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本編22

 

 猫に噛まれた椿にーちゃんの手を、その2さんに全速力で買いに行かせたミネラルウォーターのペットボトルの水で洗い流し、以前調べたアナフィラキシーショックの対処法を必死で思い出す。確か、症状の進行を抑える薬品を注射するのだったような。それも、なるべく早く。


「どなたか、エピペンをお持ちではありませんか!?」

「海老のペン!? 何それ?」


 盛大に水て洗い流しつつ、私が顔を上げて出入り口の方を振り返ると、アタフタしているその2さんが半泣きで問い返してきた。


「ショック症状を遅らせる治療薬です」

「どうしよう、そんなの俺知らない……」

「大丈夫、救急車が来ました!」


 危急的な事態に絶体絶命か、と思われたが、表の方に研究棟の職員の方に呼ばれた救急車が到着し、救急隊の方々が地下へと向かい私達が居る部屋に飛び込んで来た。即座に椿にーちゃんの容態を確認して注射を打つのを視界に収め、私はグッタリと全身から力が抜けた。

 大丈夫、きっと大丈夫。治療薬が間に合えば、命を落とすような事は無いはず。

 極度の緊張状態からようやく緩められ、救急隊の方の手によって担架に寝かせられた椿にーちゃんが搬送されていく傍ら、その2さんが何やら救急隊の方々と話している様子は見えるのだが、何を話しているのかといった情報がきちんと頭の中に入ってこない。


「美鈴ちゃん、行こう」


 その2さんに腕を引っ張られて立たされ、私は地上へと向かう。

 研究棟の前に停められた救急車に、まだ意識を失っている椿にーちゃんが乗せられていく様子を見ながらぼんやりしていると、その2さんは私の両肩に手を置いて顔を覗き込んできた。


「救急車には搬送先の病院まで付き添いで乗っていけるから、美鈴ちゃんが乗って行って。病院側が受け入れ拒否しない限り、搬送予定先は聞いたし。

俺はこれから椿の家族とかに連絡入れとくから、美鈴ちゃんは救急隊の人に聞かれた事、答えられるだけ答えて、万が一受け入れ先の病院が変更になったら、こっちに連絡して」


 その2さんが渡してくれたメモ用紙の切れ端には、走り書きで携帯番号らしき数字とメールアドレス、『永沢』という名が記されていた。私は「はい」と答えて頷く。


「俺も連絡入れて回ったら病院に行くから!」


 永沢さんの言葉に見送られて救急車に乗り込み、意識が戻らない椿にーちゃんの顔を見つめながら、ボロボロと涙を零しつつ、救急隊の方の質問に答えてゆく。

 かかりつけの病院は無かったはずだし、持病も猫アレルギー以外聞いた事が無い。私自身は家族ではない……


 どうやら運良くスムーズに予定されていた病院に受け入れられたらしく、椿にーちゃんは救急車から下ろされ治療の為に運ばれていく。この病院は、つい先日私が風邪の診察を受けにやってきた総合病院だ。

 ただひたすらじっとしているしか出来ないまま、息を潜めて待っていると、椿にーちゃんは入院する事になったので、と、にーちゃんが安静にしている病室に案内される事になった。そっか……アナフィラキシーショックって確か、経過観察が必要なんだっけ。

 病室の白いシーツのベッドの上にはまだ意識を失ったままの椿にーちゃんが横たわっていて、点滴の管が取り付けられていた。


「にーちゃん、にーちゃん……」


 ベッドの横の丸椅子に腰を下ろし、どこか青白くさえ見える寝顔に、また勝手に涙が出てきた。

 投げ出されている椿にーちゃんの手をそっと握ってから、ぐしぐしと瞼を擦って、私は一旦携帯電話が使用出来る場所に向かう。メモに書かれていた番号に掛けると、すぐに永沢さんの声が耳に飛び込んできた。


「はい、もしもし! 永沢ッス!」

「美鈴です」

「あ、美鈴ちゃん。椿は無事?」


 謎の勢いにやや圧されながら名乗ると、口調が戻った。


「搬送予定の病院に無事運び込まれまして、今、治療が終わって病室で落ち着いてるところです」


 容態は安定している事や病室の番号などを教えると、永沢さんの方からも現状報告を受けた。


「椿のお母さんが今、椿の実家からこっちの街に向かってて、そのまま病院に車で移動中。光は椿の部屋に寄って、病院に泊まる用具の準備とか揃えてから向かうってさ」


 ああ、噂のツレその1さん。


「用具、と言うと……」

「んー、洗面器とか歯ブラシとかタオル? そういうの、病院側が準備してくれる訳じゃないらしいんだ。

俺も今、病院に向かってるから、美鈴ちゃんは椿に付いててあげてね」

「はい……」


 通話を終え、私は急ぎ足で椿にーちゃんの病室に戻った。容態が急変した様子も無く、気管支に異常を感じさせるような荒い呼吸音ではなく普通の寝息を立てているし、問題は無さそうだ。

 丸椅子に座って椿にーちゃんの目覚めを待っているうちに、ふと目をやった窓の外はすっかり日が沈んで真っ暗になっている。


「流石は寝汚い椿にーちゃん、起きないなー」


 ベッドにポスッと頭を乗せて小さく呟いていると、背後からノックの音がした。


「はい、どうぞ」


 上半身をベッドから起こしつつ返事をし、丸椅子から立ち上がると、永沢さんがドアを開いて顔を覗き込ませてくる。


「美鈴ちゃんお待たせ。椿のお母さんがお医者さんと話しながら今、こっちに……あ、来た」


 チラっと言葉の途中で廊下の先を窺った永沢さんは、病室へ人を通すように一度廊下側の出入り口脇に寄るので、私もそちらに移動する。椿にーちゃんのお母さんが来たのなら、息子の様子を見にベッド付近へ近付きたいだろう。


 白衣のお医者様と話しながら病室に入っていったのは、長い髪を結い上げパリッとした女性用スーツを身に着けた女性で、すれ違いざまに見た横顔は、椿にーちゃんとよく似ていた。にーちゃんって、お母さん似なんだ。漏れ聞こえてくる会話からすると、椿にーちゃんには適切な処置を施し、命に別状は無いらしい。良かった。本当に良かった……


