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本編⑦

 

 昨日に引き続き、名鉄電車でお出掛けです。昨日は北上だったけど、本日は知多新線で南下。

 窓の向こうの流れていく景色をぽへ~っと眺めている私。二人掛けのソファー席、その通路側で私と並んで座っていた椿にーちゃんは、肘掛けに肘をついて微笑んだ。

 座席にゆとりがさほど無いため、我々はお互いの腕が引っ付くほど非常に近い距離に座っている。敢えて窓側に身体をべったりくっつけるのも、おかしいし。つーかこの場合、椿にーちゃんが広々と座席面積を使ってるのが悪くない?

 しまった。座席が対面型じゃなくて一方向しか向いてないのを遠目に確認した時点で、複数人が座れる長い座席に腰掛ければ良かった。


「ミィちゃんは、あんまり電車でお出掛けしたりはしないの?」

「うーん、名古屋に出る時は乗るよ? 南下する路線は多分初めて、かな。椿にーちゃんは、よく利用するんだよね?」


 私は椿にーちゃんに、一つ取り急ぎ確かめたい事があった。しかし露骨に怪しさを感じさせず、ごく自然な流れで知りたいと、慎重にタイミングを見計らう。


「そうだね。俺、こう見えて結構真面目な学生さんなのよ?

郷土史とか勉強したり、実際に各地の史跡に足を運んだりする時は、電車とバス」

「あれ? 今、すごく不似合いな単語が聞こえたような。真面目ながくせー……?」

「あ、ミィちゃんその目は信じてないな?

もちろん、ゼミの可愛い女の子達と、真面目にお勉強しにお出掛けしているに決まってるじゃないか。先輩や先生の車に乗せてもらうのが一番楽だけど」


 ……何だか今、本音らしき言葉がチラホラ顔を覗かせた。

 私は首を傾げて、そう言えば、と、強引に話題の修正を図る事にした。


「今日行く『恋の水神社』も、何か文献とか見掛けて興味持ったの?」


 私の問いに、椿にーちゃんは背もたれに背中を預けて天井を見上げた。そこには、荷物置きの金網と広告が吊り下げられているだけだ。


「実のところ、郷土資料から見つけた訳じゃないんだよね。見たのは単なる雑誌記事。

でもちょっと気になって」

「縁結びの神社だから?」

「そうそう……じゃなくて」


 私の合いの手に、椿にーちゃんは流れるようにノリつっこみを行ってからべし、と私の額に軽くチョップをかましてきた。


「伝説自体は古くから伝わってるのに、創建されたのがいつ頃なのかは不明なんだ」

「そーけん?」

「えーと、『恋の水神社』が、いつ頃から神聖な場所として祀られだしたのか、伝わっていないって事。神社の建物自体は、近年建てられたらしいし」


 つまり、『大昔の事は、誰も正確には知らないんだにょ!』という事らしい。椿にーちゃんは、現代に伝わっている恋の水にまつわる言い伝えを幾つか披露してくれた。熱田神宮でお告げを聞いた、藤原仲興の話は知ってる。ネットで見た見た。熱田神宮、有名だよね。

 それとはまた違って、桜姫の伝承が恋の水神社を語る上で人の口に上るらしい。


「平安時代の桜姫の伝説から、恋の水神社は特に恋愛成就に効果があるとか」


 えー、椿にーちゃんが簡単に噛み砕いて説明してくれたところによると、家臣の青年と恋仲になって駆け落ちした桜姫。幸せに暮らしていたけれど、夫が病に倒れた。神のお告げ(またこのパターン?)で、尾張の国知多地方に万病に効果がある神水があると聞き、桜姫は旅立った……

 だが、恋の水が湧く泉の近辺までなんとか辿り着いた疲労困憊の桜姫が、近くに住む村人に「万病に効く神水が湧く泉はどこか?」と尋ねると、「まだまだ先だよ。あんたがこれまで歩いて来た距離ぐらいさ」とか答えた。あれだ。裕福な貴族のお姫様が、ちょっと歩いただけでへばりやがって。嫌がらせしてやれ、とか思ったのかもしれない。まさか、桜姫が踏破した長旅は35里だとも知らずに。

 それを聞いた桜姫は、その場で力尽き、亡くなったという……旦那どうなったんだろ?


「当時の京都府から愛知県までの旅なんて、ましてやお姫様育ちの女性だもの。駆け落ちなんかして、頼れる親も後見人もいない状況で、相当苦労しただろうね。むしろたった一人で尾張にまで辿り着けたとしたら、それだけで尊敬するよ」

「歩き……だよね? もちろん」

「山あり谷あり川あり、壮大な徒歩の旅じゃないかな」

「ねえにーちゃん」


 私は、ふと感じた疑問をぶつけるべく、声を潜めて連れに顔を近付けた。椿にーちゃんの方も、内緒話の気配を察知して、ちょっと顔を寄せてくる。


「桜姫は結局、恋の水の湧く泉に辿り着けずに亡くなったんだよね?」

「そうらしいね」

「……それなのに、縁結びの御利益があるの?」

「自分が果たせなかったとしても、恋しい人が苦しむ絶望感を他の人には味わせたくないと、心優しい桜姫は恋の水神社で参拝に訪れる人々を見守っていて下さるのだよ、ミィ君」


