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綺麗なお兄さんは好きですか? がキャッチコピーの年上男性を籠絡していく乙女ゲーの世界で暮らしてるわたし。⑦

 

 それは、一本の電話から始まった。


「美鈴ちゃんは安静にしてて」


 そう言って、美鈴ちゃんからの電話を切ったわたしは、夕食の支度途中のキッチンにてエプロンのポケットへとスマホを滑り込ませ……


「梅雨の美鈴ちゃん風邪ひきイベント、きたーーーーっ!」


 思わず叫んでガッツポーズをとってしまった。

 ……いけない。人様が病気になった事を喜ぶだなんて、わたしはなんて嫌な人間に……とは思うのだけれど。

 なにしろこの風邪ひきイベント、一度のプレイでたった一回きりにしか起こらない上、春よりも梅雨の方が断然甘い会話が交わされるのだ。別イベントで風邪をひく要因に遭遇する必要もあれば、もちろん発生タイミングはランダムという、まさにゲーマー泣かせな季節別パターンを見落としがちの低確率イベント。

 まあ、わたしは夏発生の『夏風邪はバカがひく?』イベントの方が好きなんだけど、美鈴ちゃんがわたしに電話してきたから良し!


「……皐月? 大声で叫んでいたようだが、何かあったのか?」

「お兄ちゃん! 一大事だよ。美鈴ちゃんが風邪をひいたらしいの。

お願い、今すぐ林檎を一袋買ってきて!」


 わたしの叫び声を聞きつけ、ひょいっとドアから顔を覗かせたお兄ちゃんにつかつかと歩み寄り、わたしはその両手をガシッと力強く掴んでいた。

 美鈴ちゃんの風邪ひきイベントだよ、お兄ちゃん! 好感度が高い他の攻略対象が知る前に美鈴ちゃんがわたしに電話をしてきた場合、漏れなくお兄ちゃんとのイベントにシフトするんだよ! これをラストチャンスと取らずに、なんとするー! だよ!?


「美鈴さんが?

分かった。林檎だな」

「わたしは一度美鈴ちゃんの様子を見て、他に必要そうな物を揃えるから、お兄ちゃんは林檎を買ったらお隣に直行してくれる?」

「ああ」


 嬉しさを無理やり押し殺しているわたしの様子に、微妙に違和感を感じ取ったみたいだったけれど、お兄ちゃんはすぐにお財布を手に林檎を買いに走り出してくれた。わたしも、殆ど出来上がっているお夕食はそのままに、すぐさまお隣の葉山家へ向かってチャイムを鳴らした。

 ……の、だけれど。


「はい」


 インターホンに応答した声は、美鈴ちゃんでもおじ様でもない、別の男性の声だった。


「あ、皐月ちゃんか。今鍵あけるから」


 予想外の事態に固まっているわたしをよそに、葉山家宅に居た男性こと椿先輩は、「いらっしゃい」と、わたしを出迎えてくれたのだった。

 ……う、うん。びっくりした。ゲームじゃ、椿先輩にお見舞いに来てもらってるのに、『皐月』に電話する選択肢は出ないし。


「椿先輩……が、美鈴ちゃんの看病を?」

「そうだよ。でも酷いな皐月ちゃん。『そんな事出来るんですか?』って、顔に書いてあるよ」


 わたしの驚きに満ちた表情を、ネガティブ方向に解釈したらしき椿先輩は、苦笑しつつわたしを招き入れようとしている。


「えっ……と、椿先輩が美鈴ちゃんを見ていてくれているのなら、わたしはまず、お粥を作って来ますね。あ、それとも美鈴ちゃんはもう、お夕飯食べてお薬飲んじゃいました?」

「ううん、ついさっき病院から帰ってきたばかりだから、まだ何も食べてないよ」

「了解です」


 焦りながら会話を繋げて、わたしは慌てて自宅に駆け込み、キッチンのシンクに身体を預け、立っていられずにズルズルとずり落ちていった。


「……びっくりしたびっくりしたびっくりした」


 そりゃあ、ここはゲームデータの中そのものじゃない、現実の世界なんだから、ゲームの規制が全て適用されてる訳じゃない。だから、いつ誰に電話をしようが美鈴ちゃんの自由だし、そもそも美鈴ちゃんが一番大好きな相手は椿先輩なんだって、分かってたはずなんだけど。


「うう……お兄ちゃんの逆転チャンスだって、うっかりぬか喜びしちゃったよ」


 でもこれ、どうなるんだろう。美鈴ちゃんの風邪ひきイベント(梅雨)、椿編に乱入する嘉月編なんていう、ゲームシナリオには存在しない状況の発生……わたしは思わず、面白いものが見られる期待に、グッと拳を握ってから、大急ぎでお粥作りに取り掛かった。



