三章 悪夢は終わらない
「畜生、またか……!」
僕は拳を強く握りしめた。
部屋の全てが白で統一された病室。その窓際のベッドで冨山白奈が目を閉じて横たわっている。
昨日の夜、彼女は帰り道に背後から何者かに刺されたのだ。幸い傷は浅く、近くには大通りがあり、通行人が早くに発見したお陰で大事には至らなかった。それでも、あとほんの少し刺された場所がずれて脾臓を傷つけていたら、どうなっていたかわからなかったと医師は説明していた。
「伊月さん、心配しないでください。私はもう大丈夫ですから」
冨山がゆっくりと目を開けて言う。
「大丈夫な訳があるか。刺されたんだぞ?」
「でも、もう意識ははっきりしてますから。それより……」
「ヤギのレインコートの人物、ですね?」
一緒に見舞いに来た天野が口を挟む。冨山は頷き、
「はい。刺されたあと、そのレインコートを着た人が走っていくのが見えました。顔は見えなかったんですが……」
「またか……」
天野が腕を組む。
「なあ、天野……」
「どうした、伊月?」
「今回の事件、やっぱり部員に犯人がいると思うか?」
「同じ部内で三人も被害者が出たんだ。確実にとまでは言わないが、その可能性は高い。少なくとも関わりが深い人物であると見てまず間違いないだろうね」
「そうだよな……」
ここまで言ってから先を続けるかどうか口ごもってしまう。
あれから散々事件について考え、整理して、一つ思い浮かんだこと。
もしかしたら見当違いで全くの的外れな推理をしているのかもしれない。
そんな不確かなことで、同じ部員を疑うような真似をして良いのだろうか。
だから、これを口に出して良いものか、どうしても踏ん切りがつかない。
だが、
「天野、僕の考えを聞いてくれないか」
見当違いでもいい。それは天野に判断してもらおう。彼ならきっと最善の答えを出してくれるはずだ。
天野は黙って頷いた。
僕は天野に頷き返してから、話し始めた。
「まず、第一の事件。日田が刺された時刻、僕と冨山、旅井は一緒に部室にいた。つまりアリバイが成立することになる」
ちらりと冨山の方を見る。冨山は頷き、同意の意思を示す。
「次に第二の事件。僕、天野、旅井、迫田は事件の瞬間一緒にいた。そして明智はバイトがあったというアリバイを主張している。もしこの主張が真実だとすると……」
「第一、第二の事件においてアリバイが確認できないのは根布谷圭人だけだ」
「ああ。さらにもう一つ。張間は二ヶ月程前からストーカーらしき影を見ていた。近隣の住民もそれを目撃している。そして根布谷は五月の末、つまりちょうど二ヶ月程前に張間に告白し、振られた。その後もずっと想い続けていたのなら、ストーカーとなった可能性は少なくない」
「その愛情が歪んで殺意となり犯行に及んだ、といったところか」
「そうだ」
「張間千秋についての殺意については説明がつく。だが、日田マイはどうなんだ?」
「あの……」
冨山がおずおずと手をあげる。
「その事なんですが、マイさんよく千秋さんのことで根布谷さんをイジってて……それが結構キツかったんでひやひやしてたんですが、もしかしたら……」
「動機にはなり得る、か」
「だが冨山さんへの動機も残ってる」
「それは……すみません、心当たりが全くないんです……」
「何が殺意に発展するかわからないじゃないか。それに冨山は生きてる。殺意の程度も比較的低かったと言えると思う」
「それはそうだが、まだ他にもいくつか気になる所が……」
窓の外に目を向けた天野が何かを見つけ、口をつぐむ。
「どうした?」
「警察が来たようだ。恐らく冨山さんに話を聞きにこの部屋へ来るつもりだろう。詳しい話を聞けるんじゃないか?」
それから間もなく、あの諸星という刑事がやって来た。
「根布谷圭人の居場所を知りませんか?」
入ってくるなり質問してくるその態度には、三人目の被害者を出したことへの焦りが感じられた。一連の事件は既に連続殺人事件としてマスコミに騒がれている。一刻も早く犯人を捕まえなければ、警察の面目が保てないのだろう。そして何より、今の一言で警察も僕と同じ考えで動いていることを確信できた。
「やはり根布谷を疑っているんですね」
「張間千秋さん殺害の際の明智陽介さんのアリバイが確認されました。そして唯一アリバイのない根布谷圭人は、度々張間千秋さんの自宅近辺で例のレインコートを着た姿を目撃されていたことがわかりました。今回の事件でも同様、レインコートの人物が通行人や防犯カメラにより確認されています。我々は彼を重要参考人として聴取を行うつもりなのですが、行方がわからないのです。あれから連絡は?」
レインコートの人物の正体はやはり根布谷だったのか。
予想していたことではあるが、いざこうして目の前に突きつけられるとやるせなくなり、僕は力なく首をゆるゆると横に振る。
「すみません、僕たちも連絡がつかないんです。何度も電話をかけたりしてるんですが……」
