Extra phase 1
「ふっふっふっ……」
目論見通り、ぐっすりと寝入っている旦那を見下ろして、私は含み笑いを堪えきれない。
キイ……と、背後で小さく扉が開く音がして、私はそちらを振り返った。
「みのり、瑛司さんは?」
「爆睡してるわ。ちょっとやそっとの事じゃ、きっと朝まで起きやしないわね」
手筈通りに忍んでやってきた彼は、謀の成功にニヤリと悪どい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、早速これから……」
「ええ。『お楽しみ』の時間よ」
私と彼は、顔を見合わせて笑い合った。
*******
「美鈴っ、お帰りー。今夜のお夕食はハンバーグだよ!」
ふと気が付けば。背後で玄関のドアが閉じる音がして、エプロンを身に付けお玉を片手に、父の雅春がキッチンダイニングの扉からヒョイと顔を覗かせ、満面の笑みで帰宅の挨拶をしてきていた。
……何か、これは少し良いかも。中年からしてみればごく日常のやりとりなんだろうけど、改めてログインしたら笑顔で『お帰り』と出迎えられるというのは愛着が湧いてしまうではないか。
「ただいま、お父さん」
少々照れながら玄関先で靴を脱ぎ、スリッパを履いてキッチンダイニングへ向かう。
「何か手伝おうか?」
「もう出来るから、美鈴は手を洗ってお皿を出してくれる?」
「はーい」
焦げ付かないよう、スープ鍋をお玉でぐるぐるとかき混ぜている中年から笑顔で頼まれるので、私は素直に頷いて手を洗い、スープ皿を取り出す。
ゲーム時間は一晩とはいえ、こうして『クリア後のおまけステージ』があったり、それは前回のプレイデータを反映していたり……リピーター獲得を目指しているんだね、お父さん(リアル)!
紛らわしいのでゲーム内の父雅春は今後、心の中では『中年』で統一しよう。
炊きたてのご飯と一緒に、向かい合って中年お手製のハンバーグと野菜スープを頂く。
「美鈴、夏休みの予定は立ててるの? 昨日は海に行ったし、次はお父さん、山に行ってみたいな」
「んーとね、まずは夏休みの課題を全部片付ける予定。遊ぶのはその後かな」
「そうかー。美鈴は真面目だね。お父さんの学生の頃は……確か、最終日になって慌てて取り組んでいたような」
……中年がしみじみと語るこの逸話は、AIを組んだプログラマーさん辺りの実体験なのだろうか?
それにしても、話せば話すほど中年と行う会話はスムーズだ。たまに言葉に詰まったり間が空いたりするのも、あくまでも普通の人間ぽい反応で、適切な応対を検索に不自然に固まって停止中って感じじゃないし。皆が私を担いでただけで、実はこの中年には中の人が居るとかじゃないよね?
さて。今回私が物忘れ状態にならずに『本編プレイデータを反映して翌晩再びプレイ』をしているのには、訳がある。
本編中のPCとGMが記憶制御の状態を入れ替えてログインし、『クリア後のオマケモード』を遊……テストする為だ。大抵のゲームにはあるらしいよ、ストーリークリア後の様子を遊べる『エクストラ』とか『ファンディスク』とかいうやつ。
こちらのモードではプレイヤーは記憶制御の有無を選べる。が、本来GMに記憶制御をかけないものなのだが……まあ、うちのお父さんはありとあらゆる状況を想定して、機能するかどうか動作確認はしておくべきだと判断したらしい。将来的に、『オマケでは自分が記憶を保ったまま、相手方の記憶を制御して欲しい』なんて顧客が望むかもしれないしね。
翌日の平日。私は夏休みで学校に向かう予定は無いが、中年はいつも通りに仕事へ向かい、私はプレイヤーだった人々を自宅に招いてお茶とお菓子を振る舞っていた。
何故我が家かと言えば、基本的に、プレイヤーの自宅というものは条件が満たされない限り、NPC……ノンプレイヤーキャラクターが屋内にまで不意に乱入してくる事は無い。葉山家の場合、父の雅春が平日は職場に向かう為、帰宅予定時間まで平穏なのだ。
「さて。眠る前にも労らせて頂いたが、皆さん、今回のテストプレイお疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー」
代表して皆を見回しながら口にした小川先生の開会のお言葉に、お茶会へ集まった面々が唱和する。
我が家へとお招きしたのは、えーとプレイヤーキャラクター名で紹介すると……皐月さん、時枝先輩、美術部顧問の小川先生、そして望愛ことアイだ。
