いのだろうと思われるかもしれないがそうではない。むしろ住宅地には珍しいくらいこの辺りは鴉が少ない。早朝、特にゴミ収集の朝は空も屋根も路地も鴉一色に染まり、かあかあなどとのどかな鳴き声ではなく猛獣のような声があちらこちらから上がって住民が恐怖すら覚える街もあると聞くが、ここは実に静かなものである。暇つぶしに窓から首を出しているとたまに一羽、二羽、空を横切るのを見かけたり、屋根にぽつんととまっている鴉を見かけるくらいだ。ましてや住民が鴉につつかれたなどという物騒な話は聞いたことがない。にもかかわらず絶えず鴉がつきまとっているような気がするのはなぜだろう。朝必ず鴉の声で目覚めるのはなぜだろう。別に彼らがわたしに危害を及ぼしているわけではない。そもそもわたし自身、鴉を疎ましく思っているわけでもない。ただ鴉にずっと見られているような気がしてならない。気になって仕方がないのである。その理由をずっと見出せないでいる。

 午後六時。丁度日が暮れたところだ。照明のスイッチを入れるのが面倒で真っ暗な居間の床にぼんやりと座り込んでいると、閉め切った窓ガラスからカーテン越しに街灯の薄灯りが差し込んできた。壁にかかった絵が少し揺れる。何の絵か忘れてしまった。大型テレビの歪んだ黒い画面にわたしの顔がかすかに映し出されているが、その顔も少し揺れている。テレビの上には写真立てが伏せてある。何の写真か覚えていない。床の片隅には相変わらず一度も使っていない例の電子レンジ。腹がきゅうっと鳴る。あれから何も食べていない。といっても何時に部屋に戻ってきたのかさえ覚えていない。<鉄砲玉>の死に様が強烈過ぎて、何時にどうやってどういう道筋で帰ってきたのかまるで覚えていないのである。だが、相当な空腹感だ。今朝店に入ったのは早朝。この空腹感から察するにあれから今まで何も食っていないのだろう。

 何か食うか。わたしはゆっくりと立ち上がった。冷蔵庫には何もない。買出しに出かけなくてはならない。今朝と同じパターンだ。同じことを繰り返している。いい加減面倒になる。食わなくても生きていける身体にならんものかなといつも思うのだが、科学や医学がいかに発達しようとわたしの存命中に実現することはないだろう。ということは永遠にこの繰り返しが続くのか。ふうとため息をついて玄関に向かいながら思った。どうせなら同じ手順を繰り返そう。新しい手順を踏むのは考えるだけ面倒だ。鉄の扉を開けると廊下の手すりに鴉がとまっている。いつのまにこのような至近距離に近づくようになったのか。近づいたとはいっても鴉の素振りは変わらない。いつものようにじっとこちらを見ている。何でもお見通しなんだぜ、鴉がそう言っている。むかっ腹が立つが、どこかうしろめたさがあって強気になれない。鴉の視線を避けるように廊下を走る。路地に出る。例の店に向かう。本日二度目。堀部のオヤジはさぞ喜ぶことだろう。

 気がつくといつもの席に座っていた、常連客もいつもの顔ぶれ。<鉄砲玉>は当然いない。おかしなもので常連席が空だとそこからすきま風が入ってくるようで妙な寂しさを覚える。たった二度ほど顔をあわせただけなのに人間とは不思議なものだ。いつもあるところにいつもあるものがないと言い知れぬ不安に襲われる。

 その他の常連客は相変わらずだ。この店と店の外では時間の流れが違うらしい。店の中の様子は今朝とまるで変わらない。ただ<鉄砲玉>が流した大量の血はきれいに洗い流されている。<鉄砲玉>の死体も丼茶碗もない。堀部のオヤジは後片付けに大変だっただろう。床も壁も血だらけ。なんといっても客のひとりがこの場で壮絶死を遂げたわけだから警察の事情聴取や現場検証など大騒ぎだったに違いない。堀部のオヤジの心中を察して余りある。と思いながらオヤジを見てがっかりした。いや呆れた。極めて穏やかににこやかに金銀コンビと談笑している。ときどき腹を片手で押さえながら大笑いさえする始末だ。まったくどういう神経をしているのか。常連客も堀部のオヤジも。右を見ると<るうずべるとさん>がきゅきゅきゅとやっている。見慣れた光景。

「オヤジ」わたしはげらげら笑い転げている堀部のオヤジを叱るように呼びつけた。「いつものやつだよ」

「へええい」オヤジは踊るように冷蔵庫からビールを取り出すと冷えたグラスと一緒にわたしの目の前に置いた。「秋刀魚の塩焼き、すぐできますからね」

 グラス何杯分のビールを一気に胃に流し込みながらわたしは考えた。おかしい。今日の今日である。今朝人がここでひとり死んだのである。しかも尋常な死に方じゃない。<鉄砲玉>の異様な死に様から察するに刺されたか撃たれたか、喧嘩か出入りか強盗か、とにかく道で転んでするような怪我じゃない。警察の取調べはかなり大掛かりなものになったはずだ。ここは死体の第一発見者がいる現場なのだから当然念入りな調査が行なわれる。みんな何食わぬ顔で飲み食いしているが、そもそも今ごろ通常通り営業しているほうがおかしいのである。それにあの大量の血はどこにいったのか。堀部のオヤジは相当念入りに掃除をしたのだろうが、床だけじゃない、壁も椅子もテーブルも血だらけだった。ところが今見渡しても壁に血痕ひとつ見当たらない。そんなに完璧に洗浄出来るものだろうか。大体、<鴎外先生>にせよ、<椿姫>にせよ、<るうずべるとさん>にせよ、いつもどおりいつもの場所で平然としているが、普通は気持ち悪くなってしばらく店に立ち寄らなくなるものじゃないだろうか。彼らの様子を見ているとまるで何事もなかったかのように見える。気にしているわたしが異常なのかと錯覚してしまう。いや錯覚ではなく本当にそうなのか。わたしは夢でも見ていたのか。