「そうですか……」
諸星は明らかに落胆の色を見せた。
「やはり令状を取って自宅を……」
その時、一人の刑事が慌ただしく病室に駆け込んできた。
「諸星さん、今連絡が入ったんですが……」
「どうした、そんなに慌てて」
その刑事は息を整え、衝撃的な言葉を放った。
「根布谷圭人が……遺体で発見されました」
この近くには山があり、その奥には大きな滝がごうごうと唸りをあげている。この滝はその荒々しさからパワースポットとなっており、夏場には多くの観光客やマイナスイオンを浴びに来るという女性たちで賑わう。そこから流れ出す川は、狭く険しい地形も手助けしてか、かなりの急流になっている。そのため、川の両岸のほとんどは切り立った崖か、立ち入り禁止の柵に囲まれており、人が近寄ることは滅多にない。命知らずの若者が川に飛び込み、急流に飲まれて命を落とす事故が毎年のように起きている。
根布谷の遺体はその川の下流で登山客により発見された。根布谷はもう少し上流の方で川に落ち、下流まで流されてきたらしい。川底に何度も打ちつけられ、遺体の損傷が酷かったため、詳しい死因等はわからないが、転落した際に頭部に負った打撲が致命傷となった可能性が高いというのが警察の見解だ。
そして根布谷の部屋からはヤギの絵がプリントされたレインコートや凶器と見られるバールとナイフ、そして遺書が発見された。バールからは日田の血液が、レインコートとナイフからは冨山の血液がそれぞれ検出され、レインコートには根布谷の毛髪や皮脂が付着していた。ワープロで打たれた遺書には、一連の事件の犯人は自分だという旨の告白文も書かれていた。
文面は次の通りである。
『日田さん、張間さん、そして富山さんを殺したのは僕です。
僕は張間さんのことが好きでした。
今年の五月、僕は張間さんに告白しました。人生で初めての告白です。
張間さんは、今は彼氏がいるから、別れたら付き合おうと言ってくれました。
僕は待ちました。
張間さんが別れるまで、いつまでも待とうと思いました。
ですが、それから一ヶ月経ち、二ヶ月経っても彼女は別れる気配がありません。
僕は遊ばれていただけだったのだと気づきました。
僕の愛情は憎悪へと変わりました。
僕の勇気を踏みにじった張間さん、そして僕の気持ちを張間さんと一緒に嘲笑った日田さんと富山さんを懲らしめてやろうと思いました。
最初に日田さんを襲ったとき、殺すつもりはありませんでした。
ただ、大怪我をして、自分が僕にした行為の愚かさを思い知ればいいと思っただけなのです。
しかし、結果日田さんは死んでしまいました。
僕はもう後に引けなくなりました。
こうなったら、張間さんと富山さんも殺し、僕も後を追うしかないと思いました。
張間さんを刺し、富山さんも刺して、川に飛び込もうと思います。
家族や、他のミステリ研究部の皆さんにご迷惑をお掛けするのはわかっています。
どうか、僕の身勝手をお許しください。
こうするしか、なかったのです。
根布谷圭人』
遺書を読み終え、天野にそれを手渡した僕は、何とも言えない虚しさに襲われた。
根布谷の死を知らされた後、僕たちミステリ研究部は冨山の病室に集まっていた。もちろん天野も一緒である。
つい一週間前まで八人いた部員は、今や五人になってしまった。
「こんなの、絶対おかしいです……!」
先に遺書を読んでいた冨山が声を震わせる。
「千秋さん、別れたら付き合おうなんて一言も言ってなかった。それに私も嘲笑ってなんか……」
「被害妄想は一旦抱いてしまうとどんどん加速してしまうんだろう」
僕はそう答えながらも、やはり根布谷への憤りを隠すことはできない。
「こんなことで命を奪われるなんて……あんまりじゃないですか」
冨山が涙を浮かべる。
「あぁ。でも、もう全て終わったんだ。後は殺された二人の冥福を祈ってやろうじゃないか。今までは、度重なる事件のせいで、ろくに偲んでやることもできなかったから」
「いや、」
遺書を読み終えた天野が声をあげる。
「このままでは殺された三人が浮かばれることはないだろうね」
「何?」
「まだ事件は終わっちゃいない。根布谷さんは利用されたんだ。真犯人は他にいる」
「何だって?」
五人の視線が天野に集まる。誰もが目に驚きの色を湛えていた。
「さぁ、どこから話したものかな。いや、やはりここは、あれか、」
一人で何やらぼそぼそと呟いた後、天野はこう切り出した。
「さて、――――」
ここまでに天野は真相に辿り着きました。
天野が推理に使った情報は、全て読者の皆様にも既に提示されています。
もう少し自分で考えてみたいという方。
犯人は何となくわかったという方も、事件の全貌を解き明かす根拠を全て見つけることができたでしょうか。
もう一度読み返して、あなたなりの推理を組み立ててみてください。
観察力と、推理力、そして想像力を、フル回転させてください。