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綺麗なお兄さんは好きですか? がキャッチコピーの年上男性を籠絡していく乙女ゲーの世界で暮らしてるわたし。②

 

 先に手渡されていたお兄ちゃんとお揃いの綿100%のTシャツを早速着込んで、お父さんから届いた荷物を仕分けした。部屋着は楽な格好に限る。

 そしてわたしは自分の部屋で、柴田先生から借りた聖書に目を通していた。

 軽く千年以上のいにしえから連綿と伝えられる書物と言えば、源氏物語なんかが有名だけど、当然の事だけど聖書は小説じゃない。有り体に言って、素人には何を指しているのかがよく分からない事が多い。

 例えば当時の地名とか国の名前といった基礎的な部分から、そこに生きる彼らの習慣や常識を踏まえた目線で考えてみなくては、筆者が意図したところとは全く異なる解釈をしそうだ。わたしは元々、宗教家でなければ聖書研究の人間でもないし、そうなって当たり前なんだけど。


「『神の国』はいつ来るんですか? とパリサイ人から聞かれて、イエスは具体的に『あれだよ』と指し示せるものではないんだよ、と答えたって意味で良いんだよね?」


 ルカの福音書を読み返してわたしは呟いた。何しろ原本は遠い昔に書かれ、かつ翻訳されたものだ。正しく受け止められたかどうかなんて分からないし、そもそも聖書の言葉を深く自分の心に刻み生きよう、と決意した訳じゃない。今後、改宗してキリスト教を信仰する信徒になる予定は無いし。うちは確か……仏教徒だったはずだ。

 自分の家の話ながらあやふやな認識だけど、ご先祖様代々のお墓の維持が関係してきても、わたし自身はお寺に何か関わった事無いしな~。


「でも、『神の国』って何だろ」


 ラグの上に座ってクッションを抱えた姿勢で聖書を広げ、パラパラとページを捲っていき、ざっくりと目を通す。


「んーと、蒔いたら成長していく種のたとえ、からし種のたとえ……からし種って聞いた事無いな。芥子とか?」


 読んでいる途中で首を傾げる部分が出てくるのは仕方がない。ローテーブルの上のノートパソコンからネット検索して調べてみると、からし種とは非っ常ーに! 小さな小さな種であるようだ。

 わたしは聖書を丁寧にローテーブルの上に置き、ベッドに背中を預けて天井を見上げた。


「少なくとも、実在する建造物や土地を示してるものじゃあ無いみたいだけど。神の国って、信者が抱く信仰心を指してる?」


 農夫が耕した大地に種を蒔く。日々水をやり、雑草を抜き、月日が流れれば種は芽吹いて成長して収穫の時を迎える。しかし、農夫自身は種がどうやって成長しているのかなんて知らない。芽吹きも成長も、種と大地の働きだ。

 これが神の国とは何か、という質問に対してのたとえ話の一つ。うーん……神の国が何か、全く分からない。


「深いわ……」


 クッションを抱き上げて唸っていると、ドアが控え目にノックされた。そちらに顔だけ向けて「はーい」と返事を返すと、嘉月お兄ちゃんがわたしの部屋のドアを開け、躊躇いがちに顔を覗かせた。


「皐月、一つ尋ねたい事があるんだが……」

「どうしたの?」

「その、普通の女子中学生というものは、こんな時間まで家に帰らず出歩いているものか?」

「え」


 お兄ちゃんが気に掛ける『女子中学生』なんて、お隣の美鈴ちゃんだけだ。わたしが慌てて壁に掛けられた時計に目をやると、時刻は午後六時を疾うに回り、窓の外はすっかり真っ暗になっていた。


「俺はその辺りの常識に疎くて、自信が無いのだが……まだ美鈴さんが帰宅していないというのは、騒ぎ立てるような事でもないだろうか?」

「美鈴ちゃんが、遅い時間まで塾通いしてるなら全然変じゃないけど……そんな話は聞いてないしな~」

「昼過ぎからずっとリビングで仕事をしていたが、隣家はまだ誰も帰ってきていないんだ」


 あの子は自宅の家事を片付けているので、日が暮れても学校から帰って来ない、というのは殆ど無かったはずだ。もしかしたら美鈴ちゃんはお父さんと二人連れ立って、学校帰りに迎えに来てもらって制服姿のまま、たまの外食にでも出掛けているのかもだけど。

 わたしは充電器に繋いでいたスマホを取り上げて、クッションをラグの上に置いて立ち上がった。


「美鈴ちゃんは今まで、夜遊びなんか全然したこと無かった子だし、気になるね」


 たかだか七時前に帰宅していないだけで、ちょっと大袈裟かもしれない。こんな心配は、もう少し遅い時間にするものかも。

 でも美鈴ちゃんは義務教育中のまだ幼い少女で、隣家の葉山家はお父さんの帰宅時間が比較的遅い父子家庭だ。隣近所で彼女の身の安全をそれとなく気に掛けておくべきだと、わたしは思う。


 わたしはドアの前を占拠しているお兄ちゃんを押しのけて自分の部屋を出ると、リビングの掃き出し窓から庭に出て、洗濯物を干す時に履くつっかけに足を突っ込んだ。庭の向こうにばっちりと見える、隣家の二階の美鈴ちゃんの部屋は真っ暗だし、どの部屋の電気も点いてない。


「うん、お兄ちゃんの言った通りまだ帰ってないみたいね」


 念の為に隣家の様子を確認すると手元のスマホに視線を落とし、美鈴ちゃんの番号を呼び出そうと操作していたまさにその時、わたしは聞き覚えのある声を耳にしたような気がして、ふと顔を上げた。視線の先の葉山家の玄関ポーチに、美鈴ちゃんがこちらに背を向ける形で佇んでいた。

