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本編⑳

 

 今日休んだ間に出された課題の類いを全て終わらせ。風邪も治ったし、さあ、これで問題は全て解決と、晴れ晴れとした気持ちでアイを見送った私は、夕飯の支度をのんびり終わらせ、父の帰宅をまったりと待っていた。

 ダイニングで寛ぎ、雑誌をめくっていると、スマホが着信を告げる。おや、中年の残業報告かなと、軽い気持ちで取り上げると、発信者の名前は椿にーちゃんだ。


「はい、もしもし?」

「もしもしミィちゃん? 今、話しても良い?」

「うん。どうしたの?」


 椿にーちゃん専用着信音でも設定しておこうかな、などと呑気な事をぼんやり思い付きつつ。昼間にもお見舞いに来てくれたというのに、夕方にも電話をしてくるだなんて、何かあったのだろうか。


「実は、明日明後日の週末には、久々に実家に帰ろうかと思ってて」


 電話越しに耳元で語られる、椿にーちゃんの穏やかな言葉に、私は頭から冷水を浴びせかけられたように、一気にのんびり気分が消し飛んだ。

 椿にーちゃんの実家って、確かそう遠くないって話だったけど。椿にーちゃんの実家近くのお祖父様が長を務める事務所には、日本で振り回すのはご法度の品があるじゃないですか!

 私が知る限り、椿にーちゃんは最近のほほんと過ごしていて、心荒ぶれて殺意が芽生えてたりなんかしていないはずなのだけれど。


 今日だって、「林檎の皮剥き難しいねー。……ちくしょう、俺が着実に築き上げてきた『格好良くて頼れる年上の彼』のイメージが……」と、実に愉か……もとい、フレンドリーに親しみやすく、テーブルにバシバシと小声で懊悩を叩き付けていたのに。そして私の中のにーちゃんのイメージは、どっちかっつーと格好良いじゃなくて面白いあんちゃんです。


「……な、何で?」


 今日、大学で何かあったのだろうか。皐月さんと柴田先生の交際を知り、殺意メーターが一気に振り切れたとかなの!?


「実は今日、久々に実家から電話が掛かってきてさ」


 慄く私の胸中など当然知らない椿にーちゃんは、殺意を抱えて殺人計画を練っているとは到底思えない、普段と全く同じ声音でのんびりと語る。

 椿にーちゃんが何を考えているのか、もちろん簡単に分かるもんじゃないのだけれど。例のヤバゲーでも、椿にーちゃんは暴走直前まで全く殺意を気取られる事が無かったからこそ、ヒロインの『皐月』もサポート役の『美鈴』も、殺人への警戒心など欠片も無いまま呆気なく殺害された訳で。


「最近ちっとも帰ってなかったから、たまには顔を出したらどうなの、なんて言われてさ。まあ、盆と正月ぐらいしか帰省してなかったし」

「あの、それで……別に実家って遠くないんだよね? 何でわざわざ私に連絡を?」

「多分帰ったら、知り合いのところにあちこち挨拶回りさせられて、夜は酒盛りに付き合わされる」


 真剣な声音での説明に、私は、まあ椿にーちゃんって、ある意味『お坊っちゃん』だからなあ……と、遠い眼差しを彼方へと向ける。きっと、ご実家に戻ればしがらみとか義理とか、色々あるのだろう。


「潰されるまで呑まされたり、あと、これから先の事とか相談したい事もあるから、じーさまや親とも膝詰めて話し合ったりすると思うんだ。

だから月曜の夜ぐらいまで電話繋がらないだろうし、メールも返信出来るかどうか……俺がいきなり音信不通になったら、びっくりするでしょ?」

「う、うん、それはびっくりする気がする……」


 ちょっと待ってくれ、にーちゃん。『これからについての相談事』って何だ。抽象的な上に範囲が広すぎて、内容特定が出来ない言い方だね。大学生のにーちゃんが親に言い出す話って言えば、人生設計とか就きたい仕事の事についてじゃないかなあ? としか、通常ならば思えないのだけれども。どうしてもヤバゲーの影がチラついて、裏の意図を勘ぐってしまう!


「あの、あのさ、にーちゃん」

「ん?」

「自意識過剰で恥ずかしいんだけど、その、話し合いたい相談事って、私も関連してたりする?」


 曖昧なままでは埒があかないと、思い切って直裁的に踏み込んでみると、椿にーちゃんが電話の向こうで息を飲んだ。


「……ねえミィちゃん。俺って、そんなに分かり易いかな?」


 当たってたんかい! 関係あるんかい! 私は単なる女子中学生だぞ。にーちゃんの職業や仕事に今後も関わりとか多分発生しなさそうだし、どんな内容を相談するのか、ちっとも想像がつかない。まったくもって分かり難いよ、にーちゃんは。


