二章 悪魔の山羊
僕と天野は旅井たちの家に来ていた。
途中で立ち寄った事件現場にはまだ規制がはられており、現場は人目につかない公園で目撃者がいなかったこと、凶器はバールのようなものだったらしいこと、目撃者の無さから捜査が難航しているのだろうということが近隣の住民への聞き込みでわかったぐらいで、他に満足な情報は得られなかった。
わざわざ家にまで押し掛けて来たため、部室でのような口実は通じないだろうと、旅井たちにはダメ元で正直に事件の捜査に来たことを伝えた。すると、なかなか進まない警察の捜査に余程苛立っていたのか、旅井は喜んで迎え入れてくれた。迫田は最初かなり渋っていたが、僕が天野についていろいろ説明しているうちに納得したらしく、協力すると約束してくれた。
張間は部屋で寝込んでいるようで、今も迫田が様子を見に行っている。
「千秋ちゃんはマイと特に仲が良かったんです。だからかなりショックだったんでしょう。事件以来ずっと部屋に籠りきりなんです」
旅井がコーヒーを入れながら心配そうに言う。
「ショックなのはお前も同じだろう。あまり無理するなよ」
「ありがとうございます、伊月先輩。でも、悲しんでいたってしょうがない。早く犯人を見つけてやらないと、死んだマイが浮かばれないですから」
旅井は自分がどんなに辛い状況でも他人のことを心配せずにはいられない性格なのだ。それが旅井自身に大きな負担となっていることに気付いていないのでは、と時々不安になる。
奥の部屋から迫田がふらふらとした足取りで戻ってきた。額にはうっすらと汗も滲んでいる。
「大丈夫か? 何か騒がしかったけど」
旅井が顔を洗っている迫田に声をかける。
「え? ああ、千秋が誰かに見られている気がするってヒステリックを起こして。それでなだめてたんだよ。事件前から誰かにつけられている気がするとか視線を感じるとかよく言っていたんだけど、事件での心労も重なって耐えきれなくなったんだろう」
「もう大丈夫なのか?」
「ああ、とりあえず寝かしつけておいた」
「張間さんに話を聞くのは今日はやめておいた方が良さそうですね」
天野が気を遣って言う。
「はい。そうしていただけるとありがたいです」
「では、お二人に話を伺ってもよろしいでしょうか」
「答えられることならなんでもお答えします」
旅井が身を乗り出す。
「では、まず旅井さんから。日田さんとはお付き合いされていたと聞きましたが」
「はい、昨年の九月から。あと二ヶ月程で一年になる予定でした。最近あまり上手くいってなかったんです。彼女の方がどうもつれない感じで。だから一年記念日にはとびきり喜ばせてやろうといろいろ計画してたんですが…そんなことしている場合じゃなかった。もっと彼女との今を大切にしてやるべきだった」
旅井が涙ぐむ。僕はなんと声をかけたらいいのかわからなかった。迫田も同じようで、決まりが悪そうに目をそらし、近くに置いてあった数字パズルの本をぺらぺらやりだした。
「彼女のために今できる最大のことは、事件を一刻も早く解決することです。僕も微力ではありますが真相解明に努めますから」
「ありがとうございます……!」
天野の言葉に旅井が声を詰まらせる。つくづく天野は人の心を掴むことに長けているな、と僕は思った。
「日田さんに恨みを持つような人物に心当たりは?」
「特にはないんですが……その、結構キツいことを平気で言ったり、計算高い所もあったりしたので反感を買うことは少なくなかったはずです」
「なるほど。事件当日の日田さんの行動を教えていただけますか?できればあなたの行動も」
「あの日は部室で小説を書いていました。部長に言われた締め切りが近かったので。普段ならマイと一緒に帰るんですが、その時は用があるから先に帰ると言って帰ってしまったんです」
「用というのは?」
「わかりません。人と会うとかなんとか……今思い返せばその時犯人に呼び出されていたのかもしれない」
「それは何時ごろですか?」
「18時頃です」
「その時部室にはあなたの他に誰かいましたか?」
「確か……伊月先輩がいたと思います」
「伊月、そうなのか?」
「ああ、間違いないよ。あとは冨山がいて、他の皆はその時すでに帰っていて部室にはいなかった」
「ああ、そうだ、確かに白奈ちゃんもいました」