 良かった、何かトラブルに巻き込まれたとかじゃなくて、ただちょっと帰りが遅くなっただけだったんだ。


「あ、美鈴ちゃん! もう、こんな遅くまで電気がついてないから、何かあったのかと思ったじゃない!」


 わたしは庭を突っ切りながら、美鈴ちゃんの背中にいそいそと声を掛けると、彼女は弾かれたようにこちらを振り向き……美鈴ちゃんの向こうに居た人物の姿が、玄関ライトに照らされ闇夜に浮き彫りになった。


「椿先輩!?」


 予想外の人物の姿を認めて、素っ頓狂な声を上げてしまったが、待て待て、落ち着けわたし。にこやかに話し掛けてくる椿先輩に適当に相槌を打ちつつ、わたしは頭の中で目まぐるしく記憶を探っていた。

 夜の帰り道を心配し、ヒロインの美鈴ちゃんを家まで送ってくれる攻略対象というのは、例の乙女ゲームでは実に多い。何しろ全員年上だし、過半数は成人男性だ。

 だけど今、まだ五月だよ? 四月に必ず知り合うお兄ちゃんならともかく、五月に出会いイベントが発生するかもな椿先輩だと、好感度上げ最短ショートカットルートを選んで、それでようやく今の時分に『夜道は危ないし、おうちまで送るよ』イベントが発生する可能性があったぐらいなハズ!

 流石はロリータ小悪魔美鈴ちゃん、好みのタイプな椿先輩からの好感度が、今一番高いんだ……


 わたしは無情な現実に打ちのめされた、ような気分にも一瞬陥ったけれど、(いや、まだだ。まだ諦めるには早い)と、立ち上がった。そして、表面上は努めてにこやかに椿先輩をお茶に誘い、自宅に誘い込む。

 まさかこれが五月に起こるとは思っていなかったけど、突発的バーサスイベント『好感度の高い攻略対象と一緒に、嘉月・皐月と御園家宅でお茶』を見逃す手は無い!


「美鈴さんお帰り。良かった、遅かったから何かあったのかと……」


 美鈴ちゃんと椿先輩を自宅の玄関で出迎えると、リビングから顔を出したお兄ちゃんの言葉が不自然に途切れた。


「ご心配をお掛けしてすみません。お邪魔します、嘉月さん」

「先輩、兄の嘉月です。

お兄ちゃん、こちらはわたしのゼミの先輩で石動椿先輩だよ」

「初めまして、お兄さん。石動椿と申します。お招きに与り光栄です」


 ぺこりと頭を下げる美鈴ちゃんの隣に立ち、如才なくハキハキとした挨拶と笑顔を向けてくる椿先輩を紹介すると、お兄ちゃんの顔が僅かに強張った。ははん。


 お客様をリビングに案内し、四人掛けの長テーブルを囲む。

 わたしはお茶の支度があって、最後に空いている場所に腰を下ろしたので席次には当然口を挟んだりしてないんだけど……お兄ちゃんの向かい側に、椿先輩。その隣に美鈴ちゃん。つまりわたしは残るお兄ちゃんの隣。

 因みにこれ、乙女ゲームでも選択肢にあったのよね。お兄ちゃんともう一人の攻略対象、どちらの隣に座るか。スチルもちゃんと攻略対象別で差分が出て……おっとそれより、今まさにLiveで進行中のイベントにかぶりつきよ、かぶりつき!


「石動君。今日は、どうして美鈴さんとご一緒に?」


 お兄ちゃんが湯飲みに両手を添えたまま、声音にやや険を滲ませた硬い声音で問うた。美鈴ちゃんに直接尋ねるに尋ねれないんだね、うんうん。

 問題の椿先輩は一瞬虚を突かれたかのようにキョトンと瞬きし、また人好きのする笑みを浮かべて答える。


「うーん、偶然の積み重ね、ですかね。

美鈴ちゃんが俺の目の前でケガしちゃって。こんな可愛い子を、そのまま放ってはおけないでしょう」

「にーちゃん、『可愛い子』に副音声が付いてルビは『お子ちゃま』だって聞こえてきたよ……」

「それもまあ間違いじゃないね。俺の本心には違いない。美鈴ちゃん凄い凄い」

「嬉しくなーい」


 にこにこ笑顔の椿先輩は、隣の席でちょっぴり拗ね顔に頬を膨らませた美鈴ちゃんの頭を、サラリと撫で撫で。

 うわぁぁぁぁ。流石、甘エロ系椿先輩。まだ恋人でも何でもないくせに、スキンシップが巧妙かつ自然かつ大胆過ぎる! 美鈴ちゃんも、拒否らず当然の顔して受け入れてるよ。

 それに、椿先輩は美鈴ちゃんを名前呼びだし、美鈴ちゃんも椿先輩にあんまり敬語使ってない。この二人、距離感近っ。


 ライバルの……それもここまで手強い恋敵の登場なんか、欠片も予想していなかったに違いない嘉月お兄ちゃんは、内心非常に狼狽えているようである。

 三角関係なバーサスって言うより、一方的に仲の良さを見せ付けられてない?

 もうもう、お兄ちゃんー。わたし我慢出来ないからね?


「そう言えば美鈴ちゃん、ケガしたって、病院とか行かなくて大丈夫なの?」


 気になる女の子が負傷したと聞けば、即座に気遣うのが正しい男前の姿でしょ? 今までお兄ちゃんがその手の質問を美鈴ちゃんに掛けるのを、わたしはじーっと待ってたのに、恋敵にいいように翻弄されて、全然美鈴ちゃんと向き合ってアピール出来て無いじゃない。

 そんなだから、せっかくイメチェンしても美鈴ちゃんから「嘉月さん、格好良くなりましたね」って言ってもらえないんだよ?

