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魔王、辞めます。  作者: 稲生景


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18/50

元魔王、怒る

 ――時は遡り、数十分前。

 ロストは庭で黒竜・クロと戯れていた。柔らかな草の上で、彼は無防備に腹を見せたクロに笑いかける。


「グルルゥ♪」

「おいおい、顔はやめろって。くすぐったいんだよ、クロ」

「グルゥ……」


 クロがしょんぼりと耳を伏せる。


「おいおい、そんな顔すんなよ……ほんの冗談だって」


 和やかな時間。それは突如、かき消された。


「ロスト様ーッ!」


 駆け込んできたのは、蟻人の一人だった。息を切らし、目を見開いている。


「どうした? そんなに慌てて……ん? お前一人か? レティたちはどうした?」

「そ、それがっ、大変なんですよロスト様ぁああ! レティ様がっ、知らない人間たちに攫われたんですっ!!」


 その瞬間、ロストの全身から漆黒のオーラが噴き上がった。圧縮された殺気と怒気が空気を裂き、ドン、と衝撃波が弾ける。


「うわあああああっ!?」


 蟻人はオーラに弾き飛ばされ、庭の片隅に転がる。


「……どこだ」


 ロストの声は低く、凍るような静けさを孕んでいた。


「こ、こっちですっ!」 


 蟻人が震える指で北東の森を指し示す。


 ロストはクロに飛び乗った。


「行くぞ、クロ」

「グルルゥ!!」


 クロの巨大な翼が唸りを上げ、黒い竜影が空へと舞い上がった。


 ――そして現在。

 クロの背に乗ったロストが、空から舞い降りる。黒竜とその主の出現に、空気が一瞬で凍りついた。


 漆黒の魔気が渦を巻き、地を這う。ロストの赤い瞳が、レティの周囲にいる人間たち――ラックたちを睨み据えた。


 クロも牙をむき出しにして唸る。 


「ろ、ロスト様……」

「あの、オーラ……ヤバくないか?」

「間違いない、ロスト様が怒ってる……」

「確か前にロスト様が本気で怒ったときって……」

「ああ、城が一つ吹き飛んだ」


 蟻人たちは身体を震わせながら思い出していた。


 一方、ロストの殺気に晒されたラックたちも、息を呑み、足がすくんでいた。


「な、なんだあの男……!」

「あのオーラ……あれは間違いなく、魔族の中でも……上位の……」

「化け物だ……あんなの、勝てるわけがない……!」

「くっ……!」

「あれが……兄様……?」


 レティの瞳が、信じられないものを見たように揺れていた。彼女の知る優しい兄の姿とはかけ離れている。


 ロストは静かにクロから降り、無言のままラックたちの前へと歩み寄る。


「……お前たちか。レティを攫ったのは。俺の、大事なレティを……」


 声に殺意が滲む。地を踏む足音が重く響く。


「……覚悟は、できているんだろうな?」

「な、何が『俺の大事なレティ』だッ! お前こそ、レティさんを無理やり攫った悪党じゃないか!」


 ラックは恐怖を押し殺し、剣を抜いた。腕は震えていたが、決して退こうとはしなかった。


「俺がお前を倒す!」

「待って、ラックさん!」 


 レティが叫ぶ。


「下がってください、レティさん! 貴女は、俺が守る!」

「違うんです! その人は……!」

「うおおおおおおおおおおおッ!!」


 ラックがロストに突進する!


 ロストは微動だにしない。彼の足元から、黒い靄のような気配が地面に広がっていく。


「くらえぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 ラックが大剣を振りかざし、ロストの首を狙って斬り下ろす。


 ――刹那。


 世界が、止まったように思えた。


 ズンッ、と重低音が響いた瞬間、ロストの眼が妖しく輝く。瞳孔が縦に裂け、黒と紫の稲光が彼の全身を這った。


「な――!?」


 ラックの剣がロストの首に届いたその瞬間、目に見えない“圧”が空間をねじ曲げた。


 バキィッ!!!


