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綺麗なお兄さんは好きですか? がキャッチコピーの年上男性を籠絡していく乙女ゲーの世界で暮らしてるわたし。⑥

 

 昨日は夢のような一日だった……

 今思い出しても、恥ずかしくてのたうち回りたくなるような勘違いをしたりだとか、気恥ずかしいお言葉を頂戴したりもしたけれど……概ね幸せメモリーに収められた。

 朝、目が覚めてわたしが一番にした事は、「柴田先生とお付き合いを始めたのって、夢じゃないよね?」と、自分の記憶をちょっぴり疑って不安になり、スマホを確認した事だ。昨夜の電話の着信記録もちゃんとあるし、朝早くに柴田先生からのおはようメールも届いていて、わたしは思わずにまにまと頬が緩んでしまう。


 早速メールの返信を出し、身支度を整えて階下に降り、まずはリビングの様子確認。よしよし、流石のお兄ちゃんも、連続徹夜は控えたみたい。

 わたしは足取りも軽くキッチンに向かい、お弁当と朝食の用意を始める。今日は朝一番の講義が入っていないから、ゆっくり出来て助かるな。柴田先生にお渡しするお弁当、凝れるだけ凝ろう!


「皐月、おはよう」


 柴田先生は美鈴ちゃんのだし巻き玉子を食べてたし、わたしの精一杯のだし巻きで巻き返しだ! と、燃えに燃えて玉子とフライパンに向き合っていたわたしの背後に、お兄ちゃんがのっそりと姿を現した。


「おはよう、お兄ちゃん。今日も悪い天気だね」

「……雨天を表現するのに、晴れ渡った天気と逆の言い回しを選んだつもりかもしれないが、意味が通じにくいから使用は控えた方が良いぞ、皐月」


 寝癖でボサボサな頭に、ヨレヨレパジャマのままで足下にはスリッパ、オマケに髭も剃っていない『変身前』のお姿なお兄ちゃんは、寝起きでもツッコミはいつも通り過ぎてつまらない。むー、もっとこう、ハイテンションなお兄ちゃんだとか、感極まったお兄ちゃん、涙目お兄ちゃんといった普段と異なるバリエーションを見せてくれないかしら。


「今日の朝飯は何だ?」

「えっとね、昨日の残りの……」


 朝食を共にする気でいてくれているらしいお兄ちゃんが、キッチンの様子を見渡しながら献立を尋ねてくるので、わたしは焼き上げただし巻き玉子をフライパンからお皿に移しつつ答えようとしたのだが、お兄ちゃんはズザザッ! と後退った。


「……皐月、俺は当分、カレーは遠慮しておく」


 心なしか表情が引きつっている。うん。これはこれで、レアな顔だ。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん。昨夜のカレーはお弁当のおかずに使って、ちゃんと朝食用のおかずを用意してあるから」


 おかずの味付けに、昨夜の残りのカレーを和えたんだよね。いくら何でも、辛いものが不得意なお兄ちゃんに二日連続で食べさせたりはしないよ。

 でも。とっても分かりやすく、目に見えて安心した表情を浮かべられると、それはそれでモヤモヤするなあ。そんな態度取ってると、また来月辺りで激辛カレー作ってやるんだからね、お兄ちゃん。


 お味噌汁と昨夜炊いておいたご飯、にんじんとほうれん草のゴマ和え、ちくわにあり合わせの野菜を詰めて焼いたものをテーブルに並べ、お兄ちゃんと向かい合ってゆっくり朝食をとり終え、お兄ちゃんは新聞受けに朝刊を取りに行き、わたしは朝食の後片付けをしていた時だった。


「皐月、今、玄関先で雅春さんと会ったんだが……」


 少しばかり歯切れ悪くお兄ちゃんが呼び掛けてくるので、何気なくそちらを振り向くと……どことなく見覚えのある茶巾包みを持ち上げて、眼前に翳しているお兄ちゃんの姿が。

 あの包みの柄は我が家の物じゃなくて、確か……椿先輩の為に美鈴ちゃんが用意したお弁当を入れるのに使用していた包みじゃなかった?