 椿にーちゃんは、天の神々へ祈りを捧げるかのように両手を組んだ。私は神でも信者でもないのでどうでも良いが、その祈る仕草は多分キリスト教の方なんじゃ。

 なるほど、そういう解釈になるのか。桜姫の伝説になぞらえて、神様からのお告げで尾張の有り難い神水とされる泉の水は、恋の水と呼ばれるようになった。って事かな。

 でも、万病に効果があるすんごい水だと昔から信じられていたのだとしたら、もっともっと有名で、色んな逸話が残っていそうなもんだと思うんだけど。愛知県は、戦国時代の有名大名の生国なんだしさ。


 ガタンガタン、と、僅かな音を立てながら進むローカル線の電車は、窓の向こうの景色もマッタリとした素朴な風景を遺憾なく映し出す。


「大都会の喧騒よりも、こういう静かな土地って落ち着くねえ、にーちゃん」

「ミィちゃん、けっこうババ臭いね」

「私、出不精なんだもん。人混みは得意じゃないから、しょうがない」


 そうしてのほほんと景色を眺めている間に、電車は目的駅である知多奥田駅へと停車した。

 荷物のリュックを背負い直し、椿にーちゃんと一緒にホームに降り立つ。


「ん~っ」


 同じ姿勢で座っていたから、ちょっとばかり身体があちこち凝ってしまった。駅のホームで大きく伸びをする。コンクリートや建造物で四方八方塗り固められておらず、駅周辺の森林が柵の向こうに見渡せるここは、何だか落ち着く。


「ミィちゃん、神社まで歩ける? タクシー呼んで欲しいなら呼ぶよ?」


 改札口を出る椿にーちゃんの背中にタタタッと足早に駆け寄り、私は「んーん」と首を左右に振った。そんなお金の無駄遣いは出来ない。


「桜姫はてくてく歩いて行ったんだもん。私も、駅から神社までぐらいの距離は歩かないと」

「ちょっとぐらいは敬意を払っておかないと、御利益を授かり損ねそうだから?」

「そう。私には歩ける足があるし。せっかくここまで来たのに、姫に不敬を働いたら縁結びがパァ……って、何を言わせるのにーちゃん!」


 並んで歩き出しながらネタを振ってくる。せっかくなので、私は全力でノリつっこみを入れさせて頂いた。クスクスと笑われながらも、手を繋ごうと言わんばかりに片手を差し出されたので、有り難く握っておく。


「まあ、普通に歩いて三十分も掛からないだろうし、のんびり行こうか」

「……さんじゅっぷん?」

「ミィちゃんの普段の歩幅とか、歩調で換算してみました」


 しまった。そんなに歩くなら、素直にタクシーをお願いすれば良かった。


 えー、神社までの道のりは、一言で言って普通の田舎道でした。あくまでも、田舎と都会の中間ぐらいの発展具合の市に住む私の基準による『普通』なので、道路は黒いコンクリで真ん中に黄色い線が引かれている幹線道路です。道路の左右には、行けども行けども『田畑』と『森林』が広がっております。

 それなりに交通量もある道路らしくて、時々自動車が通過していきます。椿にーちゃんが車道側を歩いてくれているので、自動車が来ても安全・安心です。いやあ、これがうちのお父さんなら、私が逆に車道側を歩かないと、危なっかしくて心配になってしまうという、一般常識逆さま事情が。

 いや、それはいいんだけど。電車の中でのんびりし過ぎたせいで、結局聞こうと思っていた事がまだ聞き出せていない。私は、巧妙にタイミングを見計らう事を諦めて、てくてくと歩きながらズバッと尋ねてみる事にした。


「そう言えば、椿にーちゃん。

私、にーちゃんに聞こうと思ってた事があるんだけど」

「ん?」


 繋いでる方の手を軽く引っ張って注意を引くと、前方に視線を向けていた椿にーちゃんが私を見下ろしてきた。


「椿にーちゃん、朝ご飯って食べた?」

「あー、俺、低血圧で朝は弱いんだよね。朝飯も入んない」

「そうなの? じゃあ、今日のお昼ご飯はたくさん食べないとね。

それで、お夕飯を作る約束の方だけど。『これだけは食べられないっ』なんて料理や食材とか、アレルギーとかある?」

「おお、やる気に満ち溢れていますなシェフ」


 私の問いに、椿にーちゃんは微笑ましそうに笑みを浮かべ、繋いでいない方の手が私の頭に伸びかけて、髪型結び直すのメンドい発言を思い出したのか、ピタッと動きが止まった。ややあって、垂らしているポニーテールの毛先の方を指先で軽く梳いていく。


「そうだな、俺、割と何でも食うよ。うちの実家、出された料理の食べ物の好き嫌いなんてしようものなら、頑固ジジイに鉄拳と説教食らうような、そんな古式ゆかしい家でさ」

「古風なお家柄で厳格に育てられたご子息が、何ゆえ茶髪シルバーアクセな軽~い緩~いにーちゃんに変身を遂げたのか……?」

「はっはっはっは」


 椿にーちゃんは、にこやかな表情のまま繋がった手をぶんぶんと前後に振った。


「これもまた、モラトリアムな今しか堪能出来ない楽しみ、というものだよミィ君」


 なるほど、いわゆる『大学デビュー』とかいうはっちゃけによって、躾の行き届いたご子息から、チャラいにーちゃんに姿を変えたようだ。


「えっと、じゃあ椿にーちゃんは、今のところアレルギー持ちだと発覚してる、とかじゃないんだね?」

「あ、そうか。俺も大事な事だから確認しとかないと。

実は俺、食べ物には反応しないけど、猫アレルギーなんだよね。ミィちゃんの家はペットとか飼ってたりする?」

「ううん、何も」


 何しろ、うちの中年を世話するだけでも大変だしな。無論、私が小さい頃は『お父さんは私の世話だけで大変だった』から、我が家にはずっとペットが居なかったんだけど。


「椿にーちゃん、猫アレルギーなんだ?」

「そう。けっこうキツいんだよね。猫飼ってる友人の部屋には遊びに行けない、街中で偶然野良猫を見掛けたらダッシュで逃げ、ペットショップへの来店も、最大限用心して恐る恐る。

