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本編④

 

 空腹を訴えピーチクパーチク騒ぐ中年を夕食を共にする事で黙らせ、私は慌てて携帯を取り出して皐月さんに電話を掛ける。

 さほど間を置かず、すぐに相手は応答した。


「はい、もしもしー?」

「あ、皐月さんですか? 夜分にすみません。美鈴です」

「こんな時間に美鈴ちゃんから電話してくるのは珍しいね。あ、うちに忘れ物でもした?」


 皐月さんは電話で話しながらポテチでも食べているのか、電話の向こうから時折パリポリという軽い音が挟まる。皐月さん、今日だけでどれだけ間食していらっしゃるのですか。


「いえ、実は今日私を送ってくれた石動 (いするぎ)さんの事なんですけど」

「椿 (つばき)先輩?」

「はい。あの人が図書館からお借りした本、私の荷物に紛れたまま帰宅してしまって……

連絡先とか、ご存知ですか?」


 私の第一の目的は、『チャラ男先輩と皐月さんの仲が親密にならないよう、さり気なく妨害する事』なので、石動のにーちゃんにこれを好機と嬉々として皐月さんに連絡を取られる前に、未然に防ぐ必要がある。


「ああ、さっきのアレの事かな?

実はさっき、その椿先輩からメールがきてて。明日聞こうと思ってたんだ。丁度良かった」


 うぁ、敵に先手を打たれた!?

 ……いや。皐月さんの口ぶりからして、石動のにーちゃんのこの短時間での素早い連絡対応を考えると。むしろ、本を私のカバンに入れっぱなしで帰途に着いたのは過失ではなくて、ここにあるのを知っていて敢えてそのまま帰ったのか!? 皐月さんが必ず返信メールを送らざるをえない理由付けに。

 この策士っぷりからすると、上手いこと言いくるめてもう一度皐月さんの家に上がり込む口実にしやがる可能性も無視出来ん!

 この身の毛がよだつような危機感を煽る感覚と、チラチラと窺える策謀の影。やはりヤツだ! ヤツがチャラ男先輩に違いない!


「私の方からお返ししておきますので、良かったら石動さんのメルアド教えて下さいませんか?」


 これ以上皐月さんに近寄らせてなるものかと、意図的ににこやかな声音でお願いすると、彼女は電話口の向こうで「う~ん」と逡巡した。

 はっ!? まさか皐月さん、気のない素振りを貫いていたのに、危険人物Xからのたった一通の電子の文で、心よろめいてしまわれたのですか!?


「一応、知り合い同士だとはわたしも知ってるけど、当人の知らないところで人様のメルアド流すのって、しちゃいけない行為だと思うの。何か間違ってるかな?」


 ……と、思ったら違った。

 実に真っ当な理由から、私の短絡的な要求を諫めようと言葉を考えていたらしい。すみません、皐月さん。あなたがまさかそんなに真剣に個人情報秘匿の重要性と、友人間における『親しき仲にも礼儀あり』の信念をお持ちでいらっしゃるとは思いもよりませんでした。

 ですが、こちらも引けぬ理由があるのです。主に、人命的事情が!


「それなら、石動さんが借りた本は私がお預かりしている旨と、私のメルアドを石動さんに教えて差し上げて下さい」

「ん? 美鈴ちゃんのメルアド、教えちゃっても良いの?」

「はい。借り物を紛失してしまったら、やはり居心地悪いでしょうから。

すぐに知らせて、お渡ししてあげないと」

「分かったよ。それじゃあ、椿先輩には美鈴ちゃんに連絡取るよう返信しておくね」

「よろしくお願いします」


 ピッ、と通話を切った携帯は充電器に差して、私は深い溜め息と共に机の上にばったりと顔面を伏せた。


「石動のにーちゃん恐るべし……既にちゃっかり皐月さんのメルアドゲット済みとか、行動早過ぎだろうがあの野郎」


 まあ、四月や五月中に、目を付けた下級生の可愛い女の子とメルアド交換に勤しむだとか、いかにもチャラい男の称号に相応しいけど。

 そもそも、奴が皐月さんのメルアドを知らなかったなら、明日は大学のどっかで親しげに話し掛ける口実を……って、いかん。私が直接会って本を返しただけじゃ、明日以降に偶然を装って石動のにーちゃんが皐月さんに「この前はお茶ありがとう」みたいな話題を展開させてナンパに走るのを、止められん!


 のおおお!? と、頭を抱えていた私の傍らで、充電中の携帯が高らかに鳴り響いてすぐに止んだ。メールが届いたらしい。

 メールボックスの新着メールは、見知らぬアドレスから一通。タイトルは『今晩は、石動のお兄ちゃんだよ~ん』と綴られていた。だよ~んって何だ。だよ~んって。

 なんだろう、このテンション。私はついていけないものを感じながら、大人しくメールを開いた。無意識のうちに、眉間に皺が寄っていたかもしれない。


『title:今晩は、石動のお兄ちゃんだよ~ん

本文:フハハハ! ルパ~ン、遂に捕まえたぞ!』


 本文はまだ続いていたが、私は自分のシリアスな気分と、危険人物Xとの温度差を埋める為に、本文をスクロールする前に思わずメールを閉じていた。

 両目を閉じ、頭痛を堪える。偏頭痛の対処法は正反対のものが大まかに二つあって、首筋を冷やすと頭痛が引くタイプと、首筋を温めると頭痛が引くタイプがいる。これ、自分の体質に合わない逆の対処法を実践するとかなり辛くなるので気をつけないといけない。そして私は後者の温めタイプなので、頭が痛くて眠れない時はお風呂に入っている。

 浴室への誘惑を抑え、私はもう一度石動のにーちゃんからのメールを開いた。


『……って、書いたら美鈴ちゃんが引いてメール閉じる姿が浮かんだ!