 つまり、朝刊を取りに玄関先に出たら、お兄ちゃんは美鈴ちゃんのお父様からお弁当を渡された、ってことよね。いったいいつの間に、お兄ちゃんと雅春おじ様はそんなに仲が良くなったの。


「……何で、おじ様がお兄ちゃんにお弁当を?」

「いや、俺に作ってくれた品じゃないんだ」


 わたしが疑惑の眼差しを向けると、お兄ちゃんはとっても不愉快そうに眉間に縦皺を寄せて、そう答えた。


「雅春さんがみぇはりー? と呼んでいたこのお弁当は、美鈴さんが石動君の為に用意した物らしい」

「ああ、わたし、以前にこの包みのお弁当を食べてる椿先輩を見た事あるよ」

「……それで、美鈴さんは既に登校したらしいのだが、雅春さんがふとテーブルの上を見たら、この包みをがポツンと置き去りにされていた、と」


 美鈴ちゃんは今日、初めて椿先輩へお弁当の差し入れをする訳じゃない、と聞いたお兄ちゃんは眉間の皺を深め、低い声音で続けた。


「雅春さんも、出勤時間の間際に美鈴さんがお弁当を忘れて行った事に気が付いて慌てていたので、俺が代わりに届けると申し出た」

「そうだったんだ……美鈴ちゃんもうっかりさんだね」

「ああ。そこで俺もうっかりを発動させて、このお弁当を石動君の手元へ届け忘れよう、という実に素晴らしい名案が、たった今閃いたところなんだが」


 人間なんだから、物忘れをする事だってあるよねと、わたしが美鈴ちゃんの微笑ましい日常に頬を緩めると、お兄ちゃんは真顔で世迷い事をぽろっと零したので、わたしは両手を腰に当てて「お兄ちゃん!?」と、語気を強めて睨み付けた。


「……軽い冗談だ」

「お兄ちゃんが視線を逸らして泳がせる表情を浮かべてる時は、大抵ばつが悪いとか気まずい時よね。嘉月お兄ちゃんの妹歴、十九年を舐めないでよ」

「……」


 まったくもう……都合が悪くなると、すぐだんまりなんだから。


「お兄ちゃん、ほらそのお弁当わたしに貸して。

どうせわたしもこれから大学に向かうし、わたしから椿先輩に届けておくから」

「……それは最悪のパターンなんじゃないか?」


 片手を差し出しお弁当を預かろうとすると、お兄ちゃんはブツブツと不満げに何かを呟いていたが、最終的にわたしが預かる事に成功した。朝早くにもかかわらず、担当さんから電話がきて、緊急のお仕事が回ってきた為だ。

 翻訳者って、何気に多忙よね。わたしもお母さんの方に引き取られていたら、小学生の頃からアメリカの学校に通ってて、今頃英語ペラペラだったのに……いやいや。そうすると多分、向こうで再婚したお母さんのもとで同居を願われて、日本に戻るよりもアメリカの大学への進学を勧められてるね。


 それにしてもお兄ちゃん。忘れ物のお届けを、わざと失念したフリをしてちょっと意地悪したいだとか、そんなに椿先輩が気に食わないの。いつもボーっとしているお兄ちゃんにも、どうもいけ好かない相手とかいるもんなんだねえ。

 無念そうに書斎に引っ込むお兄ちゃんの背中を見送って、わたしも大学に向かった。

 あ。ひょっとしたら今頃、美鈴ちゃんも椿先輩の分のお弁当をおうちのテーブルの上へ置き忘れた事に気が付いて、青い顔してるかも! 心配いらないよ~ってメール、美鈴ちゃん宛てに出しておこう。


 大学に着くと、二限目の講義に入る前に丁度、一限目の講義を終えて講堂から退出してきた風見先輩の姿を見掛けたので、今日の椿先輩の予定をご存知かどうか確認しようと、わたしは笑顔で駆け寄った。


「おはようございます、風見先輩!」

「あれ、おっはよーサツキちゃん」


 相変わらず風見先輩は、朝っぱらから何か裏で企んでそうな『ニヤッ』とした笑顔を浮かべるなあ。いや、それを見せるのは本当に一瞬の事で、すぐにキラキラしい上に無駄に華やかな笑みを振り撒いてくるんだけど。


「二限目ここなの?」

「はい。ここで風見先輩にお会い出来て、丁度良かったです」


 首の角度を僅かに傾け、サラリと零れた髪の毛をついっと耳にかける一連の動作は様になっていて、背後から女の子の声が……ううっ、確かに風見先輩って外側は格好いいけど、性格はちょっと意地悪なんだよ? 皆、ちゃんと分かっててキャーキャーはしゃいでるの?