 自分がおかしくなっているのかもしれないという発想に到達してわたしは吐き気がした。堀部のオヤジや<るうずべるとさん>、<椿姫>の横顔、すべての景色が今にも崩れ落ちそうに思えた。誰でも自分が正気であるという前提のもとで生きている。自分は狂っているのかもしれないと思い始めたら、すべての世界が成り立たなくなる。太陽も星も空もみんな落ちてしまう。確認しなければならない。そうしなければわたしの存在が危うくなる。

「<るうずべるとさん>」片足を失った初老の男に声をかけた。「お聞きしたいことがあるんですが」声が震える。

「はい、何でしょう」

「け、今朝のことなんですが」

「今朝のこと? 何でしょうか」<るうずべるとさん>が怪訝そうに首をわずかにひねる。

 鼓動が早まる。やはり<るうずべるとさん>は今朝のことを知らないのだろうか。

「て、<鉄砲玉>さんのことですよ」

「<鉄砲玉>さん?」<るうずべるとさん>の杯を持った手が止まった。天を仰ぎ、何度も首をひねる仕草を繰り返す。「<鉄砲玉>さんのことねえ」と今度はうつむいてむむむと唸り声を上げ始めた。と急に思い当たったのか膝を叩いた。いや正確にいうと無い左足の膝を叩こうとして空を切った左手が椅子に当たった。鈍い音がした。

「いててて。はいはい、思い出しました」

「思い出しましたか」

「<鉄砲玉>さんが死んだ件ですな」

「そうですそうです」わたしはほっと胸をなでおろした。夢ではない。事実だったのだ。

「それがなにか」

「はあ?」

 わたしは<るうずべるとさん>の横顔をぽかんと見つめた。

「なにかって、<鉄砲玉>さんがああいう死に方をして、それで……」

「それで」

「いや、だから、その、あの」

「何か気になることでもあるんですか」<るうずべるとさん>は真剣だ。なんでそんな質問をするのかわからないといった表情が横顔にありありと出ている。気がつくと堀部のオヤジも不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

「そりゃ、気になるでしょう。気になるのが普通でしょう。血だるまになってこの店で死んだんですよ。それもつい今朝の話なんですよ。あれは普通の死に方じゃない。きっと刺されたか鉄砲で撃たれたか。とにかくまともじゃない。この店も大変だったでしょうに」

 わたしは堀部のオヤジに救いを求めた。

「全然大変じゃなかったですよ。まあ掃除は手間でしたが」とオヤジ。

「何を言ってるんです」必死のわたし。「人がひとりここで死んだんですよ。あの死に方じゃあ、きっと殺されたんですよ。なのに気にならないんですか」

「別に気になりませんが」と<るうずべるとさん>。

「別に気になりませんよ」と堀部のオヤジ。

 椅子から転げ落ちそうになるのを何とか踏ん張る。息を整えて改めてふたりを交互に見ながら「本当に気にならないんですか」

「はい」ふたりは同時に首を縦に振った。頭にかあっと上った血が足首まで急降下していくのがわかった。

「はあ、そうですか。気になりませんか。はあそうですか」

「死ぬことがそんなに珍しいんですか」堀部のオヤジがおしぼりを差し出した。わたしの額の汗に気づいたのだろう。

「いや、そういうわけじゃないけど……。死に方があまりに酷かったもんだから」

「死に方ねえ。そりゃあ、人それぞれですからねえ。そんなに酷かったですかねえ。わたしは昔電車の飛び込み自殺をもろに見たことがありますが、あちらのほうがよほど酷かったですよ。バラバラ、ぐちゃぐちゃっと」オヤジがそのときの擬音を身振り手振りで説明しようとする。「なんていうか、あ、そうそう、ひき肉ですな、あれは」

「あ、もういいよ、オヤジ。わかったから」

 わたしは気分が悪くなった。

「そうですか。じゃあこのへんでやめておきましょう」オヤジは物足りなさそうにカウンターの奥に引っ込んだ。

 この人たちと話しているとこっちが変になる。おしぼりで額の汗を拭う。これ以上<鉄砲玉>の件を追及するのはやめよう。<鉄砲玉>は今朝死んだ。妄想ではなく事実だったことが確認できただけで目的は達したのだ。

「あれ、まただわ」いつの間に目を覚ましていたのか<椿姫>が小さく呟いた。テーブルに張り付いた横顔が白く光る。黒い瞳に<るうずべるとさん>が映っている。「また無くなってる」

「え」わたしは<るうずべるとさん>を見た。思わずあっと声を上げる。

 <るうずべるとさん>の左腕が無くなっていた。スーツの袖が左肩からぶらりと真下に垂れ下がって揺れている。確かに先ほどまではあったはずだ。左手に徳利、右手に杯というお決まりのポーズを覚えている。いつのまに……。

 当の本人は気づいているのかいないのか、右手一本で酒を飲んでいる。顔色ひとつ変わっていない。

「る、<るうずべるとさん>、あの……」

「なんですか」

「左腕が……」

 <るうずべるとさん>が四十五度首を回して自分の左肩を見た。一瞬驚きの表情が浮かんだが、すぐ元の表情に戻り「やれやれ」とため息をついた。杯をテーブルに置くと右手で左肩をさするような仕草をした。「徳利が持てないじゃないか」とぼやく。