うん、大丈夫。こっから真面目に書くから、最後まで読まないまま削除らないでね』


 分かってんなら冒頭からボケるなよ、と思わず突っ込んでしまう私。いや、返信にもそう書いとこう。


『そういや俺、借りた本をどうしたのかすっかり忘れてたよ』


 この一文には、思わず「嘘つけ」と呟いてしまっていた。


『美鈴ちゃんが預かってくれてるんだって? ありがとー。

皐月ちゃんに渡しておいてくれたら助かるな。面倒かけちゃってゴメンね?』


 敵からの矢文……気分的には間違いじゃない、星だのハートだの表情や動物絵文字だのでデコレーションされまくった可愛らしさ満点のメールを読み終えて、私はふ、ふふふ……と、笑みを浮かべていた。


「なるほど、どう転んでも皐月さんに近寄る足掛かりにするつもりなのね……」


 これが、チャラ男先輩たる石動のにーちゃんの頑張りでなければ、私はそもそも妨害したりしようとは思わなかった。だが、私の使命は残念ながら、奴の足止めである。

 即座に返信メール作成画面を立ち上げ、文章を作成していく。


『title:美鈴ですにゃん

本文:椿にーちゃんやほやほ、夜分にメールゴメンです~。

本はね、まだ濡れてたから今も乾かしてるけど、多分明日にはちゃんと水分飛んでると思いますにゃん。

うっかり帰り際に本渡しそびれたのはミィのせいだし、椿にーちゃんのトコにちゃ~んと届けに行きますよん?

椿にーちゃんの講義終わった頃にでも、参上するなり~。何時ぐらいかにゃあ?』


 石動のにーちゃんのメールに対抗しまくり、可愛い装飾を散らしたメールを送りつけてやった。真のボケとは、ここまでやり抜いてこそ芸たりうるのだ! 単なる痛々しいメールにしかなってないだなんて、本当の事は言っちゃ駄目!

 あ、石動のにーちゃんに『冒頭からボケんな』ってツッコミ入れんの忘れてた。


 アホな対抗意識を出した私のメールに対する返信は、やけに早かった。どうやら奴は、女性への手だけでなく、キータッチすらも早いらしい。


『title:ちょっw

本文:ミィちゃんさん、対面してる時とメールでは、キャラが違い過ぎです事よw』


 所詮は味気ない電子の文字羅列。石動のにーちゃんの本心は結局のところ見えないが、ひとまず面白がっている態度を見せるつもりらしい。引かれまくっては話も纏まらないから、草生やされてもまあ良いか。

 私はメールの続きをスクロールした。


『そうかそうか、ミィちゃんさんはそんなにお兄ちゃんに会いたいかw

じゃあしょうがない、優しいお兄ちゃんがお出迎えしてあげよう』


 石動のにーちゃんが指定してきた時間は、明日。私の学校の授業も終わっている時間である。さては、この時間帯を狙い澄ましてきたな。

 幸い、明日は部活も無いので奴と対面するのに支障は無い。

 普段の口調のままのメール文章で返信しても良いのだが、その場のノリで今夜のところは痛々しいキャラになりきって『嬉しいにゃんw』メールをお返ししておいた。女子中学生の底力を見よ。

 石動のにーちゃんに近付いたら、どうしたって訝しがられるのは目に見えている。こういう、お茶目な性格を前面に出しておけば、警戒心が多少は殺げるだろうか。他の意味で怪しいのは否めないけど。


 携帯を再び充電器に戻し、私は両腕を組んだ。

 明日の奴との対決で、雌雄が決すると言っても過言ではない。何とかして、石動のにーちゃんと頻繁に会う理由付けをするか、石動のにーちゃんが皐月さん以外の女性に目を向けるよう仕向けなくては。


「美鈴~、お風呂空いたよ~」


 真剣に悩む私の背に、階下からまたしてもシリアスな空気を弾き飛ばす父の声が。

 ……我が父ながら、あの中年の絶妙なタイミングはどうやって図っているのか、実に不思議だ。


 素直にお風呂の用意をして階下に降りると、髪の毛をタオルで拭いている風呂上がりパジャマ姿の父が、キッチンを裸眼でうろついてテーブルの足で自分の足の小指を盛大にぶつけて「あぅちっ!?」と叫んで飛び跳ねていた。

 私は痛みに涙ぐむ父の傍らをすり抜けて冷蔵庫を開け、お望みのブツであろう500mlのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、キャップを開けてから差し出してあげた。


「あ、ありがとう美鈴」

「ん~ん。ねえ、お父さんちょっと聞きたい事があるんだけど」

「どうしたの?」


 よほど喉が乾いていたのか、嬉しそうにペットボトルに直接口をつける父に、私は素朴な疑問をぶつけた。


「男の気を引くには手作りのお菓子って有効だと思う?」


 愛娘の率直な質問に、父は飲みかけの水を勢い良く口から噴き出した。そのまま苦しげにげほげほと咽せる。

 私はそんな父の背をさすってやりながら、「ねー、どうなの?」と、回答を促した。


「み、みみみみ美鈴っ!?