 美鈴ちゃんに食べてもらうお粥を作る傍ら、今日のお夕飯を仕上げて準備しておき、わたしはお盆にお粥を乗せて隣家へ向かった。


「いえいえ、俺が美鈴ちゃんのそばについていますから。

嘉月さんに負担をお掛けするわけには」

「それこそ要らぬ世話だ。石動君こそ、忙しいのだろうから、俺や皐月に後を任せてくれて構わないが?」

「嫌ですね。たとえ忙しかろうが、彼女が病気になったのならそばに居てやるのは当たり前でしょう?」


 チャイムを鳴らしたところ、椿先輩がにこやかに玄関のドアを開けてくれたのは良いのだけれど。

 お願いした林檎や、ミネラルウォーターなどを買い込んできた嘉月お兄ちゃんが戻ってきていて、葉山家の廊下にて椿先輩と舌戦を繰り広げていた。議論の内容は、『どちらが美鈴ちゃんの看病の為に残るか』のようだ。

 両者共に、一歩も引かない構えを見せている。……これでは、二階の美鈴ちゃんの部屋にまでお願いね、って、自然な流れを演出しつつお粥を運んでもらうようお兄ちゃんに頼むのは、ちょっと難しい状況だ。

 お兄ちゃんは、何でここまで椿先輩の事が気に食わないんだろう?


「お兄ちゃん、椿先輩、お粥作ってきたから運びますね」


 まるっきり漁夫の利状態だけれど、見えない火花を散らし合う男二人の傍らをすり抜け、階段に向かいながらわたしが一声掛けると、お兄ちゃんも椿先輩も慌てたようにこちらを振り仰いだ。


「皐月、お粥なら俺が……」

「お兄ちゃんはウチのキッチンから、今日のお夕飯をお皿によそってこちらに運んできて」

「……」


 階段途中で立ち止まり、言外に『よそ様の椿先輩を我が家に向かわせて、ご飯運んで貰う訳にはいかないでしょ?』という気持ちを込めたわたしの眼差しを、ほぼ正確に汲み取ったのか、お兄ちゃんは黙り込む。


「椿先輩も、良かったらお夕飯をご一緒にしましょう?」

「ありがとう皐月ちゃん」


 面白くない、と、不服を眉間にありありと刻みつけたまま、お夕飯を運びに自宅へ向かうお兄ちゃんとは対照的に、晴れやかな笑顔で椿先輩はお礼を口にする。

 ……うう、病人の前でいがみ合っている姿を見せないようにする為に、引き剥がしを意識したとはいえ、お兄ちゃんにちょっと悪い事をした気が。


「美鈴ちゃん、お粥作ったけど食べられる?」


 美鈴ちゃんの部屋に入って声を掛けると、うとうとしていた美鈴ちゃんは目を開いて頷いた。

 サイドテーブルが無いので、ベッドに入ったままご飯を食べられるようにと、机代わりにベッドの傍らへ椅子を運ぶ、甲斐甲斐しい椿先輩の様子に、やっぱりこの二人、ラブラブだよなあ……と、内心で感嘆してしまう。

 うん、わたしの現在の状況って、あれだね。風邪ひきイベントでお兄ちゃんに逆転チャンスが訪れたと思ったけれど早とちりだったでござる。


 それにしても、てっきり椿先輩が美鈴ちゃんに『はい、あ~ん』をしてお粥を食べさせてあげるのかと思ったら、椿先輩はお粥のお盆を机代わりに運んだ椅子に乗せるよう促してきたのは何で?

 椿先輩の様子と、もぞもぞと起き上がる美鈴ちゃんを眺めながら疑問をぶつけたわたしは、次の瞬間に真実を悟る。まるで雷に撃たれたような、天啓が降ってきた。


「すみません、わたしがここに居たら椿先輩も美鈴ちゃんも、お互いに甘えにくいですよね!

じゃあ、わたし、一階に居ますから!」


 わたしは有無を言わせずお盆を椿先輩に押し付け、慌てて美鈴ちゃんの部屋を後にする。……危ない危ない。椿先輩の目が、『気を利かせて、ね?』って半眼になってたよ!

 ふーっ。昼間の学食で、美鈴ちゃんは人目を気にして落ち着かなさそうにしてたもんね。二人っきりにしてあげないと。


 一階に降りると、お夕飯のお料理を大皿に盛ってお盆に乗せ、運んできてくれたお兄ちゃんが玄関先で立ち往生していたので、玄関のドアを開けて招き入れた。

 葉山家のキッチンダイニングのテーブルをお借りし、お茶を淹れてお兄ちゃんと向かい合った。雅春おじ様がおいでならともかく、無断で葉山家の食器や急須、お茶葉を使用するのはいくらなんでも躊躇われたので、わたしが一度自宅に走って一揃え運び込んできた、御園家の品だ。流石にお湯はこちらで沸かさせて頂いたけれど。


 美鈴ちゃんからの電話をもらって、走り回って対応して、そうして改めて落ち着いてお兄ちゃんと向かい合い、お茶を飲むと……何だかとてもホッとした。風邪をひいたって言っても、見た感じ美鈴ちゃんの病状はそれほど深刻そうでもなかったし。子どもが軽い風邪をひくのは、よくある事だもん。