フケや抜け毛が舞わないよう、清潔に保たれてるペットショップの猫でさえ、もふるとくしゃみ連発」


 いや、アレルギーがあると自覚してるなら、わざわざもふるなよ。

 そーか。椿にーちゃんと二回目の邂逅を果たした図書館前で(初遭遇は時枝先輩と一緒に、一番上の棚の本に手が届かなくて、四苦八苦してた所を代わりに取ってくれたアレだ)、本とペットボトルを取り落として、くしゃみしてたな。あれは野良猫が近付いたせいだったのか。

 しかし、猫アレルギーってたまに話には聞くけど、どうなんだろう。後で詳しく調べておかなくちゃ。


「そうすると椿にーちゃんって、猫嫌いなんだ?」

「それは違うよミィちゃん!」


 私が確認を取ると、椿にーちゃんは今まで見た中で一番マジな表情を浮かべて、私の目をひたりと強く見据えてきた。イケメンの真顔、無駄に迫力があるな。うっかりびびって、こっちは腰が引けたぞ。


「俺の実家は、俺が生まれる前には猫を飼っていた。

俺が物心ついた頃にはとうに亡くなっていた愛猫を抱く幼い従兄弟の写真を見て、俺はもう羨ましくて仕方がなくなって、家族に猫が飼いたいとねだったんだ」

「ほ、ほう」

「それで、その日の内に家族揃ってご近所のペットショップに足を運んで、色んな品種の子猫を抱っこして回って……至福だった。あの日は、家族全員が輝くような笑顔が弾けていた」


 椿にーちゃんは明後日の方角を見やり、「俺がくしゃみをしだすまでは」と、重々しく言葉を押し出した。


「知らず知らずのうちに、目も擦ってたらしくて、瞼がぶわっと腫れて……慌てて病院に連れ込まれて、アレルギーだと診断されたよ。

それからはどんなに可愛い猫にも近付けず、うっかり触れば念入りに洗い落とし、写真でしか癒やされない日々……」


 おかしいな。これ、けっこう深刻な話のハズだよね? 絞り出すように声を震わせて、心底辛そうに語る椿にーちゃんの横顔を見上げていたら、何で吹き出しそうになるの?

 昨日も嘉月さんと真剣に話したアレルギー問題だよ?全然、笑いポイントなんか出てないのに。苦悩を語る椿にーちゃんの様子を見ていたら、腹の底から込み上げてくるこれはいったいどういう事? 私が猫好きでもなくて、猫アレルギー持ちじゃないから、だから心底からは共感出来なくて、それがとてつもなく悪いのだろうか。


「しかもね、悲劇はそれだけに止まらなかったんだ」


 椿にーちゃんの身に、これ以上いったいどんな喜劇が舞い降りたんだ。惚れた女が、悉く猫を飼ってでもいたのか?


「俺、マタタビ体質なんだ」

「はあ?」


 キリッとした真顔のまま告げられた告白に、私は思わず不信感に満ちた声を上げていた。


「もちろん造語だけどね。焼き魚体質でも、チーズ体質でも、イメージが伝わるなら何でも良い。

とにかく、何でか知らないけど猫から滅茶苦茶好かれるんだ。気配を察知されたら近寄られる、目が合ったら懐かれる、こっちが気が付かない間に接近されたら、不意打ちでじゃれつかれる」


 何と言って良いのか、私にはちょっとよく分からなかった。当人にとっては真剣な苦しみであろう事は、想像に難くない。しかし、無関係な人間の目線で追ったその様は……微笑ましく平和な情景だ。


「ええと、でも椿にーちゃんは猫好きなんだよね?」

「それとこれとは、話が全然別」


 なんとも難儀な男である。

 しかし椿にーちゃんは、一転して明るい表情を浮かべた。


「まあそれに、最近、絶対に猫アレルギーの症状が出ないにゃんちゃんに出会ってね。撫でると癒やされるんだ、これが」

「ふうん? それはまた良かったねえ、椿にーちゃん」

「うん。このマタタビ体質に、まさか感謝する日が来るとは思わなかった」


 椿にーちゃんには、野良猫を近付けちゃ絶対にダメ、なんだね。よし、覚えた。

 そんなこんなで、てくてく道路を歩いていくと、変わり映えのしない田んぼの向こうの森、ではなくうっすらと異物が見え隠れしている。

 よくよく目を凝らすと、道路脇のこんもりとした森の中に、鳥居がポツンと建っていた。よく見掛ける朱塗りではなく、水色をしているのが特徴だろうか。恐らく自動車でこの道を走っていたら、うっかり見過ごしてしまうような、そんな閑静な森林と道路だ。