「ふーん。サツキちゃんがオレに何か用事があるだなんて、珍しいね。

あ、デートのお誘いならいつでもオッケーだから、遠慮しないで? でも、オレが一年の時のノートや提出したレポートを写させて、って話だったら、デート一回だけじゃちょーっと割に合わないかなー。キスも付けてくれないとね? 蕩けちゃうやつ」

「いやいやいや。デートもノートもレポートもいりませんからっ」


 朝っ。今はまだ朝です風見先輩っ。そんな不埒な言葉と、意味深な流し目は似つかわしくない時間帯です!

 まったくまったく! この人はすぐこうやって、ふざけてからかってくるんだから。気軽に雑談だって出来ないよ。これでこの人、各方面の成績評価は高いんだから恐ろしい……世の中、多分何かが間違ってるよ。


「デート、ノート、レポートは non.では、embrasser……」

「ノンッ!」


 あんぶらっせー……キスはもっといらないので、全力でいいえと拒否ると、風見先輩は楽しげにくすくすと笑った。こんな冗談で何気に小気味良く韻を踏んでるし、後輩をからかう以外の方向に、その明晰な頭脳を回転させて下さいっ。


「焦り顔も可愛いなあ、サツキちゃんは。ああ、膨れない膨れない。

これ以上弄ったりしないから、さ、遠慮なくこの光先輩に相談を持ち掛けてみなさい」

「……」


 うう、これだから風見先輩相手には相談したくなくなるんだ。ああ、永沢さんがここに居てくれたらなあ。風見先輩と永沢さんの二択なら、迷わず永沢さんを選ぶのに。

 本当に。さっきからこっちのやり取りに注目している女子生徒の皆さんは、こんな意地悪風見先輩のどこが良いのか……顔?


「今日、椿先輩は何限目の講義で大学にお出でになるか、ご存知ありませんか?」

「椿?」


 『わたしは今、不機嫌です』を端的に示すべく、ぷーっと頬を膨らませたまま尋ねると、風見先輩は瞬いて首を傾げた。


「椿先輩に、差し入れのお弁当をお届けしないといけないんですー」

「サツキちゃんが、椿に弁当を作ってきた!?

うわあの野郎、嫁がいながらサツキちゃんにまで……やっぱり制裁モンか……!」


 驚愕の叫びを上げる風見先輩に、わたしは違う違うと片手を左右に振った。というか風見先輩にとって、美鈴ちゃんは早くも椿先輩のお嫁さん扱いなんだ。……他の女の子の事を指してたりはしないよね?


「わたしが作ったんじゃなくて、お隣の美鈴ちゃんが椿先輩の為に作ったお弁当、置き忘れて登校しちゃったんですよ。わたしは代理の配達人です」

「ミスズちゃん……ああ、ツバキちゃんの嫁さん、サツキちゃんチの隣に住んでるんだっけ」


 風見先輩は合点がいったように、パチッと軽く指を鳴らした。

 あ、良かった。風見先輩の認識してる椿先輩のカノジョって美鈴ちゃんで、別の女の子の事じゃないみたい。


「ツバキちゃんはねー、午前中の講義は一切入れてないよ。急な時間変更でも無い限り」

「そうなんですか?」

「そ。ツバキちゃんを午前中に引っ張り出すのは至難の業。なんせ……おっと、コレはサツキちゃんにはトップシークレット、と」

「はい……?」

「確か今日は午後イチからだったから、昼休みくらいに来るんじゃね?」

「そうなんですね……ありがとうございます」


 何かを口にしかけて指先で自らの唇を軽く押さえ、話を途中で内緒だと切り上げたりもしたが、親切に今日の椿先輩のご予定を教えてくれた。ぺこりと頭を下げてお礼の言葉を口にするわたしに、風見先輩はにこーっと優しい笑みを浮かべた。


「今度はオレの事を知りたい、ってサツキちゃんからおねだりされたいな。

それじゃ、オレはこれからバイトだから、またね」

「はは……バイト頑張って下さい、先輩」


 下げたわたしの頭を、ポンと軽く一撫でした手をひらひらと振りながら、風見先輩は廊下を歩み去って行く。ホントに、後輩をからかう事を趣味にしている節がある風見先輩は、軽い雰囲気やそれが無ければ、良い先輩なんだけどねぇ……



 午前中の講義を無事に乗り切ったわたしは、お昼休みに突入すると早速椿先輩宛てにメールを認めた。内容は簡素に、美鈴ちゃんが作ったお弁当をわたしが預かっているので、椿先輩の現在地を尋ねるものだ。