「永沢、椿は?」


 私が涙ぐんでいると、ややあって、紙袋を下げた茶髪の青年が廊下を早歩きでやって来て、永沢さんに小声で話し掛けてくる。

 思わずポカーンと口を開けて見入ってしまうほどの美貌を誇る、イケメンさんだった。その美しさにびっくりして涙が引っ込んだ。

 ……えっ、何コレ本当に私とおんなじ人間ですか? 世の中、無駄にキラキラしい人っているもんなんだなあ。

 でも気のせいか、見覚えのある顔立ちでもあるよーな気もするんだよね。初対面のはずなんだけど……


「病室でグッスリ。処置が早くて間に合ったから、ぜーんぜん問題無いってさ」

「そっか、良かった……」


 安堵したようにホッと息を吐き、強張っていた青年の表情が緩む。サラサラの明るいライトブラウンの髪の毛をついっと耳にかけ、友人の肩に片手を置いた。……椿にーちゃんの事が気懸かりで頭の中がいっぱいなのか、この綺麗なおにーさんの視線は永沢さんの背後に隠れてる私には、さっきからちっとも向けられない。

 話が終わったのか、お医者様が病室から出て行くので、お辞儀をして見送り、永沢さんはベッドを親指でクイッと示した。


「今、菖蒲おばさん来てるから、光も見舞ってやって来いよ」

「おう」


 どうやらこの茶髪の青年が椿にーちゃんのツレその1こと、光さんらしい。病室に入って、菖蒲おばさんと呼ばれた女性に丁寧に話し掛けた。


「ご無沙汰しております、菖蒲さん。このたびはご足労頂いて……」

「ええお久しぶりね、風見君。

椿の一大事だなんて電話が永沢君から掛かってきた時には、心臓が止まるかと思ったけれど……」

「本当に、椿は人騒がせな奴ですよ。でも、しばらく休んでりゃよくなるみたいでホッとしました」


 丸椅子に腰掛けている菖蒲さんは、ええ、と頷く。


「あとこれ、椿の部屋から着替えとか当座に必要そうなやつ、詰めてきました」

「まあ、有り難う風見君。運転手に買い出しに行かせなくて済んだわ。

あなたは本当に、いつも気が利く子ね」

「いえいえ。俺もたまたま、つい最近身内が入院する騒ぎがあったので、要るんじゃないかって思い立っただけなので」


 紙袋を渡し、光さんは椿にーちゃんの寝顔を覗き込む。


「講義のノートは永沢がとっといてやるから、早くよくなれよ、椿ー」

「ちょっ、俺かよ!?」


 永沢さんが慌てたように口を挟み、私を含め周囲から一斉に静かにするようにと唇に人差し指を当て、「しー」と窘められ、不満げに黙り込む。


「しょーがねーじゃん。俺と椿の受講範囲、明日は被ってねーよ」

「講義のノートって、どうやってとれば良いんだ……?」


 学生としてどうなんだ? と、突っ込みたくなるような呻きはさておき、永沢さんは私の頭にポンと手を乗せた。


「そろそろ夜も遅いし、帰ろっか。家まで送ってくよ」

「あ、はい……」


 椿にーちゃんの方をチラチラと見る私に、永沢さんはグシャグシャと髪の毛をかき混ぜてくる。


「そんな心配しなくても大丈夫、椿はけっこう頑丈だし。

それに、帰りが遅くなったらお家の人が心配するんじゃない?」


 永沢さんの言葉に、中年の半狂乱な姿が容易に脳裏に思い浮かび、私は思わず深く首肯していた。


「それじゃあ菖蒲おばさん、光、俺達これで帰りますから」

「今日は有り難う、永沢君」

「また明日な」

「失礼します」


 菖蒲さんや光さんから、今その存在に気が付いた、と言わんばかりに目を丸くしてこちらを見られる。……彼らの視界に私の姿が映らず存在が認識されなかったのは、私が地味だからじゃない。椿にーちゃんの事がそれだけ心配だったからだ。きっとそうだ。

 ぺこりと頭を下げ、私は永沢さんに連れられ病室を後にする。面会時間ももう終わってる頃合いだし、家族でもないのに病室で深夜に付き添ってはいられないものな。


「美鈴ちゃん、忘れ物は無い?」


 自動車で病院までやってきたという永沢さんに連れられ、駐車場へ向かいながら問われ、私は改めて自分の荷物を確認した。って言っても、通学カバンにお弁当の巾着ぐらいで、他に荷物は無い。スマホもきちんと通学カバンにしまい込まれていたし。


「私は大丈夫です。永沢さんは?」

「俺はそもそも荷物を持ち歩かな……あっ!」


 永沢さんの軽自動車の助手席に乗り込み、私が尋ね返すと、胸を張って言いかけた永沢さんが、運転席に乗り込みハンドルに突っ伏した。


「課題の本、借りたは良いけど図書館の閲覧席に置きっぱなしで忘れてた……」

「ありゃ」


 うん、私が問答無用で引きずり出したからですね。緊急事態だったんですすみません。


「ヤバい……この時間だと、流石にもう閉館してるし……司書さんぐぁぁぁ」

「過ぎた事は悔やんでも仕方がないので、明日にしましょう」


 シートベルトを締めながら促すと、永沢さんは「うん」と、情けない表情で頷いた。やっべえ、やっぱりこのあんちゃん面白い人だ。

 自宅の住所を告げると、永沢さんは「ああ、あの辺か」と頷き、迷いなく車を発進させた。……この赤ヘアピン兄さん、古典翻訳は苦手でも、地理関係には強いのだろうか?

 窓の外を流れていく、街灯に照らし出された景色を眺めている私に、永沢さんは運転しながら声を掛けてきた。


「今日は本当にびっくりしたねー」

「はい……」

「正直、約束した時間にメールが来ないから椿が何かトラブルに巻き込まれてるに違いない、って彼氏のスケジュールを分刻みで把握して束縛してる系女子みたく、全力主張する美鈴ちゃんに、内心ちょっと引いたけど」


 む。言われてみれば、客観的に見て慌てふためくには根拠が希薄かもしれないけれど。まさか、それを防ぐ為にこれまで頑張ってきてたからです、とは言えないしなあ。


「まあでも、そんな心配性な美鈴ちゃんのお陰で、椿は無事だった訳だし。アレルギーのショック症状って、迅速な対応が大事だって救急隊の人も言ってたよ。美鈴ちゃんのお手柄だね」


 お手柄、ねえ?

