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本編21

 

 梅雨の季節には貴重な、気持ちよく晴れ渡った月曜日の朝。

 ようやく学校に通えると、いつもより早めに起きた私は、朝食とお弁当の支度をしつつ、昨夜準備しておいたラッピング済みのお菓子をチェックする。うん、私が寝ている間に中年がこっそりと、夜間に摘み食いをしてはいないようだ。あの中年は、お菓子に関しては油断がならないからなー。


 それはさておき、今の最大の悩みは、今日のお弁当に持参するマグに注いでおくスープの味付けについてである。内蓋付きのマグには、具が入っていないスープの方が飲みやすい。

 昆布を始めとした海産物をメインにしたダシを解凍し、慎重に味を確認。ふぅむ、磯の香りがキツいかもしれぬ。


「美鈴、おはよう。体調はすっかり良さそうだね

……ところで、両手に瓶なんか握っちゃって、どうしたの?」


 昨日の夕食時の会話によると、今日は午前中休みで午後から出勤らしく、部屋着に着替えてから朝食をとりにキッチンダイニングへと姿を現した父は、真剣に苦悩する私の姿を目撃し、朝食用の食パンをトースターにセットしつつ小首を傾げた。


「オリーブかペッパーか……それが問題だ」

「うん? ハムレット?」

「脆きもの、汝の名はスープ!」

「……つまり、その鍋の中のスープは不味いのかな?」


 大多数のスープは美味いのだが、これは流石に……

 私が敢えて仰々しく瓶を掲げつつ、苦悩を張り上げると、父は真顔で相槌を打ってくる。次の台詞が思い付かなかったので、頷いた私はキッチンカウンターにコトリと瓶を置いた。


「まあ、このままだとビミョー。

そこで、オリーブオイルかブラックペッパーなのですよ」

「そんなに違うの?」


 私は小皿に、ノーマル、オリーブ入り、ペッパー入りをそれぞれ用意し、父に味見を促した。まず、ノーマルを含んだ父は「うーん」と唸る。


「不味い……とまではいかないけれど、確かにこう……ビミョーな感じが」


 肉よりは魚の方を好む父をして、貝の風味というよりは臭気が強いスープは、好んで飲みたい味わいではなかったらしい。これが風味の範囲なら、美味しいのだろうけれど。


「そこでこの、万能調味料の出番なのですよ」

「オリーブオイルとブラックペッパー……」


 カウンター越しに向かい合っている父は、ゴクリと唾を飲み込んだ。そして私も、中年の肩越しに見えるトースターからうっすらと上がり始めた湯気に、ゴクリと息を飲む。さても中年よ、お主またしても、焼き時間設定の摘みを適当に捻ったな?


「こっ、これは凄い……気になっていた臭みが中和されて、全く感じられなくなっている!」


 オリーブ入りとペッパー入りを舐めた中年は、万能調味料様の偉大さに、改めて感じ入ったようである。そして私は、ふわんと漂い始めた焦げ始めの臭いに、トースターへの関心を中年に改めさせるか否か、迷いが生じる。


「どっちの味付けも美味しいから、今日のスープはどっちにするのかを悩んでるんだね?」

「うん、そう」


 意気込んで中年に身を乗り出され、湧き上がるものが徐々に湯気から煙へと変化しつつあるトースターの事は、放っておく事にした。中年の朝食となるはずの食パンが黒く色付いているのではなく、どうせ、我が家のトースターのパンを乗せる網の下に敷かれてる受け皿に零れたパン屑が、焦げてるだけだ、うん。


「それならお父さんに名案があるよ、美鈴。オリーブオイルとブラックペッパー、両方入れてしまえば良いんだよ!」

「過ぎたるは及ばざるが如し……!」


 カウンターを回り込んできた父は、小鍋に入ったスープを自分用のマグに注ぎ、勢い余ってオリーブオイルとブラックペッパーをドバッと振り掛けた。


「あれ、ちょっと入れ過ぎちゃったかな……?」


 あれは果たして美味いのか? 油っぽくて胸焼けがする上に、辛過ぎるような気が……私は大人しく、オリーブとペッパー、二種類のスープを用意する事にした。


「さあて、朝ご飯朝ご飯……」


 気を取り直して皿を手にトースターを開いて、周囲へ煙をブワッと広げさせた父は、黒く変色した食パンの姿に固まっている。


「お父さん、私の分のパンが焼けないから、そのまっ黒トーストは早く退かしてね?」


 その日の食卓では、私の丁度良い絶妙な焼き加減のトーストを羨ましげに眺めつつ、父が半泣きになってトーストから黒く焦げた部分を削ぎ落とす姿が見受けられた。ふっ、中年よ。娘の隠れた特技に、ようやくその正しい価値を見出したようだな……!