そんな、男の子に告白や交際だなんて美鈴には早過ぎるとお父さん思います!」


 ペットボトルをテーブルの上にドンッ! と荒々しく置き、父は私を睨み付けるように宣言してきた。


「お父さん、そうやって『あれダメ』『これダメ』って一方的に叱りつけるだけじゃあ、子どもは親にコソコソ隠れて悪さしちゃうんじゃない?」


 私が人事のように一般論を語ると、父は「ノォォォ!?」と叫んで私の両肩に手を押いた。


「そこは一つ、ロクでもない男に騙されていないか、父自ら検分してやる気概で『今度の休みにでも、その人を家に連れてきなさい』ぐらいビシッと決めれたら、格好いいお父さんじゃないかと」

「み、みみみすず?

お、お父さんそんな男の子に会いたくないよ?」


 私の細やかな理想の『素敵父像』を真っ向から否定し、娘の交際相手になんか会わない! と駄々をこねる中年。

 うん、まあうちの中年に高望みなんかしても仕方がない。


「安心してよ、お父さん。

別に誰とも交際なんかしてないから」

「じゃあ……」

「だから、手作り菓子は男に喜ばれるか否か、YES or NOで答えてね」

「嫌あああああ!?」


 頭を抱えて叫ぶ中年がうるさいので、私は顔をしかめて一旦自室に向かった。

 うちの中年は一般的な男性の傾向調査には向いていない。ならば仕方がない。失敗してしまうよりは、本人に直接確認してみよう。

 私は石動のにーちゃん宛てに、お菓子作って持っていったら迷惑かどうか、直裁的に記して送りつけてから、風呂場に向かった。


 たっぷり湯に癒されてから返事を確認すると、流石は自称フェミニスト、『ミィちゃん俺にお菓子作ってくれるの? 嬉しいな』などという返信が返ってきていた。よく知らない相手の手作り菓子って、多分嫌がらせになるんじゃないのかなあ?

 そもそも、お菓子の種類への希望とか無いし。

 今日、皐月さんに出されてた茶菓子は醤油せんべいだったから、石動のにーちゃんにとって甘い物が口に合うのかどうかすら分からない。


「ん~、一応甘さ控えめで、プレーンなクッキーにしておこう」


 そう呟きながら、キッチンでお菓子作りの準備をする私の背を、父がドアの影に半分隠れたままじとーっとした眼差しを無言のまま向けてくるのが、一度知覚してしまうと非常に鬱陶しい。仕方がないので、明日うちの中年に持たせるお弁当のおかずも下拵えしておいてやる事にした。感涙にむせび泣いてもよくってよ。


 私の、石動のにーちゃん犯罪堕ち救済計画はまだまだ始まったばかりだ。



 翌日、早起きして二人分のお弁当をこさえた私は、本がしっかり乾いている事を確認してから、書籍が入る大きさの簡素な紙袋に入れて、それをカバンの中に仕舞った。プレーンクッキーも可愛い小さなビニール袋に入れてリボンでラッピングし、別に用意しておく。

 謎のヤキモチに支配された中年が鬱陶しいので、一番綺麗に焼けたクッキーはお家用お菓子入れの缶に取り分けておいた。どうせ、私が食べる前に甘党のお父さんがニマニマしながら食べ尽くしてしまうに違いない。


 気合いを入れて焼いたので、そこそこ量が多くなってしまった。そこで、お菓子ラッピング用ビニール袋を幾つか用意し、学校に持って行く事にした。うちの学校、お菓子の持ち込みにはけっこう緩いんだよね。


「あ、美鈴さん……おはよう……」


 友人のアイとお昼休みにでも食べようと、早くも昼食の時間に思いを馳せ、意気揚々と玄関を出た私に、傍らから力が抜けたぼんやりした声が掛けられた。

 そちらに振り向くと、緑なす御園家のお庭にて、ぼへーっと縁側に腰掛けていた嘉月 (かげつ)さんが、ぬぼーっとした眼差しを私に向けてきていた。

 またしても徹夜したのか髪の毛は微妙に乱れているし、無精髭が生え始めている。が、未覚醒な通常運転・嘉月のなんと平和な事か! 今日の服装は緑が基調になったタータンチェック柄のシャツにチノパンに足下はサンダルという、神々しきFUJIもお隠れあそばされているし!


