第10章 檻のない服役
「時効不成立」 11
第10章 檻のない服役
店から狭間と鈴城の二人は外に出た。
冷たく乾いた秋風が、二人を撫でるように吹き、何処と言って行く当てもなく歩き出した。
狭間はこの先に鍾乳洞の広場が有る事を思い描き、キャラバン生活を思い、そこへ向うように、言葉もなく歩いた。
「ツアーで?」
「一人だよ」
「仕事?」
「いや・・・・・・」
「・・・なんで・・・」
「山の神に会いに・・・・それで、来た」
鈴城は、何を何処から話したらいいのか、分らないまま、狭間の傍を歩いた。
二車線の舗装された道は、住宅街らしく、街頭はあるものの、葉のない枝ぶりの目立つ鈴掛けの大木が道を覆っていた。
街灯に明るく照らされている交差点を左に行くと、そこの崖下は、鍾乳洞の入り口で、広場になっている。
時間的に鍾乳洞は閉鎖していたが、入り口にあるパブは開いていた。
何人かの若者のカップルがパブの中に居たが、鈴城と狭間は外の野外テーブルに、どちらからともなく座った。
「あの時の加護坊山、思い出すな。ここ」と鈴城が言った。
二人が育った宮城県の広大な穀倉地帯の大崎平野には、シンボルのような加護坊山があった。
標高二二四メートル。その山の東の裾に、小さな沼があり、その沼の土手を行くと、砂岩の壁がそそり立っていた。
その砂岩の根を清水が流れ、そこには山椒魚が生息していた。
その探検に中学二年生の鈴城広州が、小学三年生の狭間良孝を連れて行った事があった。
鍾乳洞を目の前にして、鈴城がその事を言ったのだと、狭間は解っていた。
「あの絶壁を登って、アケビを取ったの、覚えているか?」
「覚えている」
「何時だったかな、山の神が言い難そうに、これ欲しいって言った事があったが、何が欲しくて言ったか、それも、覚えているか?」
「知ってる、昆虫採集のセットだった」
「それと虫取り網も、な」
「コンペ、どうしていきなり来たの?」
「電話貰って、今会わないでいると、死ぬまで会えない気がしたからさ」
「俺、そんなつもりでしたんじゃなかったんだが」
「いいじゃないか、どんな訳が有っても」
「俺ね、コンペにだけは言いたくて・・・他に、他に話せる人が・・・・・・それで」
「いいよ、昼にあの店で見かけた時、ああ幸せにやってるなと思ったよ」
「幸せ・・・か」
「昔の再現、と言うか、続きをやってるなって気がしたよ」
「何の事だ?」と狭間の山の神は、とぼけ加減に言って後悔した。
「米盛勇夫、覚えているか、当時の仲間は、あいつと俺だけになったんだ」
「覚えている、キャッチャーのヨネヤンだろ」
「あいつ、高校を出ると、警察官になった。山の神が五年か十年に一度電話をよこす事で、あいつが言う話が俺の中で繋がったんだ。本当に早いな、五十年前が昨日のようだよ」
狭間は、なぜ鈴城広州がハンガリーに来たのか、解った。
「加護坊山で、酒もタバコも、山の神に教えたのは、俺達だった」
「・・・・・・」
「蕨やゼンマイを採った事もあったな。野うさぎを追いかけた事も有った。板を削っただけのスキーをやった事も、どうしてだろうな、いつも山ノ神とそんな事をしていたのは・・・。どうして山の神って言うようになったか知ってるか?」
「うん、小牛田の山ノ神神社で飼っていたサル、あの真似をして以来だったはずだよ」
「そうだな。あの時、俺達下級生は、先輩にしごかれ、野球の道具を片付ける時間になって、鬱憤晴らしにふざけていた時だった。バックネットの裏で見ていた山の神をからかうつもりで呼んで、やってみろと言ったら、何のためらいもなくやった。爆笑だったな」
「うん・・・」
「あれ以来、良孝の事を、山の神って呼ぶようになった」