 そういう問題じゃないだろう、と言いかけてやめた。どんな返事がかえってくるか大方の見当はつく。

「だんだん早くなってくるなあ」<るうずべるとさん>は寂しそうに呟いた。

「早くなるって」声をかけずにいられなかった。<るうずべるとさん>が何かを無くすと必ず妙な恐怖感に襲われ全身に悪寒が走る。気持ちを静めるには話をするのが一番だ。

「無くなる間隔ですよ。昨日は足、今朝は口、今度は腕でしょう。前はこんなにとんとん拍子に無くなることはなかったんです。ひと月にひとつとかでね。それが最近は段々早くなってきてねえ。一日にふたつも無くすなんて。しかも左腕ってのは不自由ですなあ。左足がないから杖を買ったのにこれじゃあ杖もつけやしない」<るうずべるとさん>がさすがに困ったような顔をした。

「一体これまでどれくらい落し物をしたんですか」恐る恐る聞いてみる。

 <るうずべるとさん>が顔を向けた。底の見えない右目の暗い空洞はそのままだ。眼帯くらいすれば良いのに。わたしは正視できずに目をそらしグラスをあおった。

「よく覚えていないんですがね。最初は右足の親指だったかな。多分半年、いや一年くらい前のことです。ある朝目覚めて洗面所に行こうと立ち上がったらつるんとこけてしまって。足元を見たら親指が無くなってたんですよ。足の親指ってのは結構大事でね。歩くときに体重がかかるもんだから、無いととても歩きにくいんです。慣れるのに時間がかかりました。それからしばらくは何事もなかったのですが、今度は右手の小指がなくなりましてね。まあ小指はなくてもどうってことはないのですがね。それから右の耳。これも慣れるのに随分苦労しました」

 そう言って<るうずべるとさん>は白髪だらけの髪をかきあげ右耳を見せてくれた。ぱさつき黒ずんだ皮膚に小さな穴が開いていた。

「聞こえにくくてねえ、耳たぶが無いと。人間の部品ってのはうまくできてるもんだなとつくづく思いましたよ。あとは何でしたかなあ……無くなるのは大きな部品だけじゃないんですよ。眉毛とか爪とか指紋なんかも無くなりました。あ、乳首やへそなんかも。もっともこういう細かい部品は無くしたことになかなか気づかないんですがね。そうそう、忘れてた。小さな部品いうか大きな部品というか微妙なんですが、恥ずかしながらナニも今はありません。ちょっとお見せできませんがね」<るうずべるとさん>は股間を指差した。

「はあ、ナニですか」こういうときは返答に困る。

「まあもういい歳ですからあちらのほうはどうでもいいんですが、用を足せるのかとそれが心配でねえ。でも不思議と慣れると何とかなるものです。想像していたほど不自由はしませんでした。たださっきも言いましたように、ひと月にひとつとか短くても一週間にひとつのペースだったんですが、ここに来て毎日何か無くしてますからね。さすがに足が無くなったときは困りましたよ」

「このままじゃ……」

「今度は左腕。このペースだと。明日あたりかな」<るうずべるとさん>は天井を見上げた。どんよりと濁ってはいるがいまだ健在の左の眼球がぐらりと動く。

「明日あたりって……」このまま進めばどうなるのか、それが知りたかった。

「消えるってことよ」背後から声がした。<椿姫>である。背筋が総毛だった。振り返ると<椿姫>の瞳がぞっとするような悲しみをたたえていた。その視線の先にあるのは意外にも<るうずべるとさん>ではなかった。わたしだった。なぜわたしを見るのか。彼女の視線を振り払うように<るうずべるとさん>に顔を向ける。

「……」

「そうですな。いよいよというわけです」<るうずべるとさん>が笑った。凄惨な笑顔だった。正面から見たその表情はとても正視に耐えるものではない。実験室の骸骨を見るほうがまだましである。くくくと小さく笑いながら正面を向く。杯を口元に運ぶ。だがその杯は唇に触れることなく垂直に落下した。床を直撃し鈍い音を立てて粉々に割れた。

 最初は何が起きたかわからなかった。おそらく<椿姫>も<るうずべるとさん>自身も同じだったろう。しかしごく数秒間の沈黙を挟んで大きな笑い声が店内に鳴り響いた。<鴎外先生>となにやら話し込んでいた堀部のオヤジも、雑音をまき散らしている金銀夫婦もみな笑い声の主を探した。

 笑い声の主である<るうずべるとさん>は、空っぽの口腔を裂けんばかりに開けて椅子にのけぞり肩を揺らして大笑いを続けていた。一斉に彼に集中した視線はすぐにすべてを理解した。わたしも<椿姫>も事態を理解した。

 ――今度は<るうずべるとさん>の右腕が消えていた。支えを失い砕け散った杯が床に散っていた。

 堀部のオヤジがゆっくりと近づいてきた。笑いが止まらない<るうずべるとさん>の両肩を軽く揺すると新しい杯を用意し酒を注ぎ彼の口元に運んだ。笑い声がとまった。<るうずべるとさん>は堀部のオヤジをしばらく見つめると「ありがとう」と呟いて杯をなめるようにすすった。「これが最後の酒だね」そう言って杯を見つめる<るうずべるとさん>の左目はこれまでになく暗く虚ろだった。

「すみませんが」堀部のオヤジの声がした。「もしもし、すみません」思わぬ事態に茫然自失の状態だったわたしは最初誰に声をかけているのかわからなかったが、堀部のオヤジが肩をぽんと叩いたので、話しかけている相手がわたしであることを了解した。

「<るうずべるとさん>を家まで送っていってあげてくれませんか」堀部のオヤジが申し訳なさそうに言った。

 そりゃそうだ。<るうずべるとさん>に残された四肢は右足だけ。これでは酒を飲むどころか、身動きひとつとれない。歩くことも這って帰ることもできない。誰かが家まで連れて行かなければどうしようもない。もちろん背中におぶっていかなければならない。常連客を見る限りわたしが適任だろう。<るうずべるとさん>とはたくさん話をしたし、妙な共感さえ覚える相手だった。堀部のオヤジに言われなくても、そうしていただろう。彼をおぶって家に連れて帰りたい。彼を家に帰してあげたい。そんな衝動に駆られた。