「おはようございます、嘉月さん。今日もいい天気ですね」

「……ああ」


 今日も今日とて、ぽやぽやぼんやりした眼差しをこちらに向けてくる嘉月さんに、私は自分ちの敷地目一杯にまで歩み寄って尋ねた。


「また徹夜されたんですか?」

「……眠れなくて……」


 どうやらまたしても、昨夜は原稿 (ミステリ)で煮詰まってしまっていたようだ。葉山家と御園家を遮る低い柵に手をついて上半身を乗り出す私に、のっそりと立ち上がった嘉月さんがゆらゆらと歩み寄り、私の肩にぽんと両手を乗せた。


「……美鈴さん。そんなに身を乗り出したら……危ない……」

「いや、昔はけっこうここからショートカットしたものです」

「そうなのか……ケガするから、もうしてはいけない……」


 嘉月さんはただ手を軽く当てているだけにしか見えないのだが、断固として侵入を阻む意志を見せるので、私は御園家の庭に降り立つのは諦めた。しかし、思い立った理由たるブツは手渡しておきたい。

 カバンから小さな透明ビニールのラッピング袋を取り出した私に、嘉月さんは首を傾げた。


「嘉月さん、私、昨日クッキーを焼いたんです。良かったらどうぞ」

「……俺に? ありがたく頂くよ」


 ちゃちな安物のリボンで結ばれた、百均で買った一袋20枚入り税込み105円な激安ラッピング袋に入った、単なるプレーンなクッキーを受け取った嘉月さんは、その美貌をゆるゆると綻ばせていく。すげぇ、やっぱ素顔嘉月の威力パネェ。


「じゃ、じゃあ私、これから学校なんで!」


 シュタッ! と片手を上げ、早々に逃亡を図る事にした。うっかり美形隣人の顔にポーッと見惚れて遅刻なんかしたりしたら、うちの中年がまた騒いで鬱陶しい事になる。


「気をつけて行ってらっしゃい」

「はーい、行って来ます!」


 手を振って見送ってくれる嘉月さんにペコっと軽く頭を下げて、私はいつもの通学路を駆け出した。



 午前中の授業を無事に終え、お楽しみの昼休み。

 今日も友人のアイ……渋木望愛 (しぶき・もあい)と連れ立って、お弁当を手にランチタイムを中庭で過ごそうと教室を出たところ、一階の廊下で時枝芹那 (ときえだ・せな)先輩と行き合った。珍しい。時枝先輩は普段、お昼休みを男友達と過ごしているのに、今は一人で歩いている。

 先輩は片手で自分のお腹辺りを押さえて、やや俯きがちに歩いている。その姿はまるで……


「おやおや、あれに見えるは時枝先輩。

美鈴っち、これはチャンスだ!」

「はあ? ……え、わあっ!?」


 私の視線の先に目をやったアイが、瞳を輝かせてそんな事をのたまい、私の背中をドンッ! と、強く押し出した。衝撃と勢いに逆らえず、私は数歩前へと足を踏み出してたたらを踏んだ。危うく転ぶところだった。

 友人の予想外の所業に大声を上げた私を、廊下を通っていた生徒達が何事かと振り向いて、すぐに興味を無くしたようにそれぞれの日常に戻っていく。


「……葉山?」


 おっとっと、と、バランスを保って体勢を立て直した私に、やはり他の生徒達と同じく驚いたように反射的に振り返った時枝先輩が、思わずといった表情で私の名を口にした。ううっ、アイめ! 何が何でも時枝先輩に話し掛けろってか!?


「こ、こんにちは時枝先輩。今日はご友人方とご一緒じゃないんですね」

「ああ、まあ。お前もか? 珍しいな。大抵、あの渋木って女子と連んでるのに」


 時枝先輩の何気ない呟きに、え? と、疑問符を発しながら慌てて背後を振り向くと……先ほどまで一緒だったはずのアイの姿が、影も形も見えない。彼女が立っていた場所には、その痕跡さえ跡形もなく消え失せていた。

 ……アイめ。さてはどっかに隠れて密かに私の様子を伺って、ニヤニヤしているな!? おのれ、もう貴様にクッキーはやらん!


「ちょっと先に行っちゃったみたいですね。あ、アハハハ」


 ひとまず笑って誤魔化して、気になっていた点についてを尋ねてみる事にした。


「ところで先輩、お腹押さえて歩いていらしたようですが、腹痛ですか?」


 まさか、現実の時枝先輩は顔に違わず実は女性で、女の子の日の痛みから保健室に向かっていた途中とかじゃないよね?