「全然。今のは単なる、女の勘」

「そっか。侮れないね、勘」


 便利な言葉だ、女の勘。ヤバゲーの懸念云々なんか、話す訳にもいかないのだから、それを根拠にした怖い仮説は全て『勘』で片付けられないだろうか。


「流石に気が早すぎるとは、自分でも思うんだけど。何事も、根回しとか事前の準備が大事だし。

先手打たれて身動き取れなくなる前に、早めに動いておこうかな、って」


 いかん。私が関わる何かを祖父や親御さんに相談……ダメだ、何が何だかサッパリ分からん。柴田先生が椿にーちゃんの身を拘束するといった懸念を抱いている、という意味でもなさそうだし。

 ……と言うかそもそも、椿にーちゃんって柴田先生を警戒してたり、敵意や妬心を抱いていたりするのか? むしろ私の方が、柴田先生を警戒している気がするよ。


「にーちゃん、私、よく分からない」

「うーん、ほら、ミィちゃんも微妙な空気の中で迎えられるよりは、歓迎ムードの方が輪に入って行きやすいでしょ?」

「うん、それはそうだね」

「ミィちゃんはこんなに良い子なんだよーって、前もって理解して貰えていたら、すんなり後ろ盾になってもらえるじゃないか。教育は若いうちからの方が身に付きやすいし」


 ……え、私の人脈構築? と言うか、私のスキルアップ計画?? 何でまた、椿にーちゃんの実家で?

 まさかにーちゃん、一般人の私をやや特異な方々の仕事場に引き込もう、とか考えてるの?


「そのー……それは、どうしても明日帰省して、やらなくちゃならない事なの?」

「そんな事は無いよ? ミィちゃんが不安がるなら、無理強いするつもりも無いし」


 うん、別に私の事を(むしろ、私の作るご飯を、かな?)気に入っているからと言っても、私の将来設計を強引に取り決めたりする訳じゃないようだ。そりゃそうか。

 何となくだが、椿にーちゃんが違法ブツを調達しに実家に帰省するつもりではなさそうだ、という雰囲気は感じる。

 あからさまに「武器をゲットして来るぜ、ヒャッハー!」だなんて言い出したりするはずもなく。そうなると私では椿にーちゃんを無理に引き留めて「嫌だ、実家になんて行くな!」だのと、当然ながら言える訳が無い。そんな意味不明な要求を口にしたら、それは単なる頭がおかしい奴だ。


「えっと、それじゃあ、明日も明後日も、椿にーちゃんに会えないの?」


 犯罪計画準備の為の帰省だという確定的な証拠など無く、私がにーちゃんを引き留めるのはおかしい。いや、椿にーちゃんが家に帰ろうがどうしようが、それは別に構わないのだ。要は、ヤバいブツを手に入れたりしなければ。

 武器を入手してなどいないと、私の心の平穏と安心を確固たるものとして判断する材料となる状況として、最も望ましく穏便な成り行きが、『にーちゃんはしばらく実家に帰っていない』というものなので。


「……俺と会えないと、ミィちゃんは淋しい?」


 私が考えあぐねていると、通話口の向こうで、椿にーちゃんが柔らかく甘い声音で囁いてきた。うむ、相変わらず無駄に色香を振り撒く辺りがチャラ男たる所以か。

 よし、殆ど無駄かもしれないが、『にーちゃんと二日も会えないなんて、淋しいから帰っちゃイヤだ!』という、ワガママ甘えん坊な妹分という方向で話を持って行こう。帰省の邪魔をするだとか、椿にーちゃんに会いたがっているらしきお身内の方々にはたいそう申し訳ないが、こっちだって命がかかっている……かもしれないのだ!

 いくらなんでも永遠に妨害出来るとも思えないが、もうしばらく時間を稼ぎだい。出来れば、椿にーちゃんが殺意を抱いたりなんて、していないと私の中で確信が持てるまで。


「うん、淋しい。椿にーちゃんと会えないのイヤ」


 勢い込んで食い付くと、椿にーちゃんはふふっと笑い声を漏らした。


「そっか、それじゃあちょっと考えようかな」



 ……などと言う、会話を電話越しに交わした翌日の土曜日。

 私は自宅のキッチンでお昼ご飯の用意をしながら、椿にーちゃんの来訪を待っていた。椿にーちゃん曰わく、私が病み上がりの今日は、一日まったりお部屋デート日だそうです。

 ……ツッコミ待ちなのかと思ったが、『にーちゃんと会えないの淋しい!』と言い張り、予定を変えさせたのはこの私自身だ。『嬉しい!』と大喜びしていないとおかしいだろう。


「美鈴、美鈴! それで石動さんは、いつ頃いらっしゃるって?」

「レンタルDVD借りてからうちに来てくれる、って話だったから……一時過ぎるんじゃないかな?」

「そうか、一時か。あと、三十分……」


 休日の真っ昼間から、手持ちの中で最も高級なスーツを着込み、落ち着かなげにネクタイの位置を微調整しつつ、ダイニングのテーブルについている我が父は、腕時計をチラチラと幾度も見やる。私の方は、水色と白のチェック柄の、サイドレース切替膝丈ワンピースだ。この前、中年が私にはスカートが似合うって言ってたし、ここしばらく休日にはスカートを着る事にしている。