 メールを送信してから、しばし待つ。


「んー……」

「皐月ちゃんどうしたの? お昼食べないの?」


 スマホと睨めっこして、いつまでも講堂から出ないわたしの様子を訝しみ、同じ講義を受けていた静香ちゃんが不思議そうに声を掛けてきた。


「椿先輩にお届け物があるんだけど、珍しくメールのお返事が来ないんだよね……」

「椿先輩って、筆まめなんだ?」

「うん。午後だと大抵、お返事素早いんだ。今忙しいのかな」

「あ、それならサチかオリエが椿先輩の動向知ってるかも」


 静香ちゃんはスマホを取り出して、サチかオリエに電話を掛け始めた。


「あ、もしもしオリエ?

実はさ、椿先輩が今どこに居るか知りたいんだけど……」


 うーん……いくらあの子達が学内イケメン情報に通じてるからって、いくらなんでも、各人のスケジュールや現在地を詳細に把握なんて、してたりはしないと思うんだけど……


「え? 学食で中條君が奮戦してるのを観戦中?」


 って、あっさり情報が上がってきた!?


「いや、カナちゃんと中條君の攻防じゃなくて、椿先輩が学内のどこに居るか、だってばー」


 何だ。椿先輩が観戦してるって意味じゃないのね。

 ギョッとして静香ちゃんを振り向いたは良いが、ガクッと肩透かしを食らったわたしを、通話を終えた静香ちゃんが申し訳なさそうに振り返ってきた。


「ごめんね皐月ちゃん。サチもオリエも、今日は椿先輩を見掛けていないって」

「うーん、そっか。

それにしても、カナとあっ君がケンカしてるって……大丈夫なのかな」

「え? オリエが言ってたのは、二人がケンカしてるって意味だったの!? ちゅ、仲裁しなきゃ!」


 いやえっと、オリエが具体的になんて表現してたのかは、わたしは直接電話の向こう側の声が聞こえなかったから、分かんないよ。と、止めるヒマもなく。静香ちゃんは荷物をそのままに、慌ただしく講堂を飛び出して行った。


「……行っちゃった」


 わたしはひとまず、静香ちゃんが放置していった筆記具やノートにテキスト、カバンをひと纏めに持つ。中に入れようにも、勝手にカバンを開けるのはやっぱりまずいかな。

 自分と静香ちゃんの忘れ物が無いかを見渡して確認し、学食へ向かったはずの静香ちゃんを追いかけようと出入り口の扉の取っ手に手を伸ばしたら、わたしが握る前に扉はガチャリと開かれた。


「静香、待たせた……あれ、御園」

「泰介君」


 外から講堂の扉を開けたのは、わたしより一学年上の大柄な男子生徒……静香ちゃんの幼馴染みで彼氏な、泰介君だった。そっか、講義が終わっても静香ちゃんがすぐに移動しなかったのは、ここで泰介君と待ち合わせしてたからだったんだ。

 泰介君は講堂の中を見回して、不思議そうに首を捻る。


「御園、迎えに行くまで静香にここで待ってるよう、言い付けといたんだが……知らねえ?」

「うっ、それが……」


 わたしが一連の出来事を話し、静香ちゃんが置き忘れていった荷物を見せると、泰介君は歯軋りして「あのアマ……!」と唸った。

 そして泰介君は、わたしの手から静香ちゃんの荷物を受け取ると、廊下を猛烈な勢いで走り出す。あわわ、廊下を走っちゃ危ないよ泰介君! ただでさえ雨の日はリノリウムの床は悪気なく濡れてる事も多くて、滑りやすいのに!


 あっ君がカナに意地悪していないかも心配だけど、あの勢いだと静香ちゃんが必要以上に泰介君に叱られないかも不安になる。

 わたしも学食に向かって移動していくと、泰介君の叱りつける声やら、カナの苛立った声が聞こえてきた。あれ、皆、もう学食から出てきたのかな。


「静香、お前、荷物置き忘れるのこれで何回目だこのアホウ鳥!」

「貴重品はちゃんと、持ち歩くようにしてるもん」


 廊下の角を曲がると、泰介君が静香ちゃんのカバンを開いて、何かを取り出した所だった。


「……このカバンの中の、これはな~んだ?」

「あ、印鑑入れと通帳。そういや、一昨日からカバンに入れっぱなしに……痛い痛い」


 泰介君が眼前に翳したそれを見て、静香ちゃんは呑気にポンと両手を叩き、泰介君は握った拳を静香ちゃんの頭頂部にゴツンと振り下ろすと、ぐりぐりと押し付けていく。……あのお仕置き、静香ちゃんの頭がハゲないか心配。