 知っていた、こうなる事を恐れて避けようともがいていた脅威を全て振り切れなくて、結局私は椿にーちゃんを守りきれなかったのだけれど。そしてもう、これから先どんな危険が待ち構えているのか、私には何一つ分からない。

 未来の形を知っている、という優位性は失われ、そこらにいる一般人に埋没する存在でしかない。


 ……私はもう、ゲームの知識がどうのとか、考える必要はなくなったんだ。


「椿にーちゃんが無事で、本当に良かったです。

そう言えば結局、永沢さんと椿にーちゃんへの連絡の食い違いって、何だったんでしょうね?」

「あー、それね」


 ハンドルを握って前を見据えたまま、永沢さんは苦笑いを浮かべた。


「教授の都合で予定が一日前倒しになったのを、光がうっかり俺に変更を伝え忘れてたらしい。

違うのに……俺、掃除手伝いサボったんじゃないのに……ちゃんと行ってたら、俺だって椿と一緒に最後まで片付けに残ってたのに……」


 赤信号で停車した車内で、私は無言のまま永沢さんの頭をぽんぽんと撫でた。


 自宅の前にまですいすいと車を走らせ、送ってくれた永沢さんに、車から降りて改めて「ありがとうございました」と頭を下げた。

 人の好いこの人に頑張ってもらわなかったら、たぶん今頃、椿にーちゃんが無事では済まなかったはずだ。


「ははは、良いよ、送迎ぐらい。……だからそのー、アイちゃんに俺の勇姿をだね、さり気なく宣伝してもらえたらなー、な~んて」


 運転席側のウィンドウを下げて肘を置き、顔を出している永沢さんは照れながら頬をかいた。私は笑顔で頷いておく。


「分かりました。永沢さんが借りた本をうっかり図書館に置き忘れて、空想司書さんの冷たい眼差しに慄いていた様子は必ず伝えておきます!」

「ちょっ、やめてね!?」


 親指を立てて力強く請け負うと、永沢さんはすかさず悲鳴を被せてきた。何故だ。アイが喜ぶと私の中で確固たるものとして確信出来る今日一番の永沢さんの勇姿って、間違いなくこれなのに。


 永沢さんの運転する車を見送って家に帰ると、夕食を作るのに中年が帰宅するまで猶予が僅かしか無い。

 ヘロヘロになって帰ってきた中年が、家にいる間中しきりと携帯を気にしている姿に首を傾げつつ、その日はぬいぐるみをぎゅうぎゅう抱いて眠りに就いた。



 明けて翌日。何故だかどんよりとした空気を纏って、目を赤くして寝不足の様子を見せるのそのそ中年に、急かして飯をかき込ませてお弁当を持たせ、私も学校へ向かった。

 早すぎもせず遅刻寸前でもなく。至って普通の時間帯に靴を履き替え教室に向かって廊下を歩いていたら、階段の踊り場から「葉山」と呼び掛けられた。

 声がした方を見上げれば、時枝先輩が階段を軽い足取りで降りてくる。相変わらず、朝日を背後に浴びて頭頂部に天使の輪っかが出来るサラ艶髪がパネェっす、時枝先輩。


「おはようございます、時枝先輩」

「おはよう。丁度良かった葉山、一つ聞きたい事があったんだけど」

「はい?」

「お前、文化祭展示の作品テーマ、もう決めたか?

ほら、今日からテスト週間だから、部活動はしばらく無いし。テスト終わったら早めに準備しとかねえと、うかうかしてたら夏休み潰れるぜ?」


 コンクールに作品を出品する時枝先輩なら、確かに呑気にしていられる時間はないのだろうけれど、私は夏休み締め切りのコンテストに応募なんかしないしなあ。

 それよりも、目先のテストの方が大問題だよ……


「一応、描きたいなと思ってるテーマはあります」

「ん。分かった。じゃ、またな」


 私が特に困っていないと答えると、時枝先輩は別の一年生美術部部員が所属しているクラスを覗き込んだ。……うちの部の裏支配者様は、結構面倒見が良い。


 自分の教室に入って、アイとテスト嫌ね~とお喋りをしている間に時間は過ぎて、その日の午前の授業を終えたお昼休み。

 ふと覗き込んだスマホが、メールの新着を告げていた。


『title:俺ふっかーつ!

本文:ミィちゃん心配かけてごめんねごめんね!

ちゃんと元気になったから、安心してね!

 PS.もう退院出来るって言われたんで、夕方にはマンションの部屋に帰るよ』


 椿にーちゃんからの、しょんぼり頭下げ子猫ちゃん画像付きメールだった。とてもとても心配したんだって、メールに書くのは簡単だけれど。

 元気になって安心した、夕方お見舞いに行くねとだけメールにはしたためて送信する。


「どうしたの、美鈴っち。何だか嬉しそうな顔してるね」


 机を引っ付け向かい合わせでお弁当を食べていたアイが、おにぎり片手ににやっと笑った。


「うん、良いことあった」


 添付されていた子猫画像をアイに見せてやりつつ、私はお昼ご飯の続きに取り掛かったのだった。



 授業を終えて、放課後。

 テスト週間の為に部の活動日ではなく、ホームルームを終えた私は大急ぎでスーパーに向かって必要な材料を買い込み、少し迷って自宅に向かった。直接マンションに向かっても、調味料や調理道具が揃っていなかった気がする。

 帰宅してすぐに、自宅で使う為に買い込んだ食材は冷蔵庫にしまい、着替えるのももどかしく制服の上からエプロンを身に着けて手を洗い、大急ぎで調理に取り掛かった。

 熱した油が満たされた鍋の中で、ジュワ~ッと良い音を立てて揚げられた唐揚げをサッとバットにあけて、余分な油を落とす。

 クッキングペーパーを底に敷いた容器に揚げたての唐揚げを詰めて、手早く用意しておいた副菜も別の入れ物に入れ、それらを巾着袋に入れる。


「えっと、結局昨日は渡しそびれたクッキーがここに……

よしっ、急がなきゃ!」


 ガサガサとお菓子戸棚をあさって、ラッピングもそのままなクッキーの袋をカバンに入れてエプロンを放り投げると、カバンと巾着袋を片手に、私は自宅を飛び出して走り出した。お買い物とお料理をしていたら徐々に日が傾き始めていて、気持ちが焦る。