 半分の厚みになったトーストを齧る中年は少々哀れだったので、心優しい娘であるところの私は、朝ご飯のおかずをそっと取り分けてやった。


 そうして、出勤前までに録画して貯めておいた番組でも観ておいたら? と勧めておく。ふっ、中年よ。あなたの出来る娘は、一昨日からさり気なく恋愛映画をキーワード予約しておいたのよ。私の目を気にせず、存分に視聴するが良い!



「美鈴さん、おはよう」


 朝食を終え、ラッピング済みのお菓子をカバンに忍ばせ学校へ登校しようと玄関を出たところで、隣家から声を掛けられた。


「おはようございます、嘉月さん」


 今日も寝不足気味っぽいボーっとした雰囲気を纏う隣家のお兄さんは、水色のパジャマとサンダルというスタイルで、……何故かバットを振り回していた。

 ……いや、むしろバットに振り回されている、と言った方が正しいのか? ブンッ! とバットを振ると、嘉月さんご本人もその場でクルリと一回転しているのだが。そのうち手からバットがすっぽ抜けて、ガラス戸を突き破っていかないか心配になる、不安フルスイングだ。


「あの、嘉月さん。つかぬ事をお伺いしたいのですが……いったい何をなさっていらっしゃるのですか?」

「閃きの知育だ」


 あれ、前回も聞いた事があるフレーズだぞ。要は、とにかく身体さえ動かしたら、閃きってやつは育成されていくものなんですか? 私が知らないだけで、体育会系の人々は閃き能力を秘めたアイデア集団だったの?


「そ、それで、何か良いアイデアは浮かびました?」


 柵越しに嘉月さんに問うと、嘉月さんはバットを肩に担ぎ、眼鏡を光らせ頷いた。


「ああ、とても素晴らしい案が閃いたような気がする」

「それは良かったですね」

「やはり、鍵は遠心力と慣性の法則か……」


 バットの柄を両手で握り、嘉月さんは何やらブツブツと呟いている。


「お兄ちゃん! もう、ちゃんと休んでって言ったでしょう!?」


 私が無事を案じていたガラス戸をガラッと開きつつ、今朝はフライパンを片手に皐月さんが困った兄の奇行……ゲフン。徹夜明け朝の閃き知育習慣を諫めるべく、声を張り上げた。あ。やっぱり嘉月さん、また夜更かししてたんだ。

 兄は秀麗な顔立ちに、寝ぼけ眼によって生じる浮き世離れした儚い雰囲気を纏わせた表情で、妹を振り返る。


「いや、皐月。やはりこうした朝日の中で思考と思索に耽られる地道な身体の動きにこそ、大いなる創作へと至る扉が……」


 ブン、と振り抜いたバットの勢いによろめき、危うく洗濯物干しの竿にぶち当たりそうになったところを、すかさず突っ掛けに足を入れ、庭へと下り立った純白エプロン天使が正義のフライパンを振り下ろし、嘉月さんを振り回していた悪のバットは地に平伏した。


「ちゃんと休まないと、その扉、張りぼてになりませんか?」

「お兄ちゃん、それは単なる寝不足のハイテンションだよ……」

「……」


 私と皐月さんの抗議に、バットの上部に受けた衝撃でそれを取り落とし、体勢を崩してよろめいた嘉月さんは、むぅ、と不服げに唇を噤んだ。


「……っと、いけない。

皐月さん、嘉月さん、先日は看病をしに来て下さって、本当にありがとうございました。お陰様ですっかり良くなりました。

これ、良かったら召し上がって下さい」

「わあ、ありがとう美鈴ちゃん!」


 紅茶とチョコチップのクッキーが入った袋を手渡すと、フライパン片手に皐月さんが嬉しそうにに受け取ってくれた。


「紅茶とチョコチップ味です。お口に合えばいいのですが」

「すっごく美味しそうだね!

おやつの時間に頂くよ」

「……」


 嘉月さんは何か言いたげであるが、皐月さんは笑顔で兄を引きずりつつ、朝食作りに引っ込んで行った。



 皐月さんと嘉月さんの隣家ご兄妹とお喋りを終え、その後はとくに何事もなく、いつものように学校へと無事に登校した。


「おはよう、我が心の友よ!

さあ、このあたしに報告……」


 教室の扉を開くなり、両手を広げて待ち構えていたアイのハイテンションな口上の途中で、私は思わずピシャリと扉を閉め直していた。うん、これはもう、条件反射というしか無いな。


「人の鼻先でいきなりドアをピシャッ! だなんて、危ないと思うぞ美鈴っち」

「うん、ごめん。なんかつい」


 ガラガラと、再び扉を開いたアイが、眉間に皺を寄せて抗議してくる。今日も上手いこと、テンションギアの入れ換えに成功したらしい。

 殆どのクラスメートが既に登校していて、ざわついている教室内を横断しつつロッカーに荷物をしまい込み、私が席につくなり前の座席であるアイは、クルリと後ろ向きに座って興味津々に身を乗り出してくる。

 チラッと教室の壁時計を確認すると、出掛けに話し込んで思ったよりも時間を取られたのか、もうすぐホームルームが始まる時間だ。うわ、遅刻ギリギリセーフ!


