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春雷  作者: まほろば
幕開け
8/12



その日、母は短い時間だが俺と分かってくれた。

「…あの小さな春雷が」

母は泣きながら俺の体を擦る動作を繰り返した。

感触の無い母の手に泣いた。

「あの人に良く似てる…」

それからの母は2度と俺の名は呼ばず、ずっと父の名で俺を呼んでいた。

霞の件から数日は来るのを控えていたが、母に会いたいと思う気持ちを押さえられずやはり来てしまった。

結果が辛くとも、…来て良かった。

心の底からそう思った。

1度だけでも名前を呼んで貰えた。

その嬉しさに胸の奥が火傷するほど熱くなった。

だからなおさら、母の魂が残るこの場所で不浄な霞を見たくなかった。

霞に母を汚されるようで、どうしても許せなかった。

「霞に(いとま)を取らせる」

あっさり頷くと思った執事は調べが終わるまで待て、と解雇を止めた。

「いずれ男は旦那様と落ち合うはず、男だけではいくら見張ってても逃げられるでしょうが、あの女がいれば簡単にはいきません」

そう言われてしまえば無理強いも出来ない。

母の話をしても執事が信じるとは思えず、ただ『急いでくれ』としか言えなかった。



男と霞を警戒しながら、毎夜母を訪ねた。

気紛れに口を開く母の話しは全て父との思い出ばかりで、母にとっての俺は我が子ではなく父の副産物なのだと嫌でも痛感させられた。

それでも自分に父を重ねている母を切り捨てる事すら出来ず、恋しい心だけが母を追った。

『苦しいのか』

白虎の問いに『違う』と首を振る。

言葉にするのなら、『空しい』のだ。

父しか見えない母が、自分を見てくれない母が、母に執着している自分が、全てが空しかった。

母親の愛情を自分がどれほど欲していたのか、自覚すればなお空しさは膨らんだ。

父と同じ位置に居たい。

叶えられない望みから父を憎みそうで怖かった。

『春。昔【愛憎】の意味を我が主に諭された』

「『愛憎』?愛と憎しみの意味か?」

『そうだ。背中合わせだとな』

「背中合わせ?」

春雷の言い方には疑問符が強かった。

『愛しているから憎い。それも愛よ』

春雷は答えない。

胸の奥が冷たい感じで、白虎の言葉が届かなかった。

『求めるばかりでは始まらぬ』

「子が親に愛情を求めるのはいかぬのか」

『春。お前は母を見て何も思わぬのか』

白虎が哀れむように言う。

『真実を見るが良い』

「何処に有る」

『いずれ愚かな目にも見えよう』

白虎は春雷の返事も聞かずに消えた。



それからも、淡々と日は過ぎる。

白虎が消えて半月もした頃、やぐらに憔悴しきった父の姿があった。

死が近付き寝床ごとやぐらに移したように見えた。

だからかあの男と霞の気配がやぐらから消えた。

おそらく逃げたのだろう。

祖父の足取りも都を逃げ出したその後からプツリと途絶えていて、執事にも掴めていないと言う。

執事は執拗に探すが春雷は探しさせもしない。

根拠はないが、男が逃げるとすれば祖父も身を隠すと思えるからだ。

臥せっている父を見て、春雷は自分の中に父に対する何の感情も無い現実に気付く。

今の春雷にとって、父は他人より遠い存在だった。

その日から、父の側には毎夜母が居た。

春雷が横にいるのに、母の目は父だけを見ている。

見ているのが辛くて苦しいのに、側を離れたくない。

胸の中にどす黒い嫉妬が渦を巻く。

春雷ののたうつ苦しみも、遥か遠くにある母の心にはもう届く術は無かった。

「あなたは…それほどに父が、父だけが好きで…」

それ以上は惨めで言葉に出来なかった。

この苦しいまでに胸を締め付ける思いは母にしか癒せないと分かっているのに、求めても与えて貰えないと頭では分かっているのに。

求める気持ちを押さえられない。

父が死ねば母も父の霊を追うだろう。

母を奪う父への憎しみが春雷の中に大きくなった頃、微かな声が心の奥から聞こえ始めた。

それは微かで、春雷は自分の心の声だと思っていた。

『憎しみか』

違う、愛だ。

『憎しみだ』

違う、俺は母から与えられるべき愛が欲しいだけだ。

不毛な自分との対話は終わることを知らない。

『殺しても欲しいと思うのが愛か』

母の愛情が欲しい。

父が死んでも母の霊を共に逝かせたくはない。

『欲しくば奪え』

奪えない。

『何故奪わぬ』