皐月さんと時枝先輩はお兄さんと、アイは家族と同居しているし、小川先生はアパートに一人暮らしで狭くて人を招きにくいとの事だったので、消去法的に葉山家に集まる事となった。
「……なあ、谷山は本編中、プレイヤーじゃなかったよな? 何で今回も記憶制御されてねえの?」
「時枝先輩、オンラインゲーム内でリアルの個人情報は厳禁ですよ。まあ、今回は職場の関係者ばかりですけど」
時枝先輩がアイスティーのグラス片手に、訝しげにアイを眺めながら首を傾げると、皐月さんがすかさずシュピッ! と人差し指を立ててドヤ顔で諫めた。そういう皐月さんも、リアルでの『先輩』呼びがそのまま出てしまってますよー。
因みに、前夜に行われたテストプレイでのプレイヤーは他にも数名いるのだが、彼らは彼らでプレイ中に親交があったプレイヤー同士で集まったり、そもそもオマケモードを既に満喫していたりと様々だ。
本編ゲームではプレイ期間が四月から三月まで最長で一年間あって、前夜のテストプレイでは秋の終わりで全プレイヤーのエンディングが確定して終了したけれど、夏休み期間はさり気な~くボカされてたもんねぇ。クリア後のお楽しみとして充てる為に、サマーバケーションをほぼ丸々余白として残しておくとは、我が父だか部下さんだかは知らんが商売上手だのぅ。
「それにはな、実に悲しい事情があるのだよ」
アイは果物ゼリーのパイナップルを美味しそうに食べてから、スプーンを手にしたまま肘を突き、時枝先輩の疑問に答えるべく手の甲に顎を乗せて嘯いた。
私はストローでアイスティーをかき混ぜてガムシロップを溶かしつつ、口を開く。
「アイがエンディングを迎えたプレイヤーさん……永沢さんをね、こっぴどくフッちゃって。
それで永沢さんの中の人が、
『あのフラれデータでオマケモードを再開する度胸はないよ……』
って、遠い目をしちゃって」
チラッとアイを見やると、我が友は満面の笑みを浮かべて引き継いだ。
「よって、今回の『余暇』ではGM側に起動するあたしの分の記憶制御を、本編に引き続きプレイヤー『永沢』に受けさせたという訳だ。理解出来たかな? 時枝先輩」
「……え? それって、永沢さんの中の人は、今回のクリア後モードのゲームプレイには不参加を表明したって事じゃ……?」
「おや、そういう意味だったのか? あたしはてっきり、もう一度忙しないリアルを忘れ去ってのびのびと遊びたい、という意味だとばかり」
時枝先輩は引きつった表情を浮かべるが、永沢さんの中の人を意図的に酔い潰れさせて、イイ笑顔で躊躇なくゲーム機械に放り込んできやがったアイは、悪びれもせずにしれっと言い放つ。いや、私も時枝先輩も、椿にーちゃんと光さんの中の人を酔い潰して了承無くゲーム機械に放り込んできた訳で、人の事は言えないのだけど。
うん、きっと今頃永沢さんを始めとした仲の良い彼らは、この世界を存分に満喫している事だろう。
本編中にGMを務めていた彼らは、椿、光、永沢の中の人には知らされないまま、今回のオマケモードに記憶制御を掛けられゲーム内に入ってきているのである。当然、私のリアルでのお父さんこと隣家の嘉月さんも、現在は物忘れ状態だ。
「いやあ、君達は大変だな!」
今回のテストで、AIの学習途上でありながらものの見事にNPCとエンディングを迎える、というスゴ技を披露して下さった小川先生は、「はっはっは」と笑いながらパクパクとゼリーを平らげ、中の人の好む緑茶を飲んだ。この人、相当な緑茶党なんだよね……
「葉山、お茶とお菓子おかわり。
いやあ、ここでいくら飲食してもリアルにはなんら影響がなく、太らないというのは実に素晴らしい!」
「……ハッ!? い、言われてみれば。美鈴ちゃん、わたしにもお菓子もっと欲しいな」
「はーい。すぐご用意しますね」
輝ける笑顔で小川先生が仰ると、皐月さんは目からウロコが落ちたように感じ入り、おずおずと空になった菓子皿を寄せてきた。私は冷蔵庫から、たくさん作っておいたゼリーを取り出し、追加を取り分ける。
「なるほど。オレには考えもつかない着眼点ですが、ダイエッターのストレス解消にも! と、宣伝文句に追加しておきましょう」
「食事制限ダイエットは辛いのだ」
「……夢の中でお腹一杯好きなもの食べ漁って、逆にストレスが溜まらないと良いんですが」
ここでメモを取ってもリアルにはメモ帳を持ち帰られる訳ではないので、中の人がゲームデザイナーである時枝先輩は営業の方に伝えるまで忘れないようにする為か、こめかみを軽く数回指先で叩いた。後からログを漁るのも大変そうですしね。