 手前の駐車場には何台か自動車が停まっているので、先客が居るようだ。……と、思っていたら、向こうから女性二人組が歩いてきた。


「こんにちは、お姉さん達。ここって、御利益あるって本当ですか?」


 私と手を繋いでいるチャラ男が、キラキラしい笑顔で女性二人組に嬉々として話し掛けている。おい。


「そうねー、すっごい霊験あらたかなんじゃないかしら?」

「神社でお参りを済ませたら、早速君に出会えたしね」


 クスクスと上品に笑い声を立てる彼女らは、んー、年齢はだいたい25、6、といったところかな。OLさんだろうか。黒髪ロングのお姉さんと、パンツルックのお姉さん。どちらも自分に似合うメイクを心得ていて、年上なのに綺麗で可愛らしいという印象を抱く。こういう女性達も、縁結びの神社にお参りに来たりするものなんだな。

 そして表情を見る限り、明らかに年下の大学生ぽいあんちゃんの事も、お近づきになれるなら歓迎、的な空気を感じる。

 ロングな髪のお姉さんの方が、風に煽られてフワリと舞った髪の毛を耳にかけ直しつつ、悪戯っぽく提案した。


「時間があるなら、私達と一緒にお茶でもする?」

「わあ、本当ですかお姉さん」


 すげぇ、椿にーちゃん。年上のお姉様から、出会って一分で逆ナンされてる!

 て言うか、皆さん。

 わ た し を ム シ す る な 。


「にーちゃん、ほら、早く神社に行くよ!」

「いてててて」


 ギューッと、椿にーちゃんの片腕に抱き付いて体重をかけて強引に注意を引くと、チャラ男は大袈裟に痛がった。嘘っぱちめ!


「すみません、お姉さん。今日の俺は、この子の付き添いなんです。また機会があったら誘って下さい。あ、これ俺のメルアドです」


 取られていない方の手でポケットから引っ張り出したメモ用紙、椿にーちゃんはそれをお茶に誘ってきたお姉さんに手渡した。お主、まさかいついかなる場合でも女性との出会いを逃さないよう、自らのメルアドを記したメモを用意しているのか!?準備万端すぎだろう。あんたは営業マンか。

私は「失礼しますっ」と、お姉さん達に暇乞いをして、にーちゃんの腕を拘束したままグイグイズンズンと、水色の鳥居の下へと引っ張って行った。


「またね~」

「妹ちゃんにも、御利益があると良いわね」

「はい、有り難うございました」


 背後から、軽やかな笑い声が追い掛けてくる。そこに、苛立ちや嘲笑の色は欠片も含まれていそうにない。椿にーちゃんは年上のお姉さん達に向かって自由な方の手を振り、最後まで笑顔を振り撒いていた。

 椿にーちゃんを強制連行しながら鳥居をくぐり、竹林の間に敷かれた恋の水参道を下って行く内に、私はふと、ある事に気が付いた。

 あれ? もしかして私、最終目的を考慮すると、間違った事やらかしてない?


「ミィちゃん、そんなに目くじら立てなくても。俺、先約を優先するからこんな森の中にミィちゃんを一人、放り出してなんかいかないよ?」

「いや、何というか……

正直、椿にーちゃんスマン事した……何か、妙にムカッ腹が立って」


 林の間を抜けていく細い道を下りながら、軽く肩を叩かれてから顔を覗き込まれ、私はいたたまれずに顔を背けていた。うう、まともに椿にーちゃんの顔が見れない。


「ごめんなさい」

「良いよ」


 木漏れ日が差し込む細い参道で立ち止まってしまった私を、先ほどの仕返しとばかりに椿にーちゃんがギュッと抱き締めてきた。ふわんと、椿にーちゃん愛用の香水に仄かに包み込まれて、気が付けは私は胸一杯に吸い込んでいた。

 あー、何だろ。こうしてると何か妙に安心するわ。椿にーちゃんと一緒に居るとα波が発生しやすい、とかそういうカラクリでもあるの? ポカポカして、温泉の癒やされ和み感に近い感じ。


「俺の方こそ、ミィちゃんを不安にさせちゃってごめんね?」


 ふるふると首を左右に振って否定すると、椿にーちゃんはしばらくしてから抱擁を解いた。もう一度、私の手を取って繋ぐ。


「さ、本殿はすぐそこだよ。行こうか」

「うん」


 内心、天然温泉人間の温もりが遠ざかって微妙に惜しんだが、そんな事を言っている場合ではない。早く目的を果たさねば。

 と、気を取り直して私は(んん?)と、内心で首を捻った。今現在の状況は、何かが……おかしい。

 私は椿にーちゃんと繋いでいる手を見下ろして、数秒考えこんだ。


 このあんちゃんと知り合い、そして『チャラ男先輩』だと認識してからより一層強まっていた私の中での警戒心は、いつの間にこんなに薄らいでいた? 並んで歩いて当たり前のように手を繋ぎ、距離を近付けて。

 生理的な嫌悪感、というのかな。椿にーちゃんを見ていると、そういった感情が沸いてこない。これがいわゆる、『ただし、イケメンに限る』ってやつか?

 いやいやいや、と、私は首を全力で振る。硝煙の臭いを撒き散らす殺人鬼になる可能性が存在する以上、私は椿にーちゃんに気を許しちゃいけないはずだ。今更になって、大袈裟に手を振り解くというのも奇異な行動だけども。


「ミィちゃん頭なんか振って、どうかした?」

「えーと、虫が顔のそばを飛んでった」

「手で振り払うんじゃなくて、頭を振るって……」


 ぷっ、と吹き出して片手で口元を押さえる椿にーちゃん。すみませんねえ、どーぶつ的反応で。

 面白そうに笑われて、なんかもう一気に我に返って脱力したというか、真剣に警戒し続ける意義とか、なんかバカらしくてどうでもよくなった。このチャラいあんちゃんにとっちゃー、老若を問わず女の子に愛想振り撒くのが、きっと生き甲斐とかなんだ。で、『イタイケなコムスメ』である私では、そんな軽佻浮薄男の手練手管に抗えず、知らん間に懐いてたんだ。