「……あれだな」


 二階から椿先輩が下りてくるのを待つ間、お兄ちゃんがポツリと呟いた。


「これだけ隠して、情報を誤魔化して、相手ですら理解していない状況下に置かれれば、絶対に辿り着くのは無理だと思っていたんだがな」

「……? お兄ちゃん、突然何?」


 湯呑みをテーブルに置いて、お兄ちゃんはおもむろに両腕を組む。


「先ほど石動君に言われてな。『美鈴ちゃんは、俺にピーチ・メルバを作って欲しいって頼んできましたよ』と」

「ピーチ・メルバ? それって何だっけ」

「ピーチを使ったデザートだ。

結果は結果だ。まあせいぜい、舅は舅らしく振る舞おうか、と思ってな。そうと決めたら、今の気分は実に晴れやかだ」

「よく分からないけど、お兄ちゃんは椿先輩の事を認めたって言いたいの?」


 わたしの問いに、お兄ちゃんは唇の端を軽く持ち上げて小さな笑みを浮かべた。


「出来ないだろう? と、無茶振りをした自覚はあるが、石動君はそれにきちんと応えてみせた。癪だが、認めない訳にはいくまい」


 おお。何がなんだかよく分からないんだけど、お兄ちゃんと椿先輩の間では、何らかの協定が結ばれていて、椿先輩はしっかりその条件を履行したみたい。凄いな、椿先輩。


 ……でも、認める発言をした割には、お粥を食べ終わった美鈴ちゃんの部屋から小鍋を下げて一階に下りてきた椿先輩に、お兄ちゃんは相変わらずチクチクトゲトゲした喧嘩腰な態度のままだった。

 お兄ちゃん、やってること変わってないじゃない。そう言ったら、


「個人的にその人柄を気に入るか気に食わないかは、それとはまた別な話だ」


 と、しれっと言い放つ。お兄ちゃん……

 わたし達が夕飯を頂く前に、美鈴ちゃんご所望のデザートを仲の悪い男性陣に作ってもらっている間、わたしは美鈴ちゃんの様子を見る事にした。まず、今日はお風呂に入れないだろうから、今のうちに身体を拭いてあげよーっと。

 洗面器にお湯を張って、タオル数枚と一緒に廊下に出しておき、美鈴ちゃんの体調を窺う。お薬を飲んだからか、少し眠たそうにしているけれど、デザートが食べたいから頑張って起きているとか……美鈴ちゃん……


 熱いお湯で絞ったタオルで汗を拭いてあげて、身体が冷えないうちに新しい下着とパジャマを身に着けてもらい、またベッドに横になる美鈴ちゃんと、わたしは少し話をした。

 椿先輩とラブラブな美鈴ちゃんが、看病を申し出てくれている優しい彼氏がいるのに、どうしてわたしを頼ってきたのか腑に落ちなかったからだ。


「にーちゃんの事、私は嫌いじゃないんです。むしろ、凄く好き、なんですけど……」


 躊躇いながら語る美鈴ちゃんの話を総合すると……わたしの中で、つまりは椿先輩が急ぎ過ぎだという結論に到達した。

 一口に年の差カップルって言っても、美鈴ちゃんの場合、まだ手を繋いだりするだけでいっぱいいっぱいになるような、そんなお年頃なんだよね……小悪魔っぷりに、うっかり失念してたけど。

 看病でおうちに二人っきりだなんて、落ち着かないのだろう。いつ、椿先輩が『早くよくなるように、俺が添い寝してあげる』なんて甘い笑みで言い出しても、わたしは驚かない。


 わたしだって、柴田先生と二人っきりの研究室でお膝の上に座らされた時は、そりゃあもう心臓が爆発するかと本気で思ったぐらいだもの。人目があろうとかなり積極的な椿先輩が相手じゃあ、病床の美鈴ちゃんも対応しきれないよ。


「美鈴ちゃん、ピーチ・メルバ出来たよ」


 美鈴ちゃんに安心して風邪を治してもらえるよう、わたしがしっかり防いであげると安心させたところで、椿先輩が美鈴ちゃんご所望のデザートを運んできた。

 デザートを食す美鈴ちゃんをニコニコと見守る椿先輩を部屋に残し、林檎を片手にぶつぶつと文句を言っているお兄ちゃんを引きずって、わたしは一階に降りる。無論、椿先輩にしっかり釘を刺しておくのは忘れない。……ふっ、今日のイチャイチャタイムはこれが最後なんだからね、椿先輩!


「……俺も美鈴さんに、林檎を切ってあげようと思っていたんだが」


 ダイニングのテーブルの果物籠へ、手にしていた林檎を置いて残念がるお兄ちゃん。ああ、お見舞いイベント嘉月編では、ウサギさん林檎を切ってあげるんだっけ。


「ごめんね、お兄ちゃん。椿先輩抜きで話したい、大事な話があるの」

「何だ?」


 わたしは、椿先輩の性格上起こり得る美鈴ちゃんの戸惑いと、懸念を掻い摘んでお兄ちゃんに話した。


「……実に、行動派な石動君らしい事態だな」

「だよね? いくら恋人同士でも、椿先輩の主張を全面的に受け入れて、雅春おじ様がお帰りになるまで椿先輩に看病をお任せするのはどうかと思うんだ」

「……俺がどうかした?」


 わたしとお兄ちゃんが真面目に話し合っていると、まるで見計らったかのようなタイミングで美鈴ちゃんに出したデザートの器をダイニングに運んで戻ってきた椿先輩が、怪訝そうに口を挟んできた。