……小川先生の中の人のダイエット経歴は……置いといて。
アイスティーを飲んでいたアイは、ストローから唇を離して考える素振りを見せた。
「ふぅむ。この場合、リアルでは確かに影響しないが、ゲーム内アバターにはしっかり影響が出る、という事実は秘匿しておくべきではなさそうだが」
「つまり?」
「こちらでの姿格好がこう、ぷっくりと。そこらへんは、リアリティ重視だからな。なかなか面白かったぞ、二重顎の雅春さんや椿さんは」
中の人がプログラマーなアイは、当たり前だがゲームの内部データに大変詳しい。そして、仕事のフリして何か色々遊んでいやがったようだ。流石だ我が心の友よ。
「……リピーター獲得の為にも、こちらのアバターはちょっとやそっとの飲食では太りにくい設定が必要不可欠だ、渋木」
「まあ、主任にその声は届けておきますよ。
……コロッとした感じの神林先生、可愛かったんですけどねえ」
「うっ……!?」
アイの分かり易い策略に、小川先生はあっさりと引っ掛かって葛藤しているが、わざと太らせるのはどうかと思う。
神林先生スレンダーボディーからボールへの危機はともかく。皐月さんはおかわりのゼリーを口に運び、ほわ~んとした幸せそうな笑みを浮かべた。
「丸い恋人が可愛いって、私にはちょっと分からない趣味だわ……皐月さんは、やっぱり柴田先生がお好みなんですよね?」
「うーん、それがよく分かんない。目が覚めてから、柴田先生……の、中の人が謝ってきたんだけど、『テストプレイに入る前にあなたに『柴田雲雀』の情報をたくさん考えさせながらログインしてもらったから、あなたは最初から柴田先生が気になっていたのかもしれません』って」
「え……そんなプレイ方法とか有り得るんですか?」
それこそ私は、『絶対えーじに邪魔されずに楽しむんだから!』とか考えながらログインしたけれども、ものの見事に捕まったんですが。
皐月さんの言葉に、私が茶会に集ったメンバーを見回しながら疑問を露呈すると、時枝先輩は懐疑的な表情を浮かべ、小川先生は楽しげに「さあ?」と首を傾げた。
「何かを強く意識して眠りに就けば、ゲームであっても夢の中へ影響を与える事があるかもしれない、そんな考え方があったっていいんじゃないか。それこそ夢のある話だろう」
「小川先生も楽しそうだし、わたしもそりゃちょっと照れくさいんだけど。こういう始まりもありかなあ、なんて」
「ゲームはゲーム、リアルはリアルだと思うが。まあ近頃はネットで知り合った男女がくっつくのも珍しくは無いな」
女子比率が高い中で始まった恋バナに、中の人も男の人である時枝先輩が居心地悪そうにしているが、これも恋愛を題材にしたゲームのデザイン開発に関わった時点で仕方がない事だ。
この席も本来は時枝先輩ハーレム茶会じゃなくて、アイの席に永沢さんが居たはずなんだけど。
「……皐月さん。結局、柴田先生の中の人とお付き合いする事にしたんですか?」
「えっとね、まずはお互いの事を少しずつ知り合っていきませんか、って事になったの」
「交際を意識したお友達付き合いから、とな? 随分とまあ、奥ゆかしい」
私の疑問に、皐月さんがポッと頬を染めて答え、小川先生が緑茶を啜りながら小さく笑う。詳しくは知らないが、もとより柴田先生と皐月さんの中の人らは険悪関係だった訳でもなく、満更でもないらしい。しかしそうすると、だ。
「……でも皐月さん。『こちら』の柴田先生は、皐月さんを自分の恋人だと認識していらっしゃるのでは?」
「はうっ……!」
私の確認に、ログインした直後である昨日のうちから何かあったらしく、皐月さんが呻いてテーブルに突っ伏した。柴田先生もGMだったらしいから、今頃リアル事情は物忘れ状態で、皐月さんはラブラブ恋人だと思ってる筈なんだよね。
他ならぬ私にもきたからねえ、椿にーちゃんからのメール。えーじ要素は本当にどこに隠してんの? って問い詰めたくなるやつが。
「なるほど。ちょっとイイ感じの雰囲気である男性が、甘くラブい恋人扱いをしてきて上手く対応しきれない、と」
「柴田先生に不審がられるのもイヤだけど、かといって大胆に振る舞ったら起きた後で気まずくなっちゃう……!」
「御園君」
楽しそうでイイ感じだと笑うアイは置いといて、どうしよう~と呻いている皐月さんの肩に、小川先生がポンと軽く手を置いた。
「何も迷う事はない。己の思うままに振る舞いたまえ!