 公園の傍らに建つ高層マンションが見えてきた時には、気持ちに反して体力が尽き果てバテバテになっていたけれど。


 マンションのエントランスに入ると、いつものコンシェルジュさんがカウンターの向こう側から会釈をしてきて、私もペコンと頭を下げてからエレベーター前のインターホンに向かった。

 緊張しつつ椿にーちゃんの部屋番号を素早くプッシュしてから、携帯に掛けた方が良かったかも? と、一瞬懸念が過ぎったが、すぐに応答された。


「は~い、どちらさまですかあ?」


 スピーカーから発せられるのは椿にーちゃんではなくて、別の男性の声だ。あれ、部屋番号押し間違えた? と一瞬狼狽えてしまったが、よくよく聞いてみればこの声はツレその2さんこと、永沢さんの声だ。それにしても、永沢さんの背後からやけにガヤガヤと人の声が聞こえてくるな。


「こんにちは、永沢さん。

椿にーちゃんが夕方には退院するって聞いて、授業の後、急いでお見舞いに来たんですけど……」

「あ、美鈴ちゃんかー!

うんうん、もう椿なら部屋に戻ってるから、こっちに上がっておいでよ」


 その言葉と共に、エレベーター前のガラス張りドアのロックが外され、静かに開かれた。それにしても、永沢さんの背後で「噂のミスズちゃん!?」「何ぃっ!?」という声が聞こえてきたような気がするのは、私の気のせい? 椿にーちゃんのお友達に私が噂されるような要素なんて欠片も無いし、いったい何だろ。

 首を捻りながらも椿にーちゃんの部屋がある階に到着し、目的の部屋のドアベルを鳴らす。ガチャガチャ、と鍵を外す音がして、勢い良く玄関扉が開かれた。


「いらっしゃ~……い?」


 鍵をあけてくれたのは、昨日チラッと見掛けたツレその1さんだ。今日も無駄に神々しいイケメンっぷりである。

 光さんは満面の笑みを湛えた目線を私の頭上空間辺りで固定させていたが、そこには何も無いので歓迎の言葉の途中で訝しげに尻すぼみになっていき、ようやく視線が下がって私の顔で照準を捉えた。顔面角度が五度は傾いたぞ。


「光さんこんにちは、椿にーちゃんは居ますか?」

「え? おお? ああ、うん?」


 ぺこりと頭を下げて尋ねる私に、光さんは謎の呻き声を漏らしつつ私の頭のてっぺんから爪先まで見やり、カクカクと頷く。

 身を引いて中に入るよう促されるので、私は素直に「お邪魔します」と声をかけてから三和土に足を踏み入れる。今日は来客が多いのか、靴が何足も放り出されていた。


「えっと……美鈴ちゃん?」

「はい?」


 靴を脱いでスリッパをお借りし、玄関先で自分が脱いだ靴を揃える私に、光さんが恐る恐る呼び掛けてきた。


「どうかなさいましたか?」

「えーっと、あれ。皐月ちゃんチのお隣さんって女子高生じゃなかったっけ……

ミスズちゃんがこの子って事は、すげぇツバキちゃんモノホンか……!?」


 ブツブツと小声で呟く光さん。それ、御園家から見て葉山家とは逆隣の室井さんチのお姉さんの事? 光さんと知り合いなのかなー。偽物とか本物ってのは、よく意味が分からん。このお兄さん、顔は良いけど性格は残念な感じなんだ。

 勝手知ったるとばかりにスリッパでペタペタと音を立てながら廊下を進み、私はリビングのドアを開けた。


「ようこそミスズちゃん!

って、あれ?」


 ドアを開くなりソファーから立ち上がった初対面のお兄さんが、私の顔を見て首を傾げた。


「……風見センパイ、噂の美少女ちゃんは?」


 私の後からリビングに入ってきた光さんが、無言のまま人差し指で私を指し示した。

 初顔のお兄さんは、穴が空きそうなぐらい私を注視して、そうして悲しげに首を左右に振った。


「美少女じゃないじゃん! めっちゃフツーじゃん!

ってゆーか、そもそもお子ちゃまじゃん! 有り得ねぇぇぇぇ!」


 初対面の相手に何言ってんだコイツ。全力で蹴り飛ばしてやろうかとも思ったが、身体付きからして体育会系のガタイなので、反撃を受けたら太刀打ち出来ない。

 ムカつく事に、こちらの美醜を貶してくる野郎は顔面偏差値が確実に私よりも高い。椿にーちゃんの方がイケメンだし、性格も良いけど。


「ちょっ、アキ君、流石にその言い方はないんじゃないかなあ?」

「……」


 慌てふためく永沢さんの言葉に、アキ君とやらは我に返ったように『マズイ』と言いたげな表情を浮かべ、ガスッ! と、光さんが腕を乗せて無理やり頭を下げさせた。


「いやー、いきなりゴメンねミスズちゃん!

コイツはほら、女の子への礼儀がなってない山猿だけど、根は良いヤツなんだ。広い心で許してやって。

ほらアキ、ミスズちゃんに謝る!」

「ちょっと驚いただけで、貶すつもりはなかったんです。すみません……」


 私は無言のまま失礼男を睨み付け、何やら光さんとアキ君さんの間にそこはかとない力関係が見え隠れする謝罪を受け入れ、リビングの中を見回す。部屋の主の姿が見えないので椿にーちゃんの寝室の方に向かった。


「あ、そっちは……」


 背後から永沢さんが引き止めるように声を掛けてくるけれど、私はここへよく知らん兄さんらと戯れに来たのではなく、椿にーちゃんのお見舞いに来たのだ。


 ドアを開くと、ベッドに上半身を起こしたパジャマ姿の椿にーちゃんが、涙を一筋零す柴田先生の肩に手を置いて、慰めているところだった。


「……」

「あ、ミィ……」


 扉の開閉音に気が付いた椿にーちゃんがこちらに顔を向けて呼び掛けてくるが、私は思わずそのままパタンとドアを閉めていた。

 ……おかしいな、今何か変な幻が見えたような。


「だーから、ちょっと待ってって止めたのに」


 背後から笑い混じりの声が掛けられて、光さんが私の顔を上から覗き込んできた。


「ツバキちゃんが入院する羽目になったのは自分が最後までついてなかったせいだって、柴田センセ、すっかり責任感じちゃってんだよね。

俺としては、研究棟に猫を侵入させた管理者が悪いと思うんだけどねぇ」


 振り仰いだ光さんは苦笑気味に口元へ手を当てている。


「……そういや、椿にーちゃんを噛んだ猫ってどうなったんですか?」


 偶然とはいえ、危うく生徒の命を奪うところだったのだ。もしかして、保健所辺りに連絡していたり……?


