善の研究
私は親から、人には優しくしろと教えられてきた。
友達には優しく接してあげなさい。
お年寄りには親切にしなさい。
困っている人がいたら助けてあげなさい。
だから、今までそうしてきた。
そうする事こそが私の生きている価値なのだと、そう言わんばかりだった。
それが本当は誰のためなのか、自分自身でも知らないままに。
***
「あ、いましたいました。こんにちは、おねえさん。」
買い物に行く途中で、金色の綺麗な髪の女の子に話しかけられた。背丈は小さい。見た所、小学校高学年くらいだろうか。見た目の年齢の割には凛々しい顔立ちをしており、立ち振る舞いもしゃんとしている。良い所のお嬢さん、といった所か。
「ほら、あなたも挨拶してください」
男に連れられている、いや、これは女の子の方が連れているようだ。挨拶をうながされた男は、私にぺこりと雑に頭を下げると、そそくさと女の子の後ろへ隠れてしまった。
「もう、ちゃんと挨拶しなきゃダメじゃないですか。ごめんなさい、おねえさん。この人、ちょっと不愛想で」
そう言いながら、薄く、でも楽しそうに笑っている。どうやらだいぶ男に懐いているようだ。
「何か用かな?私を探してたみたいだけど」
怖がらせないよう、控えめに話しかけてみた。
「おねえさん、すごいです。よくわかりましたね」
「さっき『いました』って言ってたでしょ?もしかしたら探してたんじゃないかと思って。」
推理なんてとても言えない当たり前の推測だろう。
「うんうん、当たりです。さすがですね」
なにが『さすが』なんだろうか。嬉しいのか、やたらとニコニコしている。一体私なんかに何の用だろうか。これでも、お金の絡みはしっかりしているつもりだ。どっかのお嬢様に話しかけられるような訳は思いつかない。
「それより、ご用はなにかな?実は私、買い物に行く途中なの」
少し急かしてみる。私も暇ではないのだ。
「おっと、そうでしたね。実は私……」
女の子の笑顔に陰がかかる。癖、みたいなもので、何となく感じ取ってしまった。もしかしてこれは、いつもの……
「実は私、困ってるんです」
「困ってるって、どういうこと?」
とりあえず尋ねてみる。もし自分の出来ることなら、この子を助けてあげなければいけない。今回はいったい私に何ができるだろうか。
「どういうって、そのままの意味ですよ、おねえさん」
「そのままの意味?」
そのままの意味とはどういう意味だろう。人が困る時というのは、たいてい理由があるものだから、ただ『困ってる』と言われても、かえってこっちが困る。
「何で困ってるのかな?」
聞き方を変えてみた。こっちの言葉が良くなかったかもしれない。
「よくぞ聞いてくれました!」
女の子は突然得意そうに胸を張って、目を輝かせて言った。
「おねえさん、私、タマシイが足りないのです!」
「たましい……?」
たましい、が足りない?たましい、って魂?が足りない?理解が追いつかない。魂って足りなくなるものなの?
「魂が足りない」
「そうなんです」
とりあえず言葉を繰り返してみた。そうらしいけど、そうって、どうなのだろうか。
「私は何をすればいいの?」
わからないなら聞くのが早い。これはきっと、考えてもわからないことだ。考えてもわからないことは考えてもわからないのだ。
「そうですね、おねえさんには……」
何かもじもじしている。言いにくいことなのだろうか。しばらくして、女の子は意を決したように、真剣な目で言った。
「おねえさん、私にタマシイ、くれませんか……?」
「私のたましい……?」
「そうです」
そうなのか。何というか、こう言ってはなんだけど、どういうことだ。
「どうすればいいの?」
わからないので、聞く。
「簡単なことです」
右の人差し指を立てながら、女の子は得意げに話す。その誇らしげな姿は、もともとの綺麗な出で立ちと相まって、とても凛としている。
「心から『しにたい』って思えばいいんですよ」
「……うん?」
なんだって、シニタイ?シニタイって、しにたい?つまりそういう事か。いやいや、私の聞き間違いかも。いやいや、この子はたしかにそう言ったはず。いやいやだがしかし。
「簡単ですよね?お願いします!」
「そ、それは」
無邪気に頼まれたけど、それは流石に。だって私、しにたくないですから。困っているなら助けてあげたいけど、そんな訳の分からない事してまで、この子のお手伝いはできない。
「ごめんね、お嬢ちゃん。私、別にしにたくないんだ。心からそんな風には思えないと思う。だから、お嬢さんのお手伝いは……」