 椿にーちゃんは単に我が家へ遊びに来るだけで、これから行われるのは三者面談やら就職面接、ましてやお見合いでも無いのだが。今日の予定を昨夜の夕食時に語ったところ、中年は昨日からソワソワしっぱなしだ。会うのが楽しみで仕方がなくて、夕べは眠れなかった、などと朝一番に寝不足の赤い目をしてのたまった中年に、私がついつい生ぬるい眼差しを向けてしまったのも、我ながら仕方のない反応だと思う。遠足前夜の小学生か。


「お父さん、はいお茶」

「ありがとう美鈴。お、お父さん頑張るからね!」


 見かねて食前の茶を出してやると、お父さんは瞳をキラリと輝かせ、気力満面に力強く決意を表明する。

 ……うん、だから中年よ。単なる休日の映画DVD鑑賞約束で、具体的に何をどう頑張るのか、その事例と必要性が私にはまったく読めんぞ。夕べ一睡もしていないから、映画鑑賞途中で爆睡に突入しない努力だとでも言うのだろうか? それならばうん、確かに必需だな。


 中年の事は生ぬるい眼差しで見やり、私は構わず今日のデザートとして準備している、レアチーズケーキに添えるホイップクリームを泡立てていると、テーブルの上に放置しておいたスマホが着信を告げた。椿にーちゃん専用に設定しておいた、ベートーベンのロマンス第一番。


「はい、もしもし。どうしたのー?」

「あミィちゃん。ちょっと確認。お勧めの新作が二枚あって、どっち観たいかなー? って」


 ボウルと電動泡立て器を一旦置き、手を洗ってからスマホに出ると、現在ご近所に建つレンタルショップの棚の前らしき椿にーちゃんは、最終的な映画選択をこちらに委ねるべく、わざわざ電話してきたらしい。昨夜、大ざっぱにお互いの映画の好みは語らったのだが、多分その二作品とも、捨てがたいものなのだろう。


「アクションあり近未来SFものと、史実にある大事件に絡めたヒストリカル恋愛もの。俺、前からどっちも気になってたんだよね」

「うん、どっちも面白そうだねー。ちょっと待ってて」


 どちらも選びかねた私は通話口を軽く手で塞ぐと、興味津々の眼差しで耳をそばだてている中年に話を振った。


「お父さん。椿センセーお勧めの映画が二本あって、どっちが良いかって。SFと恋愛、どっちの映画が良い?」

「SFと、れ、れれれ恋愛!?」


 鑑賞予定者三人目に確認すると、中年は椅子に座ったままぴょんっと飛び跳ねた。器用だな。


「うん。SFかれれれ恋愛」

「い、石動さんがお父さんに、どちらが良いかって!?」

「うん」


 いや、強く念押しされても、単に除け者にしたら父が拗ねるかな、という私の予防策なのだが。


「ど、どちらかと言うと、れ、れれれ恋愛かな!」

「はいはい、れれれ恋愛映画ね」


 私が先ほどから大真面目に、中年のどもった『れれれ』を繰り返して復唱していると言うのに、中年はぶんぶんと頭を大きく縦に振るのみ。私は通話口の手を退けた。


「もしもし? お待たせしました」

「お父様はなんて?」


 私の行動パターンを把握しているのか、椿にーちゃんは晴れやかに尋ねてくる。


「あのね、SFよりもれれれ恋愛映画の方が良いって」

「……『れれれ』?」

「『れれれ』」


 やはり、そのままスルーはせずに電話の向こうで小さく吹き出す椿にーちゃん。中年の言葉通りに伝えてやれば、今更になって両手をぶんぶん振り、「美鈴、お父さんのイメージが!?」と、大慌てしだす中年。お主、先ほどの最終確認時には大きく頷いていただろうに。


「分かった。『れれれ恋愛映画』を借りて行くね」

「うん、お願いしまーす」


 イメージ云々の文句が聞こえてきたのか、急に話を振られた我が父の様子を想像したらしく、椿にーちゃんは楽しげに了承し、電話を終えた。


「美鈴、石動さんがお父さんに幻滅したりしたら、どうしてくれるんだい……?」


 電話を終えてスマホをテーブルに置き、もう一度手を洗っている私の背に、どんよりとした気鬱を湛えた父の恨みがましげな声が掛けられた。


「いやあ、むしろ『美鈴ちゃんのお父さんって、本当に楽しくて良い方!』って反応だったよ。椿センセーは、お父さんのそういう気さくなトコに好感を持ってるっぽい」

「そうか、そうなんだね!」


 泡立て終わったクリームが入ったボウルを、氷水の入ったボウルから上げる私の背後で、立ち直った中年が私の言葉を巨大トランポリンに変え、力強く飛び乗り大空へと舞い上がった。着地点がズレたら大惨事確実だが、好きに飛び跳ねさせておこう。