「それで? 土日の間、椿さんとのデートで何か進捗はあったのかい?

……あのヘタレは早々に酔い潰れたとかなんとかで、ちっとも情報を拾ってこなかったんだ」

「……ヘタレ? って、何の話?」


 後半、アイがボソッと早口で呟いた台詞の意味を問うと、「何でもない」と片手をヒラヒラ振る。


「んと、土曜日はウチでDVD観て、日曜日はランチの後ウィンドウショッピングしたぐらいで、とくに何も……?」

「ほほう……?」


 別に何かあった訳じゃないよね。うん、膝枕とか口の端ペロリとか、ハグとか頭撫で撫でとか荷物持ちとか、うん、ごく普通の……!

 自分に言い聞かせるように反芻していた私は、机にゴンッと額を打ち付けた。

 うん、それってどんな関係における『普通』だよ……? 何か、スキンシップを好むチャラ男に、気が付いたら凄い慣らされてるっていうか、シスコンにも程がある兄貴状態になってないか、椿にーちゃん……!?


「よかろう。美鈴っちが『とくに何も進展は無かった』と言い張るのならば、取り敢えずはそうだと仮定しよう」

「うん……」

「で、今日も椿さんへのお弁当を作ってきたのかね?」

「作ってきたよ? そういう約束だしね」


 額を延々と、ぐりぐり机に押し付け続ける訳にもいかず、恐る恐る顔を上げてみると、アイは輝くような笑顔を私に向けてくる。うん、これは『絶対に何か進展があったのね!』と、確信しきっている顔だ……

 詳しく聞きたそうにうずうずしているが、矢継ぎ早に問いかけても頑なになるだけだと、私の自供を待っているのだろうか。


 私は努めて普段通りの表情を取り繕いつつ、机の横に引っ掛けたカバンから、ラッピング済みのお菓子を取り出す。

 透明なビニールに可愛らしい花柄が印刷されているプレゼント用の袋に、二つの味のクッキーが計十枚入っていて、口は赤いリボンで結ばれている。


「アイ、金曜日はお見舞いに来てくれてありがとう。

これ、良かったら食べて」

「クッキー? ありがとう。頂くね」


 アイは頬を綻ばせて袋を両手で受け取ると、流れるような動作で赤いリボンをしゅるりと解き、クッキーを一枚取り出……


「ちょっ、アイ、早い! 食べるの早い!」

「んあ?」


 いくら小さめサイズとはいえ、齧らずそのまま口の中に放り込む豪快な我が友に、私は慌てて制止を掛けた。アイは目尻を下げて口の中いっぱいのクッキーを噛み砕いており、もごもごと不明瞭な返事しか返ってこない。

 また間の悪い事に、ホームルーム開始のチャイムが鳴ると同時に、担任がガラリと教室の扉を開いて入ってきた。


「はいはい、皆さん席に着いて下さいね。

……それから渋木さんには先生、少しは慌てるなり隠すなり、殊勝な態度をとってもらいたいわ」

「生憎ですが先生、この美味しいお菓子を頂くという、あたしの細やかな幸福の一時を、何があろうと後ろめたく思う事は出来ません」


 クッキーの袋を握ったまま、口いっぱいに頬張っているそれをモグモグと噛みつつ堂々と宣言するアイに、教卓の前で出席簿を広げた担任は、おっとりと小首を傾げた。後ろ姿が無駄に堂々としてるよ、アイ。でも『先生に見咎められようが、ホームルーム中にお菓子食べたいぜ!』主張だけに、全く格好良くないよ……

 あ、いや、流石にまだ食べるとまでは言ってないけど。


「学業の時間に、不必要な私物を使用・飲食している場合、先生には没収する必要性が……」


 担任の台詞を全て聞くまでもなく、アイは自分の席の脇に引っ掛けていたカバンに、目にも留まらぬ早さでシュバッ! とクッキーの袋をしまい込み、そうしてすぐさまお手本のように綺麗な着席姿勢を取った。

 その一瞬の迷いも無い早技に、クラスメートの間から笑いが漏れる。


「おやおや、没収とはまた物騒な単語ですが、いったい何のお話ですか? 先生」

「次はありませんからね、渋木さん。お菓子は休み時間の間だけですよ?」

「ええ、ごもっともです」


 いつ飲み込んだのか、口の中を空にしてしれっと答えるアイに、担任も困った事、と言いたげに苦笑しつつ出席を取り始めた。クラスメートの中にも、「渋木って肝座ってんな……」「マイペースなのよ」といった、呆れ混じりのひそひそとした囁きが聞こえてくる。

 ……何つーか、我が友よ。うちの学校の校則が、お菓子の持ち込みに関して緩くて良かったね。もっと厳しい学校だったら、アイってそのマイペースさで生徒指導室に呼び出されるタイプなんじゃ……

