元魔王、怒る
――時は遡り、数十分前。
ロストは庭で黒竜・クロと戯れていた。柔らかな草の上で、彼は無防備に腹を見せたクロに笑いかける。
「グルルゥ♪」
「おいおい、顔はやめろって。くすぐったいんだよ、クロ」
「グルゥ……」
クロがしょんぼりと耳を伏せる。
「おいおい、そんな顔すんなよ……ほんの冗談だって」
和やかな時間。それは突如、かき消された。
「ロスト様ーッ!」
駆け込んできたのは、蟻人の一人だった。息を切らし、目を見開いている。
「どうした? そんなに慌てて……ん? お前一人か? レティたちはどうした?」
「そ、それがっ、大変なんですよロスト様ぁああ! レティ様がっ、知らない人間たちに攫われたんですっ!!」
その瞬間、ロストの全身から漆黒のオーラが噴き上がった。圧縮された殺気と怒気が空気を裂き、ドン、と衝撃波が弾ける。
「うわあああああっ!?」
蟻人はオーラに弾き飛ばされ、庭の片隅に転がる。
「……どこだ」
ロストの声は低く、凍るような静けさを孕んでいた。
「こ、こっちですっ!」
蟻人が震える指で北東の森を指し示す。
ロストはクロに飛び乗った。
「行くぞ、クロ」
「グルルゥ!!」
クロの巨大な翼が唸りを上げ、黒い竜影が空へと舞い上がった。
――そして現在。
クロの背に乗ったロストが、空から舞い降りる。黒竜とその主の出現に、空気が一瞬で凍りついた。
漆黒の魔気が渦を巻き、地を這う。ロストの赤い瞳が、レティの周囲にいる人間たち――ラックたちを睨み据えた。
クロも牙をむき出しにして唸る。
「ろ、ロスト様……」
「あの、オーラ……ヤバくないか?」
「間違いない、ロスト様が怒ってる……」
「確か前にロスト様が本気で怒ったときって……」
「ああ、城が一つ吹き飛んだ」
蟻人たちは身体を震わせながら思い出していた。
一方、ロストの殺気に晒されたラックたちも、息を呑み、足がすくんでいた。
「な、なんだあの男……!」
「あのオーラ……あれは間違いなく、魔族の中でも……上位の……」
「化け物だ……あんなの、勝てるわけがない……!」
「くっ……!」
「あれが……兄様……?」
レティの瞳が、信じられないものを見たように揺れていた。彼女の知る優しい兄の姿とはかけ離れている。
ロストは静かにクロから降り、無言のままラックたちの前へと歩み寄る。
「……お前たちか。レティを攫ったのは。俺の、大事なレティを……」
声に殺意が滲む。地を踏む足音が重く響く。
「……覚悟は、できているんだろうな?」
「な、何が『俺の大事なレティ』だッ! お前こそ、レティさんを無理やり攫った悪党じゃないか!」
ラックは恐怖を押し殺し、剣を抜いた。腕は震えていたが、決して退こうとはしなかった。
「俺がお前を倒す!」
「待って、ラックさん!」
レティが叫ぶ。
「下がってください、レティさん! 貴女は、俺が守る!」
「違うんです! その人は……!」
「うおおおおおおおおおおおッ!!」
ラックがロストに突進する!
ロストは微動だにしない。彼の足元から、黒い靄のような気配が地面に広がっていく。
「くらえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
ラックが大剣を振りかざし、ロストの首を狙って斬り下ろす。
――刹那。
世界が、止まったように思えた。
ズンッ、と重低音が響いた瞬間、ロストの眼が妖しく輝く。瞳孔が縦に裂け、黒と紫の稲光が彼の全身を這った。
「な――!?」
ラックの剣がロストの首に届いたその瞬間、目に見えない“圧”が空間をねじ曲げた。
バキィッ!!!