「でも、どうしてコンペだけ、俺をかまってくれたんだろ?」
「多分、お前の兄貴の事があったからだと思うよ」
「ヤサグレが、あれがどうして・・・」と狭間は吐き捨てるように言った。
「お前の兄貴は、とにかく喧嘩が強かった。というか乱暴だった。毎日のように誰かとやっていたと思う。それで俺の親父が、知ってるか、神社の神主をして、町の少年観察委員をしていたんだが、小学上級生のお前の兄貴の観察員になって、親父は誰に言うとも無く言っているのを聞いたんだよ。なぜ俺の前で親父が言うのか解らないながらも、山ノ神を見て居たくなっていたよ。因果だな」
「・・・どんな?」
「もう解っているんじゃないのか?」
「・・・・・・」
狭間は、急に涙がボロボロ流れて来るのを、拭う事も出来なかった。
鈴城は、それを見ぬふりをするように、椅子に座ったまま、狭間に背を向けた。
鈴城は、狭間と同席していた女性は、三十五年前の遊茶美枝子なのかもしれない。と思った。
「山の神、果報者ンだよ。良かったな」
「・・・・・・」
鈴城は、そう思い、そして神のみぞ知る正当防衛かもしれない。と言いかけたが、言えば責めることになりそうで、これを噛み殺したのだった。
「何時来たの?」
「一週間の予定で来て、明日帰る」
「明日・・・?」
「日本語で、話し相手、いるのか・・・?」
「・・・・・・」
「日本には、帰らないのか・・・?」
「・・・・・・」
「見送りなんかするんじゃないぞ、本当の別れになってしまうから・・・」と鈴城が言った。
「・・・・・・」
「古川の「上総」に居たんだってな。こっちへくる時、見に行ったが、駐車所になっていたよ」
「・・・・・」
「あの子が、去ったら、どうするんだい。行く所、有るのか?」
「・・・・・・共同で買った、家だから・・・」
狭間は、募る話も語りたい事も、聞きたい事も、山のようにある気がしたが、言葉にはならなかった。
そして、ヤランチカ・クシィーバの居ない未来は、ただ真っ白になっていたのだった。
「これでも、まだ山の神をかまっている気で居るんだ。だから・・・な」と鈴城が言ったところに、クシィーバからの電話が鳴った。
鈴城は、狭間良孝の電話が終わるのを待って、自殺だけはするなよ、と言いたした。
狭間良孝は、閉じた瞼から、なお流れる涙が止まらず、歯を食いしばっていた。
鈴城広州はその狭間良孝を目の端で捕らえながら、これ以上の話は、何を言っても、責める事にしかならないと思うと、自分も辛くなっていくのだった。
「コンペ、俺のような生き方が有ったって、いいよな」と狭間は、ボソリと言った。
「ああ、いいよ・・・・・・世界一だ」
狭間良孝は、家にどうやって帰ってきたのか、鈴城広州と何時別れたのか、何も思い出す事が出来なかった。
深夜、クシィーバが帰って来たのを、いつものように迎え、言葉少なにそのまま、ベットで抱きしめ、眠りに着きたかったが、
「リョウ・・・なぜ、なぜ泣いてる」とクシィーバに聞かれた。
が、そのまま朝を迎えたのだった。
目覚まし時計を見ると、鈴城広州が日本へ発った時刻だった。
そして、クシィーバをこのままに、叶わぬ事とは知りながら、日本で死にたい、と思った。
〈エピローグ〉
鈴城広州は、成田空港から、東北新幹線に乗ると、新古川駅でバスに乗った。
石巻の自宅には帰らず、そのまま大貫の米盛勇夫を訪ねたのである。
鈴城は、大貫から古川の途中にある小牛田の学校まで、毎日通ったが、古川の町にくる事は、めったになかった。
それでも、見慣れた風景を思い出すのだが、既に分るところは地名しかなかった。
古川からバスに乗り、江合川を渡ると、左右に田園が広がっている。