「その後あなたが部室を出たのは?」
「19時半頃です。その時他の二人と一緒に部屋を出ました」
天野は頷き、出されたアイスコーヒーを口に運ぶ。ちなみにこのコーヒーにはすでにガムシロップが三個分溶け込んでおり、元々の持ち味である苦味は凶悪なまでの甘さに押し込められ、ただの甘ったるい液体へと化している。
その後も天野は旅井にいくつかの質問をしていたが、その間、迫田は張間のことが心配なのか、ずっと心ここにあらずといった感じだった。その証拠に、先程から開いている数字パズルは全く進んでおらず、ずっと右手で頬杖をつきながらペンを弄んでいる。さっき様子を見に行ってから十分と経っていないというのに、時折時計を見ては張間の部屋のある奥の方を見やっていた。
「迫田さん、続いてお話伺ってもよろしいでしょうか。……迫田さん?」
「え? あ、すみません、何でしょうか」
「日田さんについて話を伺いたいのですが……大丈夫ですか?」
「すみません、大丈夫です。えっと、マイのことですよね。ミノルの言う通り、彼女は少し気が強かったです。それと…」
迫田は声を潜め、旅井を気にしながら続ける。
「あまり死んだ人を悪く、それもミノルの前で言うのは憚られるんですが、時折人を見下すような態度をとることがあって。本人に悪気は全くないとは思うんですが」
「恨みを買っていた可能性があると?」
「殺すほど憎んでいた人がいるのかどうかはわかりませんが」
「なるほど。では、事件当時は何をされてましたか?」
「アリバイの確認でしたら、残念ながら無いですね。その時は一人で散歩しながら小説の構想を練っていたので。考え事をするときはいつも一人でふらふらするんです」
「わかりました。ところで、張間さんはどのような方なのでしょうか」
「千秋ですか?」
迫田は不意をつかれ驚いたような表情をする。
「いや、特に深い意味はないんです。ただ、張間さんにお話を伺うのが今日は難しそうなので、せめて人柄だけでも知っておこうと思ったんです」
「そういうことですか。千秋は最近少し神経質になってて。今回のことは相当こたえたようです」
「先程『誰かに見られている気がする』とヒステリックを起こした、とおっしゃってましたね」
「ええ。あれは事件が起きる前から言っていたんです。どうも二ヶ月ぐらい前からストーカーらしき影を見ていたようで」
「ストーカーですか」
「はい、物陰から時々黒い服を着た影が見えると」
「その人物に心当たりは?」
「それなら……実は一人いるんです。言いづらいんですが、同じ……」
迫田が言いかけた時だった。奥の方で悲鳴のような声と、それに続いて激しい物音が聞こえたのだ。
「千秋!!」
いち早く駆け出したのは迫田だった。僕と天野はやや遅れて後を追う。旅井は状況が飲み込めないのか、腰を中途半端に浮かせたまま固まっている。
「おい!千秋!!」
部屋の中から、先に入った迫田の声が聞こえる。
僕たちも部屋の中へ入ろうとして、思わず顔をしかめた。ムッとするような熱気に襲われたからだ。見ると、窓が開いている。冷房による冷気がそこから逃げたのだろう。
部屋の中はひどい有り様だった。
机の回りには本などの資料が散らばっており、CDラックは引き倒され、そこに収納されていたのであろうCDが床に散乱している。
そして何よりこの事態が異常であると告げているのは、部屋の中央に横たわる張間千秋の姿だった。胸には深々とナイフが突き刺さり、真っ白なブラウスが鮮烈な赤に染まっている。
僕は、途中ラジカセのコードで足を引っかけ、転びそうになりながら、ふらつく足取りで張間とその横でうずくまる迫田の元へ駆け寄った。
迫田は顔面蒼白で、目の前の信じがたい光景に完全に思考が停止したようだった。
張間は目を見開き、顔を苦痛に歪ませて事切れていた。その表情は、恐怖というより驚愕に染まっているように見えた。
「誰だッ!!」
突然、窓の外を見た天野が叫んだ。つられて外を見ると、黒いレインコートのようなものを着た人物が走り去っていくのが見えた。その背中には、何か白い動物の顔のような絵柄が大きくプリントされている。
天野は窓から飛び出し、その人物を追いかけた。