 いったいいつ、そんな手管を発揮してたのかは知らんけど。嫌ってるのを隠して近付くよりは、懐いてる方が向こうからも警戒されないに違いない……事件勃発を防ぐべき私の方が先に陥落してるとか、危険度が跳ね上がったのか逆に下がったのか……



 参道を下って行くと本当にすぐそこが本殿になっていて、『恋の水神社』と書かれた幟が立っていた。見える範囲で全体を見回しても、神社の敷地はこぢんまりとしている。

 そして、やはり一番目に付くのが神棚にたくさん奉納されている、お願い事が書かれた紙コップの数々。


 ここにも先客がお出でで、男性二人と女性二人の四人グループ。彼らの雰囲気からして、大学生ぐらいだと見た。男性の片割れは、明らかにこの場に居る事が不本意そうと言うか、自分には何も関係無い、と言いたげな空気を醸し出している。


「にーちゃん、にーちゃん」

「どうしたの?」


 繋いでいる手を引っ張って呼び掛けると、椿にーちゃんはちょっと腰を屈めて顔を合わせてきた。私は遠慮なく耳に唇を寄せて、内緒話の体勢を取る。


「あっちの大学生のお兄さんさ、『俺はこんなとこ興味ねぇ』みたいな素振り見せてるけど。ここに連れ出されてる時点で、あの女の子のどっちかは、彼を狙ってるって思わない?」

「ミィちゃん、通りがかっただけで自分とは何の関わりも無い、人様の関係を邪推しないの」


 小声で囁き返され、『メッ』と、おでこを人差し指で軽く突かれた。だって気になったんだから、しょうがないじゃないか。


「ただまあ、俺としては、むしろあの女の子達は両方とももう一人の男の方を狙ってて、面倒そうな顔してる男は単なる人数合わせ、当て馬なんじゃないかと予想するけど」

「まさかの三角関係+α」


 メッ、とか言ったわりには椿にーちゃんの方が、よっぽど穿った推察してる気がする。気のせい?

 改めて彼らの様子を窺って見ると、女の子二人組は盛んにもう片方の男に話し掛けて、彼はどちらの女の子にも平等かつにこやかに接しているようだ。スマン、面倒そうな顔してるお兄さん。確かにその場に居続けるのは、なかなかしんどそうだわ。


「ほらミィちゃん、社務所行くよー」


 椿にーちゃんは、大学生の集団を遠くから見守る野次馬と化している私をズルズルと引きずって、住居の方に連れて行く。

 こちらの神社でのお参り方法は、

 ①社務所で購入した紙コップに願い事と名前を書く。

 ②その紙コップに恋の水を注ぐ。

 ③水を注いだ紙コップをお供えし、お参りをする。


「……て言うか紙コップ、買うもんなんだ」

「まあ、これも一種のお賽銭、お賽銭」


 私がお財布を出す前に、さっさと二つ購入した椿にーちゃんから紙コップを手渡され、何だか妙にしっくりとこない。お賽銭だと言うのなら尚更、こういうのって普通、各自で支払うべきなんじゃ?

 手の中の紙コップをクルリと回してみる。『恋の水神社』とプリントが入っているぐらいで、あとは特に何の変哲もないごく普通の白い紙コップだ。

 社務所の一角に椅子とテーブルが出してあり、ここで願い事を記入するようだ。横から願い事を覗き込まれるのも気恥ずかしいので、私は椿にーちゃんと向かい合わせの椅子に腰掛けて、ペンを取る。


 そこで私は、ハタと手を止めた。

 ここで馬鹿正直に、『椿にーちゃんが皐月さん以外の女性に、真剣に目を向けますように』などと書こうものなら、当の本人から訝しがられる事は請け合いだ。なんてこった。

 こんな事になると分かっていたら、一見したところでは自分の事を指しているのだと、椿にーちゃんに気がつかれないお願い文句の文面を事前に用意しておいたのに。こうもぶっつけ本番では、全く思い浮かばない。


「ミィちゃん、書けた?」


 机の真ん中にはちょっとした仕切りがあって、見知らぬ者同士が居合わせても、もしくは私のように連れ同士で願い事を見られるのが気恥ずかしい、なんて参拝客でも、問題が無いように配慮されている。そんな神社側の気遣いを、椅子から立ち上がって台無しにしかける椿にーちゃん。いや、私まだ一文字も願い事書いてないけどさ。


「それが、こう改めて書くとなると何て書けば良いのか……」

「『片想いの彼と結ばれますように』で、良いんじゃない?」


 何でか私の脳裏に、時枝先輩の顔が浮かんだ。昨日見た、愛父弁当を食べて幸せそうな表情が。いやいや。

 椿にーちゃんはふふふ、と、意味深な笑みを浮かべる。一体全体、このあんちゃんは何を根拠に私がどっかの誰かに片想い中、だなんて思っているんだ。恋の水神社に行きたい、なんて言い出したからか?


「椿にーちゃんは何て書いたの?」

「俺? 俺はこれ。『良縁に恵まれますように』」

「なにそれズルいっ」


 自分の願い事を書いた紙コップを、ヒョイと私の眼前に差し出しながら、椿にーちゃんはあっけらかんと読み上げる。

 何その、恥じらいも沸き上がらず、どこへも角が立たず、それでいて相応しく感じる無難な願い事! そう書けば良かったのかコンチクショー!?