「……あー、痛いっちゃ痛い」


 私の質問に、時枝先輩は歯切れ悪く答え、ちょっぴり顔をしかめた。いったいあなたの身に何があった時枝先輩! 生理痛に効く痛み止めの薬なら、バッチリ持ち歩いてます。


「実は今オレ、金欠でさ。

今日は昼飯抜きだなぁ……とか、考えてたとこ」

「え? でも時枝先輩なら、ファンの女の子達から差し入れとか貰えたりするんじゃ?」

「あのなあ。女子が人の顔にギャーギャー騒ぐのは、もういい加減諦めたけど。

だからって、普段それに迷惑がっておきながらいざって時に都合良くたかるのは、人としてどーよ」

「最低です」

「だろ?」


 そうか、時枝先輩お腹空いてたのか。普段どれだけ食べるのかは知らないけど、お昼抜きはキツいだろうなあ。


「それなら、男子のご友人方から分けて頂けばよろしいのでは?」

「ただでさえ毎回食い足りないって嘆いてるあいつらが、人に飯を分けるほど聖人君子で善人な訳が無い」


 どんな友人だ。いや、私の友達も人の事言えないけど。


「つー訳で、保健室に向かってた。いつもうちの顧問が入り浸ってっから、茶ぐらい出してもらえると思ってな」


 時枝先輩は、飢えからくる殺伐感と悲壮さを纏いつつ、どこか虚ろな眼差しで遠き廊下の彼方を透かし見る。


「えーっと、それなら私のお弁当、お分けしましょうか?」

「……」


 お弁当袋を持ち上げて提案する私に、時枝先輩は声もなく葛藤しているご様子だった。

 腹減った。だが女子にたかるのは絶対に嫌。そんな内心の膠着状態の戦いが、手に取るように分かる。


「せっかくだが、遠慮、しとく……」


 めちゃくちゃ不本意そうに、未練たらたらに首を左右に振って、時枝先輩は誘惑を断ち切った。凄い人だな、ある意味。うちの中年は食欲に忠実なのに。


「じゃあ、クッキー差し上げますよ。お茶だけじゃなくて、せめて固形物をお腹に入れないと」

「いや、でも」


 私はカバンの中からラッピングした袋を、石動のあんちゃんに進呈する為の一つだけをカバンに入れたまま、残りを全て掴み出し、時枝先輩の胸元に押し付けた。


「アイと食べようと思って、作ってきたんですけど。どうやら彼女、要・ら・な・い! みたいなので。

捨てるのは勿体無いので、先輩食べて下さい」

「……友達から全力で拒否られるほど、お前の作った菓子は不味いのか……?」


 どっかで覗き見をしているハズのアイに、聞こえるように声を大きく強調して時枝先輩にクッキーを渡すと、先輩は何だか痛々しいモノを見る眼差しで、恐る恐る受け取った。


「……保健室に行くんだし、きっと胃腸薬ぐらい、あるよな」

「先輩、何気に失礼ですよ」

「まあなんだ。ありがたく貰っとくよ。午後は体育あるから、昼飯抜きだと切り抜けられなさそうだし」


 サンキュー、と、今度は先ほどまでとは別の意味で悲壮感を漂わせながらも、時枝先輩は笑みを浮かべた。つくづく失礼な話だが、まあ確かに料理の腕前なんか知らない下級生の手作り菓子だなんて、食べるのはちょっとした冒険だよな。と、思い直した。

 じゃあな、と、保健室に足を向けた時枝先輩は、思い出したようにこちらを足を止めて振り向いた。


「そうだ、葉山。土曜だけど、何時にどこで待ち合わせする? 現地集合の方が良いか?」

「へ?」


 待ち合わせっていったい何の話だ。土曜日……あ、個展?


「先輩も同じ日に行くんですか? え? 私と一緒に?」

「つーか、オレはそもそも初めからそのつもりだったけど?」


 何だとおおおお!?

 ハッ、これはもしやデートか! 校外学習にかこつけたデートのお誘いになるのか!

 やべぇ、普通の表情を心掛けたいのに、口が勝手に笑うー!


 先輩と待ち合わせの場所と時間を打ち合わせて、私は今度こそその場から離れた。うーん、私、もしかしたら時枝先輩のちょっぴりお気に入りの後輩、ってポジションなのかもしれない! これって自惚れじゃないよね?


「嬉しそうだねぇ、美鈴っち?」


 我ながら、にへにへとした怪しさ満点の笑みを浮かべて中庭に向かっていたら、すっかりその存在を忘れていたアイが、背後から駆けてきて私の肩をポンと叩いた。


「あ、アイ。今までどこに隠れてたの」

「いや、フッツーに教室に戻っただけだけど?

しっかし、時枝先輩とお喋りしてる時の美鈴っちは、恋する乙女系のしなを作るねえ」


 アイの見解は、ツッコミ所満載だ。恋する乙女系だなんて、『系』が引っ付くのは何でだ。まるで私の本質はそれとはかけ離れてるみたいじゃないか。まあ確かに、別に時枝先輩に恋い焦がれてる訳じゃないけど。


「むふふふ。時枝先輩からデートに誘われるとは、やるね美鈴っち」

「いや、声が大きいんで抑えてつかーさい」


 私もつい『それってつまりデート!?』って思ったけどさ。時枝先輩ファンの耳に入ったら、マジで私の身の破滅だ。勘弁して下さい。

 それに、時枝先輩本人には、単なる先輩後輩による部活動の延長線上のお出掛けであって、デートだなんてつもりは欠片も無いであろう事は、冷静に考えて、ちゃんと分かってるつもりだ。

 男女が待ち合わせて一緒にお出掛けに行くって、私の中では立派にデートだけどさ。時枝先輩にとってはきっと、私って『後輩』であって、『女』じゃないんだよね。


 アイに分ける予定だったクッキーは、全部時枝先輩に渡してしまったというのに、お昼休み中、アイはずーっとご機嫌だった。我が友ながら、よく分からん女である。



 午後の授業とホームルームを無事に終えた私はそそくさと教室を後にし、石動のあんちゃんとの待ち合わせ場所に向かった。指定されたのは、駅と学校の中間くらいに位置する森林公園。

 こ洒落たカフェとか、大学の敷地内だとかそういう人目に付きかねない場所では、私と会いたくないとかそういう理由だろうか? まあ、あの人も世間体とか大学での顔とかあるだろうし、女子中学生をナンパしてただなんて噂が立ったりしたら面目丸潰れか。