 すっかり上機嫌な中年は、更にソワソワウキウキしながら腕時計を確認し、


「まだかなまだかな、いや、こちらからレンタルショップにまでお出迎えに行った方が……!」


 などと、お迎え作戦を考え始めている。お父さん、方針が決まったら動くの早い椿にーちゃんの事だから、今頃はもう、とっくにDVD借りて店を出てこっちに向かってるはずだよ……

 今出たら、確実にすれ違うなー、などと内心呆れつつ、ラップをかけて冷蔵庫にて冷やしているレアチーズケーキの型の横にホイップクリームのボウルをしまっていると、お父さんの寝室の方から聞き覚えのある音が聞こえてきた。あれは、お父さんの会社からの音だ。

 振り返ると、父は愕然とした表情のまま、椅子の上で固まっている。


「お父さん、鳴ってるよ?」

「……い、イヤだぁぁぁぁ!?」


 テキパキと見栄張り用お弁当箱を用意しながら私が促すと、中年は頭を抱えてダダをこね始めた。それでも鳴り止まない携帯の着信音。

 食べる暇があるかは不明だが、父の分の昼食を弁当箱に詰め込む私の背後で、半泣きの父が椅子から立ち上がると寝室に駆け込み、ようやく音楽が止まった。

 見栄張りお弁当箱を包み、マグにお茶を注いでいると、我が父は幽鬼のようにフラフラとした足取りでキッチンダイニングに姿を現した。キチンと整えていた髪が、微妙に乱れている。


「美鈴……トラブルがあって、お父さん、急遽出掛けなくちゃならなくなった……」

「そう。はいこれ、お弁当」

「ありがとう、夜には帰ってくるから。

石動さんには、石動さんにはっ!」


 通勤用のカバンを抱えている父に、そっとお昼ご飯の入った茶巾袋を差し出すと、それを受け取りながらガシッと私の両手を掴む。涙目なのに、滅茶苦茶座っていた。


「今日ご一緒出来なくなった事、お父さんはスッゴい残念で無念で、次の機会を心底から楽しみにしてるって、しっかりお伝えしておいてね!」

「う、うん」


 会うのが楽しみだ、というのは真実だろうが、いくらなんでも、中年がこうまで椿にーちゃんに会いたくてたまらん、と考え痛切に熱望する理由が分からんし、別にありはしないだろう。

 ……そうか、つまりはここまで力説するほど、中年は『れれれ恋愛映画』が観たくて渇望していたと、そういう事なのか。うーん、意外な一面を知った。そうだとすると、中年が恋愛映画にああも過剰反応を示したのにも、すんなりと納得がいく。

 娘に知られるのは恥ずかしいって考えて、自分の嗜好を全面的にオープンには出来なかったのかな? これからは、さり気なくテレビ放映される恋愛映画を録画予約したり、新作のチェックをしておこう。


 半泣きの中年は、いつかと同じようにスーツ姿だった事が功を奏し、通勤用のカバンを手にしただけですぐに出掛けられるようだ。……二度ある事は三度あると言うし、休日にスーツを着ていると会社から呼び出される呪いを懸念して、また似たような機会があったら、着替えるよう助言しておこう。私は出来る娘なのだ。


「行って来ます!」

「はーい、行ってらっしゃい」


 ガチャガチャと玄関の鍵を開き、飛び出す中年を見送りに玄関を出ると、丁度通りの向こうからレンタルショップの袋を手に、弾む足取りでやって来る椿にーちゃんの姿が見えた。七分袖シャツの下に爽やかな印象のカットソー、ペンダントがアクセント。……多分うちの中年があれを真似しても、全体的に野暮ったい印象しか受けまい。

 うーん、今日も無駄にイカスあんちゃんぶりだな。決めているファッションのせいか、周囲の空気まで華やいで見えるぞ。

 たたっと駆け足で駆け寄ってきて、椿にーちゃんは中年に明るい笑顔を向けた。


「こんにちは!」

「はい、こんにちは」

「あれ、お出掛けですか?」


 椿にーちゃんに挨拶を返しつつ、自宅前の住宅路を全力で駆けてゆく中年。よほど仕事の事に気を取られ急いでいるのだろう、あれほど椿にーちゃん相手に挨拶する事に意気込みを見せていたのに、『こんにちは』しか言わずにサッサとすれ違い、脇目も振らずに駆け抜けて行ってしまう。