 反省反省。私も次回からは、アイには朝一で渡すんじゃなくて、食べ物はお昼休みの時間とかに渡そう。でないと、またチャイムが鳴っても手に持ったままで、先生に見つかっちゃうよ。



 ホームルームと午前の授業を無事に終え、アイの輝かしい笑みに見送られて気まずい思いをしつつ。私はお弁当を持って、校舎裏の待ち合わせ場所に向かった。今日は夜に雨がパラつくという予報で、雲こそ多いが外はまだ良いお天気だ。


「ガシャンガシャン……くっ……! 俺は、こんなところで倒れる訳にはいかないんだ……!」


 私が建物を回り込むと、敷地の境目であるフェンスの網目を片手で掴んで揺すり、俯きがちにもう片手で腹を押さえた、茶髪青年……椿にーちゃんが何やら芝居掛かった深刻な声音で、独り言を呟いているのが聞こえてきた。


「……にーちゃん何やってんの?」

「ああ、このまま力尽きてしまうのかと思ったが、天は俺を見捨てやしなかった……ガシャン!」


 ……動きに合わせて効果音をわざわざ口にする辺り、ふざけていらっしゃるご様子なのだが、顔を上げて私と目を合わせたその眼差しは微妙に真剣な色を湛えている。


「つ、椿にーちゃん、どうしたの?」

「ミィちゃん……」


 フェンスに駆け寄り、網目越しに伸ばした指先が間にフェンスを挟みながらもキュッと握られ、私はびくりと肩を震わせ……たのだが、私の手に重ねられた椿にーちゃんの指先に、握ったフェンスの塗料が付着しているのを見て、あ、ご飯の前に入念に手を洗わないと……と、眉をしかめた。結構簡単に剥げて手に付くんだよね、フェンスの塗料って。

 椿にーちゃんはフェンス越しに、真顔で語る。


「腹が減り過ぎて今にも倒れそうだ……!」

「椿にーちゃん、いくら朝が弱いからって言っても、毎回毎回朝抜きにせずに何か軽く食べようよ……」


 そりゃ、一日二食じゃ腹減るわな……あ、夜食食べてるんだっけ?


 腹減りにーちゃんのパフォーマンスはともかくとして、椿にーちゃんに本日案内された先は、大学敷地内にある温室の傍ら、オープンカフェなどを思わせる白いテーブルとイスである。中等部との境である林を抜けると広大な芝生の広場になっているのだが、そのまま真っ直ぐ芝生を突っ切ると学食の出入り口があって、温室は研究棟と学食の間に建てられている。

 ガラス張りの広い温室には見事な花々が咲き乱れ、外からでもなかなか見応えがある。椿にーちゃん曰わく、体感的な室温は暑いとまではいかないが、温暖で夏場に入りたい場所ではないらしい。ちょっと興味があるなー。

 しっかりと手を洗ってから持参のお弁当を広げ、問題のスープが入ったマグをよく振ってから、向かい側のにーちゃんに差し出した。


「ミィちゃん、これ、いつもスープを入れてくれてるマグだよね?」

「そう。にーちゃんには、この、微妙に味付けが異なる二種類のスープから、自分で好みの方を選んで欲しい」

「ふうん?」

「オリーブオイルか、ブラックペッパー。どちらも捨てがたくて……」


 私が真剣な苦悩を伝えると、椿にーちゃんはコクリと頷き、


「じゃあ、両方半分ずつ頂戴。分けっこしよ?」


 と、悩みもせずに即決した。

 椿にーちゃんはマグの蓋をコップ代わりに、少し注いで両方味見し、「ホントだ、ずいぶん変わるんだね」と、感心している。

 捨てがたいなら半分ずつ分け合う、という選択肢など、私には全く思い浮かびもしなかった。


「両方……うちの中年とは、同じ『どっちも』選び取る行動なのに、何だろうこの圧倒的な違いは……!?」

「ミィちゃんのお父さん、また何かやったの?

今日もいつも通りお忙しそうだったけど……」


 椿にーちゃん、何気に今日もうちの中年とメールのやり取りでもしたのか? 午前休だから、午前中に出したメールならのんびり返信したはず……ハッ! さては中年、れれれ恋愛映画を鑑賞中に椿にーちゃんからメールが届いて、慌てふためいて何かやらかしたな!