田園が切れると、田尻の町に入り、しばらく商店が続く田尻の町の中をバスは走った。
やがて東北本線の田尻駅前に着き、そこから先が沼部という地域で、その先が大貫だった。
ああ、あの土手が切伏沼だなと見当をつけ、二人で筏を浮かべ、ジュンサイを採っている時に、何かの拍子に水に落ち、上がってくると水垢が真っ黒に体に着いて驚いた事を思い出した。
バスはやがて、加護坊山の裾に当る大塩部落に来た。
鈴城は、この辺で山の神の親父が事件を起こしたのかと、米盛勇夫の話を思い出した。
緩やかな坂を登り下りしながら、曲がりくねった山間の道をバスは走っていく。
森や林の中に点在する家々が、昔と随分変わったな、と鈴城は思い、高校卒業以来、この道を通った記憶がなかったことを改めて確認する気持ちになった。
大貫から石巻に転居する時も、加護坊山を挟んで、向こうの道から涌谷へ出て、石巻に行ったから、かなりの時の流れを感じた。
バスは大貫に来た。ここから十分ぐらいで、米盛勇夫の近くの停留所だった。
古川から連絡すればよかった、と思いながら時計を見ると、もう一時だった。
バスから降りると、さすがに空気は冷たく、バス停から林を抜けると、冬枯れに入った田園が、どこか荒涼とした感じで広がっていた。
澄み切った抜けるような空と田園、鈴城は林に沿って歩き、その広大な田園を眺め、米盛勇夫の家へと急いだ。
鈴城が庭先に立つと、孫と遊んでいた米盛勇夫が驚いて駆け寄ってきた。
「何時帰ってきたんだい」と米盛は孫の手を引いて笑顔で言った。
「今朝、成田に着いて、そのまま来てしまった」と鈴城は言いながら、米盛と並んで家に入った。
「どうだった、ハンガリー」と米盛は鈴城が居間に座ると同時に聞いた。
鈴城は、見てきた街を語り、綺麗だったと言うと、
「山の神、加護坊山と似たような所で生きていた」と呟いた。
そして、山の神は、自分で刑に服していた。
と、独り言のようにいった。
「どういう事・・・?」
「あいつに、逃げる事を教えたのは、俺達、否、俺かもしれない、最も多感な時期に、俺は、あいつに、逃げ場を作ってしまっていたかもしれない」
「なんだか、話が見えない、詳しく話してくれよ」
「家を買って、女と暮らしているようだった」
「凄いじゃないか、でも、よく会えたな」
「ん、ホテルで、どうしたものかと考えていたんだが、方法はない、ハンガリー語は、ローマ字読みに出来ても、意味が解らないから、どうしようもない。あいつ、板前だから、たまには、日本レストランに行くだろうと、何件かの所に行って聞いてみたんだ。すると、新しく出来ると、必ず顔を出すという事が分かり、丁度最近出来た店が有ったから、そこへ行った。「琵琶湖」と言う店だった。
店の者に聞くと、ここへはまだ顔を出していないから、そろそろ来るかもしれない、厭だなあ、とか言っていた。そこへ俺は、四日間、昼夜と通って、五日目の昼過ぎ、とうとう現れた。念じるように待った」
「その念力が効いたと言う訳か」
「最初に見た時は、声を掛けなかった。女と一緒と言う事も有るが、どんな話をするのか、それを聞きたかったからなんだ」
「若い女かい」
「若い、一月ばかり前、違う男と暮らし、戻ってきたようだった」
「良くそんな女と・・・いくら若いと言っても、ちょっと並みじゃできないな」
「出来ないが、許さざるえない・・・と言っていた」
「山の神がか、何もそんな女手元に置かなくっても、いくらでも居るだろう?」
「ああ、俺もそうは思ってみたが、奴の話では、例えどうであれ、これを失えば、もう誰も居ない・・・そう言っていたよ。人は一人じゃ生きていけないって言う意味、シミジミと解った気がしたな」
「うーむ・・・・・・それが、刑に服している、と言うことになるのか?」と米盛はそう言って、随分と前、罪と罰とでも言う自分の話を鈴城広州にした。
「死刑には、反対なのか」と鈴城が聞いた。
「はっきり反対か、と聞かれても、何とも言えないが、死ぬより辛いと言う事だけは、言えると思うが・・・」
生活環境の一つ一つを削除していく環境に、一人の人間が封じ込められた時、人間はどれ平静を保って、生きていけるだろうか。
米盛は、死刑制度を超えたところで考えても、気が狂いそうになった事を、鈴城に語った。
「まったくあいつの居る環境は、自分で、そうしているとしか俺には、思えなかった。板前に、言葉は要らないとか言いながら、その腕だけで歩いて、人渡りも下手、外国で二十年近くも居れば、それなりに言葉は覚えるだろうが、立つ足場が違えば、腹を割った話まで、出来るわけがない」
鈴城は、言ってポケットからハンカチを出し、手の汗を拭いた。
「刑罰の存在を考えた時、他人を殺し、他人の人権を奪った者に、果たして、自己の人権を主張する権利が許されるのだろうか。もし、あれば、死刑は出来ない事になるが」と米盛が言った。
「そうだな、生きると言う生存権だけは、認めるとしても」と言って鈴城は山ノ神こと、狭間良孝の現状を米盛に語り継いだ。
「塀のない牢獄・・・か」と米盛が呟いた。
「狭間、山の神は、既にその罪に服している。桜田門を中心に、人間を見てはいけないよ」と鈴城が言い添えた。
そして鈴城広州は、例えそれが神の許しを得た正当防衛であるにしろ、山の神は、犯した罪に対し、何時何処で、どんな償いをするのだろう、出来るのだろうか。と思って、口を閉じた。
「被害者や遺族にすれば、加害者に対し、同等の結果として死刑を望むが、どれだけの正当性があっての事なんだろな。加害者は自らの手で人を殺し、被害者側は法に拠って殺す。死ぬ気で殺す。これがまかり通りそうな気がして、怖いな」と米盛は腕を組んで唸った。
「弱肉強食という面からすると、これも、自然の為せる事なのだろうかな」
「一見人為的な事だが、もしかすると、そうかもしれない。殺そうとしても殺せない、死のうとしても死ねない。人為的な事も何かがそれを阻止している場合もある」
「かといって、野放図にするわけには行かない。ヨネが言うように、生活条件の拘束をしていくと、俺は、死刑より恐ろしいことになる。そんな気がするよ」
「考えていくと、死刑という言葉すら、何か、影が薄くなるな」
「死刑反対の声を上げている連中は、社会復帰の望みを託した、温情論者なのかな」
「どうなのかな、いずれ、甘いと思うが・・・・・」
二人は、狭間良孝の現実を思うと、やりきれなさに胸を突かれ、言葉が途切れた。
家の台所から、カヤカヤと賑わいの声が聞こえて来た。
その声に、二人は救われた気がした。
「死刑賛成は、これを極刑と思っているが、その思考範囲は何処までも、対岸の火事から出ることはない。そう思うよ」と鈴城が思い出したように呟いた。
「死刑制度が、一種の慈悲からとなれば、法務大臣も、判子、押し易いかな」と米盛が言って、大きな溜息をついて窓に目をやった。
部屋の明るさが、窓に反射し、外は見えなかった。
嫁の、新米の餅が出来たから、一緒に食べましょう、という声がした。
そして障子の外に、小さな足音がしたと思うと、坊主頭に赤いほっぺの、ドンブクを着たさっきの孫が入って来るなり、こんにちは、と鈴城広州に向って、ペコリと頭を下げると、
「おじいちゃん、お母さんの作ったズンダ餅、早く食べよ。お姉ちゃんも、お父さんも、皆待ってるよ」
鈴城広州は、山の神には、こんな思い出があるのだろうかと思い、孫の手を取る米盛勇夫の後ろから部屋を出た。
―――終わり―――