母が悲しむから。

『お前のはそれだけの思いよ』

体の中に怒りの感情が生まれた。

違う。

大切にしたい人だから、悲しむ姿は見たくない。

そんな思いはさせたくない。

『させねば良い』

させたくなくても、母が隣に望んでるのは父だ。

『許さねば良い』

父を追わせなければ、母の魂は何時までもあのやぐらから離れられない。

『剥がす力を与える』

それでも母が俺を見なければ、俺は生きていけない。

心の声が裸の春雷の気持ちを暴く。

答える度に、春雷の気持ちは大きく揺れた。

母の望みを叶えたい。

自分の支えを失いたくない。

どちらも叶える策など有るはずもなく、春雷が決断を迫られる日は近かった。



その頃、ようやく祖父の足取りが掴め、執事な王都に送っていた兵士が戻った。

「兵を動かす報告を聞かなかったが」

春雷が執事を問い質す。

「ご説明が出来る形になってからと思いまして。それに、大旦那さまの事は私の仕事ですから」

その口調の強さに、春雷は執事の祖母へ向けた長年の思いを感じた。

その姿に気持ちが揺れる。

祖母と執事の間に恋愛感情の有無を詮索するのは、今更で愚行だ。

そんな事より、祖母と執事の死んでも続く主従の関係が春雷に光を投げ掛けた。

「俺は祖母と無駄な話をしたことは無かったが。お前は長く仕えたんだったな」

「はい。17で大旦那さまに取り立てていただいて、厳しい方でしたが良くしていただきました」

昔を懐かしむような執事の返事に、春雷も笑いを浮かべて頷いて見せた。

執事からは祖母への尊敬に似た感情が伝わってきて、春雷も自分の気持ちが穏やかになる気がした。

「大旦那さまは坊っちゃんが『気の病』になった時大層悲しまれて、生き写しの春雷さまを見るのが辛く一時期遠ざけられました」

その頃の記憶は春雷にも微かにあった。

あの頃の頼る者が無かった不安が嫌でも甦る。

「大旦那さまがこれではいかぬ、と改められようとされた頃には春雷さまは神獣に守られていて、大旦那さまはそれはお嘆きでした」

「俺は祖母に疎まれていた」

「いえいえ。大旦那さまは春雷さまを陰ながら見守っておられました。私の倅を春雷さまに付けるよう教育なさったのも大旦那さまに御座います」

いつの間にか執事の口調が敬語になっていると気付いて、春雷は祖母への尊敬が言わせていると悟る。

俺も大人にならなければ。

それがどんなに辛くても、母を泣かせないように、安心して父と逝けるよう見守るのが自分の役目だ。

ようやく。

気持ちの葛藤に、自分の中で決着が付いた気がした。

「そのお顔。大旦那さまに良く似ておられます」

「俺が?」

「はい」

「俺はお前が仕えるに足る主になる」

決意を消さないために、戻せない言葉を口にした。



姿勢を改めて、執事は話始める。

「旦那さまは王都でこの都の権利を自分に任せてくれるよう王に進言した様子」

「それで?王は何と」

「退けられました」

祖父に政治の実績が無かった事が大きかった。

「祖父は?」

それが1番気になった。

「王都から隠し子と数名の者を連れて消えました」

その中にあの男と霞もいるはずだ。

「後は追ってるな」

春雷の声は緊張で固くなる。

もし村に戻ったら、と気が気ではなかった。

「抜かりなく」

祖父は王都から村とは反対に向かったらしい。

「隣の国へ行くつもりなのでしょう。旦那さまのいとこがいると聞いてますから。旦那さまの親族も大半は隣国にいるはずです」

「この国には居ないのか?」

「旦那様の生家があった里は隠し子騒動の時に捕り潰されておりますから」

初めて聞いた事実だった。

「本来なら旦那さまを離縁するべきでしたが、坊っちゃんとその奥の事もあり、これ以上親族が消えては春雷さまが不憫だと大旦那さまが取り止められまして」

「…そうか」

「あの時離縁していれば。今頃大旦那さまも悔しがっておられると思うと腹立たしい限りです」

肯定も否定も出来ず、春雷は視線を外した。

自分が蔑ろにした祖父の気持ちに、祖母が気付く事は例え生きていたとしても無い。

それを傲慢と思う気持ちも有るが、祖母は産まれながらにこの都を治めるべき者だったのだ。

だから、祖父の気持ちは理解できなかった。

もしかしたら、負け犬に写っていたかもしれない。




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