「私がスープの味付けを相談したら、オリーブオイルとブラックペッパー、両方たっぷり入れてた」

「……別に、両方入れても美味しそうだけど?」


 食前のスープを分け合っている椿にーちゃんは、それの何が問題なのかと怪訝そうに尋ねてくる。


「うちのお父さん、お菓子よく食べる人なのね。

それなのに超適当に振り掛けてたから、ほぼ間違いなく、ペッパーの入れ過ぎで辛くなる」

「そっ、それは……今頃、口の中が大変な事になってそうだね」

「何か心配になってきた。ちょっと確認してみるね」


 食事中にお行儀が悪いが、一言断ってからすちゃっとスマホを取り出し、中年に宛ててメールでスープの味について感想を尋ねてみる。さしたる間を置かず、父から返信が届いた。


『本文:Σヾ(。 ̄□ ̄){ギャアアア!』


 内容は短く一行のみ。ある意味潔いというか何というか……うちのお父さん、意外とメール芸センスがあったんだな。椿にーちゃんにも見せてやると、生ぬるい笑みを浮かべる。

 中年の昼食風景を思い浮かべ、私達はふっと遠い眼差しを彼方へと向けた。……まああの中年の事だから、口直しにクッキーでも食べてるだろう。


 気を取り直して昼食をとり終わり、デザートに先日のお礼であるクッキーを渡そうと、カバンに手をかけたところで、今度は椿にーちゃんのスマホが着信を告げた。


「おっと。ごめんミィちゃん、ちょっと出るね」

「うん、どうぞどうぞ」


 食後のお茶を飲もうとマッタリとした空気の中、眉をしかめて発信者の名前をチラッと確認した椿にーちゃんは、私に一言断ると席を立ち、スマホを耳にあてがいながら温室の方へ向かい、少しテーブルから離れてゆく。


「もしもし光? どうした?

……ああ、地下倉庫の片付けって、今日だっけ?」


 ヒカルさん……確か、椿にーちゃんのツレその1さんだっけ。まだ会った事はないけど、あの椿にーちゃんやツレその2さんと仲の良い男の人って、何となくチャラそうな気がする。

 カップにお茶を注ぎつつ、椿にーちゃんの電話が終わるのを待っていると、遠目に見覚えのある人物が芝生を歩いて横切っていくのが見えた。


「えっ、柴田先生……!?」


 ガタンと席を立ち、思わず呟いた私の声が聞こえた訳でもないだろうが、白衣を翻して研究棟の方へと歩いていた柴田先生が、私の姿を認めて驚いたように目を見開いた。


「……君は確か、美鈴さん、だったよね。こんにちは」

「こ、こんにちは先生。偶然ですね」

「僕はここの教員だから。美鈴さんは……中等部の子だよね?

どうしてこの時間に大学の敷地内に居るのかな?」

「えーっと……」


 方向転換して、こちらに早歩きで歩み寄ってくる柴田先生に、私は視線を泳がせた。……よく考えたら私、今、不法侵入状態だったよ! しかも、制服のまんまで身元バレバレだよ!


「お、お昼に誘われまして。

そう言う柴田先生は、芝生の方から歩いて来られましたけど、あんなところへ何をしに?」

「え? ああ、うん。ちょっと探し物を、ね」


 あっさり流されてはそれ以上はぐらかす言葉が思い浮かばず、思わず助けを求めて椿にーちゃんの方を振り返ると、丁度通話も終わるところだったらしい。


「了解。ま、光もバイト頑張れよ。じゃな」


 ピッ! と通話を終えると、椿にーちゃんは早足でこちらに歩み寄ってくる。そして私の背後に立って柴田先生と向き合い、私の頭にポンと手を乗せた。


「こんにちは、柴田センセ」

「やあ石動君。もしかして、石動君が美鈴さんを連れ込んだのかな?」

「連れ込むだなんて、いかがわしい言い方はやめて下さいよ。俺はただ、美鈴ちゃんとお弁当を食べてただけなんですから」

「いやいや、仮にも大学生が、授業がまだ終わっていない中学生を学校から出すのは、ちょっとどうかと先生思うよ?」


 ……えーっと……あれ? もしかしてこれ、私が大学敷地内に居る事を、柴田先生すげー怒ってない?あと、椿にーちゃんも柴田先生に向ける口調がやけにトゲトゲしいと言うか……


「お昼ご飯ぐらいで一々目くじら立てなくても、遅刻しないようちゃんと予鈴前に送っていきますよ」

「石動君、美鈴さんと仲が良いの?」

「センセーこそ、そんなに食い下がってくるぐらい、美鈴ちゃんとは親しい関係でも築いていらっしゃるんですか?」


 背後の椿にーちゃんの表情は見えないが、柴田先生の顔はちゃんと見える。

 あくまでも表情は笑顔、なんだけど……やりこめてやろう、みたいな対立関係の匂いを感じる。

 偶然、椿にーちゃんと言い合う現場に居合わせて、私、確信した! 柴田先生、椿にーちゃんの事疎んじてるよ!

 でもって椿にーちゃんも柴田先生の事、ライバル心というか何というか……とにかく好意的には見てない!


 ヤバい……これはヤバい事態だ。この人ら、一触即発じゃないか!


「し、柴田先生、私、そろそろお昼休みが終わるので、これで失礼しますね」

「……ああ、そうですね。授業に遅刻したら大変です。

またお時間がある時にでも、良かったらお話ししましょう」

「はい」


 手早くお弁当箱を片付け、私は帰り支度を整える。まずい……とにかく、椿にーちゃんの殺意が高まらないよう、引き離しに掛からねば!