「ああ。あの猫は柴田センセのお気に入りでね。放っておけないからって、今日柴田センセの部屋に連れて帰ったんだって。安心して?」


 そう言って、光さんはリビングのソファーに戻って行った。アキ君さんに頼んで、冷蔵庫に何か取りに向かわせている。


「ミィちゃん、いきなりドアを閉めたりしてどうしたの?

遠慮なんかしなくて良いのに」


 と、寝室の扉の前で立ち尽くしていた私に、内側から扉が開かれて椿にーちゃんが苦笑しながら招き入れてくれた。

 寝室には、やっぱり見間違いじゃなく柴田先生が佇んでいる。私はつい椿にーちゃんの腰に抱き付いて、柴田先生を睨み付けていた。


「すみませんね、恥ずかしいところを見せてしまって」

「いえ。柴田先生もお見舞いですか?」


 気恥ずかしげに頬をかく柴田先生は気のいい先生にしか見えないけれど、もしかすると仕留め損ねた椿にーちゃんにトドメを刺すべく乗り込んできたのだろうかと、私は注意深くラスボスの動向を見張る。


「ええ、石動君が入院しただなんて連絡を受けて、とても驚いて。

でも、すぐに元気になってくれて良かった」

「生徒がちょっと気絶したぐらいで泣くなんて大袈裟ですよ、先生」

「先生、最近涙腺緩くって。

全く、連絡を受け取った時は、生きた心地がしなかったんですからね?

石動君、周囲の状況にはもっと気をつけないと」

「はーい」


 んーむ。つい昨日のお昼間には、睨み合って一触即発な空気だったと言うのに、何だろうかこの穏やかさは。

 私の目には、柴田先生が椿にーちゃんの命を狙っているようにはとても見えない。昨日の事件は柴田先生が仕組んだものではない、とでもいうのだろうか……?

 あの猫を手懐けて、ここぞというタイミングを狙って仕掛けたのではないのか?


 じゃあ、先生はこれで帰るねと、柴田先生が帰っていく姿を寝室から見送り、私は改めて椿にーちゃんを見上げた。


「にーちゃん、寝てなくて良いの?」

「今日はずーっと寝かされてたんだよ? もういい加減寝飽きたよ」

「じゃあ、鶏の唐揚げ作ってきたけど、食べる?」

「食べる!」


 私が巾着袋を掲げてみせると、椿にーちゃんはグッと拳を握り締めて即答した。


 リビングに戻ると、ツレその1と2さん、ついでに失礼男がめっちゃくつろいでビールの缶を開けたり大画面テレビを観ていた。……この人ら、ここに何しに来たんだろう?


「……人が寝込んでるっつーに、お前らは宴会か?」

「いや、お見舞いイコール宴会ってのは、神話の時代からの日本文化だろー?」


 ポリポリとナッツを頬張りつつ、光さんが缶ビール片手ににっこりと笑った。彼の周囲には既に、空になった缶が二本転がっている。


「俺の寝室は天岩戸じゃねえよ」

「むしろその文化、神話時代でだけ通用するッスね」

「アキ君、おつまみもう無いの?」


 缶ビール一本で出来上がっているのか、永沢さんは顔面を真っ赤にしてケタケタ笑いながらアキ君さんにねだり、テレビを見ていたアキ君さんは「はいはい」と呆れ顔で立ち上がった。


「永沢さん、唐揚げと簡単な料理で良ければ差し入れで持ってきましたよ」

「何ぃっ!?」

「ミスズちゃんの手料理!?」


 空になったおつまみの袋やらがぶちまけられているテーブルの上に巾着袋を置くと、永沢さんだけでなく何故か光さんまで身を乗り出して食い付いてきた。


「ミィちゃんありがとうー、頂きます」


 ちゃっかりお箸を持ち出してきた椿にーちゃんは、巾着袋から出した容器の蓋を開けて、唐揚げを挟んで齧った。


「んんんっまい!

やっぱりミィちゃんの唐揚げは一番だなぁ」


 まだ温かい唐揚げを咀嚼し、しみじみと呟いた椿にーちゃんは、隣に座っている私の肩をグイッと抱き寄せてきた。相変わらず、鶏味幸福に浸っている椿にーちゃんの表情は幸せそーである。経済的な事だ。


「にーちゃん、野菜も食べてね」

「うん」


 キッチンのカトラリー置き場からお箸を持ってきた光さんは、唐揚げを齧りつつぼそりと呟く。


「やっべー、常々ヘンタイだとは思ってたけど、ツバキちゃんがまさかここまで本格的なモノホンだったとまでは思ってなかったわ……」

「リア充め爆発せよ」

「あれ見てそう思えるとか、永沢も大概だな……

おらっ、椿もじゃんじゃん呑め!」


 テーブルの向こう側で好き勝手言われているが、私は気にせずお酒のグラスを持たされた椿にーちゃんに現在テスト週間である旨を伝え、明日お勉強をみてもらう約束を取り付けた。


「せっかくお見舞いに来てくれたのに、騒がしくてごめんね?」


 すっかり椿にーちゃんの快気祝いの宴会会場と化したリビングで、更に初めて見る顔のお兄さんが山ほど追加のお酒を買い込んで来て、あっという間にリビングは混沌とした。そんな友人方の様子を見回して、椿にーちゃんはこれで何杯目か忘れたお酒のグラス片手に残念そうに肩を落とした。


「せっかくだから、母さんを引き留めておけば良かったなあ……昼過ぎまでここに居たんだよ、俺の母さん。ミィちゃんを紹介したかったのに」

「いやいやいや、お母様にご紹介していただくような、そんなご大層な身でもないでしょ、私」


 両手を掲げて振り、遠慮してみせると、椿にーちゃんは「そんな事ないのに」と苦笑してテーブルにグラスを置くと、ギュッと私を抱き締めた。


「ミィちゃんのお陰で、俺が助かったのは事実だし。

いつも助かってるし、俺はミィちゃん大好きだしずーっと抱っこしてたいし」

「ちょっ、にーちゃん苦しい」

「噛まれて眩暈に襲われた時にさ、俺が咄嗟に考えたのは『ああ、ミィちゃんが待ってるのに』だったんだよね。

俺って本当、分かり易いなあ」


 麦茶が入っているグラスをテーブルに置いて、私は椿にーちゃんの肩や腕を軽く叩いて緩めてくれるよう訴えるが、全く力が抜ける気配が無い。

 こんな姿を見たら大騒ぎしそうな永沢さんは、真っ先に酔い潰れて床に転がっているし。


「にーちゃん? ちょっ……」


 体重までこちらに掛かってきて、椿にーちゃんの酒臭い吐息が……えっ、ちょっと顔が赤らんでるだけで顔色あんまり変わってなかったから気が付かなかったけど、もしかしてにーちゃん酔ってる?