「もうっ。合コン誘われたのはあたしなのに、何でアキが勝手に断ってんのよ!?」

「ソレ、ついこの間、あいつ幹事の合コンでハズレ掴まされたヒトの台詞かあ?」

「今度は良い感じの人、居るかもしれないじゃないっ」


 学食前のロビーで地団駄を踏むカナに、あっ君は実にわざとらしく肩を竦めた。


「無限かつ、都合の良い希望的観測な人脈を期待するのは止めとけ」

「そこまで過剰な期待はしてない。でも、アキにあたしの出会いのチャンスを潰されるいわれは無いっ」

「ほー? 男運悪くて可哀想なカナさんの為に、オレの知人と知り合える機会を作ろうかと思ってたんだが……そうか、要らないか」

「別に、体育学部の連中と、これ以上知り合わなくても構わないし」


 あっ君、何だか悪い顔してるよ。カナがこれ以上嫌がらせをされないように、わたしはわざと足音を立ててカナの傍らに立った。


「カナ、あっ君から何かされた?」

「皐月の幼馴染みって、底意地が悪いわよね」


 カナはわたしの腕を取ると、フンっと鼻息も荒くあっ君から顔を背ける。


「あっ君……いくらカナの事が心配だからって、あんまり意地悪したら嫌われるよ?」

「それは誤解だな、皐月。

オレはただ、そこいらへんのうだつの上がらない凡庸な野郎じゃあ、とてもじゃねーけどカナみたいなイイオンナには相応しくない、と思ってるだけ」

「なっ……!?」


 爽やかな笑顔のまま言い切ったあっ君に、カナはカッと頬を朱色に染め上げて、わたしの腕にギューッと抱き付いた。

 ……あっ君、カナの反応を楽しんでない? あっ君の言う『イイオンナ』の意図する正確なところが気になる。それ、一般的な意味とだけ受け取って良いの?


「あ、そうそう、忘れるとこだった」


 わたしの胡乱な眼差しを丸無視して、あっ君は実にわざとらしく片手の人差し指を顎の下に緩くあてがい、幾度も頷いた。

 いつの間にか、泰介君と静香ちゃんもお仕置きが終わり、あっ君の様子を窺っている。


「駅前にあるケーキ屋で期間限定販売のやつ、カナ、この前食ってみたいって言ってたから、買っといた」

「……スペシャルフルーツカスタードタルト?」

「そうそれ」

「えっ、何ソレ美味しそう! はいはいっ、あたしも食べ……」


 パッと表情を輝かせ、話に割り込もうとする静香ちゃんの唇を、すかさず手のひらで塞いで飛び出さないよう捕まえる泰介君。もがもが暴れてるけど、静香ちゃん息出来てる?


「センセーの研究室の冷蔵庫に入れさせてもらってるけど、カナ食う?」

「……食う」


 わー、あっ君がカナをお菓子で釣ってる。カナって、わりと食欲に忠実なとこあるからなあ。さっきまでの、合コンの話をフイにされた苛立ちもどこへやら、タルトへの期待にソワソワし始めたよ。

 わたしの腕を放して、カナはあっ君の手をガシッと両手で掴む。あ。今、一瞬だけどあっ君がビミョーに照れた。すぐに何でもない表情を取り繕ったし、カナもタルトが待つであろう廊下の彼方へ視線を向けてて、見逃してたっぽいけど。


 タルトぉぉぉ! とか、不明瞭な声で羨ましげに唸っていた静香ちゃんのスマホが、ふとメールの到着を告げた。泰介君が渋々と手を放し、静香ちゃんはスマホを確認する。


「あ、サチからだ。えっと……

『椿先輩、学食なう』?」

「あ、椿先輩学食に来たんだ?」


 わたしのスマホには椿先輩からのお返事来ないし、今忙しいのかと思ってたけど。でも、わたし達は学食の前のホールに居たのに、椿先輩はわたし達に気が付かせないまま、いつの間に滑り込まれてたんだろう。

 ちゃんとお届け物のお弁当も持ち歩いて来て良かった。わたしが早速学食に足を向けると、静香ちゃんのスマホがまたもやメールの新着を歌う。


「今度はオリエ?