「椿にーちゃん、行こ?」

「……そうだね。それじゃあセンセ、また」

「ええ、それでは」


 促す為に見上げると、椿にーちゃんも柴田先生と同じように微笑を湛えたままだ。何だこの人ら怖ぇな! 笑ったままチクチクやり合うとか!

 内容はほら、『子ども連れ回すなら、場所と時間帯を考えろや』『ゴチャゴチャうるせぇよ休憩時間ぐらい自由にさせろボケ』という、いかにも細かい先生と不良生徒っぽい感じだったけど。

 この二人、どんな話題でも火種になる仲の悪さを感じたのは、私の気のせいではあるまい。


 柴田先生にぺこりとお辞儀をし、椿にーちゃんの腕をグイグイと引いて、大学と中学の敷地を区切るフェンスを目指す。

 とてもじゃないが、柴田先生が椿にーちゃんへ殺意を抱いているのか調べられる空気じゃない。敢えて言うなれば、両者共に殺意メーターが振り切れる可能性があるんじゃないか、これ?

 ああ、ヤバゲーヒロイン皐月さん……いったいどういう対応をして、ここまで椿にーちゃんと柴田先生の仲を悪化させたんですか……?


「ミィちゃんごめんね、せっかくの貴重なお昼休みだったのに、あんまりゆっくり出来なくて」

「いや、十分だよ、うん」


 フェンスに取り掛かる私に、椿にーちゃんがシュンと消沈しながら謝ってきたが、にーちゃんが謝罪する必要なんて別にどこにも無いと思う。まあ、思いがけず柴田先生が偶然通りかかって、情報は得られたし。


「じゃあ俺、今日の午後には用事が入っちゃったから」

「さっきの電話?」


 スタッと中等部の地面に降り立つ私に、荷物を手渡してくれながら、椿にーちゃんは今日の予定を口にする。今日はお勉強見てもらおうと思ってたんだけどな……


「うん、ちょっと雑用入っちゃって」

「そっか……掃除、だっけ?」


 途切れ途切れに漏れ聞こえてきた先ほどの電話を思い返し、呟くと、椿にーちゃんは面倒そうに肩を竦めた。


「うちの大学の教授が一人、海外遠征するらしくてさ。これまで使ってた地下倉庫を整理してくれって、人手に駆り出された。

こういう時、つくづく男って損だ」

「あはは……」

「ちょっと待っててくれたら、夕方の五時頃には区切りつけるから、良かったら一緒に帰ろ?」

「うん、終わったらメールしてくれる?」

「了解」


 それじゃまた後で、と、背中を向けた椿にーちゃんに手を振って見送り……教室に到着して、頬いっぱいに幸福を詰め込んだ状態のアイの微笑に出迎えられ、重要事項を思い出していた。

 ……しまった、予想外の柴田先生との遭遇で狼狽えて、肝心の椿にーちゃんにクッキー渡してないじゃん。


「お帰り、美鈴っち。

次の授業は数学……指名される予感がビシバシするから、ともに予習をしようじゃないか」


 もぐもぐ、と、幸せそうな笑顔でクッキーを頬張りながら発する内容ではないような気がするが、アイがそう言うと、私も問題の解答を黒板に書くよう指名される気がしてきた。

 頷いて席に着き、机から数学の教科書とノートを取り出し、私はアイと予習に励むのだった。

 早く夕方にならないかしらん。



 未来予測師のお告げ通り、数学の困難を乗り越えつつ。午後の授業を終えた私は、中等部の正門から出て塀沿いの歩道を回り込み、大学の正門から敷地内に入った。今度は不法侵入じゃないんだから、怖くない。

 現在時刻は午後四時、教室や部室、図書室で時間を潰すよりも、椿にーちゃんからメールが来たら少しでも早く合流して、今度こそクッキーを渡そうと、わざわざ大学へ出向いてきたのだ。


 とはいえ、中等部の私が大学構内で大手を振って過ごせるかと言うと、それも少し無理がある。学校という空間は部外者お断りが当たり前であるし、大学生ではない私は本来、部外者でしかない。

 なので、大学の大きな図書館で蔵書を読み耽りつつ、時間を潰す事にする。ここ、画集多いし、眺めてたら一時間ぐらいすぐに過ぎていくでしょ。


 大学生や教員らしき人々がチラホラと見掛けられる中、棚から取り出した画集を閲覧席に座って眺め。存分に堪能した一冊を棚に戻し、新しい本を持ってきてもう一度座り、サイレントモードにしたスマホの時計を確認すると、午後五時に近付いてきている。

 ……何だか、こうやってると時間の流れが遅く感じるなー。椿にーちゃん、まだお掃除終わらないのかな?