鈍く、不快な破砕音が響く。
次の瞬間、ラックの剣が“砕けた”。
柄から先が弾け飛び、金属片が空中に舞う。そして――
「がああああっ!!?」
ラックの右腕が、不自然にねじ曲がった。
未知なる“圧”に押し潰されるように、肘から先が捻じれ、骨が内側から突き出す。
彼の喉から、悲鳴とも叫びともつかぬ悲痛な声が絞り出された。
「ァッ……ァ……ああああああ!!」
「それで終わりか?」
ロストの口調は冷徹そのもの。地面が軋み、彼の足元から黒い魔法陣のような紋様が浮かび上がる。まるで“何か”が地の底から這い出ようとしているかのような――そんな禍々しい“気配”。
ロストは無表情のまま、一歩踏み込み――
右拳を構え、渾身の一撃を放った。
ズドンッ!!!
轟音と共に拳がラックの顔面に突き刺さる。
その衝撃はまるで山を撃ち抜くかのような破壊力だった。ラックの身体は地面を離れ、空を弧を描いて飛ぶ。
木々がなぎ倒される。太い幹が折れ、枝葉が吹き飛ぶ。地に激突し、岩を砕きながら、彼の体はなおも転がり――ようやく数十メートル後方で、土煙と共に止まった。
動かない。呻き声すら、ない。
大地は抉れ、森にぽっかりと空いた一本の通路のように、彼が吹き飛ばされた痕がくっきりと残っていた。
……が、それで終わりではなかった。
ロストの背後に黒き影が揺れる。翼のような幻影が視えた。
「レティに手を出した罰だ。魂で贖え」
ロストの手のひらに禍々しい紫電が集まり始める。空気が震え、雷鳴が轟く。
「――滅せよ」
「ま、待ってください兄様っ!!」
レティの叫びが空間を裂くように響く。ロストの掌から、禍光が解き放たれようとしたその瞬間――彼の動きが止まる。
その瞳が、わずかに揺れる。
「レティ? 何故止める。こいつはお前を攫った奴なんだぞ?」
「ち、違うの兄様……誤解なんです! この人たちは、私が襲われていると勘違いして、助けようとしただけなんです!」
「勘違い……だと?」
「はい……その後、私の怪我を治してくれて……優しくしてくれました。誰も、私に酷いことなんてしていません!」
レティの言葉を聞いた瞬間、ロストの漆黒のオーラが音もなく霧散し。大気が軽くなる。
「……そうか。レティが怖い思いをしていないなら、それでいい」
ロストは掌の紫電を消し去り、ラックの元へ歩いていく。
「とはいえ……本気で殴ってしまったな」
彼はそっと手をかざし、呪文を唱える。
「《治れ》」
ラックの全身が淡い光に包まれ、歪んでいた顔と腕が見る間に元通りになった。
「ら、ラックさんの顔と腕が……!」
「一瞬で治った……!」
「な、何者なの……」
少女たちが驚愕する中、ロストはあっさりと呟く。
「よし。レティ、帰るぞ」
「は、はい……!」
気絶しているラックを肩に担ぐと、クロの背に乗る。
「ま、待って! ラックをどこに連れて行くの!?」
「ん? こいつ、ちょっと気になるからな。俺の家に連れて行って、話を聞くだけだ。お前たちも来い」
「え……の、乗れって……その黒竜に!?」
「当たり前だ。ぐずぐずするな」
少女たちは顔を見合わせ、すぐに小声で相談を始めた。
「ど、どうします……?」
「逆らったら……」
「殺されるかもしれないわ……ここは、従うべきね」
彼女たちはおそるおそるクロに近づき、背に乗った。
「よし、クロ。飛べ!」
「グルルルゥ!!」
クロの翼が広がり、風を切って空を翔ける。漆黒の影は、空高く――ロストの家を目指して飛び去った。
「……あれ、俺たち……」
「忘れられてる!? ロスト様ぁあああ!」
取り残された蟻人たちが、必死に走り出した。