 椿にーちゃんは全力疾走をしている中年の邪魔にならないよう、咄嗟に脇に寄りつつ小首を傾げて不思議そうに呟くので、私が説明の為に口を開いた。


「ついさっき、急に会社から呼び出しが掛かったの」

「お忙しいんだね」

「うん、休日呼び出しなんて、滅多にないんだけどね」


 大急ぎで駅に向かう中年の背中が、曲がり角の向こうへ消えて見えなくなるまで並んで見送ってから、私は椿にーちゃんを促した。


「にーちゃん、来てくれてありがと。

お昼の用意してあるから、先にご飯にしよ?」

「ありがとう。お邪魔しま~す」


 玄関扉を開けて先に椿にーちゃんを通し、玄関をキチンと施錠する。椿にーちゃん、結構口うるさいと言うか、心配性だからな。


 椿にーちゃんにはキッチンダイニングのテーブルに着いてもらい、中年が飲んでいたお茶のカップは下げて、お昼ご飯を皿に盛り付けて供する。今日のメニューは、野菜とチーズたっぷりのクラブハウスサンド、コンソメスープにポテトサラダ。サンドの食パンは一度軽く焼いてから挟んだので、チーズがいい感じにとろけている。


「わ、美味しそう。頂きます」

「どうぞ、たくさん召し上がれ」


 野菜を避けたがる中年の為にたっぷり野菜を混ぜて作っておいたので、何気に量が多い。椿にーちゃんは嬉しそうにスプーンでスープを口に運び、ポテトサラダを食べた。


「やっぱり、ミィちゃんの作るご飯はほっとするなあ」

「そう?」

「うん。毎日毎食作ってもらいたいぐらい」


 向かい合わせでテーブルに着いている椿にーちゃんは、ポテトサラダを飲み込んでしみじみと呟く。私は椿にーちゃんの方にブラックペッパーの小瓶を差し出し、掛けると美味いと勧めつつ。

 ……そんなに私が作るご飯が口に合うとは、椿にーちゃんはもしや、将来的には私を家政婦や料理人として雇いたいとか考えてるのかなー? と、何となく思った。家庭の味ってやつだな。


「それにしても、今日はようやくミィちゃんのお父様ときちんとお会いして、ご挨拶できると思ってたのに……お仕事だなんて残念だな」


 サンドを一口かじり、椿にーちゃんは眉を下げた。


「ねえ、ミィちゃん。

こんなに何回も会う機会が潰れるだなんて、俺ってもしかして、実はお父様からちょっと嫌われてたり、する?」

「あー、それは無い無い」


 しゅーんと落ち込み悲しげに問うてくる椿にーちゃんに、私は軽く片手を振った。


「うちのお父さん、椿にーちゃんに会うのが楽しみ過ぎて、昨日から興奮して眠れないでいたぐらいだよ? 間違いなく、椿にーちゃんはとっても好かれてるよ」

「そうなの? それなら良かった」


 安心したように微笑む椿にーちゃんは、笑うと大輪の花のようだ。むーん。椿にーちゃん、今日はやけに機嫌が良いみたいだな。さっきから無駄に空気がキラキラして見えるぞ。

 徹夜のまま猛烈ダッシュをしていった中年へ、一抹の不安が脳裏をよぎったが、それは置いといて。


「デザートにレアチーズケーキ作っておいたんだけど、まだ固まってないと思う。

先に映画観ちゃう?」

「うん、そうしよう」


 昼食を終えて使い終わった食器をシンクに運び、お茶を頂きながら尋ねると同意された。有り難くDVDをデッキにセットし、椿にーちゃんを振り返った。


「そう言えば、うちにはテレビがこの一台しかないんだけど、そこのテーブルに着いたまま観る?

ごろ寝用のマットとかクッションもあるよ」

「じゃあお言葉に甘えて、ごろ寝でくつろがせてもらおうかな」

「うん、持ってくる」


 テーブルについたままだと、テレビを眺める姿勢が上半身を斜めに捻る形になるからね。短時間ならばともかく、二時間もそんな姿勢でいたら疲れそうだ。

 椅子兼用踏み台として、部屋の片隅に寄せて置いてある物入れから、フローリングの床に敷くごろ寝用の薄いマットとタオルケットを取り出し、上に乗せておいたクッションを掴む。


 テーブルを少し下げてテレビ前の空間を広げ、マットを敷いて椿にーちゃんにタオルケットとクッションを渡す。トレーに二人分のアイスティーを乗せて床に置き、テレビの前に置いたクッションの上に腰を下ろした。


「……ねえミィちゃん。膝枕してもらっても良い?」

「え、逆に高くて首痛くならない?」


 マットの上に座った椿にーちゃんは、枕代わりに渡したフカフカクッションを横に置いて、薄いクッションに座っている私の膝を所望してきた。床から私の膝上の高低は、薄いとはいえクッションの厚み分上がっており、枕にするには相応しくない高さだと思うのだが。


「そんなのは良いの! 是非、膝枕を!」

「別に良いけど?」


 リモコンでDVD再生ボタンを押しつつ、片手で膝をぽんぽんと叩くと、椿にーちゃんは満面の笑顔で私の膝に頭を乗っけた。しばし、安定姿勢を探るように膝の上でゴソゴソと動く。