「おおっと、美鈴ちゃん、はっけーん。

図書館で携帯は使っちゃ駄目だよ?」


 幾度確認しても、画面には待っているメールはまだきておらず、私が溜め息を吐いていると、頭上から潜められた声が降ってきた。

 振り仰ぐと、見覚えのある、眼鏡の茶髪赤いヘアピンにーさん……えーっと、あれ? 名前なんだっけ。椿にーちゃんのツレ、その2さんが立っていて、キョロキョロと周囲を見回している。

 ……ハッ、そういやこの人、単体だと危険人物なんだっけ? めっちゃ愛想が良くて人懐っこい、優しいお兄さんにしか見えないけど。


「スマホは振動も切って、サイレントモードにしてますから。

……それで、私に何かご用ですか?」

「えっ? 何でか俺、美鈴ちゃんにそこはかとなく警戒されてる?」


 胡乱な眼差しでその2さんを見上げる私に、その2さんはショックを受けたようによろめき、すぐに気を取り直した。


「美鈴ちゃんの後ろ姿を見掛けたから、もしかするとアイちゃんも一緒かな? と思って」


 にこやかに尋ねてくるその2さんは隠しきれない期待感を滲ませつつ、館内を見回して小声で囁く。

 要するにこのにーさん、私自身にはとくに用件は無いのか。


「アイなら教室で別れましたよ。確か今日は、観たいテレビが再放送されるとかで、大急ぎで」

「そうなんだ……」


 よほどアイに会いたかったのか、私の答えに目に見えて肩を落とすその2さん。


「その2さんは、図書館がお好きなんですか?」

「その2さんって……美鈴ちゃん、俺の名前覚えてる?」

「確か、ここで偶然お会いするのはこれで二度目ですよね」

「ちょっ、ざっくり流さないで……」


 何やら情けない表情で訴えてくるその2さんに、私は笑顔で頷く。


「椿にーちゃんから、『コイツの名前は覚えなくて良いから』と言われた事はしっかり覚えてます」

「つーばーきぃぃぃっ」


 私の背後で、場所が場所だけに暴れる事も叫ぶ事も出来ずに、小声で悶え苦しむその2さん。うーん、相変わらず面白い人だ。


「俺はねー、センセーから恐怖の古典解読課題を出されたの」

「……ホラー小説か何かですか?」


 しばらく大声を出さないよう、自分で自分の口を手で抑えてうねっていた茶髪赤ヘアピン眼鏡にーさんは、気を取り直して私の隣の座席の椅子を引き、机の上に分厚い本を乗せた。椿にーちゃんはよく海外の本を読んでいるけれど、その2さんが運んできた本の表紙の文字は漢字だ。古文だろうか?


「古い言葉を現代文に訳す作業ほど、恐ろしいものは無いんだよ、美鈴ちゃん……

美鈴ちゃんも、文系の方が女の子多いだろう、とか気楽に考えず、進路はよく考えて決めた方が良いからね?」

「はあ……」


 天井からの光を眼鏡でキラッと反射させ、決め顔で助言してくるが、冷静に考えて、この人の発言から自然と導き出されるその2さんを現在取り巻く状況を推測するに、大変情けない。


「ところで、アイちゃんと一緒に来たんじゃないって事は……美鈴ちゃんは椿と待ち合わせ?」

「はい。椿にーちゃんの雑用が一区切りついたら一緒に家に帰って、英語の勉強を見てもらう約束になってます」


 とても古い本なのか、その2さんは、パラッと、慎重に本の表紙を捲り、何気なく私の予定を尋ねてくる。

 チラリと再びスマホを確認してみると、もう午後五時にほど近い時刻を回っていた。珍しいな、早め早めに行動する椿にーちゃんが、約束の時間がこんなに近くなっても連絡入れてこないとか。用事が長引いてるのかな?


「くっ……リア充め爆発しろ……」

「はい?」

「何でもないよ。

椿、何だかんだで先生受け良いからなー。また用事を言い付けられたか。……約束すっぽかしてフられてしまえ……」


 さっきから隣のその2さんが、早口で不穏な呟きを口走っている気がする。


「確か、海外遠征する教授に駆り出されたとかで、倉庫のお片付け? 大掃除? が、あるとかなんとか……」

「へあっ!?」


 私の言葉に、その2さんは奇声を上げて椅子から立ち上がった。途端に、四方八方から鋭く睨み付けてくる視線と、唇に人差し指を当て、小さな子を窘めるように「しー」と、静かにしろという意味合いの仕草をあちこちから向けられる。

 その2さんは司書さんを始め、図書館利用者にペコペコと頭を下げつつ改めて着席し、ポケットから取り出したスマホを操作し始めた。


「……あった。ねえ美鈴ちゃん、それってさ、本当に今日の用事なの?