ゲームの恥は夢の中にかき捨て、だ!」
小川先生はきっと、このオマケモードを真っ当に乙女ゲームらしい楽しみ方をするんだろうなあ。
「ううっ……
時枝先輩や美鈴ちゃんは良いよね、本編が恋愛エンディングじゃなくて」
「……恋愛シミュレーションで違うエンディングを迎えた、ってのも何かがちょっと違う気がしますけどね」
「このゲームは恋愛だけを楽しむものじゃないから、別に良いんだよ」
新しい人生って感じで女の子に構うよりも中学生の学生生活を楽しんでいた時枝先輩は、同居しているお兄さんとの楽しい家族エンドで、私の方もアレ、椿にーちゃんとの恋愛エンディングじゃなかったらしい。中年か。中年が割り込んできたせいか。
おのれ中年……と、私は一人不満を飲み込んでいたら、居心地の悪い恋バナがこのまま展開されてはかなわないとばかりに、時枝先輩がグッと拳を握って宣言する。
「オレと葉山は、御園さんとは違って、『こっち』で奴らの黒歴史製作を目指す!」
「頑張りましょう、先輩!」
「おう!」
気合いを入れ軽く拳を打ち合わせる私と時枝先輩の姿に、同席している小川先生と皐月さんは、意味が分からないと言うようにキョトンとした表情を浮かべた。アイは明らかに人事として面白がっているけど。
「黒歴史って?」
「つまり、オレらがリアルの昨晩、記憶制御のせいで自覚しないままこっちで醜態になるような態度を取って、リアルでネタにされたように、オレらも奴らにやり返してやるんだ」
カクン、と小首を傾げて問う皐月さんに、時枝先輩が胸を張って答える。小川先生は更におやつのお代わりを要求しながら、思案げに口を開いた。
「それで具体的には、いったいどういう行動に出て、相手に何をどうさせるつもりなんだ。時枝、葉山?」
小川先生のお言葉に、私と時枝先輩は動きを止めた。
えーじにやり返してやる! という、意気込みだけで時枝先輩と悪巧み気分で盛り上がっていたけれど、明確な方策や青写真を全く詰めていなかった事に、私はたった今気が付いた。
「こ、こういう事はやっぱりデザイナーである時枝先輩の得意分野ですよね」
「無茶言うな。人陥れ計画とゲームデザインでは、方向性が全然違うだろうが」
一縷の望みを託してみるも、どうやらそう話は簡単ではないようだ。
「仕返し計画、早くも仲間割れの危機か」
「美鈴っち……その、後先考えない猪突っぷりは、何とかした方が良いのではないか?」
「うううっ」
おやつをパクパクと食べる小川先生は微笑ましがっているが、アイから呆れ返った眼差しを向けられて、私は言葉に詰まった。
「子どもの細やかな悪戯心って感じで可愛いなあ」
「子どもなのはアバターだけですっ!」
「いや、葉山。この状況じゃ反論の余地が無い」
クスクスと笑い声を漏らす皐月さんに否定するも、時枝先輩が私の肩にポンと手を置いて首を左右に振る。
アイは仕方がないなと言いたげに空になったアイスティーのグラスを置き、両肘をテーブルに突いて重ねた手の甲の上に顎を乗せ、しばし黙考した。
「何はともあれ、まずはターゲットの情報収集と状況把握からだ。
ターゲットには記憶制御がかけられた上、設定情報が刷り込まれている訳だからな。接触してみない事には、変調も確認出来まい。作戦立案はそれからだ」
「確かに、この『余暇』は中高生の夏休みに合わせてあるから、八月いっぱいまで。今日は七月二十八日の月曜日……時間はたっぷりあるしな」
「そういう事です、先生」
「イエスマム!」
参加者のグラスにアイスティーのお代わりを注いで回り、私はビシッと敬礼をした。流石は我が友は頼りになる。永沢さんの方がこの場に居たら、助力は望めなかっただろうし。
「……美鈴ちゃんが、やけに行き当たりばったりな性格になった原因が見えた気がする」
「それは違うぞ皐月さん。九割九分九厘、椿さんの中の人の教育成果だ」
何だか失礼な事を言われている気がするが、とにもかくにも私は、椿にーちゃんの現状を把握し、記憶制御による素の状態が剥き出しになっているのを利用して、思い出したえーじがダメージを受けるように持っていかなくてはならない。
だって私ばっかり気恥ずかしいだとか、不公平じゃないか。
具体的な仕返しの相談はまた後日に回すとして、小川先生と皐月さんは自然体でこのオマケモードを楽しむと話してその日は解散し、私はその夜、早速椿にーちゃんにメールを出す事にした。