「……至福」

「私には膝枕の良さがさっぱり分からないけど、気に入ってくれたなら良かったよ」


 うっとりと呟く椿にーちゃんの頭はそれほど重たくはない。実家を出てそれなりに問題なく一人で暮らしている椿にーちゃんにも、たまには無性に誰かに甘えたくなる事もある、多感なお年頃なのだろう。サラサラの髪の毛を梳きながら、私はテレビに視線を向けた。


 椿にーちゃんが借りてきたDVDは、数百年前のヨーロッパの王族の、恋と陰謀劇を映画化したものだ。全てが史実では無いが、実際に起きた事件や出来事を絡めているらしい。……王族が色恋沙汰を優先しても良いのだろうか? とは思ったが、よく考えたら現代でも恋愛結婚の王族とかそう珍しくは無いな。


 映画の中盤、華やかな舞踏会が開かれている会場の片隅、ホールからは見えにくいバルコニーで、分厚いカーテンの影に隠れるようにして人目を忍び、そっと口付けを交わす身分違いの王女と騎士。

 ヒーローとヒロインが密やかに想いを通じ合わせ、ここが中盤の見所なのだろうが、こういった甘い場面を誰かと一緒に見るのは、気恥ずかしさが先に立って、内心もだもだと身悶えしてしまう。落ち着かないー!

 私の照れくさい気持ちなどお見通しなのか、膝の上で椿にーちゃんがクスリと笑みを零した。


「ミィちゃん、まだ映画は途中だけど、俺、ケーキが食べたいな」

「う、うん。用意するね」


 私の膝の上から身を起こす椿にーちゃんの、おねだりを装った気配りに飛び付いて、私はDVDを一時停止させて冷蔵庫に突進した。

 何気なく自分のほっぺたに手をやると、普段よりも熱くなっている。……恋愛映画を観ていたら、ドキドキし過ぎてこの場から逃げ出したくなるだとか、私、耐性無さ過ぎではないだろうか。

 チラッと振り向いて椿にーちゃんの様子を確認すると、目が合った椿にーちゃんは、何の気負いも無く平常心のままらしく、どうかした? と言いたげに小首を傾げて微笑みかけてくる。余計に気恥ずかしさが増した。


 冷やし固まったケーキを切り分け、皿に乗っけて上からベリージャムをかけ、事前にホイップしておいたクリームを添える。


「わ、本格的。美味しそうだね」

「レアチーズケーキは冷やすだけだから、けっこう簡単に出来るんだ。美味しいしね」

「あ、ミィちゃん。こっちに座りなよ」


 テーブルに着き、ケーキを前に瞳を輝かせる椿にーちゃん。新しく淹れたお茶を用意し、対面の席に座ろうとしたら、椿にーちゃんはお隣の椅子を引いて、私にそちらに座るようにと手招きしてきた。

 どうかしたのかな? と、疑問に思いつつも向かい側ではなく隣の椅子に腰掛けると、椿にーちゃんはニコニコしながらフォークをケーキに突き刺し、「はい、あーん」と差し出してきた。

 ……ああ、向かい側だとちょっと遠くて、腕を思いっきり伸ばさないといけないもんね。

 このにーちゃん、本当に「あーん」をして食べさせるの好きだな、と人様の趣味に呆れた感覚を覚えながら、私はパカッと口を開く。


「美味しい?」

「うん。いつも通り美味い」


 ねだられる前に私もケーキを椿にーちゃんの口元に差し出してやると、まったく躊躇することなくパクリと口にし、椿にーちゃんは目を細める。


「うん、ジャムもクリームもチーズケーキに合ってて美味しいね」


 お互いに交互に食べさせ合っていると時間が掛かるので、椿にーちゃんに差し出される前に自分の皿のケーキをモグモグと食べ。最後の一口を運んだ私の肩を、美味しそうにレアチーズケーキを綺麗に平らげた椿にーちゃんがちょんちょん、と軽くつついてきた。


「ミィちゃん、ミィちゃん」

「なあに、にーちゃん?」

「唇の端っこにケーキの欠片が引っ付いてる」

「え?」


 ありゃ、また綺麗に食べられずに口元を汚してしまったか、と、唇を舐めてみるが、それらしき物が舌に当たらない。


「そっちじゃなくて、こっち」


 椿にーちゃんは笑いながら私の顎に手をやって軽く持ち上げると、顔を近付けて私の唇の端っこに唇を寄せてペロリと舐めた。


「んー、甘くて美味し。ごちそうさま」


 満足げな椿にーちゃんは、レアチーズケーキの出来を褒めるように私の頭を撫でてくる。

 ……これは私、流石に怒るべきなのか? 何だかスキンシップがどんどん親密なものになっていくのだが、自分でも不思議なほどに、椿にーちゃんに触られても全く嫌悪感を抱かない。

 気が付いたらあんまりにも椿にーちゃんの顔が近くて、有り得ない事だと言うのに一瞬、ちゅーされるのかと思ってびっくりして固まってしまったが、全然嫌ではなかったという事は……格好良いとか自分に好意的な男性なら簡単に流され靡いてしまうような、とんでもなく尻軽なタイプだという事なのか。微妙過ぎる。


「ミィちゃんどうしたの?