僕は一瞬天野に続くか悩んだが、茫然としている迫田と後から来てオロオロしている旅井を残しては行けず、警察と救急車――恐らく手遅れではあるだろうが――を呼ぶために、旅井に指示を出すことにした。
エアコンが無意味に冷風を送り出す音だけが、いやに耳についた。
それからは三日前の事件後と同じく憂鬱な聴取が始まった。二回目と言えど、刑事たちのあの威圧感は慣れるものではない。
せめてもの救いだったのは、こちらの精神状況を慮ってか、警察が聴取を早々に引き上げたことだ。とは言っても、しばらくは根掘り葉掘り事情を聞きに来るのだろうが。
他の部員も同じように相当な精神的ダメージを受けているのではと心配になった僕は、部員全員に連絡を取り、翌日部室で集まることにした。
「昨日は大変でしたよ。」
明智が肩をほぐしながらため息をつく。
「まさか、日田ちゃんに続いて張間ちゃんまでも殺されるなんて……」
明智はまたため息をついた。
「警察というのは何故ああも要領を得ない質問のしかたをするんだ」
天野は一人ずっと愚痴っている。昨日レインコートの人物を追いかけた天野だったが、飛び出した後すぐに見失ってしまったのだ。怪しい人物を取り逃がしたことも重なってか、相当苛立っているようだ。
旅井はずっと俯いたまま喋ろうとしない。迫田は何か思案しているかのように神妙な顔でじっと何もない一点を見つめていた。恐らく彼の中で整理がまだついていないのだろう。
「根布谷さん、大丈夫でしょうか」
冨山が空席のままの根布谷の席を見て言う。
根布谷には連絡を取ったのだが、返信が来ず、今日も出席していない。どうやら警察の聴取にも応じていないらしいのだが、一体どうしたのだろうか。
「きっと、相当ショックだったんですよ。根布谷さん、千秋さんのことが好きだったから……」
「そうだったのか?」
「伊月さんは鈍いから気がついてなかったのかもしれませんが、部員なら全員が知ってましたよ」
冨山の言葉に明智がうなずく。僕はなんとなく恥ずかしくなる。
「あれは、入学して……私が研究部に入部して少し経ってからだったから……五月の末ぐらいだったかな。根布谷さん、千秋さんに告白したんです。千秋さん、優しいから『今は彼氏がいるから、ごめんね』って断ったんですけど、諦められなかったみたいでそれからもずっと……」
話していると悲しみが込み上げてきたのか、冨山が涙ぐむ。
そこへ、部室のドアを叩く音が聞こえた。
「失礼します。××県警の諸星です。少々お話よろしいでしょうか」
大柄の男がお馴染みの手帳を見せながら部屋に入ってきた。
僕は内心ため息をつく。警察は僕たち部員の中に犯人がいると踏んでいるのだろうか。
「事件当時の状況をもう一度詳しくお聞かせ願いたい」
「昨日も言いましたが、僕と天野、迫田、旅井は張間が殺されたとき一緒にいました」
「私は昨日の午後は先に帰ってずっと家にいました。証明できる人はいません」
「明智陽介さん、あなたは?」
「僕はバイトのシフトが入っていました。店長に確認してもらえればわかりますよ」
「なるほど……根布谷圭人さんが見当たりませんが?」
「根布谷とは連絡がつかないんです。家にいるんじゃないですかね」
「わかりました。では最後に、黒いレインコートの人物に心当たりはありませんか?」
「ヤギだ」
「は?」
突然呟いた天野に諸星が驚く。
「レインコートの背中にはヤギの絵がプリントされていました」
「ヤギ……やはりそうですか」
「やはり、と言いますと?」
今度は天野が驚いて聞き返す。
「近隣住民への聞き込みで、二ヶ月程前からヤギがプリントされたレインコートの人物が度々目撃されていることがわかったんです」
「二ヶ月前……」
「我々はその人物が一連の事件の犯人であると見ています」
諸星が舐めるように僕たちを見回す。その目は、お前たちの誰かが犯人だとはっきり言っていた。
「それでは、私はひとまず引き上げます。根布谷圭人さんから連絡があれば教えて下さい」
連絡先を書き残し、諸星が出ていく。
「ヤギか……」
天野がまた呟く。
「ヤギとは、何とも、まあ、不気味な話じゃないか」
「不気味?ヤギが?」
「ああ、ヤギはキリスト教では悪魔の象徴だからね」
その言葉と、天野のまるで獲物を眼前にした獣のような鋭い笑みを見て、僕は思わず身震いした。