柔らかい口調で諭すように言った。これで引き下がってくれるだろうか。
「そうですか、なら仕方ありませんね」
とても素直な子らしい。これで納得したようだ。困ってるなら助けたかったけど、こればっかりは……
「それなら、私がおねえさんにその気にさせてあげますね?」
「……え」
「おねえさん、とてもいい人ですよね」
「そう、かな?」
いきなり何だろう。いやそれより、その気にするってどういう……
「私のこと、名前も知らないのに、助けてくれようとしてた」
そう言えばそうだ。私はこの子の名前すら知らない。それなのになぜ助けようとしたのか。それは、私にとってはそれがごく自然なことだからだ。
「おねえさん、いい人ですけど、でも、ちょっと自己中心的な人ですよね」
「そ、そうかな……」
どうだろう。自分としては、なるべく人のために尽くして生きてきたつもりだ。もちろん、人のためにやった事が人のためになるとは限らないとは思うが、大方の場合そういった行為は、望み通りの結果をもたらすのではとも思う。
「どうしてそう思うのかな……?」
聞いてみた。小さい女の子の意見とはいえ、無下にするのは良くないだろう。良くない。
「だっておねえさん、私が困っていると言った時、本当に嬉しそうでしたよ。私の出番が来た、という感じで」
「え、そ、そんなこと……」
他人が困っていることが、嬉しい。そんなまさか。そんなこと考えたこともない。だって、困っている人を助けるのは私の生き甲斐なのであって、だからそうしているにすぎない。
したがって、さっきから私が額に冷や汗をかきはじめていることにも、とくに理由はないのだ。
「あら、それではどうして、おねえさんの心臓はそんなにも早鐘を打っているのですか?」
ーーードクン、ドクン。彼女に指摘される前から自覚していた鼓動の早まりが、さらに私を焦せらせる。何か、この子に何かいい返さなければ。
「ふふ、図星ですね。おねえさんの心臓の音、ここまで聞こえてきそうです……。とっても可愛くて素敵な音」
ーーードクン、ドクン、ドクン。
「自分に言い訳してはいけませんよ。あなたは、困っている人を見るのがたまらなく好きなんですよね?自分が人の役に立てることが嬉しいんです。人の役に立っているいい子な自分に、悦びを感じているだけなんです。自分の快楽のために、人を利用するなんて、ひどい人ですね?」
「ち、ちがっ……」
「ふふ、やっぱり、おねえさんは自分のことしか頭にないんです。人のため?違いますよね。自分のため、でしょ?」
「ちがう、やめて……」
それでも彼女は笑いながら続ける。
「親の言いつけに逆らいたくない、だって自分が悪い子になってしまうから。皆んなに優しくする、だってそれが良い子ですから。そこに他の人への思いやりなんて無い。存在しないんです。あるのは、自分が傷つきたくない、良い子でいたい、そんな醜い自己愛だけですよ。」
「やだ……聞きたくない……!」
違う、違う。違うのに。
違うはずなのに、真っ向から否定できないのはなぜだろう。なぜだろう……。
「もういやだ、しんでしまいたい……」
その一言を、言ってしまった。心の底からの言葉。彼女が私に頼んだ、簡単なお願い事。今それは叶えられたのだ。でも、今となっては、そんなことはもうどうでもいい。
少し、すこしだけ、つかれたのだ。
「……つかれましたね、おねえさん。大変でしたね。でも、もういいんですよ?もう大丈夫です。休んで、いいんですよ。ほら、こちらに、おいで?」
暖かい。天使のように微笑む少女。空に浮いている感覚。私は光へと羽ばたく。言われるがままに、私はその光へ導かれる。
この先に何があるのか、私にはわからない。
わからないけど、でも、きっといいところだ。
だって私は、いい子ですから。
***
「善い人でしたね」
少女は無感動な目をしながら呟いた。
「ニンゲンさん達は善い人が多いとは聞いていましたが、皆さんああなのですか?何というか、善い人であることにある種の執念まで感じてしまいました。まぁそれはそれで、充実した生き方なのかもしれませんが」
また一ついい勉強をした、と言わんばかりに、一人でウンウンとうなづいている。
そうしているうちに少女はふと顔を上げて、
「そういえば、どうでしたか。初のタマシイ抜きを観て?愉しかったですか?」
そう聞きつつ、男の顔を見るや否や、理解する。
「……聞くまでもありませんね。その気味の悪い笑顔を見れば、一目瞭然です」
呆れたような、それでいて愉悦そうな目線を隣に歩いている男に送る。
「まったく、趣味の悪い人ですね」
二人の奇妙な旅路は、まだ始まったばかり。