 お兄ちゃんは眼鏡を光らせ、腕を組んで椿先輩の姿に目を細めた。


「食べながら話そうか、石動君」

「座って下さい、椿先輩。

今、ご飯温めますね」

「うん、ありがとう皐月ちゃん」


 おお、わたしにお礼を言いながらも、対面の席に着く椿先輩の目はお兄ちゃんから外れないし、お兄ちゃんも腕組みしながら視線を逸らさない。男同士、無言の攻防を繰り広げるのは構わないのだけれど、わたしには意味が汲み取れないから出来れば通訳をお願いしたい……


「単刀直入に言おう。

石動君、あまり美鈴さんを困らせないでやって欲しい」


 お夕飯を並べ、わたしが隣に座るのを待って、お兄ちゃんがズバッと切り込んだ。椿先輩は軽く片方の眉を持ち上げ、


「ヒドい言い種ですね?

俺は美鈴ちゃんを気遣う事はあれど、苛めるような真似はしませんよ」

「そうではない。君は、いつだって早急に過ぎる。

そもそも、今回の発端を思い出してくれ」

「……」


 無関係な人間に横からゴチャゴチャと口を出されたくはない、と言いたげに不満そうな口振りをしていた椿先輩だったが、溜め息混じりにお兄ちゃんから諭されて口を噤んだ。


「お兄ちゃん。『そもそもの発端』って何の事?」


 わたしが首を傾げながら口を挟むと、お兄ちゃんは椿先輩からわたしに視線を向け、戸惑ったように瞬く。


「ああ、その……」

「美鈴ちゃんが風邪をひいたり、皐月ちゃんを頼ったりした諸々の事、だよ」


 言葉に詰まったお兄ちゃんの言を遮って、椿先輩が分かり易く提示してくれた。……つまり椿先輩、ちゃんと自分で問題点を把握してるって事じゃない。


「うん、それか。確かに、椿先輩の怒涛の猛攻に押されて戸惑っていなければ、美鈴ちゃんはそもそもわたしに電話なんかしてこなかったはずだしね!」

「……皐月ちゃんの一点の曇りもない笑顔と言葉が、俺の繊細なハートを粉々に打ち砕いていく……」

「俺が知り得る限り、石動君ほど厚顔かつ不遜で神経の図太い輩も、そうそう居ないがな」


 がっくりと肩を落とす椿先輩に、お兄ちゃんは真顔で追い討ちをかけていく。お兄ちゃん……


「……恋人といちゃいちゃしたいって、そんなにおかしな願望かな?」


 お箸を片手に視線を彼方へと向け、椿先輩は小さくぽつりと呟いた。いえ~、別におかしくはないと思いますけど。もう少しばかり、自重して頂ければ。

 お兄ちゃんは湯飲みを傾けてから口を開く。


「石動君と美鈴さんは、例えるならば新幹線とママチャリだ」


 うちのお兄ちゃんは、いったい何を言い出しているのだろうか。


「互いに全速力でぶつかり合ったらどうなるのか、考えるまでもない。どれほど新幹線が低速を心掛けようが、真正面から新幹線が突っ込んでくれば、ママチャリには恐ろしいだろう。

よって、新幹線である石動君はママチャリである美鈴さんが車両に乗り込んでくるまで、じっと待ちたまえ」

「分かるような、分からないような?」

「……つまり、俺からはこれ以上もう動くな、と?」


 お兄ちゃんが独特の例えで言い諭しているようだけれど、わたしには今一つ掴みにくい。肝心の椿先輩には通じたようで、低く呻く椿先輩にお兄ちゃんが深く首肯している。


「ヒドいなあ、本当にヒドいなあ、嘉月さんは。

俺はただ、猜疑心を払拭するような、そんな言葉や行動を今すぐ示して欲しいだけなのに」

「もう既に、十分知らしめさせた気もするがな」

「ほら、俺って欲張りですから」


 むう、お兄ちゃんと椿先輩が、またしてもわたしには分からない会話を繰り広げているっ。本気で誰か、通訳してくれないかな。

 会話に入れずむくれていると、お兄ちゃんがわたしに視線を向けて微笑んだ。


「皐月、今日のご飯も美味しいよ」

「うんうん、皐月ちゃん本当にありがとうー」


 くっ……あからさまに放置されていた子どもを宥めるように、飴を口に含められた気分。もう、ちゃんと説明してくれる気が無いのは、よーく分かりましたっ!