「わかりました。今すぐ出ましょう。さあ<るうずべるとさん>、わたしの背中に」わたしはしゃがみこんで<るうずべるとさん>を背負った。相手の両手がないので非常に背負いづらい。堀部のオヤジがどこからか細手のロープを用意してきた。ロープでずり落ちないように<るうずべるとさん>の体とわたしの身体を縛りつけようやく安定した。<るうずべるとさん>が力なく「悪いね」と言った。

 立ち上がると<るうずべるとさん>の身体は子供のように軽かった。老齢ということもあるが、手足を失うとこれほど人間の身体は軽くなるのかと思わず胸が締め付けられるように痛んだ。そのまま暖簾をくぐり廊下を通って店の外に出る。玄関までついてきた堀部のオヤジの「頼んだよ」という声が冷えた夜の外気を震わせた。

 何時だろうか。慌てて部屋を出てきたせいか腕時計を忘れてきたので時間がわからない。だがさほど長い時間店にいた覚えはないからまだ宵の口のはずだ。しかし通りにはまるで人の気配がない。街灯に弱々しく照らし出された路地がのっぺりと横たわっているだけだ。<るうずべるとさん>が耳元で自宅への道順をささやく。店からさほど遠くないマンションに住んでいるらしい。わたしは黙々と歩いた。荷物は軽いが、足取りは重い。とてつもなく憂鬱だ。相変わらず理由の知れない恐怖感が蔦が足首をからめとるように尾を引いている。

 数分歩いたところで「その交差点を右です。もうすぐですから」と<るうずべるとさん>が弱々しくささやいた。大丈夫だろうか。先ほどまで酒をしたたか飲んでいたときの陽気さはまるで感じられない。まるで死人のようにかぼそく抑揚の無い声色である。

 交差点に来てわたしは思わず立ち止まった。おかしい。なにやらとんでもなく不思議な感覚がわたしを襲った。見覚えのある交差点。ここまでの道順、これからの道順。信号機の黄色い点滅。この信号機は夜になると黄色の点滅に切り替わる。よく知っている信号機。いつもの信号機。

「この交差点を右ですか」わたしはもう一度確認した。

「はい、もうすぐそこです」マンションの三階に住んでいるという。マンションの三階? 交差点を右? <るうずべるとさん>は交差点を曲がった後の道順をささやいた。交差点で立ち止まったまま身体が硬直する。首筋は汗でぐっしょり濡れている。冷たい汗が止まらない。この道順は……。見慣れたこの道は……。

 交差点から一歩が踏み出せない。ここから先は進んではいけない領域のような気がする。覗いてはいけない深淵。超えてはならない一線。今立っているこの交差点はその境目のような気がするのだ。

「ううう」<るうずべるとさん>が苦しそうに唸った。わたしは首を回して背負った<るうずべるとさん>の顔を見たが暗くて表情が確認できない。具合が悪いのだろうか。だとすれば急がなければならない。だが金縛りにあったように交差点から一歩も動けない。

「ううう」<るうずべるとさん>がまたうめき声をあげた。心なしか背負っている重さがまた軽くなったような気がしてわたしは嫌な予感に襲われた。

「<るうずべるとさん>!」わたしは後ろに回した手で<るうずべるとさん>の足元を探った。肉感のない薄い服飾生地の感触だけが手に残った。無い。最後に残っていた右足もなくなっている。それだけではない。背中にかかる荷重はさらに減り続けているではないか。首をひねるだけひねって<るうずべるとさん>の身体を確認する。顔をわたしの背中につけたまま小さなうめき声をあげている。落し物はまだ続いているのだ。四肢を無くしながらも依然何かが<るうずべるとさん>の中から消えつつある。凄い勢いで荷重が減っていく。何が起きているんだ。どうすればいいんだ。わたしの心臓が今にも血を吹きそうなほど激しく脈打っている。<るうずべるとさん>が……。<るうずべるとさん>が……。

 うめき声が途絶えた。と同時に<るうずべるとさん>とわたしを繋ぎとめていたロープがふっと緩み足元に落ちた。背中の荷重が消えた。先ほどまで背中に感じていた息遣いも消えた。わたしはふらつきながらゆっくりと後ろを向いた。薄闇に路地が細く伸びているだけだった。うつむくと足元だけを街灯が明るく照らし出していた。地面に落ちたロープが不規則な楕円形を作り、楕円の中央の土がわずかに濡れて黒く光っていた。

 わたしにはその染みが<るうずべるとさん>の涙のように思えた。

 

              五 

 

「また来たの?」<椿姫>が眉間に皺を寄せ、呆れ顔で言った。

「毎度、いらっしゃいませ」堀部のオヤジは上機嫌。出迎え方が好対照である。

 何にしてもわたしはまた穴穴酒処の暖簾をくぐってしまった。昨夜の<るうずべるとさん>の件が頭にこびりついて離れず、部屋に帰ってもろくに眠れず、腑抜けのように床に座り込んでいたのだが、朝陽が部屋に入る頃になって猛烈な眠気に襲われ泥のように眠り、目が覚めたら夕刻で例によって空腹でいてもたってもいられなくなり、気がついたらここに来ていたのである。腕時計を見ると午後六時。今日はしっかり腕時計を身に付けてきた。この店にいると時間の感覚がおかしくなるから時計は欠かせない。

 <椿姫>から軽蔑のまなざしを受けながらいつもの席に座る。当然、<るうずべるとさん>の姿はない。誰もいない席の向こうで金銀夫婦がなんやかんやと大騒ぎをしている。左奥には<鴎外先生>。いつも巨大な本に隠れてろくに顔を見せたこともない。何をそんなに一生懸命に読んでいるのかは知らないが、ここまで徹底されると読書家というよりは読書狂、いや読書魔といったほうがふさわしいだろう。