「ズルいって言われてもなあ」

「私もそう書くもんっ」


 紙コップにサラサラと『良縁に恵まれますように。葉山美鈴』と記入して、私は立ち上がった。


「さあ行こう椿にーちゃん」

「はいはい」


 今度は私が椿にーちゃんの背中を押して急かし、私達は願い事を書いた紙コップを手に、遂に恋の水が湧く泉の前に……行こうとしたら、神棚の前で、先ほどの大学生四人組の女の子の一人が、真剣にお祈りをしていた。

 ううむ。何となく、彼女のすぐ後ろにある恋の水の湧く泉へ足早に寄るのは躊躇われる。歩調を緩めて近付いている間に、彼女はお参りを終え、連れと一緒に立ち去って行った。

 きっと、大事な願い事なんだろう。ああいう姿を見ると、見ず知らずの相手だけど、叶うと良いね、って素直に思うなあ。


 さて、人気も無くなったし、気兼ねなく。

 雨除けの屋根付き柱の下、石組みの中に滾々と湧く水を備え付けの柄杓で掬い、紙コップに水を注ぐらしい。らしい、のだが。


「にーちゃん、これどう見ても『泉』って言うか『井戸』だよね?」

「昔は、森の中の飲み水として村人が飲んでたらしいよ。いつでも水が確保出来るように、石で囲んだんでしょ」


 覗き込みつつ、私は背中のリュックを下ろし、中からある物を取り出した。先日、父が使っていた例のアレである。


「ミィちゃん、なにそれ」

「見ての通り、ミネラルウォーターの空ペットボトル」

「それを、いったいどうする気?」

「恋の水を、お父さんに飲んでもらおうと思って」

「……それは……どうだろう?」

「椿にーちゃんだってさっき、ここの水は昔、村人が飲み水として利用してたって言ったじゃない。問題無い無い」


 いそいそと、ペットボトルに少しだけ注ぐ。欲張りいくない。


「そうかあ、『飲みたい』って言うなら、名古屋にある高牟神社の、古井の水の方が良かったかな?

あちらは日本名水百選にも選ばれてるらしいから」

「良いよ。別にお父さんに、恋に目覚めて欲しい訳じゃないし。健康長寿を願って」


 しっかり蓋をしたペットボトルをリュックにしまい、紙コップの方にも水を半分注ぐ。

 早速神棚に、恋の水を注いだ紙コップをお供えし、鈴を鳴らして賽銭箱に五円玉を奉納してから二礼二拍手一礼、そして祈願する。

 その際、チラリと隣を見上げてみた。椿にーちゃんはごく生真面目に両手を合わせて、祈願している。いったい何を願っているのだろう。この人が本当に、神社の御利益を信じて頼みにしている、と判断するには何か嘘臭い。

 おっとそれより、私自身のお願い事だ。


恋の水神社御祭神様、そして桜姫様、どうかどうか椿にーちゃんがブチ切れてチャカを持ち出し、ぶっ放しませんように。私の周囲は良いご縁で平穏無事にありますように。准教授が椿にーちゃん暗殺を企みませんように。平和でありますように。


「ミィちゃん、ミィちゃん」


 ひたすら真剣に、一心にこれからの無事をお祈りしていると、椿にーちゃんからぽんぽん、と、肩を軽く叩かれた。


「あんまり欲張り過ぎると、良い事は無いよ?」


 毎度嘆いていた無理ゲー加減に、気が付けば真剣に神頼みしてしまっていた。元凶である椿にーちゃんにかわれて不満を覚えつつ、社務所の土産物を覗いてみる。

 御守りか。神頼みついでに、買ってしまおうか。こういうのは、気の持ちようで運気が上がるとも言うし。


「縁結び守り……買っちゃおうっと」

「この御守り、口がマジックテープになってるね」


 本来、御守りは中身を開けない物だけど。

 これは一旦中身を取り出して、微妙に左側に傾いた相合い傘の左側に、自分の名前を書いて、右側にこちらに気持ちを向けて欲しい人の名前を書くらしい。そして、傘の上部が開いているのは、良いことや願い事を受け止められますように、という意味を込めて。願いが叶った暁には、幸せが逃げないように傘の上部を結ぶ、と。


「にーちゃん、私、名前書くから後ろ向いてて」

「はいはい。ミィちゃんは恥ずかしがり屋だね、ホント」


 社務所の片隅で、椿にーちゃんがこっちには背を向けているのを確かめ、買い求めた御守りから中身を抜き出した。相合い傘左側に手早く自分の名前を書き、右側に『石動椿』と書き込んで御守り袋に元通りしまい込んだ。

 どうか椿にーちゃんの心の中で、皐月さんの比重が狂気に染まるほど重たく強固になりませんように。私は祈りを込めて、御守りをお財布にしまい込んだ。

 律儀に回れ右をしてくれていた椿にーちゃんの背中を軽く叩いて、前に回り込んで顔を見上げた。


「終わったよ」

「それじゃ、次はどこ行こっか?