「おーおー、愛しのミスズちゃんの前で酒を過ごすとか、ツバキちゃんってば外さねえな」


 酔っ払い椿にーちゃんの肩を引っ張り上げて私から引き離してくれたのは、光さんだった。光さんの方は、全く顔色が変わって無いよ……あれ? にーちゃんに勧めながらご自分でもぐいぐい呷ってたよね?


「んー、何すんだひかるー?」

「ふわふわほろ酔いなトコで、もう寝とけ」

「やだ。俺はミィちゃんと話すんだー」

「全然話してなかったじゃねえか。ハグしてただけで」

「じゃあ抱っこするー」


 どうやら、椿にーちゃんは酔っ払うと甘えん坊に変身するらしい。ご友人の手を振り払い、私の腰に腕をギューッと巻き付け、胸元に抱き込んでくる。


「はあ……めんどくせ。

ちょっとミスズちゃん。ミスズちゃんごと椿をベッドまで引きずってくから、ミスズちゃんは自力で移動してね」

「え?」

「アキホちゃん、寝室のドア開けて、反対側の肩掴んで運んでくれるー?」

「風見センパイ、だからアキホちゃん呼びは止めて欲しいッス」


 文句を言いながらも寝室のドアを開け、従順に先輩の命令に従うアキホちゃん。因みに酔い潰れた永沢さんを除いてリビングにもう一人居る、買い出しに行かされていたお兄さんの方は、無表情ながら顔色が真っ赤だ。……まだ外は真っ暗になってない時間帯だというのに、どんだけ強いお酒をバンバン呑まされたんだ?


 呆れている間にも、私をがっちり捕獲する腕を緩めない椿にーちゃんを、男二人がかりでズリズリと引きずってゆき、ペイッとベッドの上に放り出された。バサッと上掛けが無造作に被せられる。


「流石に、退院したてのヤツを床に放置は出来んべ。

つー訳で、呑み直すかー」

「風見センパイ、まだ呑むんスか?」

「おうよ。唐揚げもう無いから、アキホちゃん何か適当にツマミ作ってー」

「ハイハイ」


 そんな会話を交わしながら、パタン……と、寝室の扉は閉じられた。リビングと扉続きだというのに、ドアを閉じてしまうと、不思議と隣室からの喧騒は殆ど聞こえない。壁が厚いのかな。


「んん~」


 私を抱き込んでいる椿にーちゃんが、寝やすい姿勢を探るようにもぞもぞと寝具の中で身動きを取っていたが、やがてパチリと瞼を開いた。あれ、てっきりこのまま眠っちゃうのかと思ったけど、起きるのかな。


「ん~、ミィちゃん?」

「はーい、椿にーちゃんのミィちゃんですよー」


 棒読みでの答えを意にも介さず、椿にーちゃんは両肘をついて私の上に覆い被さりつつニパッと何だかやけに嬉しそうな笑みを浮かべて、私の頬に頬擦りしてきた。


「ふふ~。ミィちゃん大好きー」


 何となく全身から力が抜けて、私も椿にーちゃんの背中に腕を回した。

 昨日はたくさん驚いたし、泣いてしまったし、とても落ち着かなかったのに。椿にーちゃんは大丈夫なのかと、私はとんでもなく心配したし。

 それなのに、昨日の今日で、太平楽に酔っ払ってすりすりしてきている椿にーちゃんを見てると、何だか色々な事がもう、取り越し苦労だったんじゃないかという気にさせられてしまうじゃないか。というか退院したその日にお酒なんか呑んで、本当に大丈夫なのかこのあんちゃんは。


「……にーちゃんお酒臭いよ」


 この酔っ払いめ、とデコをつついて抗議しつつ、私はハタと気が付いた。……あれ。この構図、どっかで体験した事無かったっけ? と。

 やっぱりアルコールが回っており眠りの世界に誘われていたのだろう。そのまま力尽きるように脱力して、寝息を立て始めた椿にーちゃんの身体の下から頑張って脱出を図りつつ、私は必死で記憶を浚う。


「……あ!」


 思い出した、アレだ!

 例のヤバゲーのトゥルーラブエンディングで挟まるスチル。プレイヤーが柴田先生とのラブラブエンディングを迎え、一方その頃……的に、『サポートキャラの美鈴』が足留め対象と一緒にラブラブしている一枚絵が表示されるんだけど。

 うん、確か美鈴が椿を足留めしていた場合には、こんな感じで頬を赤らめた椿にベッドへ押し倒されている、というスチルだったよ。


 ……いや、うん、確かにアレだけ見れば何か違う場面にしか見えないけど。舞台の裏側の真実なんて所詮、こんなもんなんですね! となると、他キャラの場合も真相はきっと違うシチュエーションなんですね!

 何とか無事に脱出を成功させた私は、これまでの懸念が綺麗に解消されて喜ぶべきか脱力すべきか計りかね、うなだれてひとしきり床をだんだんと叩いてから、すうすうと健やかな寝息を立てている椿にーちゃんに上掛けを綺麗にかけ直す。


「また明日ね、椿にーちゃん」


 寝顔に小声で呼び掛けても返事は無かったけれど、椿にーちゃんはかすかに微笑んだような気がした。



 宴会現場からさっさと退散し、自宅へ帰ってから改めてお夕飯を作っていると、中年がどんよりとした非常に重苦しい空気を背負いつつ、ゾンビよろしくうなだれながら帰宅した。


「お父さんお帰り。何か暗いけど、どうしたの?」

「美鈴……」


 父はガバッと私にのしかかってきたので、当然の結果として中年はテーブルに倒れ込み、私はエプロンの裾をそよがせながら横飛び着地から即座に中年に向き直った。


「お父さんは……お父さんは、もうダメかもしれない……!」

「うん、かもね。で、何が?」


 テーブルに突っ伏してさめざめと泣き崩れる父の言い分をざっくばらんに纏めると、これまで毎晩届いていたのに昨晩は椿にーちゃんからメールがこなかったと。で、中年が何かを失敗して椿にーちゃんに嫌われたのかもしれない……! と。


「言ってなかったっけ?