 一言も発しないうちに堀部のオヤジがビールと秋刀魚の塩焼きを持ってきた。

「速いね。電子レンジかい」

「まさか。丁度来られる時間かなと思って仕込んでおいたんですよ」堀部のオヤジは胸を張った。わたしも名実共に常連客の仲間入りってわけか。

「この店で来る時間まで読まれるようになっちゃ終わりよ」<椿姫>は相変わらず不機嫌そうだ。例によって顔の左半分をカウンターに押し付けたまま、唇を尖らせて右目でわたしを睨んでいる。愛想のないこと極まりないが、その一方で今日はいつにも増して魅力的だ。ほつれ気味の長い黒髪が洗い髪のように濡れて光り、口紅の異様な赤との対比が妖しく美しい。偶然の産物とは思えない、計算しつくされた絵画や映像のごとき絶妙の調和。

「何見てるのよ、馬鹿」食い入るように見つめるわたしの視線が恥ずかしいのか、<椿姫>は視線をそらした。気のせいか頬のあたりに赤みがさしている。そんな仕草ひとつでこの<椿姫>という変な女が可愛く思えてくるから人間というものは不思議な動物だ。しかしわたしが彼女に見入っていたのは単にその美しさに魅入られていただけではない。初めて会ったときから感じていた妙な親近感、いや一種の既視感を今日は一段と強く感じたからだ。わたしのような中年男がこのような美女と旧知の仲というのは信じがたいのだが、確かにどこかで会ったという確信めいた感覚が頭の片隅を支配したまま居座っているのである。それも一度や二度会っただけではなく、相当親しい間柄だったような気がするのである。多分他人の空似だろうが、誰であったか、それが思い出せない。思い出そうとすると例によって灰色の渦巻きの中に入り込んでしまって身動きがとれなくなるのだ。

「しかし、ひとり、ふたりといなくなって何だか寂しくなってきたね」わたしはとめどもない記憶の散策作業から抜け出るために無理矢理話題をひねりだした。

「まったくですね。寂しくなりました。お客さんは行かないでくださいね。末永くお願いしますよ」堀部のオヤジが哀願する。

「何言っているのよ。こんなところに末永くいてどうするのさ」<椿姫>がまた怒ったように言った。今日は何かと絡んでくる。よほど虫の居所が悪いのだろう。

「こんなところとはまた、ご挨拶ですねえ」堀部のオヤジが頭を掻く。ふたりとも<るうずべるとさん>のことは何一つ聞かない。わたしも昨晩あの後何が起きたか一切話さない。話す気も無い。<鉄砲玉>のときと同じだ。話しても誰も興味を示さないだろうし、堀部のオヤジも<椿姫>も<るうずべるとさん>がどうなったか、おおよその見当はついているだろう。ここはそういう店だ。

「オヤジはいつからこの店をやってるんだい」わたしは前から聞きたかった質問をしてみた。どうせろくな答えは返ってこないだろうが。

「さあ、いつ頃でしたかなあ……」オヤジは腕を組んで首をひねり始めた。「一ヶ月前でしたか、もっと前でしたか。半年くらい前だったような気も」思い出すのがよほど困難とみえてそのまま座り込んで首をさらに強く振り始めた。

「おいおい、いつ開店したのかもわからないのかい」わたしは呆れ果てた。期待していなかったとはいえ、余りにもお粗末。一ヶ月と半年じゃ全然違うじゃないか。なぜ家電屋さんの中なのかということも聞いてみたかったのだが、到底答えられそうにないのでやめることにした。このオヤジも灰色の渦巻きにのまれたまま抜け出ることができない輩のひとりかもしれない。

「あんたは知っているのかい」仕方がないから<椿姫>に聞いてみた。「いつ頃開店したんだい、この店は」

「いつ頃開店したかって?」<椿姫>の右目が意味ありげに光る。「そんなことわかりきっているじゃない。あんたも知っているはずよ」赤い唇が歪む。

「どういう意味だ」

「開店したのはわたしが来た日」<椿姫>はおどけた調子で答えた。そして右手で髪をかきあげながら続けた。「あるいはあなたがここに来た日」

 こいつもか、とわたしは肩を落とした。どいつもこいつもまともな会話が出来るやつはいないのか。万事この調子だ。変すぎる。主人も客もまったく異常過ぎる。と嘆きながら、どこか<椿姫>の答えに安堵感を覚えている自分がいる。もし一ヶ月前とか三ヶ月前とか何月何日とか絶対値で答えられたらどうしようと心のどこかで怯えていた。そのことに気づいて愕然とする。わたしは絶対値を恐れている。なぜなのか。何を恐れているのか。

「じゃあ三本と三一分の五でいいんだな」右手から大きな声が上がった。叫んだのが金さんか銀さんかはわからない。声が歓喜に震えている。

「いいわよ。それでいきましょう。三本と三一分の五! それで決まりよ」やはり金さんか銀さんかわからないが、とにかく相手の女も声を張り上げた。思わず手を取り立ち上がるふたり。

 金さん、いや銀さん……いやとにかく男のほうが堀部のオヤジに叫んだ。

「オヤジいい。ついに話がまとまったぜ。手打ちだぜ。終わりだぜ。決まりだぜ、やっほう」男は足を踏み鳴らす。尋常な喜び方じゃない。

「それはそれは、おめでとうございます」堀部のオヤジがうれしそうに頭を下げる。このオヤジ、ちゃんとわかって言っているのか。甚だ疑問だ。

「はいよ、ありがとうよ。これでおさらばだ。ああ、長かった」

「ああ、長かった」相手の女も声をあわせて叫ぶ。

 男は千円札を数枚、テーブルに置いた。そして女と手をつないだまま、スキップしながら暖簾をくぐって出て行った。金銀夫婦のご退出である。呆気にとられて後姿を見送った後、カウンターを見ると堀部のオヤジが深く頭を垂れている。顔を上げると「また常連がひとり、いやふたり減りましたなあ」と呟いた。