取り敢えず、邪魔されずに二人っきりで会ってみればどんな塩梅か分かるよね。よし、にーちゃんの部屋で夏休みの宿題を片付けさせて、という名目で突撃しよう。
部屋にお邪魔しても良いか、日にちはどうか。必要事項を書き連ねてメールを出すと、数分と経たずに椿にーちゃんから電話が掛かってきた。
「もしもし、椿にーちゃん?」
「今晩は、ミィちゃん」
てっきり、毎度の如くハイスピードで文面を作成してお返事を寄越してくるかと思っていたのに、私からのメールを読んでそのまま返信するのではなく即座に通話を選択した辺りに、記憶制御の影響が窺えるような気もする。
本来のえーじって、椿にーちゃんほど筆まめじゃないし。むしろ、日中出したこっちからのメールに返信しないで、帰宅後に口頭で答えるとかしょっちゅうだったし。
ははん、さては内心、(何か俺、前みたいに頻繁にメールを打つなんて、やる気が出ないなー)とか思ったりして、ちまちまメールを打つのがだんだん面倒になりおったな。
「夏休みの宿題、俺の部屋で片付けるの?」
お、リップサービスも前置きも無く、本題から入った。ふーん、ホントだ。落ち着いて観察してみると、『演出された椿にーちゃん』と本来の性質との違いが見え隠れしてるや。
「うんっ。あのね、自分の家だとついよそ事に意識が向いちゃうんだ。七月中に全部終わらせて、八月は遊び倒すの!
……私が部屋に行ったら、迷惑かな?」
……あれ。そういやよく考えてみると『今の椿にーちゃん』としては、私の事をどう思ってるんだろう? 本編中はあくまでも中の人が記憶制御を受けてない状態だったから、私の事はシンプルに『嫁』以外の何者でもなくて、やたらと構い倒してきた訳だけれど。
私、椿にーちゃんと恋愛エンディングじゃなかったんだよね。あれ? それってもしかして『今の椿にーちゃん』は、私の事を単なる勉強見てやってるご近所の妹分 (かなり甘えたがり)としか見てないんじゃ……!?
「俺の部屋、か……」
私の懸念を裏付けるように、椿にーちゃんは困ったように呟いて、溜め息を吐いた。
「分からないところは見てあげるし、できたら違う場所にしない?
そうだな……俺も調べ物あるし、大学の図書館が一番良いかな。涼しいしね」
「うん、ありがとうにーちゃん。頼りにしてます」
「良いよ。じゃあ、明日はどこで待ち合わせしよっか」
椿にーちゃんとお喋りを終えると、私はぬいぐるみを抱えてごろんとベッドに横になった。
ログインする前に想定していたのとは、何か今の状況はちょっと違うようだ。
てっきりこう、恋愛ゲームのクリア後オマケモードらしくラブラブな日常が繰り広げられる中で、私はえーじへの細やかな仕返しになるような黒歴史を作ってやろう、って、ちょっとワクワクしてたのに。
「あー……そっか」
本編をプレイしていた時の私は、椿にーちゃんへはっきり恋心を自覚した訳でも告白した訳でもないから恋人でも何でもなくて。つまり今の私の状況は、全てを忘れている無関係な他人である自分の夫に片思い中なのだ。
「あれ?」
こんな事を改めて考えただけで、ポロッと涙が零れるだなんて、私、情緒が不安定過ぎやしないだろうか。
ぐいぐいと乱暴に目元を袖で拭って、私は明日からの計画を考える。
要は、起きた後にえーじの黒歴史になれば良いんだから、現状がカップルであるかどうかは関係が無い。うん。
「せっかくのオマケなんだもん。楽しまなくっちゃね!」
一夜明けて、翌日の昼下がり。
私はお弁当を拵え、椿にーちゃんとの待ち合わせ場所である、大学の正門前へとやってきていた。
ここの大学生の夏期休暇は八月一日から九月末までの丸々二ヶ月間らしく、椿にーちゃんは夏休み前の最後の講義や提出予定のレポートなんかがあるらしい。
「ミィちゃん!」
のんびりと歩道を歩いていたら、待ち合わせの正門前に佇んでいた椿にーちゃんが足取りも軽く駆けてきて、ヒョイと私の荷物を持ち上げた。
「おはよう、椿にーちゃん」
「おはよう。今日は暑いし、学食でお昼食べようよ。俺、もう腹減っちゃって」
勉強道具が入った私の通学カバンを肩に掛け、期待に満ちた眼差しを重箱の包みに落とす椿にーちゃん。
「たまには頑張って、朝ご飯食べてみたら?」
「えー? 俺の朝のぐでんぐでんっぷりを知った上でその言葉……ミィちゃん、俺泣いちゃうよ?」
「大丈夫、椿にーちゃんはやれば出来る子!」