「あ、ミィちゃん来た来た。こっちこっち!」


 足早に公園の中へ歩を進めて行くと、等間隔に並べられているベンチから聞き覚えのある声が上がった。そちらに顔を向けると、ベンチを一つ陣取っていた椿にーちゃんと目が合った。早々に合流出来た安堵感から、思わずにぱっと笑みが浮かんでしまう。だって、具体的にどこで待ってるってメールに書いてくれてないんだもんなあ。

 椿にーちゃんの手招きに応えるべく、私は肩に掛けたカバンを揺すり上げて、笑顔のままトコトコと駆け寄った。


「お待たせしました、石動のあんちゃん」

「……」


 ベンチの前で立ち止まり、ぺこりと一礼すると、何故か椿にーちゃんは一瞬まごついた。古いプログラムか。


「ね、ミィちゃん。俺の呼び名、どれか一つに統一してくれないかな?

『石動のあんちゃん』って、俺何者だよって感じだし。

メールだと『椿にーちゃん』って妹萌え属性とか俺何新しい属性目覚めさせられてんだよでも妹キャラもかなりイイ! だし」


 早口で呟いた後半の台詞は、聞かなかった事にした。流石は隠れロリコン(多分まだ少女に好意を抱いた事が無い)、妹萌え属性持ちだったらしい。ああいや、私が悪ノリなんかしたせいで、うっかり付与されてしまったのだろうか。スマン事をした。


「分かりました。じゃあ、遠慮なく……『おう、待たせたな椿!』」

「呼び捨て!? しかもまたキャラ変わってるから! 戻っておいでミィちゃん!」


 ビシッと親指を立てつつ、爽やかさを意識し歯を見せながら笑みを浮かべて挨拶をやり直してみると、怒涛の勢いでツッコミとダメ出しを食らった。

 うーむ。注文の多い男である。だがまあ、さして親しくもない年下の小娘からタメ口かつ呼び捨てにされたら、不愉快だと思われて当たり前か。自分は当然のように『ミィちゃん』とか呼んでるくせになあ。年功序列め。


「じゃあ、椿にーちゃんで」

「そうして。リアルで呼ばれてれば、多分その内慣れる、うん」


 椿にーちゃんはポケットから綺麗にプレスされたシンプルなハンカチを取り出して、自分の傍らに敷いた。ポンポンと叩いて、お隣どうぞと示してくるので、私は素直にベンチに腰を下ろした。ていうか、リアルで当然のようにこんな行動に出る男って、実在していたのか。前世の彼女の旦那ですら、こんな行動取らなかったぞ。


 しかし、学校帰りで制服姿の私と、ふっと目を引くワインレッドのカーディガンを着こなしたにーちゃんの組み合わせは、人から見たらどう見えるのやら。綺麗目のシャツにワインレッドのカーディガン、ボトムは薄茶色のチノパン、ブラウンの靴にベルト……赤色の服なんか自然体に着こなせる色男とか、テレビの中だけの存在だと思ってたよ。

 うちの中年にも、私服では是非とも素敵ファッションをして欲しいものだが、きっと同じ服を着せても似合わないだろうな……


 有り難く、ちょこなんと座って真正面を向いた私は、ハッと息を飲んだ。眼前には、遊歩道を挟んで一面の花畑が広がっていた。黄色い百合がそよ風に揺れ、木漏れ日に照らされたそれは明暗のコントラストも美しい。

 落ち着いてゆっくり深呼吸すると、花畑から百合の香気と、傍らの椿にーちゃんから上品なムスクの香りが入り混じった空気を吸い込んだ。……ううむ。うちの中年にも、香水とかプレゼントしてみようかな。そろそろ加齢臭が気になるお年頃だろうし。


「凄い、綺麗ですね」

「でしょ? ミィちゃんお花が好きみたいだったから、ここの花も気に入るかと思って」

「え。私、そんな話しましたっけ?」

「スケッチブックを花いっぱいに描いてたら、そうなんだろうなあって、誰でも思うよ」


 私は椿にーちゃんに、スケッチブックを見せた覚えなど無い。……思い当たるのは昨日の水取り紙代わりに、スケッチブックの白紙を切り取って挟んでいた時ぐらいだが、この人そんなところを観察して記憶していたのか。

 背筋にぞぞっと恐怖心が這い上っていくのを感じた。この人は、きっと私などよりもよほど頭脳の回転も早く、狡猾で観察眼に優れ、呼吸するように策を張り巡らせて他人を利用し、尚且つそれを他者に悟らせ不快にさせる事も無い、要領も世渡りも良い人種なのだ。

 『人目に付く場所で会って、知り合いにからかわれるのか嫌なのかな?』だなんて、とんでもない。きっと、『私が』喜ぶ場所を優先してセレクトしたのだ。昨日今日会ったばかりの小娘を、皐月さんを落とす上で利用価値があると踏んで点数稼ぎをする為に。

 骨を折る労力を厭わず、地道に外堀を埋めていくその姿。ああ、こりゃあヤバい人種だ。


「ミィちゃん、紅茶とココア、どっちが好き?」


 しかし、硝煙にまみれる可能性の高い未来の殺人鬼候補者は、人好きのする甘い笑顔で缶を二つ差し出してくる。わざわざ飲み物まで予め用意しておいたとか、この人本当に気配りが行き届いてて怖すぎる。