「一体何だったんだ、あの夫婦は!」ひとりで納得している堀部のオヤジに怒鳴る。

「おっと」オヤジはわたしの勢いに鼻白んで二、三歩下がりながら答えた。「いやあ、わたしも先ほどようやく知ったんですがね」声をひそめながらまん丸の顔を近づけてくる。

「ひそひそ話す必要があるのかい。今ここにはあんたをいれて四人しかいないんだよ」

 堀部のオヤジは周りを見渡して「あれ」と呟く。なにが「あれ」だ。常連客が減ってへこんでいたばかりじゃないか。

「いやあのご夫婦はですね」ごほんと咳払い。「離婚の示談中だったんですよ。それがようやくまとまったってわけでして」

「離婚だって」わたしは目を丸くした。「おいおい、いい歳して今にもチークダンスでも踊りそうなあのふたりがかい」手をつなぎながらスキップを踏んで出て行った後姿が脳裏に蘇る。

「人は見かけによりませんですよ。あのふたりはずっと示談金の話で言い争っていたんです」したり顔のオヤジ。

「示談金? じゃあ、あの本とか枚というのは……」

「そういうことですよ。ああ嫌だ嫌だ。金の話でもめるのはねえ」

「もめるっていうか、盛り上がってたじゃないか。なんだか楽しそうだったぞ」

「だからわからないってんですよ。本当に楽しかったのかどうかはねえ。わたしら他人にはわかりませんよ」

 不愉快である。あんな楽しそうで仲の良い絵を周りに見せておいて実は離婚の示談金で争っていただと。他人をこけにするにもほどがある。しかも三本だとか四本だとか、博打じゃないんだからもう少し普通の言い方があるだろうが。まあ確かに離婚の示談話だと知ったところで我々がどうこう口を出せる話じゃあないよ。そりゃそうだが、これだけの常連客に囲まれているんだ。それをだますような真似をしちゃいかんよ。世間の常識ってやつがあるだろうが。ぶつぶつぶつぶつ。

「世間の常識ねえ」堀部のオヤジがわたしの顔を覗き込んでいる。あれ、つい口走ってしまったか。

 くくくと含み笑いをしてオヤジが背を向けた。冷蔵庫からビールを取り出すと、わたしの前に置いた。「相変わらず四画四面だねえ。これはサービスですよ」

 なんだか腹が立つがわたしだけああだこうだ言っても仕方がない。ここはビールをぐいっと行って嫌な気分もろとも飲み干してしまおう、とグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干そうとしたそのときである。

「よっしゃあああああ」と今度は左奥の席から奇声が上がった。わたしは口に含んだビールを思わずを吹き出してしまった。「汚い……」<椿姫>が、わたしの醜態に目をそむける。冗談じゃない、わたしのせいじゃない。

 声の主は無論<鴎外先生>である。百科事典のような分厚い本をテーブルにどんと叩きつけると荒らぶる声を張り上げた。「読破読破読破読破あああああ」

 黒縁眼鏡が異様に目立つ細面の顔が歓喜に歪んでいる。両拳を思い切り振り上げているので、いくぶん小さめの学生服が今にも破けそうだ。喜びを抑えきれないと見えて金銀夫婦と同じく椅子を蹴って立ち上がると何度も飛び跳ねる。

 さすがの堀部のオヤジも事態をよく飲み込めないらしく、ぼんやり<鴎外先生>を眺めている。だがさすがに店の主。すぐに気を取り直して、飛び跳ねる若者のそばに駆け寄る。

「どうなさいました、先生」

「ああ、オヤジさん。やってしまいました。わたしはついにやってしまいました、ははは、ひひひ」<先生>は半狂乱だ。

「何をでしょう。何をやられたのでしょう」オヤジも興奮している。

「読み終わったのですよ。この本を! この大作を! くくく、ききき。全部読んでしまったのですよ。理解してしまったのですよ」とテーブルに置いた巨大な一冊の本を指差す。

「なんと、それは素晴らしい」オヤジは敬意のまなざしで<鴎外先生>を見た。

「もう無敵です。最大最強、完全無欠です」

 <鴎外先生>はそう言うと眼鏡の位置をきりりと整え、颯爽と歩き出した。「それでは失敬」と我々に一礼すると、ぎゃはははと大笑いしながら暖簾をくぐってそのまま立ち去ってしまった。堀部のオヤジがまたまた深々と頭を垂れる。

 店内にはぎゃははという高笑いがいつまでも反響を続けていたが、<椿姫>の一言で狂気じみた空気がいつもの空気に戻った。「でその本はなんなのよ」

「そうだ、その本はなんなんだ。図体がやたらでかいが」口火を切った<椿姫>本人がぴくりとも動こうとしないのでわたしは立ち上がって<鴎外先生>の席まで歩いていった。テーブルの上には例の巨大な本が置かれている。よく見ると本には表題も著者名も何も表示されてない。ただ赤茶けた無地のカバーに覆われているだけである。外から見ただけでは何の本やらさっぱりわからない。わたしはテーブルに置いたまま本を数頁めくってみた。目が点になった。

 その本には何も書かれてなかったのである。何枚めくってみても真っ白。文字どころか頁番号すら振られていない。メモ書きもない。驚くほど清潔で染みひとつない白い頁がどこまでも続いていた。わたしは半分までぱらぱらめくって本を閉じた。無言で自席に戻る。堀部のオヤジは素知らぬ顔で包丁を研いでいる。<椿姫>は眠っているのか目を閉じている。わたしは席に座り込んで腕を組む。そして考える。<鴎外先生>は何を読んでいたのか。あの白紙の本は何なのか。