『椿先輩、噂のかわいこチャンと騎士プレイなう』」

「……石動センパイ、真っ昼間から何やってんだ? あの人も本当によく分からん人だな」


 背後でメールの本文を棒読みする静香ちゃんに、呆れた呟きを漏らす泰介君。

 椿先輩の予測不能な行動に、わたしの方はつんのめりそうになった。……美鈴ちゃんという本命がありながら、騎士プレイって何。本当に大学の学食で何やってるの、椿先輩っ!?


「え、石動センパイの噂の美少女チャン?

何、ホンモノ来てんの?」


 あっ君が興味を引かれたように振り向き、カナはムッと表情をしかめた。


「……何よ、噂の美少女って。アキ、タルト食べるんじゃないの?」

「お、おう。そうだな」


 あーあ。あっ君て、たまに後先考えずに脊髄反射的な言動が出てくるよね。『可愛い女の子が気になる』なんて言うから、せっかく上機嫌だったカナの表情が、また難しいものに戻っちゃったぞ、っと。

 ぷくーっとほっぺたを膨らませ、顔を背けるカナを慌てて宥めすかすあっ君は、自業自得なので置いといて。

 わたしは情報を集めに動いてくれた静香ちゃんにお礼を言ってから、広い学食スペースと繋がる大きな出入り口をくぐった。


 うちの大学の学食飲食スペースは、持ち込んだお弁当を広げる事も許可されているので、雨の日は特に混み合う。

 椿先輩の姿を探して、広大なホールを移動しながらキョロキョロと見回してみると、奥の方の席で、何やらとある方向を眺めてはひそひそ話をしているサチとオリエを見つけた。あの二人なら椿先輩の現在地を知っているだろう。

 確認しようとサチとオリエの座るテーブルに近付きつつ、何気なく友人達の視線の先を追い掛けたわたしは、目当ての探し人が観葉植物に身体が半分隠れるようにして、最も奥まったテーブルに着いている事に気が付いた。

 ああ、サチもオリエも、椿先輩を盗み見ては内緒話で盛り上がってたのね。


 利用者で埋まるテーブルや、観葉植物を軽い足取りで回り込み、椿先輩に近付いたわたしは、予想外のものを目撃する羽目になった。

 えーっと、オリエが知らせてきた『かわいこチャン』が美鈴ちゃんだったのは、うん、まあ椿先輩が浮気してるよりは良いとして。

 チェア引っ付けて座って、美鈴ちゃんを抱き寄せて、頭頂部らへんの髪の毛に軽くちゅーしてるのは、何なのでしょうか、椿先輩。そして美鈴ちゃんも、そんな事されても全く動揺した様子を見せずに、平然としてるし! むしろこう、美鈴ちゃん半眼になって若干鬱陶しそう……ひょっとして、すっかり慣れてる? 頭にちゅーは、あの二人のいつものスキンシップなの?


「やあ、皐月ちゃん」

「こんにちは、椿先輩」


 わたしが近付くと、こちらに気が付いた椿先輩が美鈴ちゃんの肩に回していた腕を離し、にこりと微笑みかけてきた。それは良いんだけど、美鈴ちゃんがちょっと不満そうに唇を尖らせてますよ椿先輩……って、そんな美鈴ちゃんの表情をコッソリ横目で盗み見て、椿先輩めちゃくちゃ嬉しそうに唇の端がきゅっと上がった。


「て言うか、美鈴ちゃん何でここに……?」

「それには色々と、深い訳が……」

「気にしないで、皐月ちゃん。お弁当有り難う」


 忘れ物をし、人に届けてもらう事になった美鈴ちゃんが気にしないように、たいした手間じゃないとわたしはパタパタと片手を振り、むしろ気になっていた点について尋ねてみた。中学校って、お昼休みでも生徒がむやみやたらと校外に出る事を推奨してたりしないよね。

 だけど、椿先輩が美鈴ちゃんの言を遮って『早くお弁当を寄越して、邪魔しないでね』と言わんばかりに両手を差し出してくるので、わたしは用件をサクッと終わらせて退散する事にした。

 ややぎこちなくお弁当のデリバリーを終え、サッサと学食を後にする。

 うーん。『人前でのスキンシップは、控えめにした方が良いですよ』って、椿先輩に忠告しておいた方が良いかも。学食であの二人、めちゃくちゃ注目されてたもの。



 一仕事終えたわたしは、肩の荷が下りた晴れやかな気分で柴田先生の研究室に向かった。

 コンコン、と軽く扉をノックしてみるが、お返事は無い。


「あれ、ちょっと早かったかな?」


 柴田先生は今日も忙しくされていて、相談の結果一緒にお弁当を食べる時刻はお昼休みの時間も半ばを過ぎてから、という事で決定していた。わたしも先生も、午後一番の講義が入ってないから、このぐらいが丁度良いんだ。