「わあ、私、ココアが好きです。椿にーちゃんありがとう」


 にこっと笑みを浮かべて、内心ではムカついてる身長差から仕方無く上目遣いに見上げ、両手を差し出して『下さいな』という態度を示すと、椿にーちゃんはわざわざプルタブを開けてから手渡してくれた。最早、彼の行動に染み付く行き届き過ぎた生態について、何も言うまい……受け取ったココアは、温かかった。

 長時間日向に当たっていれば暑いが、日陰で風が吹くと少し肌寒いこの時期、ベンチの上で温かい飲み物はとても有り難い。それだけに非常に恐ろしい。

 この人、こんだけデキる男要素備えてるんだから、何も皐月さんに拘らなくてもモテるだろうに。何故に皐月さんに執着するんだ。


「美味しい?」

「うん」


 私が一口味わったのを横目で確認し、目を細めて尋ねてくるので素直に頷けば、椿にーちゃんは笑みを深くする。アレだな。私相手にでさえこうなんだから、きっと、無駄にあちこちで乙女心を撃ち抜いて回っているに違いない。だけど、椿にーちゃんが惹かれたのは皐月さんだけ……うーん、どうやったら犯罪に走らずに済むのだろう。


 私は一度ココアの缶を傍らに置き、カバンの中から乾かし終わった書籍が入った紙袋と、クッキーのラッピング袋を取り出した。


「はい椿にーちゃん、忘れ物。

クッキーは一応、プレーンにしてみたけど、口に合わなかったらごめんなさい」

「おお、すっかり乾いてる。ありがとー。

で、これがお兄ちゃんの為にミィちゃんが焼いてくれたクッキーか……じゃあ早速頂きます」


 椿にーちゃんはビニール袋の中身を確認し、続いてクッキーの袋を笑顔で受け取った。遠慮も味への心配も躊躇いもせずに、にーちゃんは嬉しそうにラッピング袋のリボンを解き、一枚つまみ出して口に入れた。

 本当に、ある意味凄過ぎだろこの人。まだ知り合って間もない小娘の手作りクッキーだなんて、何が仕込まれてるかも分からず味も質も保証されない、地雷になりかねないブツを笑顔で食べれるとか。女好きもここまでいくと、天晴れだな。


「うっ……美味い……!

普通に美味いよ、ミィちゃん」

「そ? お菓子はあんまり作らないから、椿にーちゃんの口にあって良かった。

一生懸命作ったんだ」


 無理した笑顔でもなく、本当に美味しいと感じてくれたのだろう。普段はうちの中年の為に菓子を作るばかりだから、あまり作り甲斐が無いのだ。


「ミィちゃんはお料理もするの?」

「うん。毎日のご飯は殆ど自分で作ってるよ」

「そうか、買い出しの時から慣れてる感じだったから、そうかなあとは思ってたけど」


 ……どうやら、躊躇無くクッキーを口にしたのは単なる無計画ではなく、短い間での観察から弾き出した仮説から、私にある程度の腕前があると踏んでいたかららしい。感心して損した。

 椿にーちゃんは美味しい美味しいとパクパクとクッキーを平らげ、満足げだ。もうちょっと、多目に入れてくれば良かったかな。


 そのまま取り留めもなく椿にーちゃんと会話を続けていきながら、私はこの戦いでの劣勢を自覚していた。どうにかして、この人の関心を皐月さんから余所へと向けさせるか、薄れさせねばならないのだが、その糸口すら掴めないのだ。

 敵は手強すぎた。椿にーちゃんは私が単独でかなう相手ではないが、味方の援軍なんて期待出来ない。

 そうこうしているうちに、そろそろ家に帰らないといけない時間になってくる。おおぅ、大ピンチだ。


「ミィちゃん、どうしたの?」


 微妙に俯きがちになった私の顔を、ひょいと覗き込むように目を合わされて、私は非常に焦った。今後も深い意味も理由も無く、ちょくちょくメールを出し続けても、マメそうな椿にーちゃん相手ならば文通友達ぐらいの関係なら築けるかもしれないが、それで凶行が未然に防げるかどうかは心許ない。


 私は何かに突き動かされるように、椿にーちゃんの服の袖を小さく掴んで顔を見上げ、そして言葉に詰まった。

 私の望みは一つだけ。犯罪に走ったりしないで。だけど、それをどう伝えたって、椿にーちゃんを不愉快にさせるだけだ。だって、それは彼を危険人物だと一方的に断定して罪を犯して当然だと、決め付けてかかっている態度なのだから。


「あの、あのね、椿にーちゃん」

「うん」


 私のなかなか形にならない言葉を辛抱強く待ち、落ち着かせるように頭を撫でてくる大きな手のひら。

 そうだよね。生まれついての殺人鬼なんか、居るはずないんだから。あのゲームで展開される惨劇は、きっと発作的に魔が差す瞬間だとか、憎しみが抑えきれなくなった苦しみだとか、そういう悲劇を描いてるんだと思う。


「えっとね、お願いがあるんだ」

「何かな?」

「私のね、えっと……」


 頑張れ、勇気を出して言うんだ、私! この正念場を乗り切れなくては、皐月さんと私の安穏ライフが遠ざかってしまう!