 わたしが椿先輩を説得せねばと意気込んでいたのに、気が付けばお兄ちゃんが椿先輩に美鈴ちゃんとの付き合い方をもう少し考えてくれるように言い含めていて、椿先輩自身も仕方がないなと了承する結果に落ち着いていた。解せぬ。


 帰る前にと、美鈴ちゃんの様子を覗いてみるとお薬を飲んで落ち着いたのか、ぐっすりと寝入っているようだ。

 ベッドの傍らに引き寄せた椅子に腰掛け、美鈴ちゃんの頭を撫でているお兄ちゃんに看病を任せ、わたしと椿先輩は葉山家を辞する。お盆を抱えたままでは玄関を開けにくいだろうと、椿先輩がわざわざウチにまで運んで下さった。


「椿先輩、ありがとうございます」

「いいよこれぐらい」


 お盆を運び入れてくれた椿先輩はわたしに微笑みかけ、そうして気がかりそうに隣家の二階をふと見やる。


「椿先輩。美鈴ちゃんの事、そんなに心配ですか?」

「うん……こうなって改めて、当たり前だと思ってた事の有り難みを痛感中」

「当たり前だった事、とは?」


 独り言のように呟かれたそれに疑問をぶつけると、椿先輩はわたしに向かって「うーん」と唸った。


「つまり、さ。俺みたいな奴が大昔にさも合理的みたいな顔をして、慣習や制度を作っていったんじゃないかと、こう、しみじみと」

「はあ……?」

「嘉月さんや皐月ちゃんには悪いけど、俺、やっぱり早く戻りたいな」

「……葉山家に舞い戻って、やっぱり美鈴ちゃんの看病をしたい、って蒸し返すのは無しですよ?」


 警戒態勢をとるわたしに、椿先輩は吹き出して手を左右に振った。


「安心して? そんな意味じゃないから。それじゃあまたね、お休み」


 どういう意味ですか、と聞いても答えてはくれぬまま、椿先輩は葉山家とは反対方向である夜の路地へと消えていった。

 ……風見先輩もたまによく分からない事を言うけど、椿先輩もよく分からない人だなあ。



 美鈴ちゃんが風邪をひいたと連絡を入れてきたのが木曜日、体調もすっかり良くなったとメールを貰ったのがその次の日である金曜日。

 そうして何事もなく日々を過ごして週末の日曜日。わたしは柴田先生との待ち合わせの為、朝からご近所の喫茶店へとお出掛けしていた。お兄ちゃんはまたしても徹夜明けで……うん、いつもの事だ。

 わたしが喫茶店に到着すると、モーニングタイムで混み合う店内にも関わらず柴田先生がわたしの姿を見つけて手招きして下さって、わたしは案内に出向いてくれた店員さんに一言断ってから、柴田先生の座っているテーブルに着いた。

 大学ではYシャツに白衣を羽織った姿ばかりで、それ以外の柴田先生を見るのは初めてなんだけど。ポロシャツ姿の柴田先生も、素敵だなぁ……


「おはよう、皐月。朝早くから呼び出してごめんね?」

「いえいえ、お気になさらず。

……モーニングを頂いてからのデートって、斬新ですね」

「あはは、僕は毎週末、モーニング巡りをするのが趣味だから、つい」


 わたしはさくさくとアイスコーヒーとモーニングセットを注文し、お冷やを一口含んだ。


「んー、皐月が喜ぶのなら景観の綺麗な広場なんかで待ち合わせて、後ろ手に花束やプレゼントを隠し持ちつつパリッとしたスーツ姿とかで佇んでても良いんだけど」

「それは、流石にちょっと……」


 冗談半分に提案してくる柴田先生の案を真剣に想像してみて、気恥ずかしさに悶えた。と、特別な記念日とかになら、それも良さそうなんだけど。極端過ぎないかなあ。


「皐月は僕と二人きりで一緒に居ても、どこか緊張してるみたいだったから。

僕は雲の上に住んでもいないし、完璧でもない欠陥だらけの男だけど。皐月にはありのままの僕を知ってもらって、力を抜いて欲しいな」

「はい……わ、わたしも、普段からのわたしを知って欲しいし、雲雀さんを知りたいです」


 テーブルに両肘を突いて組んだ手に顎を乗せ、ほわんと微笑む雲雀さんに、わたしも身を乗り出し勢い込んで頷く。


「あんまり情けない姿ばっかりで、幻滅されないように僕も気をつけるね」

「そんな事はないと思いますよ。むしろわたしの方が……」


 店員さんが運んできたモーニングセットを頂きながら、柴田先生は悪戯っぽく囁いた。


「うん。休日の皐月は、大学に居る時よりも華やいでいるよね。お店に入ってきた時、すぐに目が惹き付けられたよ」


 雲雀さんの甘ったるい台詞は、そ、それはあくまでも素なんですか? 取り繕わずに無理せず自然体でいこうって、たった今、話したばっかりですよね!?

 言葉に詰まるわたしをよそに、雲雀さんは笑顔で今日の予定を語り始めた。はい、素敵ですよね動物園。モーニングを食べてる間中、まっすぐに雲雀さんの顔が見られなかったのは、わたしのせいじゃない。



 喫茶店を出て、駐車場に停めてあった雲雀さんの自動車に乗り込む。赤いスポーツカーを颯爽と乗りこなす姿も似合いそうだけれど、雲雀さんの自動車は銀色塗装の国産普通自動車だ。

 住宅街ばかりが広がる地元には、ショッピングモールや映画館といったスポットには事欠かないけれど、遊園地や動物園といった娯楽施設に向かうには、車や電車でちょっと足を伸ばさないといけないんだよね。その点、雲雀さんは自分の自動車を持ってて良いなあ。