映画、続き観よ?」

「う、うん」


 内心で落ち込んでいる私の頬を撫で、椿にーちゃんは実に呑気に促してくる。もとはと言えば、椿にーちゃんのスキンシップが過剰なのが悪い。くそぅ、ここは日本だぞ。ベタベタしないのが普通だろうに。


「さっきまでミィちゃんが枕になってくれてたから、今度は俺が椅子になってあげる」


 テレビの前に胡座をかいた椿にーちゃんは、ここにおいでと膝を叩くが、私はぷいと視線を背けた。今日から私は身持ちを堅く保つのだ。猫可愛がり椿にーちゃんの過剰スキンシップになんぞ、負けてたまるか。

 目指せ、結婚式の誓いのキスがファーストキスなガチガチにお堅い鉄壁女だ。気安いチャラ男と交流を持とうが、私は貞節を重んじ貫く!


「隣に座るから良い」


 間に半身分ぐらい空間を空けて座ったら、椿にーちゃんは不思議そうに瞬きをしてから距離を詰めてきて、肩に腕を回して引き寄せ、私の頭を自分の肩に乗せさせる。私の頭に置かれた手が、髪を梳くように撫でていく。


「遠慮しなくて良いのに。ミィちゃんは恥ずかしがり屋だな」


 にじり寄る動きから腕を回して抱き寄せ頭を撫でるまで、実にナチュラルかつ素早いな!

 私に嫌がられている、とは全く思いもしていないのだろう。まあ実際、私は椿にーちゃんのスキンシップに嫌悪しているのではなく、気恥ずかしいという気持ちの方が強く……いかん。私はもう、取り返しがつかないところまで、ふしだらな女に堕ちているのかもしれん。


 肩を抱かれて共に恋愛映画を鑑賞する、という、これはまるでイチャつきたがるバカップルの行いじゃないかと、椿にーちゃんの頭は大丈夫なのかと、真剣に問いただしたくなるような時間を経て、我々は映画の続きを観終わった。うん、映画はハッピーエンドで終わって良かったよ……



 始終ご機嫌な椿にーちゃんと、しばし映画の感想を語り合い、ついでに英語の勉強を見てもらってから夕食をご馳走し、遅くならないうちに帰ってもらった。

 例によって椿にーちゃんは、うちの中年が帰ってくるまではと留守番をしたがったが、椿にーちゃんとようやく対面叶ってハイテンションになった中年を宥める未来図を想像すると、非常に疲れる。椿にーちゃん本人には、きっとたいして深い意味はなさそうな過剰スキンシップにこちらは翻弄され、妙にドキドキさせられた後で、そんな場面に対応する気力が湧かん。


 お風呂に入ってから、風邪をひいてご迷惑をかけた皆様方にお詫びとお礼を兼ねて贈るお菓子作りを始める。

 昼間淹れた紅茶の茶葉を砕いて生地に混ぜ込んだクッキーと、チョコチップクッキーを準備していると、ようやく中年が帰宅した。時計を確認すると、九時半を過ぎている。


「お父さんお帰り、今日は大変だったね」

「ただいま、美鈴……ううっ、こんな時間だもの、石動さんはもう帰宅されたよね……」


 キッチンダイニングにやってくるなり、テーブルに突っ伏して見栄張り弁当箱を置く中年。何だ、そんなに椿にーちゃんに会いたかったのか。仕事のトラブル対応できりきり舞いしてきた中年に、悪い事をしてしまった気分だ。


「そう言えば美鈴!」


 見栄張り弁当箱を洗おうと手に取った私の眼前で、突如として中年がガバッと身を起こして叫んだ。


「な、何?」

「きょ、今日お父さんが出掛ける時に、溌剌に声を掛けてきた、えっと……」

「うん? 溌剌だったっけ?