何か不思議な感じだ。えーじだったらもっとこう、威圧的な感じでこっちを言いなりに服従させてやるぜ、みたいな意地悪さがあるんだけど。本当に同じ人かと尋ねたくなるぐらい、椿にーちゃんはいつものようにおどけている。
「ミィちゃんが毎朝あったかい朝ご飯を作ってくれるなら、俺も頑張って早起きするんだけどなあ」
クスクス、と笑いながら学食へ向かって案内してくれるにーちゃんの隣を歩きながら、私は「ん?」と見上げて首を傾げた。そんなの、出張とかでない限りもう毎日やってる事だし。
「別に良いよ? 椿にーちゃんは和食の方が良いんだよね。明日はお味噌汁と何にしようかな」
まさかゲームの中でまで、「毎日朝ご飯作ってくれ」と言われるとは思わんかったけど。しかし椿にーちゃん、リアルでの調理技能はどこに封印してきたんだろう。お休みの日にはちょくちょく夕飯作ってくれてたのに。
「えっ、えっと……ほんの冗談だよ? ミィちゃん」
私が真剣に献立を悩んでいると、椿にーちゃんが慌てたように私の顔を覗き込んできた。
「別に遠慮しなくても良いよ?
夏休みの間、毎朝にーちゃんの部屋に通うぐらい負担にもならないし」
「まい……」
何故か調理技能まで封じられてしまった旦那のご飯の面倒を見るのは、嫁の役割だろう。
私が前向きに検討しているというのに、椿にーちゃんは絶句して立ち止まってしまった。腹減ってて急いでるんじゃなかったのか。
「にーちゃんどうしたの?」
「み、ミィちゃん。俺やっぱりほら、頑張って起きようとしても、結局は低血圧に負ける気がするから。うん、朝ご飯を作ってもらうのは悪いよ。うん」
うむ、冗談半分に毎朝早起きしてみせるとは言えても、じゃあそうするねと答えられたら『あ、ムリ』と慌てると。あくまでも『○○だったら○○なのになあ』という軽口ね、はいはい。
まあ私も、寝ぼけにーちゃんが壁にガンゴン頭をぶつけまくる姿をまた見たい訳じゃないし、引き下がっておこう。
「はいはい。じゃあ、明日はお昼ご飯作りに行くね。
お味噌汁と何が食べたい?」
当たり前のつもりで口にしてから、私は自分の言動で失敗した事に気が付いた。すぐにいつもの笑顔を浮かべたけれど、椿にーちゃんが一瞬、困った顔をしたからだ。
ちょっと落ち着こう、私。
今の私はこの人から嫁だと思われていない。ただのご近所の妹分だ。恋人ですらない。家庭教師や子守っぽい事をしてくれてはいるが、突き詰めて言えば『友達』ではあっても『他人』だ。
雇用契約を結んだ訳でもないのに、他人が人様の家へご飯を作りに行くのが当たり前な訳ない。そんな風に勝手な思い込みで増長したら、それでは私は端から見れば立派なストーカーだ。
「ごめん、にーちゃんにも色々予定があるのに勝手に決めたら迷惑だよね。
良かったらまたお弁当作るし、家庭教師代にご飯ご馳走するんで、毎日コンビニ弁当は止めてね」
「ううん、ミィちゃんの厚意が迷惑なんじゃないよ。
ただちょっと、今、部屋が散らかってて呼べないなあ、って」
「そっか。椿にーちゃんも夏休みに入ったら、家事にも時間割けるのにね」
「そうなんだよねー」
ふーん。『部屋が散らかってるから』なんて、ベタな言い訳するんだ。思いとどまらなければ私、ツルッと『部屋の片付けを手伝うよ』って言ってるところだったのにさ。
要するに記憶制御された椿にーちゃんは、もう私を自分の部屋には入れたくない、って事か。
……椿にーちゃんと何だかギクシャクするっていうか。見えない壁みたいなものを感じるなあ……
一緒に歩く時には繋いでいた手が、今日は差し出されもしないとか。並んで歩いていても、お互いの身体の間に微妙に空間が空いてるだとか。顔を合わせるたび、以前は流れるように出ていたリップサービスが今日は一言も無いとか。
落ち着いてよく見てみると、記憶制御があるのと無いのとでは、こんなにも違ってくるものなんだね。
私は努めて何でもない顔を取り繕って涼しい学食について行き、片隅のテーブルで重箱を広げる。
「わあ、美味しそう。今日も力作だねミィちゃん」
対面の席からグッと親指を立ててくる椿にーちゃんに私も親指を立て返して、取り皿とお箸、お茶を用意する。
嬉しそうにお弁当に箸を伸ばす様子は、やっぱりいつもの腹ヘリにーちゃんだ。しかし今日は『はい、あーん』が無いのだけれど、ここは私の方から挑戦するべきか!?