「僕はいつも適当にラジオ付けて流してるんだけど、皐月はどんな曲が好き?」

「んー、Jポップや洋楽ですかね」


 自動車道を快調に走り抜け、車外を通り過ぎていく風景に目を細めつつ、わたしはとある女性海外アーティストの歌声がいかに張りがあり、聴く者の心を打つのかを熱く語った。雲雀さんはふむふむと頷いている。


「もしかして、皐月が言っているのは彼女かな」


 雲雀さんは運転しながら車内機器のオーディオを音声入力で操り、雲雀さんの声に応じてナビゲーションに地図を表示していた画面が切り替わり、ポーン、ポーン、と効果音を出して反応を返している。停車しなくても運転したまま色々操れるのは、便利だなぁ。

 やがてスピーカーから、わたしがファンだと熱弁を奮っていたアーティストの歌声が流れてきて、わたしは手をぎゅっと握り締めた。


「そうです、この人ですこの人!」

「当たってた? たまたまラジオで流れてて、何だか良い歌だなと思って録音しておいたんだ」


 同じものを『良いな』と思えるだなんて、素敵な偶然だ。わたしと雲雀さん、気が合うって事だよね。えへへ……



 動物園に到着したわたしと雲雀さんは、並んで園内を見て回る。休日の動物園は子ども連れの家族といった雰囲気の来客が多かったけれど、こういう賑やかな空気は嫌いじゃない。


「まずどこを見て回る?

僕としては、兎の触れ合い広場は絶対に外せない」


 ゲートで配られているパンフレットに記載されている園内マップを片手に、雲雀さんはもう片方の手をグッと握って断固とした態度で主張してくる。雲雀さん、猫だけじゃなくて兎も好きなのね……


「そうですね、わたしも兎の触れ合い広場に行きたいです。

その後で、ホワイトタイガーやパンダを見に行きません?」


 国内のあちこちにある動物園でも、数えるほどしか飼育されていないホワイトタイガーって、間違いなくここの動物園の目玉だと思うなー。兎との触れ合いも捨てがたいけど。


「うん、そうしよう。

ほらほら皐月、早く早く」

「そんなに慌てなくても、兎は逃げませんよ、雲雀さん」


 ウキウキとした雲雀さんは、園内マップ片手に急かしてくる。そんなに兎を楽しみにしていたのね。意外過ぎる一面だけど……よく考えたら、ブナさんの前でも雲雀さんって多かれ少なかれこんな感じだったよ。

 兎の触れ合い広場への道すがらの檻に入っている動物達を眺め、マッタリと会話を交わしつつ。


 お目当ての触れ合い広場では、思い思いの場所で兎を愛でているお客さんが大勢いた。……小さな子どもよりも、そのお母さん世代の方が「可愛い~!」って、大喜びしてる姿があちこちで見受けられるのは、何でだろう?


「ああ、それは恐らく、動物に慣れていない子どもが増えているからじゃないかな」

「……慣れていない、ですか?」


 広場の草地の上に足を伸ばして座り、飼育員さんに勧められた兎さんをそれぞれ膝の上に乗せて撫でながら疑問を呟くと、雲雀さんは幸せそうに頬を綻ばせて兎の頭を撫でつつ頷いた。


「最近の小学校では、動物の飼育を取り止める学校が増えているから」

「それはなんて言うか……寂しいですね」

「仕方がない面もあるんだけどね。動物達を飼育するのは大変だし」


 わたしは動物園にやってきたお客さんだから、兎をただ愛でるだけで良いけれど。責任を持って生き物をしっかり飼うとなると、やっぱり大変だものなあ。衣食住の内、衣はともかくとして、住環境や健康面でも気をつけないといけないんだし。


 膝の上で大人しく座っている兎はプルプルと震えて、脈拍が非常に早い。こうして見て、撫でていると本当に可愛いけど、ただ可愛がるだけじゃ兎を飼う資格なんて無いよね。


「それで僕ね、そろそろブナさんを家に迎え入れようと思って……」

「遂にですか!」


 並んで座っている雲雀さんの言葉に、わたしはついつい食い付いてしまった。雲雀さんがブナさんに餌をやり、慣らし始めて早二カ月半……

 野良猫に餌をやるという非常識を押してまで、ブナさんに懐いてもらいたいと奮闘していた雲雀さんは、そろそろ家に連れ帰っても良いんじゃないかと感じ取ったらしい。


「猫ちゃんの用具も色々買い込んだし、ご近所の獣医さんの診療所の評判も調べた」


 ワクチン接種とか、ノミダニ対策とか、ご近所で猫ちゃんを買っている住人から気をつけるべき点を聞いたり必要品を買い込んだり、着々と準備を進めていた雲雀さん。


「猫ちゃんうっとりと評判の、お昼寝クッションも……」

「通販でしっかり買っておいたよ。

明日の月曜日のお昼時にでも、早速ブナさんをおびき寄せようと思う」

「『おびき寄せ』って」


 兎を前にデレっとしていた頬をキリリッと引き締め、表情を改め宣言する雲雀さんに、わたしは思わず突っ込みを入れていた。いや、自分の意志で後ろを歩いてきてくれるんじゃなくて、捕まえて自宅に連れ込むんだから、『おびき寄せる』で良いのかもしれないけど。


「ん? 不適当かな?