椿センセーなら、昨日は意識不明で緊急入院してたよ。メールなんか出せる訳ないじゃん」

「ええっ!?」


 あれ? と、首を捻りながら私が教えてあげると、中年は勢い良く立ち上がって私の肩を掴んだ。


「そ、それで、石動さんのご容態は!? 入院された病院はどこ!? お、お見舞いに……!」


 現在時刻を考えろ中年。こんな外が真っ暗な夜間じゃ、仮に椿にーちゃんがまだ入院中でも、お見舞いの出来ない時間帯だ……!


「落ち着いて、お父さん。

昼間退院して、今はマンションの部屋で眠っていらっしゃるから。

てゆか、私は昼休みに退院しますメール受け取ったけど、お父さんには何も無かったの?」

「お、お父さんには、何も……」


 私の両肩に両手を置いて体重を乗せたまま、ズーンと落ち込む中年が重苦しいので、私は父の両手を払いのけて夕飯をテーブルに並べ始める事にした。


「お父さんさあ、昨夜椿センセーからメールこなくて、それで椿センセーにお忙しくしていらっしゃるのですかー? とか、尋ねるメールを出したりしたの?」


 テーブルに取り皿を出しながら確認する私に、中年はふるふると首を左右に振った。


「毎晩毎晩、必ず椿センセーのメール待ちで自分からは決して働きかけない……お父さん、もっと積極性出さないと、そのうち椿センセーもお父さんにメール出すの嫌気が差すんじゃない?」


 半眼になって言う私に、中年は多大なるショックを受けたようによろめき、フラフラとした足取りで着替えに向かった。

 まあ、また明日辺りで忘れてなかったら椿にーちゃんもまた中年にメールを出すでしょ。何でか知らないけど、椿にーちゃんも中年とのメールのやり取り、楽しんでるらしいし。



 翌日からのテスト週間は、久々に椿スパルタ神がご降臨なされたお陰か、テスト本番では実に手応えのある結果を出せた。

 良かった。ここで赤点なぞ取ろうものならば、補習で夏休みが潰れてしまう。


 テストも終わり、私は気を緩めず柴田先生の動向に警戒しながら日常生活を送るも、皐月さんは相変わらず柴田先生が大好きな様子に変化も見られないし、柴田先生はラスボスに相応しい不穏な企みを密やかに進行させるどころか、全く怪しい動きを見せない。そうして何事もなく無事に夏休みに突入したその初日。

 私は秋の文化祭で出品する作品のモデルをしてもらおうと、椿にーちゃんに浴衣持参で我が家に来てもらう約束を取り付けた。それにあたり、


「今日は絶対に残業しないで早く帰ってくるから、必ず石動さんをお引き留めしておいてね!」


 ……と、今日こそ椿にーちゃんへきちんとご挨拶をするのだと、やる気満々中年が朝の出勤前に念押ししてきたりしたが、まあ中年の事だからどうせきっと、またもや半泣きで「残業嫌だ、帰りたいよー」電話を今回も寄越すに違いないと、私は読んでいる。


「秋の文化祭に、浴衣姿の俺の絵が飾られるのかー」

「うん。『季節感に固執するな、自分のインスピレーションを信じるんだ、葉山!』って、顧問の先生に言われた」


 暑い夏場には全く違和感の無い浴衣を着こなし、リビングの椅子に座って私が用意したアイスティーを飲んでいる椿にーちゃんの姿をキャンパスに描いていきつつ。


「お夕飯には鶏の唐揚げ作るから、退屈だろうけどよろしくお願いします」

「任せて。ミィちゃんのモデルなら、何時間だって動き止めてみせるから」

「いや、そこまで頑張らなくても、身じろぎや身動きしてくれて構わないし、休憩ぐらい挟むよ……」


 むしろ私の方が、何時間も集中して描いていられないし。

 お昼過ぎから椿にーちゃんにモデルになってもらい、ボチボチお夕飯時なのでその日のモデル業はそれで終わりにし、にーちゃんにはご飯が出来るまでくつろいでもらって好物である唐揚げを作っていると。


「美鈴ただいまー!

石動さんはまだおいでだよね!?」


 何と、絶対に泣き入りが入るに違いないと踏んでいた中年が、玄関ドアの鍵ををガチャガチャ、バタン! とやや乱暴に開け放ち、ドタドタと廊下を走って扉を押し破らんばかりの勢いでキッチンダイニングに駆け込んで来るではないか。

 あまりの忙しなさに、気遣いのレベルが高い椿にーちゃんでさえ、浴衣姿でごろ寝していたマットから起き上がるだけで精一杯だったぞ。うちの中年、かように機敏な動きが可能だったとは……世の中は驚きの連続だ。


「お父さんお帰り。騒々しくて椿センセーが驚いてるから、ちょっとは落ち着いたら?」

「うん、ごめんごめん。

それでそれで、美鈴っ。石動さんは!?」


 中年の視線はごろ寝マットから立ち上がる椿にーちゃんを素通りして、キッチンダイニング内の四方八方へとぐりぐり回転する。どうでも良いが、中年。いくらなんでも、戸棚と冷蔵庫の狭いスペースに人間は収まらんから覗き込むな。いったいお主はどんな椿にーちゃんを求めてるんだ。小人か、薄っぺらいペラペラ一反木綿か。


「お帰りなさい雅春さん。今日も一日、お仕事お疲れ様でした」


 何故か唐突に室内チェックを始めた、いつも通り挙動不審な中年の背中に、椿にーちゃんは無駄にキラキラしい笑顔を向けて出迎えの挨拶を寄越す。愛想振り撒き過ぎだと思うよ。

 中年はその声にようやく反応して、くるんと振り返った。


「や、やあ。ただいま……」


 あんなに意気込んで帰宅してきたと言うのに、何で毎度の事ながら本物を目前にするといきなり弱気になるんだ? この中年は?