鶏の唐揚げを箸に挟み、いざ、と気合いを入れて向かい側に座っている椿にーちゃんの顔を見据える。彼の背後、遥か後方にある学食の出入り口がにわかに騒がしくなっているのが視界の端に入ってきた。
「にーちゃん、ほら、お口あけて? あーん」
「あ、あーん」
座席に座ったままだと箸がにーちゃんの口元に届かないので、カタッと席を立って腕を伸ばし、食えと差し出してやると、椿にーちゃんはちょっと戸惑いがちに唇を開いて唐揚げをパクリ。
「美味しい? にーちゃん」
私の問い掛けに、椿にーちゃんはもぐもぐと噛みながら幾度も頷く。
「あのね、ミィちゃん……」
「あーっ、ツバキちゃんじゃん!」
口の中のものを飲み込んだ椿にーちゃんが、何かを言いかけたのだけれど。その言葉に被さるようにして、傍らから明るい言葉が投げかけられた。
振り向くと、大学生らしい女の子達から遠巻きに見られキャーキャー騒がれている、美形なお兄さんが一回り小さい人影を置き去りにしてタッタッと軽い足取りでやって来ると、椿にーちゃんの肩にのしっと肘を置いた。椿にーちゃんは嫌そうに眉をしかめる。
「……光」
「やあ美鈴ちゃん。今日は椿とデート?」
友人の不機嫌顔に頓着せず、キラキライケメンは爽やかな笑顔を私に向けてくる。相変わらず綺麗な人だなぁ。中身は残念そうな気配が漂ってるけど。
「こんにちは光さん。今日は椿にーちゃんに、夏休みの宿題を見てもらう約束なんです」
「へー、お勉強頑張ってて偉いね」
「光、お前何しに来たんだよ。午前中しか講義入ってないんだろ」
テーブルの上に広げられた重箱に、チラッと目線をやる光さんに食料強奪の危機感を覚えたのか、椿にーちゃんが警戒するように尋ねつつ、光さんの肘を振り払った。
「学食に何しに来たもない。飯食いに来たに決まってんじゃん。あ、そうそう」
そう言ってから、光さんは女子大生に取り囲まれていた人物の腕を引いて連れてきた。
「じゃ~んっ。紹介するねツバキちゃん。
この天使が俺の弟のセナちゃん!」
自慢げに光さんが前に押し出したのは。
「……時枝先輩?」
「よう」
私がポツリと漏らした呟きに応えるように、私服姿で仏頂面の時枝先輩が軽く片手を上げる。
「久しぶりだね、芹那君」
「こんにちは……ええっと、石動さん」
相変わらず顔だけは好みのタイプなのか、ほわん、と優しく微笑みかける椿にーちゃんに、中の人の普段の態度を熟知している時枝先輩は頬が引きつっている。
「え? セナちゃん、同じ学校の美鈴ちゃんはともかく。こっちの優男とも知り合いだったの?