それじゃあ『餌で釣り上げて捕獲』する」

「雲雀さん、凄いです。全く穏やかならぬ言い草になっています」


 嬉しそうな表情で兎を抱き上げる雲雀さんに、わたしは冗談混じりに返して笑った。

 見上げれば晴れ渡った青空が広がり、穏やかな風が吹き抜けていく。ふと、わたしは思った。


「雲雀さん。こういうのがきっと、わたしにとっての『パンの種』じゃないかと思うんです」

「パン?」

「神の国はどこにありますか? の、答えです」

「ああ……」


 穏やかで、何でもなくて、日常の中に埋没してしまうようなそんな当たり前の情景の中にある、ささやかな幸せ。きっと聖人は、そういったものを噛み締められる毎日こそが、神の福音だと言いたかったのではないだろうか。少なくとも、わたしにとってはそうだ。


「それじゃあ、僕にとっての神の国は皐月だね」


 そう言って、雲雀さんはわたしの肩にそっと腕を回してきて、抱き寄せられた。



 動物園でマッタリと時間を過ごした後、夕方に差し掛かる時刻。わたしは雲雀さんの運転する車の助手席に座って、自宅へと送ってもらっていた。


「良かったら、皐月のお兄さんにもきちんとご挨拶したいな」

「じゃあ、お兄ちゃんの予定を聞いてみますね」


 道すがら、雲雀さんから何気なく提案されて、わたしは内心ドギマギしながらお兄ちゃんに電話を掛けてみた。数回の呼び出し音の後、流石に目が覚めていたらしきお兄ちゃんが出る。


「はい、もしもし」

「あ、お兄ちゃん? わたし。もうすぐ家に帰るんだけど、お兄ちゃんは家に居る? 雲雀さんを紹介したいなー、なんて」


 淡々と応答したお兄ちゃんにわたしが要望を伝えると、お兄ちゃんは電話越しに黙り込んだ。一瞬、急にスマホが壊れたのかと疑ってしまいそうなほど、唐突かつ長い沈黙。

 思わず耳から離して通話中かどうかを確認しちゃったじゃない。こんな局面でもだんまりって……


「もしもしお兄ちゃん?」


 意図せず、わたしの声音が低いものになった。お兄ちゃんはややあって、ようやく言葉を発した。


「……柴田先生には申し訳ないが、先ほど担当から緊急の仕事が舞い込んできてな。しばらくは手を離せそうにないんだ、実は。ああ、とても残念だが今日のところは遠慮してもらっても良いか?」

「……分かった」


 早口で言い訳を並べ立てられて、わたしは何か言い返そうかと思ったけれど、止めた。お兄ちゃん、あれだけ隣家の娘さんの彼氏にはネチネチ舅に変身しておきながら、妹の彼氏と会う心の準備がまだ出来てないだなんて……うん。うちのお兄ちゃんはセンサイってやつだから仕方がない。


「すみません、雲雀さん。うちのお兄ちゃん、今、緊急のお仕事が入っちゃって、仕事部屋に籠もってるみたいです」

「そうか……残念だけれど、仕方がないね」


 煮え切らないお兄ちゃんとの電話を終えてスマホをバッグにしまうと、雲雀さんが運転する車は既に自動車道からご近所の住宅街に入っていて、信号待ちで停止していた。そして丁度自動車の脇の歩道を歩いていた身長差のあるカップルが腕を組んで……いや、青年の腕に女の子が抱き付くようにしてぴったりと引っ付き、交差点の横断歩道を横切って行く。

 って、あれって椿先輩と美鈴ちゃん!?


「皐月」


 よく見ようとして身を乗り出したところを、運転席の雲雀さんがわたしをグイッと引き寄せて顔を引き寄せ、唇を重ねてきた。ええっ!?


「ふふ、隙あり」


 ただ軽く重ね合わせるだけの口付けだったけれど、雲雀さんは目を細めてぺろっと唇を舐めて楽しげに呟く。


「ひ、ひばりさっ……!?」

「おっと、青だ」


 いくら何でも、後ろで停止してる車からはシートの間で丸見えだし、一番前に停止してたから、もしかしたら横断歩道を渡ってた通行人には車内で何をやってるのか気が付かれたかもしれないのに!?

 とくに、丁度わたしと雲雀さんがキスしていた最中に横断歩道を渡っていったはずの、椿先輩と美鈴ちゃんがっ。


 信号が変わったのに合わせ、すうっと発進した車内から慌ててキョロキョロと視線を動かすと、椿先輩と美鈴ちゃんらしき後ろ姿は、疾うに横断歩道を渡りきってスーパーの敷地に入るところだった。き、気が付いて無いよね、さっきの!?


「もう、雲雀さんっ。いくらなんでも信号待ちで何をしてるんですかっ!」

「だって、走行中には出来ないじゃないか、ああいうの」


 わたしの抗議に、雲雀さんはクスクスと笑みを零しながら、しれっと答えたのだった。

 そういう問題じゃなーいっ!