 <鴎外先生>が狂っているとはなぜか思えなかった。彼は確かに読んでいたのである。白紙の頁をぼんやり眺めていたのではない。彼の行動をつぶさに追っていたわけではないが、ときおり相槌を打ったり頭を抱えてみたり何かを思い出す仕草をしてみたりじっくり擦るように頁をめくってみたり、必死に本を追いかけていた。わたしにはただの白紙に見えても彼にとってはそうではなかったはずだ。一体彼は何を読んでいたのだろう。あの白い本には何が書かれていたのだろう。

 腕組みから頬杖に姿勢を変え、グラスのビールに口をつけることもなく、何分、いや何十分とわたしは考え続けた。見かねたのか、オヤジが声をかけた。

「秋刀魚の塩焼き、もう一匹いきますかい」

「え」

「秋刀魚の塩焼きですよ。肴がないじゃありませんか」

「あ、ああ。そうしてくれ」

 そう、考えても仕方がないのだ。頭の中で何度も反すうした。この店で起きることをいちいち考えるのがいかに無駄であるか承知しているはずではなかったか。あれはただの白い本だ。何も書かれていない空白の本。ひとりの青年がそれを読んでいた。ただそれだけのことだ。

「とうとう、おふたりだけになってしまいましたなあ」コンロの煙を手で追いながら堀部のオヤジが言った。後姿が心なしか小さく見える。

「寂しいのかい」とわたしは何気に答える。

「そりゃあそうですよ、毎度のことですがね。常連さんができて時がくれば去っていく。わかってはいるんですが、やっぱり寂しいもんです」

「考えてみれば昨日までみんな揃っていたんだもんなあ」そう考えれば感慨深いものがある。<鉄砲玉>が壮絶な最期をとげたのは昨日の朝のことだ。昨日の今日である。なのに今カウンターに座っているのはわたしと<椿姫>だけだ。

「言ったでしょう。こんな店に長居するもんじゃないって」目を覚ました<椿姫>がぶっきらぼうに言った。「それに客には困らないでしょうに。すぐまたふらふら集まって来るわ。オヤジさん、わかってるくせに」

「そりゃそうなんですがね」堀部のオヤジが焼きあがった秋刀魚を皿に盛った。慣れた手つきでおろし大根を添える。

「問題はこのひとよ」<椿姫>がわたしを睨む。

「わたしですか」

「そうよ、問題はあんたよ」責めたてるような表情の中にどこか哀しさが見え隠れする。わたしの胸をまたふっと懐かしい思いがよぎった。

「自分のことを棚にあげて」苦し紛れの抗弁。

「わたしはいいのよ。あなた次第だから」<椿姫>は意味ありげな薄笑いを浮かべた。

「あいよできあがり」オヤジが秋刀魚を持ってくる。すぐさま箸でつつく。話題に窮したときには食って飲んで笑ってごまかすのが一番だ。

「ところで今何時だい」秋刀魚と格闘しながらわたしは訊いた。ここにいるとすぐ時間を忘れてしまう。来たばかりのような気もするし、何時間も経っているような気もする。

「あいにく時計は置いてませんので」

「そうかい。いいや」今日は腕時計を身に付けてきた。箸で秋刀魚をつつきながら左腕の時計を確認する。

「え?」

 すべての景色が止まった。あらゆる音が消えた。灰色の渦が静かに周囲を飲み込んでいく。

「あなた!」<椿姫>の叫び声で再び時が回り始めた。堀部のオヤジが駆け寄ってくる。

 腕時計があるべきところになかった。

 凍りついたわたしの右目の片隅に、ベルトを留めたままテーブルに転がっている腕時計が映った。腕時計を狙ったはずのわたしの視線は空振りし自分の膝元を捉えていた。

 ――左の手首から先がそっくり消失していたのである。

 わたしは思わず立ち上がった。大声で叫びたかったが恐怖の余り声も出ない。時が動き出すと共に思考も動き出す。頭の中を記憶の断片や怒りとも悲しみとも似つかない感情がうねるように駆け巡る。わたしは<椿姫>を見た。いつのまにかテーブルから顔を上げ両眼でわたしを正視していた。これまで見たことのない顔の左側を曝している。わたしは彼女が誰であるかを理解した。彼女の大きく見開かれたふたつの目はわたしに何かを求めていた。いや何かを迫っていた。それが何かわたしは知っているはずだった。とても重要なことなのだ。絶対に忘れてはならないことだ。しかし思い出せない。

「何しているの、早く!」<椿姫>がわたしの右手をつかんで揺さぶった。何度も何度も揺さぶった。わたしは呆然と立ち尽くしたまま動けない。どうして良いかわからなかった。頭の中ではまだ灰色の渦巻きがとぐろを巻いていた。何かをしなければならないという焦りは確かにあった。しかし同時に何もしなくても良いという気持ちもあった。カオスの嵐が吹き荒れる中でふたつの感情がぶつかりあっていた。

「早く早く!」<椿姫>がさらに強くわたしの右手を揺さぶる。わたしははっとした。必死にわたしの手を振る<椿姫>の大きな黒い瞳が次第に白くかすみ始め、ついにはその瞳からいくつかの透明なしずくがこぼれ落ちていた。<椿姫>が泣いている。涙はとめどもなくあふれ出て白い頬をびっしょりと濡らしていった。ひたすら「早く早く」と狂ったように叫びわたしの腕を揺さぶる。

 <椿姫>の涙を見た瞬間、わたしの中で何かが爆発した。身体の至る箇所に滞留していた不純物が一気に溶け出し、長い間解けないでいた様々な疑問が一気に氷解し始めた。先ほどまでぶつかりあっていたふたつの感情は争いをやめ、わたしはひとつの結論に達していた。早く早く。そう、早く探さなければならない。