俺に回ってきたお手伝い依頼のメールによると、それ、明日集まってやる予定になってるんだけど……」


 スッと、私にも見えるようにスマホのメール画面を見せ、日時の部分を指し示すその2さん。確かにそこには、月曜日ではなく火曜日とはっきり書いてある。

 差出人は『柴田雲雀先生』で、内容は『地下倉庫のお片付け』……

 でも確かに、椿にーちゃんそう言ってたのになあ……


 ん、地下倉庫……地下室!?


 何だかとてつもなく、ヤバい予感がする。

 例のゲームで、仮に椿にーちゃんが犯行に及ぶ場合は、とても立件がし易いであろう、不法所持の凶器を振り回しての殺人事件だ。

 そして柴田先生の場合、殺意の有無さえ証明するのは難しい『地下室での事故』で……


 バカだ……バカだった、私は! 椿にーちゃんといかにも仲が悪そうだし、柴田先生が危ないんじゃないかって、今日の昼間の時点で気が付いてた事じゃない。ちゃんと、にーちゃんの周囲に気を配って、ガードしてなきゃいけなかったのに……!


 素早く自分のスマホを確認するも、やはり椿にーちゃんからのメールは届いていない。私はガタッと席を立ち、慌ててカバンとその2さんの襟首を引っ付かんで、図書館の出口に向かって移動する。


「え? ちょっ、わわっ?

美鈴ちゃん、何事?」

「お手伝いする約束の、地下倉庫ってどこですか?」


 いきなり有無を言わさず引き摺られて、その2さんは首が締まらないよう慌てているが、大人しく引っ張られるままについてくる辺り、そのお人好しさが窺える。


「もしかしたら椿にーちゃん、地下でトラブルに巻き込まれてるかもしれないんですっ」

「椿があ?」


 図書館を出て、早口で私が事情を説明して協力を求めるも、まさかー、と、軽く流そうとするその2さん。その襟を掴み、ガクガクと揺さぶって重ねてお願いすると、「分かった分かった」と了解して、先導して足早に移動しつつ、自分のスマホで椿にーちゃんへ電話を掛けている。


「……留守電サービスに切り替わっちゃった。まさか椿の奴、電話に出られない状況に……?」

「私の早合点なら良いんですけど、本当に椿にーちゃんは今日お手伝いの日だって言ったし、五時にはメールくれる約束になってたんです」

「……何かだんだん、椿と俺への情報の食い違いも気になってきた。美鈴ちゃん、こっち!」


 既に時計は約束の五時を数分過ぎた事を示しているにも関わらず、椿にーちゃんからのメールはまだ舞い込んでこない。

 スマホをポケットに仕舞い直したその2さんは、全力で研究棟の方へと駆け出し、私も懸命にその後を追いかける。

 研究棟の建物に入ると、場所は把握しているらしきその2さんは、迷わずロビーを突っ走って地下に続く階段に駆け下り、通りすがった人々の訝しむ誰何の声を振り切り、私も階段に飛び込んだ。

 地上だけでなく、地下にも研究室や倉庫が複数存在しているのか、階段を抜けた先の地下一階や地下二階は蛍光灯で明るく照らし出され、幾つもの扉が見える。


 そして、その2さんが向かったのは地下二階、その廊下の一番奥の突き当たりには、様々な荷物が室内から出されたのかひと纏めにされていて……長い板のような物が、扉の前で横倒しになっていた。荷物が密集した状態で出入り口を塞いでいて、あれでは内側から扉を押し開ける事が出来ない。


「ギャーッ!? 本気で密室閉じ込められ事件になってるじゃねえか!」


 両手で頬を抑えながら叫んだその2さんは、扉の前を陣取り塞いでいる長い板のような荷物を退かし、私はすぐさま扉を開いた。


「にゃおん」


 扉の隙間からスルリと滑り出てきた大きな猫が、私の足下を鳴きながら通り抜けてゆく。

 まさか……!


 急いで室内に足を踏み入れた私の目に、床に倒れ伏した椿にーちゃんの姿が飛び込んでくる。

 慌てて呼吸や体調を確認するべくしゃがんで覗き込むと、椿にーちゃんはうっすらと目を開いた。


「ミィ、ちゃん……?」

「にーちゃん!」

「……失敗、舐められたとこ、噛まれ……」


 皮膚に赤みが出て、目蓋や唇も腫れているように見える椿にーちゃんは、ひゅーひゅーと呼吸が荒くなっている。震える声で何とか『噛まれた』と呟き、がくりと意識を失った。

 椿にーちゃんの震える手は、茶色い粉のような汚れが付着し、猫の唾液か何かで濡れ、手の甲には血が滲んでいる。血中にアレルギー物質が入ったんだ、と、理解すると同時に、


「すぐに救急車を呼んで下さい!

猫のアナフィラキシーショック症状が出てます!」


 私やその2さんが大慌てで地下に飛び込んできた後を、何事かと様子を窺いに来た研究棟の職員さんらしき人に叫び、私は涙がポロポロと零れるのが止められなかった。


 やだよ、こんなのやだよ、死なないで、にーちゃん!



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