 鈍く、不快な破砕音が響く。


 次の瞬間、ラックの剣が“砕けた”。


 柄から先が弾け飛び、金属片が空中に舞う。そして――


「がああああっ!!?」


 ラックの右腕が、不自然にねじ曲がった。


 未知なる“圧”に押し潰されるように、肘から先が捻じれ、骨が内側から突き出す。


 彼の喉から、悲鳴とも叫びともつかぬ悲痛な声が絞り出された。


「ァッ……ァ……ああああああ!!」

「それで終わりか?」


 ロストの口調は冷徹そのもの。地面が軋み、彼の足元から黒い魔法陣のような紋様が浮かび上がる。まるで“何か”が地の底から這い出ようとしているかのような――そんな禍々しい“気配”。


 ロストは無表情のまま、一歩踏み込み――


 右拳を構え、渾身の一撃を放った。


 ズドンッ!!!


 轟音と共に拳がラックの顔面に突き刺さる。


 その衝撃はまるで山を撃ち抜くかのような破壊力だった。ラックの身体は地面を離れ、空を弧を描いて飛ぶ。 


 木々がなぎ倒される。太い幹が折れ、枝葉が吹き飛ぶ。地に激突し、岩を砕きながら、彼の体はなおも転がり――ようやく数十メートル後方で、土煙と共に止まった。


 動かない。呻き声すら、ない。


 大地は抉れ、森にぽっかりと空いた一本の通路のように、彼が吹き飛ばされた痕がくっきりと残っていた。


 ……が、それで終わりではなかった。


 ロストの背後に黒き影が揺れる。翼のような幻影が視えた。


「レティに手を出した罰だ。魂で贖え」


 ロストの手のひらに禍々しい紫電が集まり始める。空気が震え、雷鳴が轟く。


「――滅せよ」

「ま、待ってください兄様っ!!」


 レティの叫びが空間を裂くように響く。ロストの掌から、禍光が解き放たれようとしたその瞬間――彼の動きが止まる。


 その瞳が、わずかに揺れる。


「レティ? 何故止める。こいつはお前を攫った奴なんだぞ?」

「ち、違うの兄様……誤解なんです! この人たちは、私が襲われていると勘違いして、助けようとしただけなんです!」

「勘違い……だと?」

「はい……その後、私の怪我を治してくれて……優しくしてくれました。誰も、私に酷いことなんてしていません!」


 レティの言葉を聞いた瞬間、ロストの漆黒のオーラが音もなく霧散し。大気が軽くなる。


「……そうか。レティが怖い思いをしていないなら、それでいい」


 ロストは掌の紫電を消し去り、ラックの元へ歩いていく。


「とはいえ……本気で殴ってしまったな」


 彼はそっと手をかざし、呪文を唱える。


「《治れ》」


 ラックの全身が淡い光に包まれ、歪んでいた顔と腕が見る間に元通りになった。


「ら、ラックさんの顔と腕が……!」

「一瞬で治った……!」

「な、何者なの……」


 少女たちが驚愕する中、ロストはあっさりと呟く。


「よし。レティ、帰るぞ」

「は、はい……!」


 気絶しているラックを肩に担ぐと、クロの背に乗る。


「ま、待って! ラックをどこに連れて行くの!?」

「ん? こいつ、ちょっと気になるからな。俺の家に連れて行って、話を聞くだけだ。お前たちも来い」

「え……の、乗れって……その黒竜に!?」

「当たり前だ。ぐずぐずするな」


 少女たちは顔を見合わせ、すぐに小声で相談を始めた。


「ど、どうします……?」

「逆らったら……」

「殺されるかもしれないわ……ここは、従うべきね」


 彼女たちはおそるおそるクロに近づき、背に乗った。


「よし、クロ。飛べ!」

「グルルルゥ!!」


 クロの翼が広がり、風を切って空を翔ける。漆黒の影は、空高く――ロストの家を目指して飛び去った。


「……あれ、俺たち……」

「忘れられてる!? ロスト様ぁあああ!」


 取り残された蟻人たちが、必死に走り出した。

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