「わ、私に英語を教えて下さいっ!」


 言えた! ちゃんと椿にーちゃんの目を見て、言い間違えもしないできちんと要望を伝えられた! 偉い、頑張ったぞ私!

 感動にうち震えている私をヨソに、お願い事を耳にした椿にーちゃんは拍子抜けしたようにカクッと体勢を崩した。チクショー、どうせ『真剣な顔してるから何事かと思えば、何だよそんな事か』とか思ってるんだな? 私にとっては、充分一大事だというのに。


「私、英語の授業でいつもついていけないんです」

「え、英語、ね?

別に教えるのはやぶさかじゃあ無いけど、ミィちゃんは皐月ちゃんや皐月ちゃんのお兄さんのお隣さんだろ? どうして俺に頼むのか、聞いても良い?」


 おうよ、当然、より親しい相手に頼むのが自然だってのは、私にだって分かっていますとも。だが、椿にーちゃんと頻繁に繋ぎを取る必要がある私が、何とか必死に策を練った結論が家庭教師になってもらう事。しか思い付かなかったのだから仕方がない。


「嘉月さんは、睡眠時間を削って毎日お仕事を頑張ってて、いつも眠たそうなんです」

「ふむふむ」

「皐月さんは、大学に入ったばかりで、まだ生活のリズムが掴めないみたいで、なのに、甘えるのは申し訳なくて……」

「あー……塾とか、家庭教師を雇うのは」

「うち、貧乏なんです」


 きっぱり断言すると、流石の椿にーちゃんも黙った。うん、そうだよな。


「だから、椿にーちゃんにも家庭教師代とか、私、払えません。やっぱり、無理ですよね」


 しゅーんとうなだれて、椿にーちゃんの袖から指先を離す。うう、多額の雇用費を示せれたら、美味しいバイトとして乗ってくれたかもしれないけど、何の義理も無い小娘の面倒を進んで見てくれるほど、世の中甘くはないよね。


「ふーん……」


 椿にーちゃんは両腕を組んで、ベンチの背もたれに背中を預けて、しばし思案するように私を見下ろしてきた。

 そして、言った。


「うん、構わないよ、ミィちゃん」

「え、本当ですか?」

「ただし、条件がある」


 ピッと人差し指を立て、椿にーちゃんは私の前に突き付けてきた。


「英語を教えるのは、俺とミィちゃんの都合が合う日にする。

ミィちゃんの家で教える。

家庭教師をした日は、俺に夕飯を作る。

以上三点、この条件を呑めるなら、英語教えてあげる」


 一個目と三個目はさておき、二個目はあからさまにアレだ。椿にーちゃん、私の家を頻繁に来訪する事によって、皐月さんとの接点を増やそうと画策してるのが実に分かり易いよ。皐月さんの妹分を可愛がる事によって、点数稼ぎもしたいんですね?

 だが、私には他に選択の余地が無い。いや、もっと上手いやり方が他にあるのかもしれないけれど、私は頭が良くないから思い付けれない。


「はい、よろしくお願いします、椿先生!」

「……『にーちゃん』の方が、萌えるなー」


 ベンチに並んで座ったまま頭を下げる私に、椿にーちゃんはボソッと呟いた。うん、これも一応、聞かなかった事にしよう。



 それから椿にーちゃんにまた家まで送ってもらい、我が家の玄関先で隣家の様子をチラッと窺うにーちゃんのバカ正直さに笑いを必死で堪えつつ、「送って下さってありがとうございます」と、丁寧に頭を下げた。


「それじゃあね」


 やっぱり今日も、上がり込もうとする素振りもなく、頭を撫でてくる椿にーちゃんを見上げて、私は思い切って尋ねた。


「椿にーちゃん、次はいつ会えますか?」


 うう、何だかこの台詞、言っててめちゃくちゃ恥ずかしい。しっかり確認しておかないといけない事だけど、こうやって私の方から『会いたい会いたい一緒にいたい』とかアピールするのって、正直引かれそう。

 椿にーちゃん、私の頭に手を押いたまま何かちょっと固まったし。頼む、リアクションしてくれよ。羞恥に耐えてる私を放置しないでー。


「じゃあ、えー、日曜日!

うん、今度の日曜日にまた会おうか。予定とか無い?」


 椿にーちゃんはにこっと微笑んで、そう提案してきた。ふむふむ、日曜日ですね。予定は空いてます。


「大丈夫です。もし何か入ってても、椿にーちゃんを優先します」

「……」


 だから何故、たまに固まるんだ。私、そんなに反応に困る発言ばっかりしてるのだろうか。椿にーちゃんは難しいなあ。


 帰りしな、「また今夜メールするね」と告げて、椿にーちゃんは帰路についた。その背中が見えなくなるまで見送ってから、私も玄関をくぐる。

 ふう、これから皐月さんと椿にーちゃんが私の家で鉢合わせとかしないように、頑張って防がないとなあ。流石に、私をネタにして大学で話し掛けるのまでは防げれないけど、これはもう、私から椿にーちゃんに近付く以上、しょうがないよね。


 今夜も椿にーちゃんからのメールに、こうなったらもう意地だと痛々しい『ニャンっ娘』のキャラになりきって返信しつつ、私は疲れてベッドに倒れ込んだ。



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