 明けて翌日の月曜日。今日は教授の都合で朝一講義が休講になったと連絡が回ってきた為、のんびりと朝の支度を調えた。大変お仕事が忙しい、と昨日言っていた割には、徹夜明けながらもお兄ちゃんは切羽詰まった様子もなく実にのほほんと過ごしているので、生ぬるい眼差しを向けつつ。

 そんなのんびりお兄ちゃんの今朝の知育は、バッティング練習だった。うん、相変わらず意味が分からない。分からないなりに、手からバットがすり抜けて窓ガラスを割る未来しか想像出来なかったので、今日も中断させておく。

 ……うちの荷物置き場、何でこんなに色んな遊び道具がしまい込まれているんだろう……わたし、野球まではやってなかったよ?


 学校へ向かう美鈴ちゃんから、お見舞いのお礼にと手作りのクッキーを頂いたので、有り難くもらっておく。うん、お兄ちゃんはとっても忙しいらしいから、もちろん午前中からクッキーをお茶請けにティータイムなんて、開けないわよね?


 クッキー、美味しそうだなと、そわそわしているお兄ちゃんには素気なくお預けを言い渡し、わたしは午後の講義に出る為、そして雲雀さんと一緒にお昼ご飯を食べる為、お昼休みの時間に間に合うように家を出た。

 中高生も徒歩で通う通学路は、途中で駅に向かう人通りも多く広い道路に出る。裏道もあるけれど、わたしは万が一に備えてなるべく広い表通りを歩くようにしている。


 てくてくと歩いて遠目に大学近くのバス停が見えてきたところで、わたしは、バス待ちのサラリーマン風の男性の後ろ姿に、やけに見覚えがある事に気が付いた。平日のこんな時間帯に見掛けるのは珍しいけれど、あれに見えるは美鈴ちゃんのお父さん、雅春おじ様。

 駆け寄って挨拶をしようとしたところで、わたしはピタリと足を止めた。路地からバス停に駆け寄った人物が、わたしよりも素早く爽やかにおじ様に話し掛けたのを目撃してしまったのだ。


「あれっ、雅春さんこんにちは!

こんなところでお会いするだなんて、奇遇ですね」

「や、やあ。本当に偶然だね。私は今日は半日休みでね。えー、君はこれから、大学ぅぅ……かな?」

「はい。午後からの講義が多いので、大学に向かうのはいつもこのぐらいの時間なんですよ」


 キラッキラした笑みで、おじ様へと親しげに話し掛ける椿先輩は、全く何のてらいも気構えも見受けられない。雅春おじ様も、やや戸惑っている空気がありながらも、『うちの娘と交際するだなんて許さーーーーんっ!!』って、拒否反応を示す様子が全く見当たらない、ですって……!?

 コソコソと物陰に隠れ、椿先輩とおじ様の様子を窺いながら、わたしは我が家のお兄ちゃんとの器の違いに、愕然としていた。おじ様……意外と度量がおありな方だったのね。


「雅春さん、いつもお忙しそうですよね。スマホアプリを開発するお仕事でしたよね?」

「ああ、うん。美鈴が中学生に上がってから、結構泊まり掛けの出張も増えたんだ」

「ああ、イベントとか?

美鈴ちゃんから教わって、雅春さんのとこの無料アプリのやつダウンロードしてみましたけど、やりだしたら結構ハマりますね。こういう好きな時間にちょこちょこ作業して遊ぶゲーム、楽しいです」

「わ、ユーザー登録ありがとうございます」

「って言っても、課金はしませんけどね」

「ははは」


 軽妙な軽口を交えた、何という和やかさ。義理の父と息子という関係性が、既に成立していると言うの? 凄すぎる、椿先輩……!


「あ、バスが来た。それじゃ、私はこれで……」

「はい。お仕事頑張って下さいね、雅春さん!」


 やってきたバスに乗り込むおじ様の背中に、椿先輩はとびっきりの笑顔と明るい声で送り出し、片手を振る。座席に座ったおじ様も、窓越しにぎこちなく手を振った。

 バスが出発するまで見送った椿先輩に、わたしは駆け足で近付き、声を掛けた。


「椿先輩こんにちは」

「あれ、皐月ちゃん。こんにちは。今日は午後から?」

「はい。それよりも先輩、今のって、美鈴ちゃんのお父さんですよね? 仲良かったんですか?」


 大学に向かって歩を進めながら問うと、椿先輩は「うん」と、あっさり頷いた。


「雅春さん、面白いし優しいよね。俺、毎晩メールのやり取りしてるんだけど、いつもこっちを気遣ってくれるし、俺を信用して美鈴ちゃんとの仲もすんなり許してくれて……本当に器の大きい人だよ」

「へえぇぇぇ」


 何だか、わたしがイメージしていた雅春おじ様と、椿先輩が語る雅春おじ様では、大きく隔たりがあるような気がする。

 でもそっかー。流石は椿先輩、雅春おじ様から美鈴ちゃんとお付き合いをする許しを早々に得ているだとか、用意周到だわ。

 うちのお兄ちゃんにも、ちょっと見習って欲しいよ。何がとは言わないけど。



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