 自分と柴田先生の分のお弁当を手に、研究室の出入り口でしばらく待っていると、柴田先生が白衣の裾をひらっと翻しつつ、廊下の角を曲がってやって来るのが見えた。


「柴田先生!」

「あれ、御園さん。……ずいぶん早かったんだね?」

「えへへ……つい」


 わたしが待っていた事を知った柴田先生は、びっくりしたように目を丸くする。もうもう、柴田先生ってば! 恋する乙女は待ちわびて、ついつい勇み足になっちゃったんですよー。


「待たせちゃったみたいでゴメンね? さあどうぞ」


 柴田先生は白衣のポケットから取り出した鍵で研究室のドアを開け、にこっと微笑みわたしを招き入れて下さる。


「お邪魔しまーす」

「狭いところですが、どうぞどうぞ」


 わたしが研究室に足を踏み入れた背後で、柴田先生はドアを閉めてガチャリと鍵をかけ、背後からわたしのお腹に片腕を回してきた。あわわわっ!?


「皐月……」

「ひゃ、ひゃいっ!」


 耳元で名前を囁かれると、まだ恋人という関係に慣れてなくて、ビクッと身体が震えて声もひっくり返ってしまう。耳たぶに柴田先生の唇が当たってるし、何でおもむろに空いてる手を肩に置くんですか?

 先生、わたしにはまだちょっと、こういったイチャイチャスキンシップは早いと思います!


「僕ね、だった今重要な事に思い当たったんだけど……」

「な、何ですか?」

「この部屋、椅子も机も一つしか無いんだ。オマケに机は埋まっちゃってるし。

どうやってお弁当食べようか?」

「……あ」


 い、言われてみれば。

 相変わらず、半分カーテンが引かれた窓と、物がゴチャゴチャと煩雑に置かれている机、回転移動式チェアに、本棚からはみ出して床に堆く積み上げられている書籍の山。わたしが昨日ある程度掃除したので、埃っぽさは無いけれど、狭い室内で床にお弁当を広げるのは躊躇われる。


「えーっと、取り敢えずコレをどかして……」


 柴田先生はわたしの拘束を解くと、机に歩み寄って本の類いを傍らの山にバサバサと移動させ、紙の束や諸々の物品をドササーッと乱雑に机の傍らに落とした。そ、それで良いんですか先生っ?

 ……柴田先生って、案外ずぼらだったんだ。うーん、ただ講義を受講している教え子と准教授の関係では見えなかった、新たな一面だわ。


「よし、ひとまずこれで机にお弁当は置けるね」

「はい、そう、ですね……?」


 何か色々ごっちゃ混ぜに机から落とされたけど、本当に良いのかな? 後、昨日机の上に予備の眼鏡ケースも置いてあるのを見掛けたんだけど、割れてないかちょっと心配。

 白衣のポケットから取り出したウェットティッシュで机の上を拭い、柴田先生はほわーんとした笑顔で手招きしてくるので、わたしは素直にそこへ二人分のお弁当を置いた。


「皐月のお弁当、楽しみだなー」


 嬉しそうに微笑みながら、柴田先生は回転椅子に腰を下ろした。……うん、これはもうしょうがないから、わたしは立ったままお弁当を食べよう。立ち食いそばならぬ、立ち食い弁当だね。

 それにしても、座る場所についてまでは頭が回らなかったなあ。次回には、忘れずに折り畳み式の椅子を持参しよう、っと。

 けれど、お弁当の包みを開くわたしを、柴田先生は不思議そうに見上げてきた。


「あれ? 皐月は座らないの?」

「流石に床へじかに座るのは、ちょっと……」

「何を言ってるんだろうね。違いますよ、ここです、ここ」


 柴田先生は、満面の笑顔で自らの膝を両手で叩く。

 ええと、つまり柴田先生の主張を纏めると……わたしの座る場所が無い→先生は「ここですよ」と自らの膝を叩く→柴田先生の膝にわたしが座ってランチタイム。


「ええっ!?」

「この研究室には椅子が一脚しかありませんが、二人で使えば問題は無いでしょう?」


 むしろ、問題しか無いような気がしますっ、先生っ!