……もしや、ナンパでもされた?」
「凄い、よく分かりましたね光さん」
キョトンとした表情を浮かべて時枝先輩の顔を覗き込む光さんに、私は思わず感心して頷いてしまった。
ロクに話をせずとも男をあっという間にオトす悪女の素質を秘めた弟と、可愛い女の子にはナチュラルに愛想を振り撒いている友人。光さんは彼らのそんな実態をよく知っているのかも。
「ちょっと待て葉山。そんな事実は無い! 勝手に創作するな!」
「そうだよミィちゃん。いくらなんでも俺、男の子をナンパした事はないし」
「あ、ごめんなさい。
そうか、あれナンパじゃなかったんだ」
左右から食ってかかられて、私は慌てて謝罪した。時枝先輩が男の子だと知って、椿にーちゃんが『神はこの地を見捨てた!』って嘆いてたのは、そうと知る前は女の子だと思ってモーションかけてたって事じゃないのか。
「ま、セナちゃんは可愛いから仕方がないね」
「セナちゃん呼ぶな」
うんうん、と頷く兄に、苦虫を噛み潰したような顔で抗議する時枝先輩。
「ところで。時枝先輩も、今日はここの学食を利用されるんですか?」
「ああ、安いし美味いらしいんだ。それに、兄貴の作る飯はマズい」
真顔で断言する時枝先輩。兄はその肩に両手を置いてクルリと身体の向きを回転させた。
「おぅわっ!?」
「じゃ、騒がせちゃってごめんねツバキちゃん。俺、食券買ってくるから~」
強引にグイグイ背中を押して券売機に向かわせている弟の文句を無視して、「またね」と笑顔を残して立ち去る光さん。もしかして椿にーちゃんと一緒にお昼取りたかったのかなあ。
それにしても、光さんってどっかで見たような顔だと思ってたけど、そっか。並んでるのを見てようやく分かったけど、時枝先輩と似てるんだ。
時枝先輩が大学の敷地内に建ってる図書館の利用方法を知っていたのも、お兄さんに教わったからなのかも?
情報収集、時枝先輩も頑張ってるなあ……と、考えながらぼんやりと後ろ姿を眺めていたら、椿にーちゃんから「ミィちゃん」と低く呼び掛けられた。
「あ、ごめん、何? にーちゃん」
「ミィちゃん。野菜チーズ焼き、俺ももっと食べたかったのに全部食べちゃうなんてヒドい」
唇を尖らせて文句を言ってくる椿にーちゃんの取り皿の脇には、茹でた野菜の上にチーズを乗せてオーブントースターで焼く際に小分けの入れ物に使った小さなアルミカップが一つ、私の前には三つあった。
「ごめんにーちゃん。今日はこれにしかチーズ使ってなかったから、つい手が伸びちゃって」
「……暑い季節でお弁当作るの、大変だよね。ごめん」
好物なのに一種類しか詰めていない理由に行き当たったらしく、椿にーちゃんはしゅん、と消沈した様子を見せた。私は慌てて「気にしない気にしない」と、宥めにかかる。
気を取り直した椿にーちゃんは、蕩けるような笑みを浮かべて、保冷剤代わりに入れていて、解凍されてきているがまだ凍っている冷凍みかんを私の口元に差し出してきた。
私は大人しくそれを口に入れる。
「ミィちゃん、美味しい?」
「う、うん」
「いつも美味しいご飯ありがとう、ミィちゃん」
もう少し解凍されてたら、シャリシャリしてシャーベットみたいで美味しかったかもしれないけど。にーちゃんこれまだ氷みかんだよ。食べ頃違いますよ。
だけどなんというか、こう、パアァッと華やいだ笑顔とか向けられると否定的な意見が言いにくくなってしまう
……椿にーちゃんって、これ、本当に記憶制御掛けられてるんだよね?
実はえーじの意識も記憶もばっちり保持していて、癒し系椿にーちゃんにはちょっと弱くて恥ずかしがったり狼狽えたり簡単に押し切られたりしている私の様子を、ニヤニヤと意地の悪い表情を内心では浮かべているのを隠して、記憶制御の影響下にあるフリをしている。なんて、そんな事があったりは……?
「ミィちゃんどうしたの?
このお茶飲んだら図書館に行こうと思ってたけど、暑くて疲れちゃった?」
ハッと気が付くと。黙り込む私の顔を覗き込みつつ、椿にーちゃんは前髪を軽く払いながら私の額に手のひらを当ててきていた。
「熱は……無いね」
「だ、大丈夫。ちょっとボンヤリしてたけど、夏バテも熱中症にもなったりはしてない」
「なら良いけど。辛くなったらちゃんと言うんだよ?
ミィちゃんはこんなに小さいのに、無理して倒れたら大変」
小さいって……いや、『美鈴』は女子中学生としては平均的な身長なんだよにーちゃん。
うう。子どもとしか見られてないって、予測して覚悟してたはずなのに。思ってたよりも、なんかちょっとキツいなあ。
本当に記憶制御が正常に作動しているのか、了承なくVR機械に入れられた事に腹を立てて、実は意趣返しを兼ねて中の人が演技をしているのかどうか、真偽も分かんないし!
くそぅ。私の旦那は底意地が悪いからマジでどっちの状況も有り得る。でも負けない。絶対絶対、黒歴史を作らせてやる。
具体的な作戦はさっぱり思い浮かばないけど!




