初めて
2
曇った空から、一筋の白い光が差し込んでいる。その光の先で、一人の少女が目を開けた。どこを見ても木ばかりの森。日本とは違う。ジットリとした空気に、少女は激しい不快感を覚えていた。一歩、足を動かすだけで小枝が折れる音が広がる。折れる音に反応した鳥が、激しく羽ばたき空へと消えた。
「怖い……」
突然送り込まれた違う世界に、彼女は怯える。普通、誰だってそうだ。恐怖に支配された少女は、母の名を呟きながらしゃがみ込む。
帰りたいと、願い始めたその瞬間、すぐ後ろから小枝が折れる音がした。少女は本当に、震えていた。授かった知識も、魔法も忘れて。
腹を空かした猛獣は、しゃがみ震える少女を格好の餌と、認識していた。
ゆっくりと持ち上げられる爪。少女の首筋を引き裂こうと、振り下ろされる直前だった。叫び声と共に切りかかる男性。長い剣先が、猛獣の片目を引き裂いた。剣先からふりまかれる血。すぐさま剣を返すと、二度目の攻撃を放った。猛獣はわずかに頭を下げ、剣をやり過ごす。三度目の追撃が来るよりも早く、その身をひるがえすと、一目散に逃げて行った。
剣は収められない。その剣先を、泣いて赤くなっていた少女の顔へと差し向ける。しっかりと払われていない血。その、いやな匂いが少女の鼻を突いた。
「お前は、敵か? それとも味方か?」
何を言っているのかは分かる。だが、死の恐怖に泣くことしかできなかった。
「分かった分かった、お前は味方だよ。だから、もう泣くな」
剣を地面に突き立て、そっと片手を出す若い男性。その大きな手には、父親を感じさせる何かがあった。
「おら、落ち着いたら早く家に帰れ。お前くらいの年なら、あの程度どうとでもなっただろう」
呆れたように言いながら、彼は剣をしまう。嗚咽と共に吐き出される少女の言葉を、黙って聞いていた。
「家、帰れない」
片手で頭をかきながら、大きくため息をついた。
「自分の魔力で、家ごと両親を吹き飛ばしちまったか? 一体どういう訳か、見た目弱そうなやつに限って膨大な魔力を持っていやがる。それこそ、お前みたいな子供か、よぼよぼな年寄か、だな。自分でどうにかしろ。俺はまだ、死にたくはねぇ」
背を向けて立ち去ろうとする剣士。少女は、その服の裾を掴んだ。
「離せよ」
無言で首を振る。男は冷たく見下ろしながらも、また大きくため息をついた。
「わかった、連れてってやるからその手を離せ」
うっそうと茂る森の中。とても暗く、怖い物だったその場所が、先ほどよりも明るく感じられていた。
「とりあえず、名前は?」
倒れた木の幹に腰掛けて、二人は少女が持っていた緑茶を口にする。一つしかない蓋のコップを、回し飲みしながら。
「羽黒真愛」
先ほどよりもしっかりとした口調で、少女はそう告げる。どこからかやってきた風が、二人の間をぬけて行った。
「俺はネーピア・ボネスだ。あと、年齢は?」
ネーピアはまだ少女の事を信用できないというふうに、剣が届かない程度の距離を開けていた。空いた二人のスペースを、黒い蝶が舞っている。
「九歳」
ネーピアが手にしていた水筒のコップ。それを二人の、丁度中心へと置いた。
「これから俺はダンジョンの攻略に行こうと思っている。だが、その場所はとても危険だ。俺一人の力では、到底お前まで守り切ることはできないだろう。だが幸いなことに、その年齢ならまだ魔力が高い。魔法制御のための呪文は知っているな。間違っても、呪文なしで魔法を使おうとするなよ。お前はともかく、俺がどうなるか分からん」
空になった蓋を戻し、二人は立ち上がる。ネーピアは目を閉じ深呼吸すると、呪文を唱え始めた。
世界を作りし百花繚乱、銀の女神よ。星を、大地を、海を作り上げし万物の母。その身に宿し創世の力。森羅万象ならずとも一端の力、わが身に宿りしことを切に願う。
ほんのりと光が差し込み、彼を明るく照らす。呟くように、それでいてはっきりと聞こえた呪文。唱え終えた彼は、目を閉じたまま感謝の言葉を口にした。
「ほら、お前も、だ」
彼の真似をして、全く同じ言葉を口に出す。魔力をコントロールするための呪文。魔力が少ない若い大人では、逆に唱えなければ魔法が使えない。魔力が高いと、呪文なしで魔法を使うこともできるが彼が言った通り、コントロールが出来ずに周囲を巻き込んでしまうことがある。
呪文を唱え終える。一点で魔力が渦巻いていたような感覚から、流れるような感覚へと変わった。
「折角だ、俺にお前の魔法を見せてみろ」
少し離れた大木を、じっと見つめる。使い方もわかっている。その感覚も知っている。何度ども何度も経験したのかのような、知っている感覚。
大木に向かって一本の糸をイメージし、その糸に膨大な魔力を注ぎ込んだ。突如起こる大爆発。熱風が周囲を包み、轟音がどこまでも響く。大きくえぐれた木の幹からは、白い煙が上がっていた。
「おう、さすがだ。爆発魔法か。くれぐれも俺を巻き込むなよ」
それにしても、と話を続ける。
「どこにダンジョンがあるんだ? 別に攻略する必要があるわけではないんだが……」
腰に手をあて、困ったように周囲を見渡す。少女はゆっくりと森の奥へと踏み入れる。
「こっち、入口がある」
迷わず進む少女に、手掛かりのない彼は追いかけるしかできなかった。
森林に浸食された古代遺跡、を思わせる石つくりの建造物。ほとんどを巨大な木の根に覆われて、その入り口はしっかりと閉じられていた。
「膨大な魔力が渦巻いているな……。開け方は、分かるのか?」
厚い、金属の扉。酷く錆びつきながらも、かつて刻まれたであろう扉へのレリーフは、しっかりとその姿を残している。一つの、大きな太陽の模様。少女はその中心へと指さした。
「あそこ、見たい」
少女の要望に、彼は肩車で答える。丁度、太陽の中心が少女の頭に高さとなった。そっとそれに触れる。
開け方は、知っている。少女は手を当てたまま、先ほどの呪文を唱えた。渦巻く魔力の流れに、少女自身の魔力が加わり周囲の魔力の流れが変えられる。膨大な自然の魔力、その全てとまでは行かなかったが、扉を制御する程度の魔力はコントロール下に置く。
「ありがと」
頭を大きく下げた彼から、そっと降りた。
「魔力の流れが変わった……。よく知っていたな」
自らの統制下に置いた魔力を用い、巨大な扉を開けてゆく。舞い上がる埃が、天からの光の筋を映し出していた。
「さて、ダンジョンだ。お前の魔法なら簡単に敵を倒せるだろうが、気は抜くなよ」
そういうとネーピアは、片手を少女へと差し出す。
「おら、中は真っ暗だ。俺からはぐれるんじゃねぇ」
驚き半分、うれしさ半分で手を伸ばす。温かく、大きな手。二人は闇の中へと踏み入れた。
ひらひらと舞う黒い蝶。たった一匹、ダンジョンの前で宙を舞う。そして、二人を追うように奥へと飛んで行った。