 美鈴ちゃんはわたしの言葉に、「ああ」と笑みを見せて、お行儀が悪い姿勢になるのも気にせず座っている向きを真正面から斜めに変え、テーブルの陰から足を突き出した。スカートをペラッと軽くまくり、ガーゼに包まれた膝をさらけ出す。


「ちょっぴり大仰に手当てされてますけど、単なる擦り傷ですから。二、三日で治りますよ」

「そっか、大怪我じゃなくて良かったよ」


 スカートをちょっとだけめくって素足を出す仕草、無邪気な子どもか無頓着なおばちゃんじみた行動なのに。それなのに何故か不思議と、美鈴ちゃんに無駄な色気が今、チラッと一瞬覗いたんだけど。小悪魔の片鱗を見た。……でもお兄ちゃんの座ってる位置からは、テーブルが邪魔で美鈴ちゃんの足なんか見えないし。残念過ぎるよう!


「怪我の痕が残ったら大変なんだからね。美鈴ちゃん、もっと気をつけないと」

「はーい」


 確実に隣から覗き見たであろう椿先輩は、生真面目な顔を装ってそんな事言ってるけど、内心はどうだかなー。うちにお茶にお招きしてから、始終ご機嫌なんだけど。


 お兄ちゃんは椿先輩を仮想敵と見做したらしい。弱点をあげつらいたいのか、あれこれと根掘り葉掘り尋ねている。大学ではどんな事を学んでいるのか、普段どういった生活を送っているのか、将来のビジョンにご家族の事。お兄ちゃん、すっかり小舅と化してる。初対面でそんな突っ込んだところまで質問されたら、不愉快に感じて当然だろうに、流石は社交性において定評のある椿先輩、笑顔を崩さず当たり障りの無い範囲で答えている。

 椿先輩が今、ご実家を出てマンションで一人暮らし中、というのは乙女ゲームでもそんな話が出てたから知ってたけど。将来はご実家がやってる輸入関係のお仕事をする予定なんだ。繋がりがある国が多いから、あっちこっちの国の言葉を精力的に学んでるんだね。そっちは知らなかったー。


 しかし、これはマズい。

 今の構図はまるっきり、嘉月お兄ちゃんは美鈴ちゃんの恋路を、赤の他人でありながら難癖つけて邪魔する隣の家の意地悪な男状態だ。わたしは晩ご飯の支度を口実に、今日のお茶タイムイベントを切り上げる事にした。

 本当はすっごく嫌なんだけど、美鈴ちゃんはもう帰るのにこの上椿先輩を我が家で夕飯の席でおもてなしとかして、美鈴ちゃんから誤解されるのも避けたいので、椿先輩に美鈴ちゃんを家まで送ってくれるよう頼む。うー、お兄ちゃんの態度がもっと良ければ、美鈴ちゃんのエスコートはお兄ちゃんに頼めれたのに。


「お兄ちゃん、お話があります」


 笑顔で美鈴ちゃんと椿先輩のお見送りを済ませたわたしは、リビングのテーブルに両手をドンッと突いて、座ったままの兄にずずいっと顔を寄せた。


「どうしたんだ、皐月?」

「美鈴ちゃんを椿先輩に取られたみたいで悔しくても、今日みたいに攻撃的な態度でいたら、美鈴ちゃんから嫌がられるわよ」

「……俺は、そんな、美鈴さんをどうこうしようとは……」


 気まずげに視線を泳がせ、言葉を濁して誤魔化そうとするお兄ちゃんに、更にわたしは詰め寄る。


「今日の大人気ないお兄ちゃんと、雰囲気を悪化させずに余裕で受け流す椿先輩を見て、美鈴ちゃんは一体、どちらに惹かれたかしらね?」


 ぐっ、と詰まるお兄ちゃんに、わたしは心を鬼にして言葉を続ける。


「お兄ちゃん、美鈴ちゃんと仲良くなりたかったら、もう少し会話を弾ませる努力や歩み寄りが必要だと思うよ?」


 それを呼吸するように自然とこなせてしまう椿先輩が、目下美鈴ちゃんの好みのタイプど真ん中だから、困ったもんだ。


「皐月、だからそれはお前の早合点なんだ。俺が美鈴さんに惹かれているとか、そんなんじゃないんだ」


 お兄ちゃんは一つ溜め息を吐いて、そう反論してきた。

 むむぅ。確かに、乙女ゲームでの嘉月が恋に落ちたら、グイグイ押していってたけど。美鈴ちゃんが気にはなるけど、ラブ感情にまではまだ、いってないのかも……


 その夜、夕食をとってからスマホを確認すると、椿先輩からメールがきていた。わたしの家に本を置き忘れていっていなかったか、という確認メールだった。お見送り前に、お客様の忘れ物がないか、ちゃんとリビングを見渡して確認したからまず無いと思うんだけど。念の為に、二階の仕事部屋にお籠りに入ろうとしているお兄ちゃんを階段で捕まえて尋ねても、


「……石動君は初めから手ぶらだっただろう」


 と、素っ気ない。うん、手土産持参じゃなかった事も、心証を悪くした原因だったりするの、お兄ちゃん。

 ひとまずリビングのイスに落ち着いて、これは、明日にでも美鈴ちゃんにも聞いてみるべきかな、と思っていたところでタイムリーに彼女から電話が掛かってきた。まさか、美鈴ちゃんもうちに忘れ物をしたんじゃないかの確認?

 電話に出ながらテーブルの上へふと目を向けると、お父さんからのお土産、地域限定ポテチの袋が開封された状態で置いてあった。ああっ、お兄ちゃん勝手に食べてる! わたしだって楽しみにしてたのに!

 思わず手を伸ばし、この辺では食べられない独特の味付けをじっくり味わう。電話片手間に。

 美鈴ちゃんの話によると、どうやら椿先輩の忘れ物の本は、美鈴ちゃんが持っている事に今気が付いて、慌てて連絡をとろうとしているところらしい。


「私の方からお返ししておきますので、良かったら石動さんのメルアド教えて下さいませんか?」

「うーん」


 人任せにしようとしないところが、いかにも世話好きな美鈴ちゃんらしいけど。でもこれって、思いっきり椿先輩好感度大アップイベント発生の為の前提条件で、メルアドゲット最短ショートカットルートじゃない。

 美鈴ちゃんの恋路の邪魔はしない、って決めてたけど! まさか、お兄ちゃんが割り込む隙間が出来る前に、美鈴ちゃんが椿先輩へまっしぐら一直線に突っ走るとは思ってなかったよ。トホホ。


「一応、知り合い同士だとはわたしも知ってるけど、当人の知らないところで人様のメルアド流すのって、しちゃいけない行為だと思うの。何か間違ってるかな?」

「それなら、石動さんが借りた本は私がお預かりしている旨と、私のメルアドを石動さんに教えて差し上げて下さい」


 最後の抵抗に、いかにももっともらしい理屈をつけてメルアドを知らせないよう話をもっていこうとしたら、美鈴ちゃんはすかさず代替案を出してきた。……完全なる、わたしの完敗だった……

 わたしは嫌々椿先輩からのメールに返信を出し、美鈴ちゃんのアドレスを添える。ううっ、甘エロ先輩めっ。その口八丁手八丁で、いたいけな女子中学生を魅了して~。


 バリバリとポテチを食べ尽くして鬱憤を晴らし、大袋を空にする頃には、仕方がないのかな~、という結論に至っていた。だって美鈴ちゃんは初めっから椿先輩が好きだと……いや、椿先輩のような人が好きだと、はっきり言っていた。理想の男性が目の前に現れたら、そりゃあ憧れちゃうよね。



 翌日、わたしは友達のあっ君とお昼ご飯を食べようと、大学の広い芝生が植えられた庭に出ていた。

 他にも柴田先生や友人達を誘ってあるのだが、四月から毎週この曜日には、一般教養講義を取った時間が同じで、お昼ご飯を一緒に食べていたとある男女が先日めでたくくっ付き、二人っきりでのランチタイムを過ごすらしい。羨ましい。

 他のメンバーは、講義の時間がズレたり次の予定があったりと、欠席。普段は七、八人でわいわい食べるランチが、今日はあっ君と柴田先生での三人だ。


「柴田センセー、今日は遅いなー」

「ちょっと遅れるって、メールあったよ」

「そか。ところで皐月、どうしたんだ? なんか今日元気なくね?」

「あー、うん。世の中って、思い通りにはいかないものよね~、って」


 お弁当を広げたわたしの真正面に座った幼馴染み、中條陽炎ことあっ君は、『ハァ?』と言いたげな呆れ顔を見せた。


「何を当たり前の事を……」

「いたいた、さーつきちゃんっ」


 あっ君の声に被さって、わたしの背後から脳天気な声が掛けられた。


「皐月ちゃん、良かったら俺と……あれ、お友達と一緒だったんだ?」


 校舎からパタパタと駆けてきた椿先輩は、輝くばかりに明るい幸せそーな笑みを、わたしに向けてくる。くっそぅ、美鈴ちゃんとの仲が順調に進展してるのが、そんなに嬉しいの椿先輩。


「こんにちは、椿先輩」

「ちわっス」

「えーと、見覚えはあるんだけど……多分初めまして、だよね?」

「多分そうっスね、石動センパイ。オレは体育学部の中條陽炎、アキって呼んで下さい」

「よろしく、アキ。俺の名前知ってるんだ?」

「そりゃあ、有名人ですから」


 椿先輩とあっ君は、まるでお互いの思惑や意図を探り合うかのように、一瞬鋭く視線を絡ませる。

 あれだな。柴田先生が言ってたけど、同じ年代の同性同士って、初対面では結構お互いの実力を値踏みしあうものなんだって。女の子同士でもあるけど、男同士だとその傾向が顕著だとかなんとか。気が合うかどうか、仲良くなれるか反りが合わなさそうか、縄張りでも張り合うみたいに探っちゃうものらしい。結局は人間も、動物だもんね~。


「あっ君は、わたしの幼馴染みなんですよ。

それで椿先輩、何かご用でした?」


 無意識の実力探りが一段落ついたぽい瞬間を見計らい、わたしはお箸を置いて椿先輩と向き直った。椿先輩はわたしに視線を戻すと、また先ほどのキラキラしい笑顔を向けてくる。うーん、お約束の『目が、目が~!』を、やってみたくなる。


「昨日はお茶有り難う。

それで、良かったら今日は皐月ちゃんと、お昼をご一緒したかったんだけど……俺も混ざっても良いかな?」

「わたしは構いませんけど……」

「オレも構いませんよ。柴田先生が何か言うかもですけど」


 わたしに向かってじゃなくて、同席の許しをあっ君に尋ねる辺り、椿先輩って結構あっ君を意識してるのかも。流石はあっ君。


「柴田先生も来るの?」

「同じ講義とってる友達同士で、毎週一緒にランチしてるんですよ。それで……」

「そこに皐月が、エサをぶら下げて愛しの柴田センセーを引き込んだ、と」

「あっ君!」


 じゃあ遠慮なく、と、芝生に腰を下ろして、購買で買ったらしき持参のパンの袋を空けた椿先輩が不思議そうに呟く。わたしが経緯を軽く説明しようとしたら、あっ君がミもフタも無い言い方でサクッと結論を提示したので、わたしは非常に慌てた。


「なんだよ皐月。皆知ってる事だろ?」

「どんなにバレバレな態度でも、敢えて広めないでー」

「いっそ石動センパイにも協力してもらった方が確実じゃん」

「そうだけど、そうなんだけどっ」

「おや、よってたかって女の子をからかうのは感心しませんね」


 あんまりにも飄々と言い切るあっ君。あっ君は誰彼関係無く、他人様の事情を吹聴して回るタイプじゃないのに、何でいきなり椿先輩にまでバラしちゃうかな!?

 そうやってわたしがあわあわして、椿先輩が苦笑しているランチ空間に、待ち人の声が掛かった。ガバッと声の方に上半身の身体ごと振り仰いだら、いったいいつからそこにいたのか椿先輩の背後に柴田先生のお姿がっ。


「し、柴田先生、さっきの中條君の戯れ言は、聞いていませんよね!?」

「はて、また戯れ言ですか? なんの話でしょうか」


 いつもの柔和な笑みを浮かべて、わたしの隣に腰を下ろす柴田先生。どうやらわたしが騒いでいた、としか認識していないようだ。思わずホッと胸を撫で下ろす。


「……柴田センセー、いつから居ました?」

「ついさっきですよ?」


 相変わらず、椿先輩は柴田先生に喧嘩腰だ。微妙に険の混じった眼差しで睨み付け、そして拗ねたように視線を逸らす。

 うん、気が付かないうちに背中を取られたのが、そんなにプライドを傷付けられたのかな。椿先輩ってああ見えて、確か護身術みたいなの習ってたハズ。


「そうそう、それでアキ。皐月ちゃんがエサで柴田センセーを釣り上げたって、いったい何の話?」


 かと思ったら椿先輩、また笑顔でわたしが『ギャーッ!?』な話を続行するし!


「あれ、僕は御園さんの釣果だったんですか。美味しく料理されちゃうのかなー」

「しませんから!」

「おや、残念」


 柴田先生はにこにことした笑顔を崩さず、とんでもない台詞を平然と吐き出すので、わたしは大慌てで否定する。

 でも、『残念』って、『残念』って何ーっ!?


「柴田センセーが一番、皐月をからかって楽しんでると思うんだけどな……」

「同感。で?」

「ああ、それは。

んーと、石動センパイは構内で猫を見掛けた事ってあります?」

「あー……昨日出くわしたなあ……」

「あの猫、昼頃になるとこの辺に出没するんスよ。学生の弁当目当てに。

で、それに目を付けた皐月が、猫好きな柴田先生を誘ったって訳です」

「……えっ!?」


 モグモグ、と、持参のお弁当とパンを食べながら語らっていたあっ君と椿先輩だったが、突然椿先輩が弾かれたように腰を浮かせた。

 そこへ、待ちかねていた主役が「なぁ~う~」と、茂みから姿を現した。


「待ってましたブナさ~んっ」

「ブナさん、今日は鮭がありますよー」


 わたしと柴田先生は、いそいそと持参のお弁当箱から『ブナさん用』のおかずを手に取り、やたらと警戒心の強いぶち模様の野良猫、通称ブナさんとの距離をジリジリと詰めていく。そんなわたし達とは対照的に、椿先輩はずりずりと、腰を低く落とした体勢のまま、わたしや柴田先生、そしてブナさんから後退る。

 ブナさんは鷹揚にわたし達の姿を一瞥し……タッと、その四肢で芝生を蹴りこちらに向かって駆け出した!


「わ~いブナさ……ん?」

「ブナさ……」


 おいでおいでと、満面の笑みでウェルカムなわたしと柴田先生の脇を素通りし、マイペースに元の場所に腰を下ろしたままお弁当に舌鼓を打つあっ君の背後を回り込み、


「うわぁぁぁっ、やっぱりこっち来たああああっ!?」


 距離を取っていた椿先輩の胸元目掛けて、ブナさんはまっしぐらに突撃をかましていた。


「な、何でっ? 椿先輩、別にキャットフードとか持ってないのに」

「うん、とても不思議な事もあるものだね。ブナさんは迷わず石動君の下へ走っていった……僕らの知らない間に、ブナさんを手懐けてたの? 石動君」

「知りまっ、クションッ!

とにかっ、クションッ! たすっ! ふ、フアックショッ!」


 芝生の上に尻餅をついた椿先輩は「なぁごなぁご」と、しきりと甘えるブナさんを胸元に乗っけたまま、くしゃみを繰り返しながら何かを言おうと苦心している。


「……御園さん、石動君からブナさんを遠ざけた方が良い。彼、きっと猫アレルギー持ちだ」

「ええっ、大変!」


 柴田先生の言葉に、わたしは慌てて椿先輩の胸の上からブナさんを抱き上げた。かなり距離を取って、改めてご飯をあげると、嬉しそうに食べている。椿先輩はゲホゲホと咳き込みながら更に後退りつつ、着ていた上着を脱ぎ捨て、あっ君がそれを手早く畳んで自分のお弁当袋に突っ込んだ。お弁当箱、どうやって持って帰るつもりなのか分からないけど、あっ君グッジョブ。

 うーん、柴田先生が猫好きなのは、乙女ゲームからの知識通りだけど、椿先輩が猫アレルギー持ちだなんて話、出てたかなあ? 知らなかったとはいえ、申し訳ない事しちゃった。


「はー……ビックリした」

「すみません、椿先輩っ。大丈夫ですかー?」

「うん、こっち風上みたいだから平気ー」


 気が付いたらわたしと椿先輩の間には、5、6mぐらい距離が開いていた。


「すんません、石動センパイ。まさかアレルギー持ちだとは思いもよらなくて」

「良いよ良いよ。ちょっと驚いただけだし、俺も油断してた。

俺、猫アレルギー持ちなのに、なーぜか猫によく懐かれるんだよね……」

「あ、今先生ちょっと、羨ましいとか思っちゃった」

「柴田先生、ブナさんになかなか近寄ってきて貰えませんもんね」


 はーっと溜め息を吐く椿先輩に、柴田先生は羨ましげに椿先輩と、わたしの腕の中のブナさんを交互に見た。


「そりゃ、アレルギーさえ無きゃ、自慢出来るかもしれませんけどっ!」

「……世の中って、上手く出来てるなあ」


 そんな事言われても! と、憤然と抗議する椿先輩と、まだ羨ましげな表情のままの柴田先生を眺め、あっ君は感心したように頷いた。天は欲しがるものには与えない、と。確かに、皮肉に満ちて世の中は上手く回ってるね。

 と、柴田先生の白衣のポケットから、ブー、ブーと携帯のバイブレーションの音が響いた。


「あ、しまった時間だ」

「でも先生、まだお昼ご飯途中なのに」

「教授と約束があるんですよ……ああ、憂鬱だ」

「が、頑張って下さいね?」


 白衣のポケットから携帯を取り出した柴田先生は、バイブレーションを止めると再びポケットに携帯を滑り込ませ、手早くお弁当箱を片付けて立ち上がった。


「それじゃあ僕はもう行くね。

ああ、それから御園さん。ブナさんを離しても、今日は着替えてシャワーでも浴びない限り、石動君に近寄ってはいけませんよ。猫アレルギーのアレルゲンは、抜け毛だけでなくフケも含まれるから、気が付かない間に御園さんの身体に付着している可能性が十分あります」

「わわ、そうなんですね。気をつけます」

「……それ見越して?

ヒバリセンセー、容赦ねえ……ってかエグい」

「直裁的に宣戦布告を言い放つ中條君ほど、スマートにはなれませんねえ、僕は」


 ?? ダメだ。あっ君と柴田先生が何を話してるのか、よく分からない。よし、ここはひとまずっ。


「柴田先生は、スラッとスマートで、格好良いですよ?」


 い、言っちゃった。これは照れるなぁ、流石に。

 わたしのおずおずとした褒め言葉に、柴田先生とあっ君はこちらを見て……あっ君は深々と溜め息を吐いた。何故!?


「ふふ、有り難う御園さん。それじゃあこれからも遠慮なく、今の『御園さんにとってはスマートで格好良い僕』のままでいこうか」

「はいっ」


 すれ違いざまに何やら椿先輩に言い含め、そうして構内に急いで駆け戻っていく柴田先生を笑顔で見送り、わたしはブナさんを現れた茂みにお返しした。次は椿先輩が居ない時に来るんだよー。


「あ、それで皐月ちゃん、今日はちょっと聞きたい事がー」

「はい、何でしょうー?」


 ブナさんの振り撒いたアレルゲンを警戒し、相変わらず離れたままでいるわたしと椿先輩は、向かい合ってやや声を大きく張り上げながら会話を試みる。傍らであっ君が、「石動センパイ、よくメゲねぇな」とか、変なところで感心してるけど。


「あのね、美鈴ちゃんはお花畑眺めるのって好きなんだよねー?

そこで待ち合わせようと思ってるんだけどー」

「はい、凄く好き、大好きですよー!」


 おお、椿先輩そんなところからリサーチしてくるのか。ふふ、そうね、好感度大アップイベントで、今日は美鈴ちゃんとデートだものね。わたしが力強く肯定すると、椿先輩は安心したように笑みを浮かべた。

 遠目に、柴田先生がちょっと驚いたような顔をしてこっちを振り向いているのが視界に入った。あれ? 柴田先生はまだ、美鈴ちゃんとの出会いイベント、発生してないハズだよね? 何で驚いてるんだろ。


 ありがとー、とお礼を言いつつ、猫アレルゲンを警戒してか、早々に構内に引っ込んでしまった椿先輩も見送る。

 ……あ。もしかしたら椿先輩、これからわざわざ一度家に帰って、シャワー浴びたり着替える必要があったりするのかも。ブナさんに乗っかられてたし。アレルギー持ちって、どうしても自衛が必要になるんだね……

 芝生に残ったわたしとあっ君は、再びマッタリとランチタイムを満喫していた。次の講義まで、外に出るにはちょっと短くて、構内で過ごすには少し長めの時間が空いてるんだよね、わたし達。


「……皐月、『みすずちゃん』って誰だ?」

「んー。昔、あっ君に紹介した事あったかなあ。わたしの家のお隣に住んでる女の子だよ。

ホントは、ホントはさ」


 微妙に言葉に詰まるわたしに、あっ君は無理に急かしたりはしなかった。モグモグと、時間を掛けてお弁当を味わっている。


「本当は美鈴ちゃんには、椿先輩じゃなくて、わたしのお兄ちゃんと付き合ってもらいたかったんだよね」

「……え。あの人、いつの間に皐月の隣人と付き合い始めたんだ」

「まだお付き合いまではいってないみたいだよ。今日は多分、椿先輩と美鈴ちゃん、デートのハズだけど」

「……うあ、こっちが知らん間に見切り付けてたのか。無駄にケンカ売っちまったじゃん」

「あっ君、わたしが気が付かない間に、椿先輩とケンカしてたの?」


 いったいいつの間に。例の、同年代男同士の熾烈な値踏み合いとかいう、アレがケンカに相当するのかな?


「で、何。その『お隣のみすずちゃん』って可愛いの?

嘉月さんと付き合わせたいとか思うぐらいに?」

「うん、すっごく可愛い。お料理上手だし、家事全般得意だし、世話焼きでお兄ちゃんにぴったりのお嫁さん候補だったの!

それが、それが……」

「石動センパイに横からかっ攫われた、と」

「そうなのーっ!!」


 わたしは思わずバシバシと、芝生を両手で叩いていた。ああ、あのショックが未だわたしの胸にはこんなにもくすぶっていたのね。


「……もしかして、皐月が今日何か元気なかったのは、それが原因?」

「うー。そうだよう。

お兄ちゃん自身は美鈴ちゃんに惹かれてる訳じゃない、わたしの早合点だ、とか言うし!」

「本人が違うって言ってんだから、違うんだろ?」

「うー」


 やっぱりやっぱり、なんか納得いかなーいっ。



 椿先輩と美鈴ちゃんをおうちに招いて一緒にお茶をしてから、数日が経ってもお兄ちゃんは相変わらず普段通りに生活していた。

 ねえ、まさかお兄ちゃん。イメチェンしたのも、本当に美鈴ちゃんの目が気になり始めたからとかじゃなくて、前にご飯中にわたしが『前髪と髭鬱陶しい』って言ったからなの? お兄ちゃんは昔から、わたしに優し過ぎるよ……


 椿先輩は美鈴ちゃんと順調に仲を育んでいるようで、この間なんか「美鈴ちゃんに、英語教えて欲しいって家庭教師頼まれちゃった」なんて、嬉しそうにわたしに報告してきたしっ。自慢か、やっぱり自慢なのかっ?

 それも乙女ゲームでは、美鈴ちゃんが家庭教師をお願いするのは嘉月お兄ちゃんか、椿先輩の二択なのに。「美鈴ちゃんをよろしくお願いしますね」って椿先輩に笑顔で言うの、何だか辛かった。


「皐月? 最近体調でも悪いのか?」

「なんでもないよ?」


 自分の部屋で柴田先生からの借り物の聖書を読んでいたら、お兄ちゃんがわたしの部屋のドアの向こうから、静かに声を掛けてきた。

 お兄ちゃん、いつも優しくしてもらってるばかりで、守ってもらってばかりで、全然お返し出来なくてごめんね。幸せになるお手伝いするんだって意気込んでたのに、役に立たなくてごめんね。


「その、最近部屋に籠もりがちだし……」


 わたしは聖書を手にしたまま、部屋のドアを開いた。今日も素材だけで選んだであろうTシャツ姿のお兄ちゃんは、心配そうにわたしを見下ろしている。


「やだな、レポートがたくさん出てるだけだよ~。いつもお仕事部屋で缶詰めになってるお兄ちゃんにだけは、言われたく無いな」


 精一杯明るい笑顔で告げると、お兄ちゃんは少しホッとしたように頬を綻ばせた。

 うん、落ち込んでる場合じゃないよね。美鈴ちゃんが椿先輩の方が良いなら仕方がない。お兄ちゃんが幸せになれる彼女探しは、また初めからだな~。

 お兄ちゃんに余計な心配を掛けないように、今日のところはリビングで読書に励む事にする。


「『ペテロの第一の手紙』……柴田先生が引用してた章だ」


 開いたページは、以前柴田先生が口にされた、何となく聖書への印象が塗り替えられた気分になったあの章だった。


「えっと……『あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである』」


 一章の二十二節と二十三節を声に出して朗読してみると、いかにも宗教のお説法らしい雰囲気に満ち溢れていた。そうか~、キリスト教の聖書を読んだ事が無くても、宗教に対するイメージって日本人の心にも、淡くふわっと擦り込まれてるものなんだ。

 しかし、ここでもたとえに種が使われてるな。種って、象徴的イメージに添いやすいのかも。


「きゅ、急にどうしたんだ、皐月?

兄妹愛で熱く愛し合え、って」


 わざわざお茶を淹れてくれたらしい。お兄ちゃんは湯飲みを乗せたお盆を両手に、頬を真っ赤に染めて口をポカーンと開けて固まっていた。


「ああ、聖書の一節だよ。この場合の『兄弟愛』は、キリスト教徒同士の結束とか、全人類世界平和を指してるだろうね」

「あ、ああ。そうだよな、全然違う、よな」


 お兄ちゃんがお盆をテーブルの上にササッと置いている間に弁解すると、わたしの話を聞いたお兄ちゃんは顔を背けて、ゴホンゴホンと咳払いをした。まだ顔が赤い。お兄ちゃん大丈夫?


「皐月、聖書を読み始めて、改宗でもする気か?」

「ううん。興味が出たから読んでるだけ。そもそも、一神教は馴染めないと思う」

「そうか……」

「うん。ゼミの先生は、『聖書は哲学書の一種だと捉えてる』って言ってたけど、お兄ちゃんはどう思う?」


 わたしの前に湯飲みをコトリと置き、真正面に落ち着くお兄ちゃんに尋ねてみると、お兄ちゃんは湯飲みを手にしたまま「そうだな……」と、思案しだした。


「俺は、古くから連綿と伝わる、コールドリーディングに近いものだと思っている」

「こーるど、りーでぃんぐ?」


 何だっけ、それ? と、首を傾げるわたしに、お兄ちゃんが簡単に説明してくれたところによると。

 コールドリーディングとは、占い師などが事前情報なども無く相手の情報を言い当てる話術。注意深い観察力や洞察力、それによって説得力を生み出し、相手へ与える信頼感などが要求される、高度なテクニックらしい。


「でもお兄ちゃん、これ、著者は直接相手の……読者の反応なんか見れない本だよ?」

「ああ。だが、『受け取り手が自らの納得をいく解釈を自然と考え、同調し、安心感や信頼感を得る』という点では同じだ。説得力に関しては、全世界の二十億人を超える信者の人数が証明には充分だろう」

「そ、そういう考え方もあるんだ……」


 何か今日、わたしとお兄ちゃんの頭の中身が全然違う事を、はっきりまざまざと見せ付けられたような気分だわ……



 五月も終わりに近付く今日の土曜日は、ゼミの先輩のお誕生日である。お誕生日会という名の名目による飲み会が、毎度の飲兵衛な先輩達によって企画された。

 わたしはブッチしても良かったんだけど、柴田先生がお目付役を兼ねて参加する、なんて笑顔で言ってたからね! きっと、未成年のゼミ生の皆が、酔っ払った先輩達に無理やりお酒を飲まされないように、見張ってくれるつもりなんだと思う。


「それじゃあお兄ちゃん、今日は帰りが遅くなるから」

「ああ。店まで迎えに行く」

「え、そこまでしなくても……」

「酔っ払いに絡まれて、帰るに帰れなくなっているかもしれないだろう」


 お出掛け前に、お兄ちゃんの心配性の洗礼を長々と受けて、それからようやく待ち合わせのお店へと向かえた。まったく。うちのお兄ちゃんの過保護にも困ったもんだ。


「おーっ、御園ちゃんキターッ」

「きゃはははは!」

「皐月ちゃんこっちこっちぃ」


 お店に足を踏み入れると、まだ夕方前だというのにすっかり出来上がっている集団が。

 というか先輩方、お店の出入り口からも見えるお座敷の一角で賑やかに騒ぐのは、それはちょっと恥ずかしいです……


「御園さん、さ、危ないですから、僕の隣にどうぞ」


 一瞬、お店の出入り口で硬直していたわたしだったけれど、奥に座っていた柴田先生のおいでおいで、にフラフラと引き寄せられて、気が付けばわたしは履き物を脱いでお座敷に上がっていた。


「今日は割り勘ですから、損をしない為にも遠慮なくどんどん食べて下さいね」

「ヒバリちゃんっ、そこは『今日は僕の奢りですから』って言わないと!」

「ハハハ、それは困った。いくらなんでも、生徒を騙すような嘘は言えないじゃないですか」


 すっかり酔っ払って上機嫌な先輩に突っ込まれても、柴田先生は笑顔で答えている。


「御園さんには、こちらのソフトドリンクですね。どれを頼みましょうか」

「有り難うございます、柴田先生。えっと、じゃあ烏龍茶で」


 お酒のおつまみになるお料理が、目の前のテーブルにはたくさん並べられていた。ご飯をたくさん頂いて、お茶を飲んで柴田先生とお話するのが今日の目的だ! よーし、頑張って先生の隣をキープするぞー。


「あーっ、もう始めちゃってるの!?」


 お料理を取り皿に取っていると、お店の出入り口から不満げな声が上がった。視線をそちらに向けると、椿先輩と目が合う。

 ふわっと笑みを浮かべた椿先輩はお座敷に上がると、迷わずわたしの真正面の席に腰を下ろした。


「やあ、皐月ちゃん。この酔っ払い連中、皐月ちゃんに迷惑かけてない?」

「皆さん気持ちよく飲まれてますし、何も問題ないですよー」


 わたしの隣に座っていた柴田先生が、ドリンクメニューを椿先輩の前に差し出した。成人している椿先輩にはもちろん、アルコール飲料のメニュー表だ。裏っ返せばノンアルコールメニューが並んでるけど。


「石動君は何を飲む?

一発、ロングアイランドアイスティーいってみる? それともカルーアミルク?」

「いやだ先生、俺をベロンベロンに酔わせてどうしたいの?

開始早々、お持ち帰りのターゲットにされてるー!?」


 柴田先生が、お酒の名前かな? それを椿先輩に勧めると、椿先輩は笑顔のままわざとらしく同席者に向けて訴えて、両腕で自分の身体を抱き締めた。そんな柴田先生と椿先輩のやり取りに、居酒屋のお座敷テーブルを囲んでいたゼミ生達が、ドッと笑い声を上げる。

 え? 何? 何事?

 話の展開が掴めなくて困惑しているわたしに、柴田先生が囁いてきた。


「今のは、女の子でも飲みやすい味付けでも、アルコール度数の高いお酒の代表格だよ」

「なるほど~」


 そっか、わたしみたいにお酒の席にもの慣れない女の子、多いもんね。笑い話にして、さり気なく忠告してくれたんだ。『この手のお酒をしつこく勧めてくる男には要注意』って。


「正統派のスクリュードライバーの方が良いみたいだね?」

「いやあ、俺、見た目まんまレモンティなロングアイランドアイスティーの方が好みです」

「見た目が?」

「味も! でもま、まずはビールでしょ!」


 早めに到着していた先輩達は、一部すっかり酔っ払っているけれど。何はともあれ、わたし達は受け取ったグラスを掲げて、


「お誕生日おめでとう、かんぱ~い!」


 今日の飲み会は始まったのだった。



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