第4話 いじめとは何か
ここはとばしても読んでも大丈夫です。
要約すると、
「いじめ」は、
見方によってはイジメになったり、イジメにならなかったりする。
それは「いじめ」の正体が、
イジメでありイジメではない状態のことだからだ。
つまり「いじめ」とは、
「いじめはあるが、いじめはない」
ということだ、と書いています。
①イジメの本質、目標、3原則について
(イジメのやり方)
イジメの方法については、
レパートリーが多すぎて
挙げるとキリがないが、
本質的には、
「人が嫌がることをして楽しむ」ことがイジメだ。
だから、
イジメの目的は、
「人の尊厳を奪い、
思い通りに支配するという
快感を味わうこと」
である。
それを突き詰めると、
イジメの完成形は、
「人を、
自分よりも見下せる存在におとしめて、
自分の思いどおりに支配すること」
となる。
であるから、
イジメの目標は、
「イジメの完成形に向かって、
相手の立場や抵抗力を
弱めていくために
必要と思われる、
あらゆる行動をおこすこと」
である。
それだから、
イジメのターゲットには、
絶対に
自分より弱い者を
選ばなければならない。
イジメの本質が、
「人が嫌がることをして楽しむ」
ことである以上、
反撃されても怖くない相手を選ぶことは、
当然のことである。
そして、
これも当然のことだが、
イジメは
イジメと見られてはいけない。
イジメが悪いことであることは
誰でも知っているのだから、
自らすすんで
悪者になりにいくような、
アホな真似をしてはいけないのだ。
すると、
自然の成り行きとして、
イジメと思われないような
別の口実を作り上げて、
イジメをすることになる。
そして言うまでもなく、
イジメは
外部にバレてはいけない。
イジメは仲間内か、
もしくは自分が
印象をコントロールできる
集団の内だけで行われなければならない。
ごまかすことも丸め込むこともできず、
イジメをとめられる
強い力を持った人物に知られてしまっては、
都合が悪いためだ。
一つ、弱い者を選ぶ
一つ、もっともらしい口実を作る
一つ、外部にバレないようにする
この3つの原則は、
イジメをやろうと思えば
自然と行き着くことで、
これらを徹底することによって、
いじめっ子たちは、
表向きには社会規範を守りながら、
何食わぬ顔で
イジメをやり通すことができる。
しかも、
これらのことは、
何ら難しいことではない。
イジメをしやすい人間を、
見つけさえすればいいだけだ。
残り2つは
後からついてくる。
イジメは、
弱者をターゲットに選び、
偽装し、
外部にはださない。
つまり、こういうことだと言える。
イジメとは、
「イジメはあるが、イジメではない」のだと。
②イジメの定義と、見分け方について
(イジメがなくならない理由)
イジメの定義は、
「正当な理由なく人や動物を虐げること、
また、
人や動物を虐げているように見える行為」だ。
平たく言えば、
イジメとは、
「イジメに見える行為」
のことを言う。
他人から
「イジメに見える行為」は、
全てイジメとなるから、
イジメという言葉の意味する範囲は、
とても広くなる。
そのために、
イジメという言葉の意味の中には、
本来のイジメではないものも
含まれていることになる。
これは、
イジメという言葉が、
例えば、
【自分の肉体をいじめる】というような、
比喩としての
使い方があることからも見てとれるだろう。
このように、
イジメという言葉の中には、
「イジメに見えるが
本当はイジメではないもの」と、
「本物のイジメ」
の意味が含まれていることになる。
そして、
本来のイジメは、
「本物のイジメ」のこと
でなければならない。
それだからイジメを、
本来のイジメである「本物のイジメ」と、
「イジメに見えるが
本当はイジメではないもの」とを
区別するために、
どこかで線引きをする必要がある。
「本物のイジメ」と
「イジメに見えるが
本当はイジメではないもの」とを
区別する基準は、
ある「イジメに見える行為」が、
一方の人間によって、