「ほら、遠慮しないで。

皐月が座ってくれないなら……」

「座らないなら?」

「無理やり座らせる」

「わっ!?」


 カラカラとキャスターが動いて、座ったままわたしの背後に素早く回りこんだ柴田先生は、わたしの膝裏に自らの膝を当てるようにしてカックンと折らせ、バランスを崩したわたしは尻餅をつく……というか、柴田先生の膝の上に浅く座っていた。

 先生、何でこんなに狭い室内だというのに、キャスターで移動可能なチェアの動かし方に関して、そんなに熟練した腕をお持ちでいらっしゃるんですか! さては、いつもいつも座ったまま本を手に取ったり室内の端に移動したりと、立って移動するのを面倒がって横着していましたね!?

 わたしが慌てて立ち上がるよりも早く、柴田先生の両腕ががっちりと回されて、深めに腰掛けさせられてしまう。


「ううっ……離して下さい先生……」

「残念。色んな意味で、それは叶えられません。

椅子は一脚しか無いし、皐月は僕の名前を呼んでくれないし、離れたがるし」

「本当に、心臓が保たないので解放して下さい雲雀さん」

「可愛いからダメー。

さあ、お弁当を食べようか」


 柴田先生の楽しそうな横顔を間近に収めて口から心臓が飛び出そうになりつつ、絶対絶対、次は折り畳み式の椅子を持参でお邪魔しよう、と、わたしは深く心に誓った。

 可愛いから駄目って、どういう理屈なんだろう……


「それじゃあいただきます」

「いただきます……」


 ドキドキし過ぎて食欲が消え失せたわたしを膝に乗せたまま、柴田先生は器用に箸を操る。わたしは少しでも邪魔にならないよう、もぞもぞと膝の上で身体の向きを変えて、手凭れに背中を預けるような体勢で斜め向きに座り直す。


「わあ、今日も皐月のお弁当はおかずがたくさん入ってて豪華だね」

「どうぞ、たくさん召し上がって下さい」


 たまにお昼をご一緒していたけど、柴田先生が普段どれぐらい食べるのか大まかな分量しか分からなかったので、今日は多めに詰め込んできた。足りないよりは、余る方が良いよね。わたしは胸がいっぱいで、あんまり食べられそうにないけど……


「……あれ?」


 まず、真っ先にだし巻き玉子をパクッと口に運んだ柴田先生は、キョトンと瞬きをした。

 えっ、もしかして美味しくなかった!?

 慌ててわたしもだし巻き玉子を食べてみるが、うん、我ながら美味しく出来てる。


「雲雀さん、どうかしましたか?」

「少し驚いただけで……」


 柴田先生が、だし巻き玉子を食して『これは美味しい!』ではない反応を見せたので、不安に思って尋ねると、笑顔を見せてきた。


「味付けは甘くないんだね?」

「あ、雲雀さんは甘い玉子焼きの方がお好みでした?

わたしは辛いとか、しょっぱい方が好きなので……」

「ううん。僕もこっちの方が好みかな」

「良かった」


 柴田先生って、だし巻き玉子は甘いもの、だと認識してこれまで過ごしてきたのかな。わたしの味付けを気に入ってくれて良かったよ。一安心。


「皐月、あまり食べてないみたいだけど……」

「あ、何だかお腹いっぱいで」


 しばし、穏やかにお弁当を頂きながらお喋りしていたら、柴田先生はふと、わたしの食が進まない様子に心配そうに尋ねてきた。

 だけど、ねえ。この体勢でバクバクバクバクご飯を食べられるほど、わたしは強心臓の持ち主じゃないから。『恥ずかしいよー、離してー』って言っても、柴田先生はどうせ『ダメー』って言うし!

 もじもじするしか出来ないわたしの態度から、この心境を察して下さい柴田先生。


「……そっか。お腹が空いたら、ちゃんと食べるんだよ?」

「はい」


 うーん。空いてる片手がわたしのお腹に軽く回されて、柴田先生は離してくれる気配が無いぞ。これは、わたしの心を察知して『却下。離しません』と結論付けたのか、もしくは……ダイエットで食事制限してる、とか思われてる?


「そう言えば皐月、僕、研究室に来るまでに面白い噂を小耳に挟んだんだけど……」

「何かありました?」

「学食で、皐月が石動君に手作り弁当を手渡して、石動君が本命だって自認した上で人目を憚らずに侍らせてお弁当を食べながらイチャイチャしてた、って」

「あー……」


 わあ、流石は椿先輩。噂には疎そうな柴田先生の耳に入るