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本編⑥

 

 夕方前、時枝先輩と駅で別れた私は、真っ直ぐ家へと向かってずんずん歩いていた。

 何故だろう、顔が勝手ににやけてくるのは。いや、確かにたまには外にスケッチに行くのも良いなぁ、とか思うけど。

 脈絡もなく奇声を張り上げてごろごろのた打ち回りたくなる。私は頭がおかしくなってしまったのだろうか。


「美鈴さん?」


 はふぅ……と、深い溜め息を漏らした私が通り過ぎようとした路地の向こうから、見知った男性の声が聞こえてきた。


「嘉月 (かげつ)さん、こんにちは」


 歩道の端っこで立ち止まり、隣人である広瀬 (ひろせ)嘉月さんがこちらに歩み寄ってくるのを待った。今日の嘉月さんも、どことなくぽやーっとした風情で街中を移動しており、未覚醒状態であるように見受けられる。しかし、ジーパンにスニーカー、薄手の上着はともかくとして。『兎の一念岩をも貫く』プリントのTシャツ姿というのは、嘉月さんの趣味なのだろうか……デフォルメされた兎が、まるでボクシング選手のような渾身のパンチング一撃で大岩を砕いているイラストが、滅茶苦茶存在感を放っている。


「……美鈴さん。どうか、した……?」


 ハッ。思わず嘉月さんの胸元を凝視してしまっていた。しかし、兎の一念って何だ。もの凄い気になるぞ。上着を脱いで、後ろを向いてみてはくれないものだろうか。もしかしたら、答えが背中にプリントされているかもしれない。


「あ、いえ。すみません、なんでもないです。

嘉月さん、今からどこかへお出掛けですか?」

「……いや」


 嘉月さんは首を緩く左右に振った。


「散歩から、帰るところ……」


 ならば一緒に帰りましょう、と誘ってみると、嘉月さんはコクリと頷く。


「それで、今日は何か良いアイデア浮かびましたか?」


 散歩に出掛けて行った後、毎度掛けられる問いに、嘉月さんはしばらく考えるように首を傾げて、おもむろにコクリと頷いた。


「……多分、良いアイデアが浮かんだと思う」

「『多分』なんですか?」


 どうして気弱な単語を頭に乗っけて喋るのか。

 嘉月さんは頭の中で一生懸命整理していたのか、少しばかり沈黙してから怒涛の勢いで語り始めた。あなたの眠気はどこへ?


「金持ちの老人が死亡した殺人のトリックなんだが、一見したところは毒殺に見えたが老人が死ぬ直前に食べていた料理の中には毒物は検出されず、呼吸困難などの体調急変は老衰による自然死だと落ち着いて、遺族にも警察側にも、老人を死に至らしめた犯人がいるとは分からない状況なんだ」

「でも、不自然な死亡だと強制的に司法解剖か、病理解剖に回されるんじゃないんですか? 初めは毒殺だと疑われていたなら特に」

「……この場合やはり、司法解剖だろうか……いや、食べてから死ぬまで時間が掛かれば料理を調べて毒物が無い事が判明して、病理解剖にいくだろうか……?

いや、現実にそう猶予があるとも思えないし、救急車で病院に運ばれる途中で亡くなるだろうか……?」


 私は当然の疑問を投げかけた。それとも、監察医が調べても死因は心臓発作にしか見えないだとか、カルテに偽の死因を載せるよう犯人が強要したのか?

 嘉月さんは遠くを眺めやり、頭を悩ませているらしき難問をぶつぶつと独り言ちてから、再び傍らを歩く私を見下ろした。


「司法解剖は事件性のある死亡の場合、強制的に行われるんだ。対して病理解剖の場合、一応は遺族の承諾を得る。

しかし美鈴さん、よく病理解剖なんて言葉を知っていたな。刑事物のドラマやなんかで聞く『解剖』と言えば司法解剖ばかりだろうに」


 どうやら、喋っている間に眠気が完全に覚めてきたらしき嘉月さんは、感心したように呟く。

 そう言えば、私もどうしてそんな言葉を知っていたんだろう。まあ、時折ポンと出てくる私が知らない筈の単語や知識は、大抵が前世の彼女の遺物だけど。あいにくと私は例のゲームの情報及び、家事技能知識以外を活用するつもりはさらさら無い。


「さあ? 医者やら病院物ドラマで聞いたのかもしれません」

「なるほど」

「それで、そのご老人が亡くなられた本当の原因は何なんですか?」

「アナフィラキシーショックだ」


 嘉月さんの言葉に、私は何故か全身から血の気がサッと引いて、更には横手から頭をガツンと殴られたかのような衝撃が走り、一瞬クラリとよろめいていた。


「……美鈴さん?」

「あ、すみません、何でもありません」


 隣を同じ歩調でほてほてと歩いていたはずなのに、突然脈絡もなく歩みを止めてフラついた私に、嘉月さんは一歩足を踏み出してから同じく立ち止まり、怪訝そうに振り向いてきた。

 私は内心慌てて立ち止まっている嘉月さんの隣に歩み寄り、何食わぬ顔を装って帰路に着くべく、のんびりした歩調で追い抜く。嘉月さんは再び私の隣を並んで歩き始めた。


 何だろう。何だろう。

 今、何か私、重大な見落としっていうか、根本的な勘違いをしているような気がしたんだ。


「それでええと、嘉月さん。あな……何とかって、何でしたっけ?」

「こちらは知らないか。美鈴さんは、アレルギーは知っているだろう? 免疫の過剰反応」

「はい。花粉症の人とか、年々増加してますよね」

「そのアレルギーが、更に生死に関わるほど深刻な状態を引き起こした症状だ。

呼吸困難や血圧低下、腹痛や嘔吐、意識を失い失神したりする」

「怖っ」


 淡々と解説する嘉月さんに、その症状を想像した私はぞわぞわとした悪寒が全身に走った。


「大抵の人には無害。家族にもそして本人にも、アレルギー持ちだと知られていなければ、対応が遅れると思わないか?」

「本人も家族も知らないアレルギーを、犯人は何で知ってるんですか」

「いいや、犯人もそうだとは知らなかったんだ」

「……え?」


 嘉月さんはゆっくりと首を左右に振り、断言する。

 犯人が殺意を抱き、被害者の弱点を攻める。被害者がアレルギー反応を示す食材を使い、死に至らしめる。そこまでは理に適っている。

 しかし、犯人も被害者のアレルゲンを知らないのならば、料理に混ぜようがないではないか。


「被害者は幼少時から、好き嫌いが激しかった。食べたら気持ちが悪くなるという理由で。

老人が幼かった当時から、アレルギーが広く周知されていたとは思えない。当の本人も『嫌いな食べ物』を決して寄せ付けなければアレルギー症状も出ず、単なる『好き嫌い』だと思っている可能性も高い」


 私の脳裏に、好き嫌いが激しい子ども向けの、野菜を美味しく食べさせるレシピが幾つも浮かんだ。


「……つまり犯人は、老人の好き嫌いを直すという名目で、アレルゲンを求めて『嫌いな食べ物』を工夫して調理させて、老人に何気なく食べさせてたって事ですか?」

「そういう事になる」

「何だか……気が長い話というか、普通のアレルギー症状だけが発生したなら、骨折り損な気が」

「犯人は別に、失敗したって構わなかったんだ。あらゆる手段を講じられる中で重要なのは、自分の殺意が立証さえされなければそれで良い」

「うわあ」


 思わず呻いていた。それはつまり、犯人にとっては保身が第一であって、あくまでも老人が死ねばめっけもの、という意識でいる、という事にならないか?


「じゃあいっそのこと、初回のその老人アレルギー殺害事件は、「殺害事件だ!」と騒ぎ立てる遺族の前で様々な条件から、探偵役は『事故死』であった、と推理して片付けて。そのままシリーズ化したりして、最終的には探偵役の人か、一話目から語り手が変わらない一人称の人が犯人だった、って最終話のラストで明かしたりしたら、意外性があるかもしれませんね」


 私の適当な感想に、嘉月さんは広げた片方の手のひらの上に握り拳を『ポン』と叩いた。単なるその場の思い付きなのだが、まあ何かマズければ嘉月さんの担当さんが止めるだろう。


 嘉月さんと話している間に私の自宅の前にまでやって来たので、私はダメ元でお茶に誘ってみた。てっきり遠慮がちに断ると思っていたのに、当の本人はすんなり頷いている。

 嘉月さんは玄関先で靴を脱ぎつつ言う。


「実は今夜は皐月が出掛けていて、帰宅時間は夜も遅くなるからな。帰り道は駅まで迎えに行こうと思っているんだ」

「ええと、つまり?」

「今夜は夕飯が遅いのだが、家で一人、皐月が居ない間に間食をするのはどうにも具合が悪い」


 よく分からない。夕飯前にお母さんに内緒でおやつを食べて、ご飯がお腹に入らないかもと憂慮する子どもか?

 夕方、私にお茶に誘われたって大義名分を得て、小腹を満たすべくいそいそと招かれる嘉月さん。可愛い……のか?

 ……ダメだ。嘉月さんの行動原理がよく分からない。もののついで? お茶好きなだけかもしれない。


「美鈴、お帰り!」

「お父さんただいま~」

「お邪魔します」


 玄関を上がったところで、奥のキッチンダイニングから姿を見せた我が父は、私が連れてきた嘉月さんを目にするなり凍りついた。

 流石にこの時間にまでパジャマ姿ではない。まあ、今更お隣さんに我が家の父を取り繕う気は無いけれど。


「あ、嘉月さん狭苦しい我が家ですが、どうぞこちらへ」

「ありがとう」

「み、みみみ、美鈴?」


 嘉月さんに客用スリッパを出し、ダイニングに案内する私の肩を、お父さんが掴んでくるので、私は軽くなった重箱の包みと水筒を押し付けた。


「お父さん、はいこれ。先輩美味しいって喜んでたよ。有り難う」

「そう、それは良かった!

……じゃなくて!」


 お父さんは反射的に荷物を受け取りつつ一瞬誇らしげに顔を輝かせ、すぐさまそんな話がしたいのではないとばかりに否定した。


「美鈴は部活の先輩と美術館に行った筈なのに、どうして帰ってくるなり広瀬君がうちに招かれるのかなあ?」

「時枝先輩とは駅で別れたよ?

帰り道で偶然嘉月さんと会って送って頂いたから、うちでお茶を召し上がって頂こうと思って引き留めたの」


 ……どうやら我が父は、外見天使なツンデレ天才を我が家にお招きする未来図を仄かに期待していたらしい。送り迎えもせぬ中年に、文句があるのかとピシャリと言い付ける。

 まったくこの中年は、本当に危機感が無い。そんなにショタ担当との薔薇道フラグをザカザカと乱立させたいのか。時枝先輩がうちの中年に好感や憧れ……いや、憧憬に近い感情を寄せている今、不用意に接近させるのは危険とみるべきだろう。

 私は嘉月さんに紅茶を出すべくキッチンダイニングのイスを勧め、ヤカンに水を注ぐと火にかけた。そして、先日焼いたクッキーを仕舞っておいた缶を棚から取り出し、蓋を開く。……中身は空っぽだった。


「お父さん、クッキーが空なんだけど?」

「あ、ごめん美鈴。お父さん今日全部食べちゃった」

「もー、私まだ全然食べてなかったのに」


 男の客人に出す為に確認したと理解しているからか、嘉月さんの真正面のイスに腰掛けた体勢のままキッチンを軽く振り向返って答えた甘党中年は、全く悪びれない。私は唇を尖らせた。

 遠慮がちに上着を傍らのイスの背もたれに掛け、着席した嘉月さんは、私とお父さんのやり取りにクスリと小さく笑みを零した。

 私は仕方がなく、手作りクッキーを茶請けに出す事を断念し、既製品のミニサイズのマドレーヌを小皿に人数分用意する。大皿に盛ったら、嘉月さんが遠慮して手をつけず、かつ、うちの中年が容赦なくバクバク食い散らかす危険性があるからだ。


「……仲が良いんですね」

「当然でしょう」


 微笑ましげに呟く嘉月さんに、父は胸を張って自慢する。和気あいあいとお喋りしているうちのお父さんは結局のところ、嘉月さんの事をどう思っているんだろう?

 カチャカチャと茶器を用意し、茶葉を選ぶ。果物籠から取り上げたグレープフルーツをカットしていると、ピュー! と、ヤカンの中身が沸騰する音が鳴り、私はガスの火を止めた。

 予め温めたティーポットに、分量を計って入れた茶葉はオーソドックスなアールグレイ。それとカットしたグレープフルーツを一切れ入れて、なるべく高い位置からたっぷり空気を含ませたお湯を注ぐ。

 トレーにはひっくり返した砂時計、こちらも予め温めておいたティーカップ。ソーサーにそれとティースプーンを添え、茶菓子皿とシュガーポットも乗せる。キッチンからそれらが乗ったトレーを運び、父と嘉月さんの前にそれぞれ茶菓子を出す。


「良い匂いがするな」

「頂き物のグレープフルーツをカットしてみました。私もお父さんもこれ、そのままかじれないので」

「あれはとんでもなく酸っぱいよね。舌も痛くなるし。挑戦してみて、凄く後悔したよ」

「……生のグレープフルーツを齧るのに、挑戦してみたのですか」


 嘉月さんが呆れている気がするが、食べれる人は生のまま食べるからなあ。品種も関係するのかな? ……ああ、違うや。嘉月さんはそもそも、お父さんと同じで食品の辛味系刺激物は得意じゃないんだっけ。そりゃあ呆れもするかも。

 ひっくり返していた砂時計の砂が全て下に滑り落ちたので、私はティーポットからお茶を注ぎ、嘉月さんとお父さんの前にふんわりと優しい香りを漂わせるカップを出す。

 嘉月さんは隣のイスに上着を掛けていたので、お父さんの隣に腰を下ろした私は、目の前の上着をしばし眺め……ガバッと嘉月さんの胸元に注目した。


「わあ、美味しい。やっぱり美鈴の淹れてくれた紅茶は最高だ」

「本当に。素晴らしい香りですね。紅茶に生のフルーツを入れるなんて、贅沢な味わいです」


 シュガーポットから、四角いお砂糖を三粒もカップにポチャンポチャンと投入した父は、どう考えても砂糖の味しかしなさそうなグレープフルーツティーを啜り、ほぅ、と感嘆の溜め息を吐く。嘉月さんの方は一粒と普通だが、うちの父と向かい合い茶を楽しむ姿は非常にしっくりと馴染んでいる。


 ああ、何という事だ。私とした事が……嘉月さんの背中のプリントを覗く千載一遇のチャンスをフイにしてしまった!?

 今、目の前で我が父と同種類のほわ~っと気の抜けた表情でカップを傾け、マドレーヌを美味しいと喜んでいる嘉月さんのTシャツ、その裏側の真実をさり気なく垣間見れる絶好の機会は、彼の斜め前のイスに着席した事でかき消えてしまった。かくなる上は、嘉月さんに直接尋ねてみるしかあるまい。


「あ、それで嘉月さん……」

「そうだ広瀬君! 最近仕事の調子はどうだい?」


 思い切って話し掛けようとした私の発言を、父が普段よりも大きな声音で被せて遮り、身を乗り出す。おのれ中年、空気を読め!


「翻訳の方は定期的に仕事を回して頂けて、順調にやっています。

ミステリーの方は、今日お嬢さんがとても良いアドバイスを授けて下さったんですよ」

「ほう、美鈴が? いったいどんな話を考えているんだい?」


 父は身を乗り出した体勢のまま食い付き、嘉月さんも嬉々としてアイデアを披露する。いかに私や父の雅春が、嘉月さん以外の物書きさんとは縁遠い上に余所にネタを広めたりはしないタチだとはいえ、編集さんと相談して、原稿にする前の原案をこんなに広めても良いのだろうか?

 しかし懸念を抱く私をヨソに、テーブルの話題は殺人事件のネタやらトリックで盛り上がりをみせる。いや、私もライトな雰囲気のミステリーは嫌いじゃないけどね? グロやらドロドロやらは、やっぱり遠慮したい訳ですよ。この辺の趣味嗜好は、転生しようがどうしようが、そうそう成長しない。


「ではいっそ、探偵役は執事でどうだろうか。

主人に付き従って出た先で、主人に降りかかった冤罪を晴らしたり、偶然見掛けた非道に心痛める主人が笑顔を取り戻せるよう努めるんだ」

「そうすると、その主人は見惚れるような男ぶりの紳士か、年若い令嬢のどちらかが良さそうですね」

「主人と執事の強い信頼の絆も捨てがたいが、仕えるべき主人へと密かに想いを寄せる執事の働き……ありがちでベタだが、とても良い」


 お父さんと嘉月さんは、今度はキャラクター造形について語り始めた。嘉月さんの背中が気になって、会話に気もそぞろだった私はふと思い立ち首を傾げる。


「亡き夫に一途な未亡人の夫人に仕える執事探偵、じゃダメなの?」


 私の何気ない一言に、嘉月さんとお父さんは動きを止めた。


「……我が娘ながら、なんと恐ろしいキャスティング……!

簡単な役割だけで、思わず裏を勘ぐってしまうじゃないか……!」

「いえ、お父さん。美鈴さんはあくまでも、純粋な気持ちで口にしたに過ぎません」

「分かっている! 私とて、娘の純真さを分かってはいるんだが……やり場の無い秘めた想いの香りが漂う!」


 今ダイニングキッチンに漂っているのは、中年曰くの秘めた想いとやらではなく、単なるグレープフルーツティーの香りである。


「純真無垢な未亡人……ありでしょうか」

「ひ、広瀬君がキャラメイキングして表現可能なら、ありなんじゃないだろうか?」


 父と嘉月さんは、私にはよく分からない点で合意に至ったらしい。旦那の老人を殺して未亡人になった、ぐらいの気持ちで私は言ったのだけれど。全部の意見を拾うと、真犯人は純真無垢とやらを完璧に装っている未亡人か。世は無常だ。

 私はテーブルを囲む彼らの空になったカップにおかわりを淹れてやり、盛り上がる様子を観察する。今、嘉月さんの後ろ姿が見たいと言い出すのは、流石にこちらの方が空気を読めていない所業だろう。

 ひたすらにタイミングを窺う私に男性陣は全く気が付かず、嘉月さんはふと自らの腕時計に視線を落とした。


「すみません。そろそろ皐月を迎えに行く時間なので、名残惜しいですが、これで失礼します」

「おや、もうそんな時間か」


 玄関先では、嘉月さんを連れて来た私に戸惑い顔を見せていたクセに、中年はすっかりこの隣人を気に入ってしまったようだ。

 私も最近気が付いたばかりだけれど、うちの中年と嘉月さんって、テンポというか纏う空気が一緒だからな……似た者同士で気が合うんだろう。

 嘉月さんは立ち上がると、傍らのイスの背もたれに掛けていた上着をサッと羽織り、イスを元通りの位置に戻す。ああっ、上着を着込まれた! 兎の一念は結局どうなったの、嘉月さん!?


「それでは失礼致します。今日は本当に美味しいお茶を有り難うございます。ご馳走さまでした」

「いやいや。良ければまた今度、時間が空いた時にでもいらっしゃい。また一緒にお茶にしよう」

「はい、是非」


 笑顔で手を振るお父さんを残し、私は嘉月さんを玄関先まで見送りに出る。ああ、嘉月さんの上着に覆われた背中が切ない……

 靴を履いた嘉月さんは、クルリと私を振り返る。


「美鈴さん、今日はお茶に誘ってくれて有り難う。ご馳走さま」

「お気に召して頂けて良かったです」


 つい、未練がましく嘉月さんのTシャツのプリントを眺めてしまう。見れば見るほど、非常識な兎だ。


「……美鈴さん」

「はい」


 玄関のドアを開いてお客様のご出立を促す私に、嘉月さんは躊躇いがちに口を開いた。


「その、あなたも気になっているようだが……」

「え、あ、気が付いて、いらしたんですか?」

「ああ」


 しまった。なるべく顔に出さないようにしていたのに、私の挙動不審な態度で嘉月さんにはお見通しだったのか。これはやはり、単刀直入に尋ねて良いという前振りか。それとも逆に、聞かないでくれという事なのだろうか?


「あなたも気にかかっている事とは思うが、やはり兄としては皐月の気持ちの整理がつくまで、少しだけ待ってやって欲しいんだ」

「……え……」


 はい? 皐月さんがどうした? 兎は、兎の一念結果は!?


「あの子は、頭の良い子だ。自分一人の手に負えないと思えば、周囲に相談する事だって自然と出来る」

「さ、皐月さん……何かあったんでしょうか」

「それはまだ分からない。ただ、毎日忙し過ぎて少し疲れただけかもしれないしな」


 なんという事だ。私が椿にーちゃん対策を練ったり、毎日の学校生活に追われている間に、肝心のヒロイン・皐月さんの近況に不穏な気配が広がっている、だとお!? 数日間顔を合わせていなかったが、准教授と何か急展開でもあったのか!?


 嘉月さんを見送った私は、キッチンダイニングに引き返すと上の空でお茶のセットと一緒に重箱と水筒を洗い、手早く夕飯の下拵えに入ろうと冷蔵庫を開けた。……中身は空っぽだった。


「……お父さん」

「あ、美鈴! お父さんお風呂掃除しておいたんだ。今日はくたびれただろうから、一番風呂に入りなさい」


 冷蔵庫から視線を動かさずに呼び掛けると、父はギクリとしたのか、ぎこちない早口でそんな事を言ってくる。

 私は冷蔵庫のドアをバタムと閉じると、振り返りざま「お父さん!」と、先ほどよりも強い調子で呼び掛けた。

 ああまったく。予想しておいて然るべきだった。この中年がいそいそと愛父弁当をこさえる時は、大抵その後の食事の為に用意しておいた食材まで使い込んでいると!

 我が家の冷蔵庫の中身は、冷蔵保管の調味料の類いや作り置きのソース類以外、全部綺麗に使い切られていた。ああもう、お風呂洗いしてるヒマがあるなら、何故に買い出しに行かない、父よ?


「お父さん、今夜と明日の朝昼晩と明後日の朝昼分の材料、買ってきて」


 私の宣言に父は面倒臭がるが、現実問題として我が家には今、夕飯の支度をしようにも食材が無いのである。



 親子で買い出しに行きたがった父を一人で向かわせ、私は自室に戻って部屋着に着替えた。やっぱり、このワンピースは汚れないよう気を遣うので疲れる。

 キッチンダイニングに置きっぱなしにしていた荷物を定位置に置き、私は久々に秘密のノートを引っ張り出してページを捲った。皐月さんが他のメンバーのルートには進まなかった以上、注目するべきページは『柴田雲雀 (しばた・ひばり)&石動椿ルート』である。

 勉強机に向かい、そのページを見やる。


「様子がおかしいって……バッドエンドやブラックエンドだけは勘弁してよ、皐月さん……」


 それらの発生条件は知る限りメモしてこそあるが、皐月さんの大学生活でのやり取りまでは口を挟める訳も無いので、これはもう本当に、祈るしか無い。嘉月さんから、一方的に問い質したりせず、自分から話を持ち掛けるまで見守っていてやって欲しいと釘を刺された以上、また時間が空いた時にでも、皐月さんをお茶にでも誘おうと決意する。そう、なるべく早めに。


 ブラックエンドは様々なバリエーションで展開されるが、バッドエンドは基本、被害者が変わったり時間帯や場所などのシチュエーションが異なるだけで、殺害に及ぶ手段は基本的に同一である。例を挙げると石動椿が殺人犯になる場合は、必ず銃を持ち出してきて発砲する訳だ。絶対止めなくては。いっそ、彼が銃を持ち出す祖父の実家に戻る、その機会を潰せれば確実だろうか。


「屋上に追い詰めて発砲、家に押し掛けてきて発砲、椿にーちゃんアグレッシブ……

ん、こっちは椿にーちゃんが地下室で倒れてる?」


 バッドエンドの簡単な状況解説を読み直していた私は、その内の一つに違和感を覚えて必死に記憶を辿った。

 確かこのエンドは……地下室のドアの前に立てかけてあった荷物が廊下を塞いでいて、石動椿を探している途中、通り掛かって不審に思ったヒロインが、荷物をどかして室内を覗き込んでみたら猫が飛び出してきて、床には椿が倒れていた。慌てて救急車を呼ぶも、亡くなってしまう、というバッドエンドだった気がする。


「そうだ、椿にーちゃんが死ぬのはこのバッドエンドしか見てないから、衝撃的だったなあ……っ!?」


 自分で発した呟きに、私は息を飲んだ。慌ててバッドの既知エンド数を見直す。

『柴田雲雀バッドエンド二種、石動椿バッドエンド四種』

 共通ルートから分岐する乙女の恋心ルートには完全個別のキャラクタールートは存在せず、必ず二名のキャラクターがセットになってゲームは進行する。

 よってこの区分はあくまでも、どちらのキャラクターを攻略しているつもりで進めていたか、の割り振りでしか無い。有り体に言って、最初の選択肢で情報アドバイザーに『~~が好きなの!』と、宣言した方だ。


 私はこれまで、皐月さんが選ばなかった方である椿にーちゃんが、思い詰め過ぎて凶行に及ぶ事態ばかりを懸念していた。何せ、銃を持った殺人鬼の姿はインパクト抜群過ぎる。

 だが、ゲームにおける揺れる乙女の恋心を体現するルートは表裏一体。どちらの好感度をより高められたか、はラブエンドに関係する。

 だが、好感度ではなく正しい選択肢を選別出来たかどうかという一点において、バッドエンドに向かってしまうか否かが決定される。そこに、ヒロイン本人が攻略キャラクター達へ抱く好意の度合いは当然ながら加味されない。

 そして今を生きる私にとって、この現実はゲームなんかじゃない。


 つまり。


「……皐月さんが、どう行動するかで……椿にーちゃんが殺される可能性が、ある……?」


 柴田雲雀が、どういった人物であるかは分からない。そして、彼がどんな現実や対応、何をもってして殺意を抱くかもはっきりしたところは正直サッパリだ。この不安に気が付いた以上、今度は何とかして柴田雲雀の人となりを知り、悲劇が起こらないよう上手く立ち回らなくてはならない。

 私は思わずゴンッと机に頭をぶつけていた。


「毎度の事ながら、無理ゲーに過ぎる……」


 秘密のノートに記した情報だけでは、この現実を乗り越えるには難し過ぎる。私の目の前には、石動椿の死亡エンドについてが淡々と綴られているが、明確な発生条件や時期、死因等の説明が一切記載されていない。ゲームをプレイしていた当初から、原因とかよく分かっていなかったんだな、きっと。確か、あんまりにも気分が良くなかったものだから、このエンドの後攻略サイトを覗いたような?

 そこで、石動椿の謎めいた死についても解説を見掛けたような気がする。でも、今の私はさっぱり覚えていない。


「てゆうか、死因は何だっていうんだろう?

ただ、出られない地下室で倒れてた、ってだけじゃなあ……」


 窒息、飢餓、毒、どれもさして現実的とは思えない。ヒロインはこのバッドエンドに到達する直前にも石動椿と接触していたのだから、飢え死には一番可能性が低い。かといって密室殺人のトリックなんて……あ、いや違う。犯人はその気になれば、自分が立ち去った後に意識朦朧としている石動氏が地下室から脱出出来ないよう、ドアの前を荷物で塞げるから密室じゃない。

 凶器は何だったのか、石動氏はどう亡くなったのか……語られていた記憶が無い。ただ、ヒロインが搬送先の病院に駆けつけると、医師から臨終を告げられて画面が真っ黒に塗り潰されたような……


 不可解な状況に、私の背筋に冷たくゾッとした感覚が走った。彼を殺害した犯人は准教授であると、分かってはいるのだ。だが、恐らくヒロインが気絶したであろうあの後、果たして事件は解明されたのだろうか?

 罪の在処が分かり易く立証しやすい銃殺と違って、柴田氏の嫌疑は明らかにされたのか?

 一度だけ、皐月さんに見せて貰った柴田雲雀准教授の写真。その穏やかな微笑が脳裏に呼び起こされて、私は我知らず両腕で自らの身をかき抱いていた。


 ガチャガチャ! バタン!


「美鈴ー、ただいまー!

お父さん大急ぎで買い出し済ませてきたよ! お腹減った!」


 ……我が家の中年はやはり、何かの神から特別に深い寵愛を受けているに違いない。主に、間が悪い神とか空気嫁神とかに。



 お父さんと並んでお夕食の支度をしつつ、私は今日の課外活動における美術館見学について感想を語らっていた。お父さんはうんうんと頷きながら、包丁をリズミカルに動かす。


「でね、部長と一緒にレポートの対象な個展観て回ったんだけど、私にはあの写真の何が良くて何が優れてるのか、全然分かんなかったの」

「そうかー、美鈴が分かんないなら、お父さんなんてもっと芸術は分かんないよ」

「でも、部長はあちこちで足止めて、何かにつけて感慨深そうにしてた。やっぱり、分かる人には分かるのかな?」

「そうかもしれないねえ。その写真はきっと、美鈴が気になる分野じゃなかったんだね。

美鈴はどっちかと言うと、ありのままの自然の方が好きだし」


 父が実に珍しく、父親らしい見解を述べている。

 なんという事だろう。のほほんとした父親だとばかり思っていたが、存外娘である私の趣味嗜好を心得ているようだ。私も負けずに、お父さんの好みを把握しておかねばなるまい。

 でもうちのお父さんの趣味って、改めて考えると何だ。無自覚フラグ立てか、茶飲み友達とお喋りか?


「それでその後ね、白鳥庭園で時枝先輩とお昼ご飯食べて、のんびりスケッチしたの」

「お弁当、喜んでくれたんだったよね!

お父さん張り切った甲斐があったなあ」

「時枝先輩、なんか今月は金欠だって言ってた。高い画材でも買ったのかなあ?

この前もね、お昼休みにお金無くてご飯抜いたせいで、お腹空かしてフラフラしてた」

「何だって!?」


 時枝先輩を心配する私に、お父さんはまな板に包丁をダーン! と突き立てて驚愕。勢い良く振り下ろしたせいで、刻んでいた玉ねぎが一部、まな板の上から吹っ飛んだ。


「成長期の子どものご飯を用意しないだなんて……保護者はいったい何を考えて……!?」

「ヨソはヨソ、ウチはウチ、だよお父さん」


 余所様のご家庭事情はそれぞれだが、資金繰りが厳しいなら見栄張って私立に通わせたりせず、公立に通わせてご飯を食べさせてあげるべきだと、私も思う。

 でもそれは、何も知らない部外者の勝手な意見だ。時枝先輩には、どうしてもあの学校に通わねばならない事情があり、しばらく耐えれば金欠も簡単に解消されるのかもしれない。本人も『今月は』と言ってたから来月にはご飯を普通に食べられる、のかもしれないし。


「そうか……そうだね美鈴。

いくら仲良しの先輩でも、ご家庭の事情に土足で踏み入っちゃいけないね。

よーし、明後日の月曜日からは、お父さんにドーンと任せなさい!」


 改めて包丁を握った父は突如として胸を反らせ、謎の張り切りを見せる。この姿には、やけに激しく既視感を覚えるのだが、私の杞憂だろうか?


「それはそれとして美鈴、明日の日曜日はお父さんとデートに行かないかい?」


 バチコーンと、娘にウインクを寄越しながら誘いかけてくる我が父。利き手には包丁握ったままだ。危ない。

 しっかしこの人、亡き母に対してもこの、同じような軽~いノリでデートに誘っていたのだろうか? そうだとすれば、我が母ながらその趣味を疑うところだ。


「明日は椿センセーとお出掛けだよ?」

「えー、そうだったの?

そっかぁ、それじゃあデートは無理か……」

「うん、午前中に家まで迎えに来てくれるって」

「おお、それじゃあ明日の朝もお父さんは早起きをして、石動さんにご挨拶しないとね!

任せて美鈴!」


 明日の予定を簡潔に話すと、父は目を輝かせた。任せるって、だから何をだよ。

 椿にーちゃん、うちの中年に引かないかな?



 そして翌朝。

 私は目覚まし時計の音で目を覚まし、寝起きのパジャマ姿でクローゼットを開けた。

 えーと、確か椿にーちゃん曰く、田舎道を歩くかもって言ってたから、今日は長いスカートは止めといた方が良いね。

 これで良いやと取り出したのは、白と黒の市松模様でサスペンダー付きのハイウエストキュロットと、白いブラウス。髪は軽く梳いて、後ろ頭頂部を飾りゴムでポニーテールに括った。靴はヒールが殆ど無くてぺったんこのやつにしとこう。


 身支度を整えて荷物が入ったリュックを手に一階に下りると、何故かビシッとワイシャツにネクタイを締めたお父さんが、ダイニングキッチンにて新聞を広げていた。きっちりと櫛を入れて清潔感溢れる髪型に整えているお父さんの、かけている眼鏡の銀色のフレームがダイニングに差し込む燦々とした朝日を浴びてキラリと輝く。

お父さんが腰掛けているテーブルの上にはジャムが塗られた焼き立てのトースト、サラダ。昨日の残り物のスープに、揚げ物。そしてミルクたっぷりのカフェオレ。


「やあ、おはよう美鈴。今日もいい天気だね」


 新聞を畳んで脇に置いたお父さんからは、普段のアレっぷりを微塵も感じさせない。昨日の朝のヨレヨレパジャマ姿とは、えらい違いじゃないですか我が父よ。日曜日の朝っぱらから、いったい何があった?

 対面の席には、私の分だと思しき朝食が整えてある。


「お父さんおはよう。ご飯ありがとう。今日は朝からずいぶんピシッとしてるけど、何かあったの?」


 対面に腰掛け、有り難く朝食を頂きながら問うと、お父さんは暑苦しくも『フンーッ!』と荒い鼻息を放ち、謎の気合い満タンな様子を示した。


「当然だろう、美鈴?

今日は、日頃から娘がお世話になっている大学生の家庭教師の先生に、『今後とも娘をよろしくご指導お願いします』って、挨拶する日なんだよ?

失礼があってはいけないじゃないか。キチンとした服装で臨まないと」


 まあ流石に、二日連続でお弁当製作が出来る時間に早起きは出来なかったけど……と、父は照れ臭そうだ。起きれたら、またしても事後承諾でお弁当を拵えて下さるおつもりだったのですか、我が父よ。

 あれだな。お父さんにとっては、私の通っている学校の授業参観に向かうのとか、三者面談に臨むのと、同じような心境なんだろう、多分。

 あー。なんか見えるなー。椿にーちゃんがうちの中年に全力で引く姿ー。


 何をどう言えば良いのかも今一つ分からないし、もぐもぐと大人しく朝食を口に運んでいた私の耳に、お父さんの部屋から携帯の着信音が響き渡った。


「あれ、この音は会社からの電話だ。どうしたんだろう」


 お父さんは私の真正面のイスから立ち上がって自室に引っ込むと、そちらの部屋で話し始めたらしい。

 素っ頓狂な叫び声が聞こえ、焦ったようにぎゃんぎゃんと騒ぎ立てる声が響いてくる。


「美鈴!」


 ダダダダダ! と、ダイニングキッチンに駆け戻ってきたお父さんは、携帯片手に大いに慌てふためいた表情で、あわあわと両腕を上下に振った。


「ごめん美鈴、なんか会社で緊急事態が発生したらしくて、これから行ってくる!」

「うん分かった、行ってらっしゃい。気をつけて」

「帰りは何時になるか、今の段階だと分からない。

石動さんには、よろしくお伝えしておいてね!」


 人生、何が幸いするか分からないものだ。服装や髪を休日を過ごす分にはムダに整えていたお父さんは、出発するにあたり通勤カバンを手に取ったぐらいで、全くタイムロスを出さずに慌ただしく飛び出して行った。

 日曜日にうちのお父さんへ呼び出しがかかるなんて、私が記憶している限り初めての事態だ。すぐに収まると良いのだが……


「お父さん、大丈夫かなあ?」


 朝食の後片付けをしながら、私は一人、溜め息を吐いた。



 約束の時間きっかりに、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。インターホンで「はい」と対応し、テレビドアホンで来客の顔を確認すると、今日も今日とて人畜無害そーな笑みを浮かべた椿にーちゃんが片手を上げた。


「おはようミィちゃん。迎えに来たよ」

「椿にーちゃん有り難う。今行くね」


 私はスリッパの音をパタパタと立てながら小走りに廊下を横切り、玄関ドアを開けた。


「椿にーちゃんオハヨー」

「オハヨー」


 私と同じ調子で挨拶を返した椿にーちゃんは、やや背伸びをするようにして私の背後を覗き見た。


「ミィちゃん、今日はお父さんがご在宅なんじゃなかったっけ?」

「あー、なんか急に仕事が入ったとかで、朝早くに会社に行っちゃった」

「へえ? 日曜日の朝から呼び出しだなんて、お父さんはお忙しいんだね」

「普段のお休みの日は、大抵お家でゴロゴロしてるけどね」


 玄関を施錠し、私は椿にーちゃんと一緒に歩き出した。

 パーカーと白いカットソー、黒のパンツという至ってラフな服装だというのに。なんだこの、目が勝手に隣へ惹き付けられてしまうイケメン。くっ……そこはかとなく漂う自分の敗北感に、妙に落ち着かなくなるぞ。

 ううむ。朝起きてから適当に服を選ぶんじゃなくて、昨夜から入念に選別しておくべきだったか!?

 と、ジーッと隣の椿にーちゃんを見上げていたら、バチっと目が合った。


「そういえば俺、ミィちゃんの私服姿初めて見るなー。うん、フレアーなキュロットだなんて滅茶苦茶可愛い。

あ、頭は触んない方が良いよね? ちょっと残念」

「あははー、アリガトー。

髪型が崩れたら縛り直すのめんどい」

「だよね。うっかり手が伸びかけてた」


 ペロッと……あっけらかんと簡単に言い放ちおったぞこの男。チャラ男スキルには、同行者の服装を褒める事、が必須で求められているのだろうか?

 愕然とする私の内心は全くおくびにも出さず、褒められたのだからと、なんとか笑顔で対応。無闇に『嘘ばっかり』と決め付けたり、『本心じゃないんでしょ?』とか拗ねるのは、あんまり良くない気がする。

 私がどんなに、椿にーちゃんが私を可愛いと褒めたのは口先だけだと、本心から思っていたとしても、だ。これから先、私が築きたいのは椿にーちゃんとの信頼関係であって、私の言動を辟易されては本末転倒だ。


「椿にーちゃん、駅から電車乗るの?」

「うん。格好良く車で迎えに来れたら良かったんだけどね」

「え、にーちゃんは運転免許持ってるんだ?」


 そーか、そういやこの人の年齢なら免許取っててもおかしくないか。他の地域の事情はよく知らないけど、愛知県は自動車社会だし。身分証代わりにもなるからって、取得率高いんだっけ。まあ、自動車事故率も日本一だけど。


「免許はあるけど、自動車自体は持ってないんだよ」

「高いから?」

「そう、たか……ゴホン。

お兄ちゃんは公共交通手段を多用する事で、エコロジカルな生活を心掛けているのだよ、ミィ君」

「分かった。つまり椿にーちゃんの預金通帳にとって、エコロジカルなんだね」

「うお、悔しいが上手いっ!」


 おどけてはやし立てる椿にーちゃんの脇腹を軽く小突いて、私は笑顔が自然と零れ落ちている事に気が付いた。恐るべし石動椿、微妙に落ち込んでいた私の気分を、いともあっさり変えてしまうとは……

 家を出てから早くも数分で、今日の道行きはこの人に振り回されそうな予感を、私はひしひしと感じた。



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