知多奥田駅の近くだと、南知多ビーチランドが近いけど」


 流石に、この神社の中だけで一日は潰せない。椿にーちゃんは初めから、恋の水神社を参拝した後は、私を次なるスポットに連れ出してくれる予定だったらしい。うむ、苦しゅうない。


「ビーチランドか……水族館とか、何年も行ってないや。良いね!」

「じゃ、次はそこで決まり」


 期待感から声を弾ませていく私に、椿にーちゃんはパチンと指を鳴らしてニコッと笑みを浮かべた。


 そうしてその日は知多奥田駅にまで戻り、直行バスに乗ってビーチランドに向かった。

 イルカショーを見たりだとか、ペンギンとの触れ合いだとか、ちっちゃい頃以来の体験でしたよ。こういう催しですんごくワクワクしたり、純粋に楽しめてしまう辺り、多分私って、前世の記憶があろうが精神的な年齢は年相応の十三歳なんだな、と実感した週末。単に嗜好の問題かもしれないけど。

 ビーチランドで写真もたくさん撮れたし、満足満足~。


 椿にーちゃんに送ってもらって帰宅する頃には、もう夜の七時を回っていた。

 私はにーちゃんに買ってもらった、お土産のイルカぬいぐるみを抱っこしてニコニコしたまま、玄関先で椿にーちゃんを見上げた。


「にーちゃん、今日はありがとう! とっても楽しかった」

「どういたしまして」


 椿にーちゃんはビミョーに疲れた表情をしている。

 うむ、丸一日中、私に付き合わされて大変だったようだな。ハッハッハ。

 出発時には、私の方が椿にーちゃんに良いように振り回されそうだと懸念していたけれど、変に構えず純粋に自分の楽しみを優先してみたら、そうだよね、子どものバイタリティーについていけずに、付き添いの保護者の方が疲労するのは世の常だわ。


「この後、何か予定とかある?」

「いや? 帰ったら、レポートの続きを仕上げるだけだよ」

「じゃあ、良かったらお夕飯食べて行きませんか?」

「それじゃあ、お言葉に甘えてお邪魔します」


 椿にーちゃんを促して玄関をくぐると、部屋の中は真っ暗だ。まだお父さんは帰ってきていないらしい。

 ダイニングキッチンに案内して座ってもらい、椿にーちゃんにお客様用のお絞りと、ちょっと良い茶器でお茶を出す。返す返すも、中年が手作りクッキーを全て食べ尽くしやがったのが悔やまれる。

 そして、テレビリモコンを定位置からにーちゃんの手に取りやすい場所に置いた。


「今から作るから、テレビでも観ながらちょっとだけ待っててね」

「うん。ねえ、ミィちゃん。あの写真の女の人が、ミィちゃんのお母様?」


 テーブルの上に飾ってあった写真立てを見やる椿にーちゃんに、私はこっくりと頷く。お父さん、また自分の部屋から持ち出して、テーブルに置いたままにしていったんだな。


「可愛らしい人だね」

「有り難う。お父さん曰く、フワフワ系の見た目を裏切る中身で、竹を割ったよーな性格だったらしいよ」

「わぁお。是非お目にかかってみたかったな。

そっかぁ、ミィちゃん将来はあんな感じになるんだ……」


 何を期待しているのかは知らんが、私の外見は生憎とフワフワ甘カワイイ系の母ではなく、フツメンの中年似だ、椿にーちゃん。

 エプロンを身に着けて冷蔵庫を開けると、昨夜の残り物の煮物が器に移してラップをかけてあった。お父さんにおねだりして、また作ってもらったんだった。早速煮物を温め直して、椿にーちゃんの前に出す。


「にーちゃん、良かったらこれ、お通し代わりにでも」

「わ、美味しそう」


 テレビは気に入った番組をやっていなかったのか、チャンネルを幾つか変えて、電源を落とすとテーブルに肘を突き、手持ち無沙汰そうだった椿にーちゃんの前に、お箸を添えて煮物が入った器を出した。


 キッチンスペースに戻っても、お待たせしているにーちゃんから、なんかこっちをジーッと眺めてるような、妙に背中に視線を感じる。メインの登場を催促されている……!?

 えーと、気を取り直して今日の食材だと……うーん、下拵えでちょっと時間かかりそうなメニューばっかりだな。仕方がない、作り置きのソースがあるし、メインはパスタを茹でて出そう。

 まずは冷凍保存のソースを解凍して温め直し、続いて合い挽き肉を始めとする具材を混ぜた種を、半分に切ったピーマンに詰めて電子レンジへ。

 寸胴で麺を茹でている間にサラダにする野菜をザカザカとカットし、ついでにお土産にしてもらうお夜食用のサンドイッチも作っとこ。

 茹で上がった麺の水分を切って、フライパンで手作りトマト系ソースと絡めて火にかけ、お皿に盛り付け刻んだパセリとチーズを散らせば完成。丁度良く、電子レンジ加熱も終了したようだ。

 パスタがトマト系だし、ピーマンの肉詰めにはソース添えておこ。


「にーちゃん、お待たせ~」

「いや、むしろご飯の支度を調えるの、やけに早いねミィちゃん」


 パスタ皿とサラダ皿、ピーマンの肉詰めを盛ったお皿とフォークを配膳する私に、椿にーちゃんは目をぱちくりさせた。そんな事言ってるけど、先に出しておいた煮物はペロッと平らげてるじゃない。お腹空かせてる人を、そうそう待たせられませんて。


「そ? 今日はスピードを優先したから。次の機会に出すご飯は、もっと下拵えから準備万端調えておくから、期待しといて」

「そうする。それじゃあ改めて、いただきます」

「どうぞ召し上がれ~」


 煮物も美味しかったけど、これも美味しいと、感心したように食べてくれるにーちゃんと向かい合って夕食を済ませ、使い終えた食器をシンクに手早く運んで、まったりと食後の紅茶 (毎度お馴染みinグレープフルーツ。まだ消費しきれない)を頂く。因みに椿にーちゃんは珈琲派ではなく紅茶派である事は、ランチタイムにて確認済みである。


「そう言えば、ミィちゃんのお父さん遅いね?」

「そうだねえ」


 柱時計に目をやった椿にーちゃんは、八時を過ぎている事に気が付いてふと呟いた。


「留守電かメールが来てるか、確認してみた?」


 言われてみれば、そんな事してなかったな。お父さんの帰宅が夜遅いのは、まあよくある事だし。家電の留守録をチェックしてみても、新着は無し。

 私は今日一日背負っていたリュックを手元に引き寄せて、口を開けた。あ、ペットボトル忘れてた。


「み、ミィちゃんそれは……っ」

「え? 今日のお土産の、有り難~いご神水」


 リュックからペットボトルを引き抜き、おもむろに冷蔵庫に歩み寄る私に、何故か椿にーちゃんが狼狽えている。そのままペットボトルを空いてるスペースに放り込んで、バタンと冷蔵庫のドアを閉める。


「きょ、今日一日比較的温暖な気候の中持ち歩いていた水だから、傷んでるかもよ?」

「あ、その可能性は考慮してなかった」


 にーちゃんは思いとどまらせようと考えているらしいが、そもそも私が今日あの神社に足を運んだ理由の半分は、うちの中年に神水を持ち帰ってやる為である。仕方がない。父に飲ませる前に、一度沸騰させてやろう。それで神水の有り難~い効力までをも気化されてしまったら、その時はその時だ。

 もう一度イスに座り、改めてリュックからスマホを取り出す。着信やメールを確認するが、お父さんからは何の連絡も入っていない。


「うーん、何もきてないね」

「思い切って、電話してみたら?」

「仕事中に?」

「出られないほど忙しいなら、そもそも出ないでしょう。ミィちゃんに連絡入れるタイミングが無かっただけで、本当は電話したがってるかもよ?」


 そういうものかな?

 分からないが、登録してある父のスマホに電話を掛けてみる。驚いた事に、さほど待たずに繋がった。


「もしもし、お父さん?」

「美鈴、お父さんもうおうちに帰りたいよぉぉぉ」


 電話の向こうで、父はえぐえぐと泣きじゃくり(泣き真似かもしれない)使えない部下さんの愚痴を、珍しくもグチグチと垂れ流していく。相当、拗れているようだ。父の言い分からでは、具体的に何がどうなっているのかはよく分からないが、お仕事のデータが吹っ飛んで、バックアップも取っていなかったおバカさんの尻拭いらしい。


「ええと、今日は何時ぐらいには帰れそう?」

「お父さん、絶対に日付が変わる前におうちに帰ってやる……」

「う、うん。無理しないで、帰り道は安全運転でね」

「美鈴も、ちゃんと戸締まり確認はきっちりと、しっかり用心してお留守番してるんだよ?」

「はーい」


 ピッと電源を切り、私はパタッとテーブルに伏せた。


「な、何だか凄いお父さんなんだね?」

「あー、漏れ聞こえてましたか」

「……ミィちゃんの話から思い浮かべてた、俺イメージのお父様像と、何か違う……」


 どんな想像をしていたんだろう? うちの中年は、大学生の頃から携帯アプリゲーム会社で働いてる、ごく普通のサラリーマンなんだけど。


「お父さんが帰ってくるまで、俺も一緒にお留守番していようか?」

「そんな、いいよ。

椿にーちゃんがお家に帰る時間が、どんどん遅くなっちゃう」


 父の帰宅がかなり遅くなると知り、私の身を安じて提案してきてくれた椿にーちゃんの厚意は有り難いが、流石にもう九時だ。私の家から椿にーちゃんが一人暮らしに借りてるマンションまで、十五分と掛からない距離らしいが、今日一日付き合わせ、この上更に引き留めるのも申し訳ない。

 レポートも仕上げなきゃいけないんでしょ? と、肩をすくめる。これ以上は押しても無駄だと感じたようで、椿にーちゃんは渋々帰り支度を始めた。


「じゃあ、部屋に帰ったら、またメールするから」

「うん」

「俺が玄関を出たら、すぐに鍵を閉める事」

「はい」

「お父さんが帰って来る前に二階に上がる時は、防犯を兼ねて、一階のキッチンダイニングの電気は点けておく事」

「うん、分かった」


 たたきで靴を履くと、私に向き直って細々と言い付けてくる椿にーちゃん。そして一拍置いて深い溜め息を吐き、片手で髪をかき上げながらこめかみの辺りを押さえた。


「……なんか心配だな」

「もう。椿にーちゃん、私、これまでも一人でお留守番してきたんだから、大丈夫だよ」


 顔から手を離すと、それを私の頭に置いて、わしゃわしゃとかき回した。ああ、ポニーテールがぐっちゃぐちゃに。

 私はサンドイッチの包みを、椿にーちゃんの胸元に押し付けた。


「これ、お腹が空いたら、良かったらお夜食に食べてね」

「有り難う」


 包みを受け取った椿にーちゃんは、空いている方の片腕を伸ばして私の背中に回した。ぐっ、と、椿にーちゃんの胸に引き寄せられる。耳元に「それじゃあ、またね」と低い声で囁くと、私を解放して踵を返し、玄関ドアを開けて出て行った。完全に閉じる前に椿にーちゃんはこちらを振り向いて、私と目が合うと微笑みを浮かべ、ヒラヒラと片手を振り……ドアはパタンと閉じられた。


 何だか、椿にーちゃんのスキンシップが日に日にレベルアップしている気がする。



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