「積極的」かつ「執拗に」
行われているかどうかだ。
「本物のイジメ」には、
「積極性」と「執拗さ」の
両方が含まれていなければならない。
イジメとは本来、
快感を得るために行われるという性質上、
人が嫌がることを
一方的に仕掛けていこうとする
「積極性」と、
人が嫌がることを
好んで繰り返したがる
「執拗さ」とを、
持ち合わせることになるためだ。
つまり、
イジメを見分けるには、
まず
「イジメに見える行為」を、
イジメとして拾い上げて、
それに
「積極性」と「執拗さ」の
両方が認められるかどうかを
判断することによって決めることができる。
「積極性」と「執拗さ」が
両方そなわっているように見えれば、
それは「本物のイジメ」である。
これを
分かりやすく言うとこうなる。
「本物のイジメ」とは、
人がされてイヤと思うことを、
わざとしつこくやっている行為、となる。
遊びなのかケンカなのか
イジメなのか分からない、
疑わしい行為があるとき、
一方に
「積極性」と「執拗さ」の両方が、
わずかでも認められれば
イジメと判断される。
反対に、
どれほどの暴言や暴力があっても、
「積極性」と「執拗さ」が、
少しでも
セットで確認できなければ、
それは「本物のイジメ」ではない。
ここでもう一つ重要なことは、
イジメという言葉の意味の中には、
イジメかどうかは、
他人が判断するものだという
観点が含まれているということだ。
イジメかイジメでないを決めるのは、
他人であり、
当事者がどう思っているとか、
それが直接的に行われているのか、
間接的に行われているのかということとは、
まったく無関係である。
このように、
「本物のイジメ」と
「イジメに見えるが
本当はイジメではないもの」とは、
理論上で
はっきり区別することができるが、
このようなことは、
現実のイジメを知るには、
何の役にもたたない。
現実の世界において、
イジメの定義は、
強い者が決めるのだ。
いじめっ子は、
イジメの3原則を守るから、
弱い者を力で押さえ込むことができ、
弱い者たちの前では、
自分がイジメをしているんだと
誇らしげに自慢することができる。
強さが同等の者たちの前では、
イジメではないという
見せかけの理由を主張することで、
非難されることから逃れることができる。
自分より強い者たちの前では、
イジメは隠れてやるから、
強い者や社会の大衆からは、
イジメがあることは知られない。
要するに、
イジメは外に発覚しないということだ。
このようにイジメは、
自分たちが
一番強くなれる場所でしか行われないから、
そこでは、
いじめっ子が一番強くなる。
そのために、
現実の世界において、
イジメかどうかを決めるのは、
強者であるいじめっ子であり、
いじめっ子が作った
イジメの定義とはこういうものだ。
イジメとは、
「イジメはあるが、イジメではない」。
③イジメができる才能と、
集団のコントロールについて
(スクールカースト)
イジメをやるのに、
特別な知識や技術などはいらない。
必要なものは、
人を虐げることに
罪悪感を感じない能力、
いわば、
イジメができる才能を持っていることだ。
それを持っているだけで、
彼ら彼女らは、
人から恐れられて、
仕方なく敬われて、
究極的にはルールを超越した、
特別な存在になれる。
ふつうの人間が
イジメをやってしまうと、
たとえ
相手が悪い原因を持っていたとしても、
幸せな気持ちを感じることができずに、
嫌な気持ちになる。
しかし、
イジメができる才能を持つ者は、
イジメができる相手さえ見つかれば、
もっともらしい理由を
つけることによって、
イジメをやり続けることができる。
彼ら彼女らにとってイジメは、
楽しいだけではなく、
強くて賢くて格好良くて、
イジメは正義なのだ。
彼ら彼女らが、
自分たちがいる小集団を、
自分たちにとって
居心地の良い居場所にするためには、
ただイジメをすればいいだけだ。
それだけで、
自分たちの力を誇示し、
その小集団では、
強者として君臨することができる。
そうすると、
周りの者たちはトラブルを避けようと、
身構えるようになる。
他の者たちは、
彼ら彼女らを
上回る力をもっていない場合は、
ルールを曲げられる
彼ら彼女らに対して、
正しいことが言いにくくなる。
その上で、
協調性を保とうとすると、
多少のことには目を瞑り、
彼ら彼女らに合わせることになる。
彼ら彼女らに
いじめられている者がいても、
自分を守ることにさえ
気を使っているのだから、
他人のために、
自分に災いを呼び込むようなことはできない。
また、
イジメは個人同士の、
私的な問題を
理由にして行われるから、
他人が進んで介入することが
そもそも難しい。
私的な問題を追求できるほど、
他人に権限はないし、
誰もすすんで
面倒なことに関わりたいとは思わない。
そのために周囲の人たちは、
正しいことを言うと逆恨みされて、
彼ら彼女らと
敵対関係ができてしまうという考えが働き、
自然とそれを避けようとするため、
彼ら彼女らは、
その集団の中で上に立ち、
集団をコントロールできる立場になる。
彼ら彼女らが
力を持った小集団社会では、
ケンカが強い者ほど地位が高くなる。
腕力と度胸が者は敬意を払われるが、
気の弱い者はとるに足らない者となる。
不良の者ほど地位が高くなって、
真面目な者は下っ端となる。
見つからずにルールを破ったり、
人を騙せるヤツが賢い者となって、
躊躇なく
人を傷つけられる者ほど
自信を持つことができ、
見栄えがよく
異性からもてる者は一目おかれ、
早熟な者ほど健全となって尊敬され、
ズルいことができたり、
相手をビビらせられる人間ほど、
そこでの身分が高くなるという
不文律ができあがる。
彼ら彼女らが
支配的になった環境下では、
強い者がルールを決めるため、
彼ら彼女らに対する拒絶は
敵対心と見なされ、
告発は告げ口となり、
指摘は非難と受け取られる。
そのために
集団内の他の人たちは、
彼ら彼女らとの関係に
波風を立てまいとするようになって、
正しいルールよりも、
力のルールに合わせざるを得なくなり、
彼ら彼女らの立場を
悪くするような事実は、
黙認されるようになる。
つまり、
そこではどんな人でも、
「イジメはあるが、イジメではない」
という雰囲気に、
合わせてしまうことになるのだ。
④ターゲットのコントロールについて
(イジメが発覚しない理由)
たとえイジメの要因が、
いじめられる側にもあるにせよ、
いじめっ子が
イジメのターゲットに選ぶ相手は、
自分より
弱い者でなければいけないから、
いじめられる側がもつ要因というのは、
イジメがおこる原因とはいえない。
初めからいじめっ子は、
自分がコントロールできる相手しか
選ばないのだ。
だからイジメは、
いじめっ子のほうが、
絶対的に優位な立場となる。
イジメができる才能に恵まれた者たちは、
力、狡さ、数的優位性などに加え、
攻撃性が高いことによって、
ターゲットに脅威を与えることができる。
ターゲットは、
自分が不利だということを理解するならば、
正面衝突を避けて、
危険を回避する方法を探ることになるだろう。
しかしながら、
イジメができる才能の持ち主たちは、
さまざまな表向きの理由を作っては、
「積極的」かつ「執拗」に、
かかわりあいを持とうとしてくる。
それに対して、
友好的な態度をとれば、
友情を建前にして
相手のいいように利用してきて、
反発すると、
それを理由に制裁を加えてくる。
ターゲットが
どのような反応をしても、
イジメができるようにすること。
これがイジメの一つのパターンとなる。
また、
いじめられている者は、
イジメを受けていることを人に話さない。
脅されていたり、
仕返しされるのを怖がっていたり、
家族に心配をかけたくないためだったり、
自分に原因があると考えていたり、
人に話した所で
何の解決にもならないと思って諦めていたり、
自分がいじめられていることを
認めたくないというプライドがあれば、
いじめられているという印象を
周囲に与えないように
振る舞うようになることもある。
いずれにせよ、
ターゲットが
自分からイジメの隠蔽工作に
協力してくれることほど、
いじめる側にとって都合のよいことはない。
イジメは、
いじめられている者が、
進んでイジメを隠そうとするばかりか、
イジメではないように見せようと、
自ら進んで
いじめっ子の思い通りに
コントロールされるから、
周りから見れば、
ますますイジメかどうか判別しづらくなる。
それは、
こういうことだと言える。
「イジメはあるが、イジメではない」のだと。
⑤イジメが起こる環境について
(イジメが起こる責任は誰にあるか)
イジメは、
2人以上の人間が、
一定の共同生活や
協力関係を余儀なくされた、
容易には抜け出せない集団社会で、
外の世界の人たちから
自由に干渉されない状態、
他の世界の人たちと
自由に接触を取ることができないような
閉ざされた環境の中に、
イジメができる
才能をもった人間がいるときに起こる。
学校には、
イジメがおこる環境が、
最初からお膳立てされているようなものだ。
特に、
学校が警察の介入を拒んで、
法の光を遮断しておきながら、
教員たちには、
生徒間で行われる不法行為を見破って、
適切に指導できる能力がないとするならば、
学校が
イジメの温床になることもうなづけるだろう。
イジメは、
①弱みのある相手を選んで
②イジメと思われない表向きの理由を作り
③自分たちより強い者からは隠れてやる、
という
3つの原則を守りながら行うのであった。
そして、
イジメの完成形である、
「人を虐げるための対象として支配すること」を
成し遂げるために、
もっとも知恵のある方法は、
いじめるターゲットを、
自分たちの仲間の一員として、
囲っておくことだ。
この方法であれば、
完璧に偽装しながら、
ターゲットをとことんイジメ倒すことができる。
そして、
これができる環境も条件も、
学校にはばっちり整えられている。
その環境下では、
脅迫、恐喝、暴行、
強姦、詐欺など、
どんな犯罪でもできるようになる。
犯罪にまでなるのは
極端な例にしても、
究極的にはその完成形を目指して、
思いつく限りの嫌がらせを
実行することがイジメの目標だった。
そしてイジメの本質は、
「人が嫌がることをして楽しむ」という、
人を虐げることで快感を得ることであった。
盗んで利益を得ること、
人を陥れること、
暴言や暴力をあびせて
鬱憤を晴らすこと、
ルール違反をしてスリルを味わうこと、
金銭を要求して不当な利益を得ること、
人の持ち物を横取りすること、
屈辱を味わわせること、
相手の気持ちを無視して
性的欲求を満たすこと、
ルールに違反することで
得られる全能感、
我が意志を押し通せる
万能感などが、
自分を気持ちよくしてくれるのだ。
イジメができる才能に恵まれし者たちは、
イジメをやることによって、
手っ取り早く
快感を得るという目的を
達成することができる。
それがそのまま、
彼ら彼女らが
イジメをすることを突き動かす衝動となる。
そして、
いじめる側は
イジメの3原則を守ることによって、
外からは知られることなく、
いじめらている者は誰にも助けを求めず、
同じ集団にいる
その他の人々も目をつぶってくれるため、
自然と
イジメを看過して
隠匿する体制ができあがる。
外部の者に助けを求めたところで、
イジメかどうかが分からないから
解決することはできない。
その集団の中で、
独裁者となった彼ら彼女らは、
誰にも咎められず、
自分自身に恥じることもないから
罪悪感を覚えることもなく、
自分達に与えられた特権のように
イジメをして、
気の済むまで快感を
貪りつづけられるのである。
そうして時間が経つうちに、
その集団のそれぞれは、
イジメをやることも、
やられることにも、
見ることにも慣らされていく。
その集団では、
イジメはあることが自然であり、
あって当然であり、
日常の風景の一部ように
なんの違和感も感じなくなっていく。
つまり、
イジメとは、
こういう状態のことなのだ。
「イジメはあるが、イジメはない」のだと。