いつも通りじゃなかった?」


 何やら気まずげに口ごもる中年。そんなに椿にーちゃんとじっくりお喋りしたかったのか。


「まあ、いつも屈託無くて愛想良いよね、あのにーちゃんは。

お父さんにも、あの人の十分の一ぐらいでも良いから、イカしたファッションセンスを身に着けてはくれんものかと、常々感心してる」

「そ、そう。うう、美鈴、さり気に酷くないかい?」


 シンクで見栄張り弁当箱を洗いながら、心密かに思っていた願望を垂れ流すと、中年は今にも泣き出しそうな声で呻いた。


「……それで、彼ってご近所さんだっけ?」

「は? 今更何言ってるの、お父さん?」


 椿にーちゃんがどこに住んでるのかって、何度か話したはずだけどなあ。そう思いながら振り向くと、中年は慌てたようにコクコクと頷き、大急ぎでまくし立てた。


「い、イヤだなあ美鈴! ちょ、ちょっと確認しただけじゃないか!」

「……? 変なお父さん。

疲れてるなら、ゆっくりお風呂につかった方が良いよ?」

「うん、そうする……」


 物忘れボケ疑惑から逃れるように、中年はそそくさと着替えに寝室へと引っ込む。

 キッチンからは見えなくなった父の背中に向かって、私は声を掛けた。


「そうそう、その噂の椿センセーが、お父さんとちゃんとお話出来なくて、すっごい残念がってたよ」


 私の言葉に反応し、廊下をバタバタ! と慌ただしく駆けてくる足音が響き。着替え途中だったのか、顔だけ出入り口から覗かせた。


「美鈴、それ本当?」

「うん、ホントホント」

「いやあ、石動さんがそんなにお父さんに会いたいと思って下さっていただなんて、照れるなあ!」


 めっちゃ嬉しそうに照れ笑いを浮かべ、頭をかく中年。

 私の生ぬるい眼差しを全く意に介さず、ご機嫌絶好調に半裸? の中年は、多分スキップをしながら廊下を戻ろうとして、壁の向こう側にてズベッ! と転んだ物音が響いてきた。

 ……もしかして、ズボンを半脱ぎのままこっちに顔出して、スキップのステップで裾ふんずけて転んだの?

 中年のなけなしの名誉を死守する為、私は気が付いていないフリをする事にした。



 翌日の日曜日、私は中年に見送られて午前中から駅前繁華街へお買い物に出掛けた。

 プレゼントするクッキーをラッピングする袋とリボンが少ないので、新しく購入する為だ。

 じっくりと見比べて納得のいくお手頃の品を買い求め、午後には待ち合わせて椿にーちゃんとランチを食べ、ウィンドウショッピングをした。

 椿にーちゃんにも贈る予定なので、午前中に買い求めたラッピング用品を見られないようにコソコソと隠したが、目敏い椿にーちゃんには見抜かれた感が無くもない。


 帰りにはスーパーに寄って食料品を買い込み、日が暮れる前に、と夕方には自宅の玄関先まで送ってもらった。

 椿にーちゃんはこの後、ツレさん方と飲みに行く約束らしい。相変わらず仲良いな。


「荷物運んでくれてありがとう、にーちゃん」

「これぐらい当然だよ。それじゃあまたね、ミィちゃん」

「うん」


 私の頭を撫でてから立ち去る椿にーちゃんの背中に手を振り、見えなくなるまで見送ってから玄関のドアを開くと、玄関先に中年が座り込んでいた。予想外の事にギョッとして、私は思わず飛び退いてしまう。


「……お父さん、そんなところで何やってるの?」

「彼に送ってもらったの? 美鈴」


 うちの中年は何を言い出してるのかな? つーか、もしやドアスコープから様子を窺っていたのか?

 もしかして、椿にーちゃんと正式に面識を得るべく、紹介してもらうタイミングを待ち侘びて、中年は私の帰宅に気が付くなり玄関先で体育座り待機していたのか?

 昨日も会いたがってたし、椿にーちゃんには家へ上がってもらうよう、お誘いした方が良かったのかもしれん。お夕飯に誘おうかな? とチラッと思って帰り道にこの後の予定を確認したら、ツレさん方との約束があるって話されたから、あんまり引き留めるのも悪いかなって遠慮しちゃったんだよね。今度の機会には、お礼にお茶だそう。


「え? うん。お買い物したから荷物重いし、帰り道は薄暗くて危ないから、って」


 首を捻りながら答えると、中年は玄関前に置いておいたお買い物バッグを憤然と持ち上げ、家に運び込んだ。


「美鈴の荷物持ちだって一人歩き防止だって、お父さんがするのに!

何でお父さんを呼んでくれなかったの!?」

「……えーと、ごめんなさい?

たまの休みだし、お父さんも疲れてるかと思って」

「呼んでくれたら、飛んでくのにぃぃぃっ!」


 どうやらうちの中年は、私とお買い物をしたかったようだ。そういや、この間も似たような事を言ってたよーな気がするな。

 しかし、椿にーちゃん相手に対抗心を燃やしてるっぽい中年は、妙に笑いを誘う。


「うん、次はお父さんが買い出しに行ってね?」

「美波さん、美波さん。最近何だか娘が冷たいです……」


 両手にお買い物バッグを提げ、廊下を歩みながら天井を仰ぎ、中年は亡き妻へ向けて呻く。家の造り的に、この廊下の真上は私の部屋であって、お母さんはそこには居ないと思う。



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