 わたしは<椿姫>を抱き寄せるとそっと左頬にキスをした。彼女の涙がわたしの唇を濡らした。暖かく懐かしい涙。<椿姫>は白く細い手でわたしの髪の毛を撫でると優しい笑みを浮かべて席に崩れるように座り込んだ。わたしはジャンパーの襟を立てると急いで出口に向かった。「おっと忘れ物だ」暖簾に手をかけたまま、カウンターを振り返ると堀部のオヤジが深々と頭を垂れている。「オヤジ、ありがとう」カウンターに戻り一〇〇〇円札を数枚テーブルに置いた。オヤジは無言のまま顔を上げようとしない。わたしは一気に暖簾をくぐり抜け、駆け足で店を出た。外は満月。路地を全速力で駆け抜ける。これから探さなければならない。大事なわたしの左手首。難しいことではない。どこにあるかはわかっていた。すぐに見つかることも。そしてこの店に二度と来ることがないことも。

 駆け足のまま夜空を見上げた。今にも振ってきそうな巨大な満月。空に向かって吼えた。凱歌が冷たい夜の空気を切り裂いた。

 

               六 

 

 午前六時半。目覚し時計で目が覚める。いつも通りさわやかな気分。完全に眠りから冷め切らない脳の酩酊感を味わいながら寝巻き姿のまま居間まで歩き、素足に触れる床の感触を味わいながらカーテンを一気に開ける。春の柔らかな陽射しが窓から差し込みわたしの身体を包み込む。窓を開けて新鮮な空気をとりこむ。あくびをしながら窓から路地を見下ろすと鴉がゴミ捨て場を漁っている。最近は鴉が多くて困ると近所の人が言っていたのを思い出す。確かにゴミ捨て場だけではなくマンションから見える民家の屋根や電柱に多数の鴉がとまっている。まあしかし良いではないか。この雲ひとつない青空を見てごらん。鴉ごときどうということはない。路地は駅への道を急ぐサラリーマンやOLで一杯だ。わたしもぼうっとしてはいられない。洗面所に急ぎ顔を洗って髭を剃る。そういえばいつだったか忘れたが、随分と長い間髭を剃らなかったことがあった。わたしはもともと髭が濃いほうじゃないので普段は安物の電気髭剃り器で充分なのだが、あのときはとてもじゃないが剃刀じゃないと無理だった。剃り終わったあとの別人のような顔を見て自分の顔ながら驚いた覚えがある。

 玄関の郵便受けから新聞を取り出しテーブルに投げる。冷蔵庫から牛乳パックを取り出し一口、二口ほど飲み干すと、キッチンの棚からロールパンを二個取り出し電子レンジにかける。コーヒーを沸かしている時間はない。朝は牛乳とロールパン。そういう生活にもう慣れてしまった。電子レンジが終了の鐘を鳴らす。黒い重厚なデザインの電子レンジ。ロールパンを取り出し無理矢理口に詰め込みながら、電子レンジをしばらく眺めていると、なんだか無性におかしくなり思わず笑みがこぼれる。

 「穴穴家電」にはあれから行っていない。正確にいうとたまたま一度例の路地を通りかかったときに気になったので様子を見てみたことがある。しかしあの妙な電器屋があった家の表札は至極立派な作りの表札に変わっており、人の気配がしたので陰に隠れてしばらく覗いていると、玄関から見知らぬ夫婦と子供が出てきて庭いじりを始めたのだった。いかにも平凡で平穏な家庭の絵がそこにあった。いつからここに移り住んだのか、前の住人はどうしたのか、訊いてみる気にはなれなかった。急ぎの用事があったので結局そのまま立ち去った。実際のところ、わたしはもはやあの店に興味が無かった。記憶も曖昧で、覚えているのは妙なオヤジと常連客が数人いたことくらいで、最近では名前どころか顔すら思い出せなくなっていた。

 ロールパンと牛乳を胃に流し込み新聞に一通り目を通すと丁度良い時間になる。スーツをすばやく着込みネクタイを締めると戦闘態勢完了。今日も長く辛くそれでいて楽しい一日が始まる。左手首に愛用の腕時計を巻いて時間を合わせる。玄関に急ぎ靴を履きかけたところで忘れ物を思い出す。

 玄関の脇にある六畳の和室に入り、奥の仏壇に手をあわせる。遺影の女性が優しい目でこちらを見ている。半年前に病死したわたしの妻。器量は十人並みかもしれないが、大きな瞳としなやかなで長い黒髪が魅力的な女だった。気が強く口は悪かったが、心根のやさしい女性だった。和室がいくぶんかび臭いのは、ずいぶん長い間部屋を閉め切ったままだったからだ。この部屋に入ることが出来るようになってから一ヶ月以上経ち、換気を心がけているのだが畳にしみついた湿気はなかなか抜けてくれない。だがその湿気が抜けるのも時間の問題だろう。

「おっといけない」わたしは左手の腕時計を再確認した。早くしないといつもの電車に間に合わない。慌てて玄関に駆け込み靴を履き扉を開ける。そのとき、郵便受けから一枚のチラシがはらはらと落ちた。先ほど新聞を取り出したとき郵便受けの金具に引っかかりそのままになっていたのだろう。おそらく分譲マンションの広告かデートクラブの怪しいチラシだからと、わたしは無視してそのまま外に出ようとした。だが今日に限って妙に気にかかり足を止めた。チラシを床から引ったくり、廊下に出て扉の鍵を閉めた。チラシに目を落とす。


<穴穴文具。凄い! 凄すぎる。まさに文具の穴場。穴穴文具をよろしく>


 わたしはニヤリと笑った。あの妙なオヤジの顔が頭に浮かんですぐに消えた。チラシを片手で握りつぶすと廊下から空に向かって放り投げた。チラシは風に舞いながら路地にゆっくりと落ちていった。何気なく遠くに目をやると民家の屋根から一羽の鴉がこちらを見ている。わたしは「よう」と手を振り、急いで廊下を抜け階段を駆け降りると表へ出た。すかさず慌しく駅に向かう人々の行列に加わる。


 背中で鴉が笑った。

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