 そして、キッチンで黙々と揚げ物をしている私の肩を抱き込み、中年はボソボソと私の耳に囁いてきた。


「ええと、美鈴。どうして彼が家に?」

「はあ?」


 自分で必ず引き留めておけと念入りに言い付けて言ったくせに、意味不明な事を言い出す中年に、鍋から上げようとしていた唐揚げをまた油の中に落としてしまい、熱した油が飛び跳ねて危うく中年は火傷を負うところだった。


「うわっ!?」

「雅春さん大丈夫ですか!?」

「う、うん。大丈夫」


 ピョンッ! と反射的に飛び退いたのは、跳ねた油がシャツの袖に掛かった後なのはご愛嬌。

 椿にーちゃんの心配げな声に、ぎこちなく頷きを返す中年の背中を、私は軽くどついた。


「もうー。お父さん、料理中は危ないから邪魔しないで。

ほら、染みにならないうちに早く袖、綺麗にしてきなよ」

「う、うん。落ちるかな……?」


 挙動不審のまま、着替えと洗濯に向かう父は放っておいて、私はお夕飯の用意を続けるのだった。


 お夕飯を準備し、暑い夏場に美味しいサッパリとしたスープとサラダと唐揚げを大皿に山盛り乗せたところで、ようやく部屋着に着替えた中年がキッチンダイニングに再び姿を現した。

 何故か、やっぱり室内をぐるぐる見回してから落ち着かなげにテーブルの定位置につく。


「それじゃあ、いただきます」

「いただきます……」


 三人でテーブルを囲んでいると言うのに、中年は妙に元気が無い。てっきり、ようやく落ち着いて椿にーちゃんと話せる機会を得て、大喜びで盛んに話し掛けるだろうと思ってたのに。


「俺の好物作ってくれるなんて嬉しいな。ミィちゃんありがとう」

「良いよ~。まあ、モデル初日ぐらいはね、サービス。

明日のお夕飯のメインはお素麺かな?」

「夏の定番だよね。あれはあれで美味しいけど、素麺つゆが……」


 正面に座っている中年は何故か黙りこくっているので、隣合わせに座っている私と椿にーちゃんで会話を交わしていると、中年が不意に「モデル……」と呟いた。


「美鈴、石動さんに絵のモデル、頼んだんじゃなかったっけ……?」

「……? うん。そうだけど?

だから今日も来てもらったし、こうしてモデル料代わりにお夕飯ご馳走してるんじゃん」

「それがどうかされたんですか、雅春さん?

私はまだ、美鈴ちゃんが今日描いた絵を見せて貰えていませんが、一生懸命真剣に描いていましたよ?」

「完成するまでにーちゃんには見せないもーん」

「俺を描いてるのに、モデルに見せられない絵って……」

「完成するまで作業中の様子は見せない、お化粧と一緒です」

「はいはい。じゃあ、描き上がったら一番に俺に見せてね?

約束だよ」

「うんっ」


 約束~と、椿にーちゃんと指切りを交わしていたら、対面の中年がカラン……と、音を立てて箸を落っことした。


「ああもう、お父さんってば……」

「……石動さん……?」

「はい? どうかしたんですか、雅春さん?

何だか今日は、ご帰宅されてからずっとボンヤリなさっておられますし、よほどお疲れなようで……」


 そそっかしいなあ、と、呆れた眼差しを向ける私をヨソに、中年はガタッと椅子を蹴倒して立ち上がった。


「お、お、お……」

「尾?」

「緒?」


 失礼な事に、椿にーちゃんを震える人差し指で指差しながらどもる中年は、首を傾げる私と椿にーちゃんの疑問に答えるように、次の瞬間絶叫した。


「男ーーーーーーッ!!??」


 傍迷惑中年の奇行に反射的に耳を塞いだ私と、目をぱちくりさせる椿にーちゃん。


「はい。私は生まれてこのかた女性だと偽った事など一度も無い、正真正銘の男ですが……?」

「椿にーちゃんの事が女の人に見えるなら、お父さん目の手術が必要なんじゃない?」

「……」


 不思議そうに答える椿にーちゃんと、ジト目で睨み付ける娘に力が抜けたように、中年はへなへなと床にへたり込んだ。うん、さっき椅子倒してたもんね。

 私は無言で立ち上がってテーブルを回り込み、倒れた椅子を起こして中年を座らせてやった。そして、落とした箸の代わりに新しいお箸を出してきて、宙を見つめてボケーッとしている中年の手に握らせてやる。何か、「おとこ……おとこ……?」とか、小さくブツブツ言ってるけど、中年どうした。いつも腹減らして帰ってくるくせに、今日は飯を食わんのか?


「椿にーちゃんごめんね、なんか今日はうちのお父さん、すっごく疲れてるみたい」

「ううん。気にしないでミィちゃん。

雅春さん、いつもお仕事お忙しいもんね。きっと、とてつもなくお疲れだったんだよ」


 白目を剥いている中年の事は置いといて、私と椿にーちゃんはのほほんと食事を再開した。


「揚げたてアツアツ、噛んだら肉汁がぶわっと滲み出てくる。やっぱりミィちゃんの唐揚げ最高!」

「毎日は流石に無理だけどねー」


 本当に、椿にーちゃんの最大の幸福の形は平和で比較的お財布に優しい、お手軽さだなあ。



 因みに、旅館の客室をイメージした窓枠に腰掛け観覧者に向けて微笑みながら片手を差し出す浴衣椿にーちゃん、背後の窓向こうには雨にけぶる紫陽花、を描いた私の水彩画は、顧問の先生の「ブラボー!」という言葉と共に、文化祭では昇降口真っ正面にドーンと展示され、中等部文化祭に訪れた女性や女生徒から黄色い歓声をぶつけられ、文化祭を見にやって来た椿にーちゃんが昇降口に現れると、周囲を取り囲まれるという事件が起こるのだが、それは決して私のせいじゃない。

 文化祭当日まで私には嘘っぱちの配置場所を吹き込んでいた、顧問の先生と部長と時枝先輩のせいだ。


 そして、文化祭では椿にーちゃんと一緒に遊びに来ていた永沢さんが、アイに盛大にフられていた。そこでようやく思い出す。椿にーちゃんが入院した日の永沢さんの勇姿を、アイに伝えようと思いながらも私はすっかり忘れ去っていた事を。

 永沢さん南無。



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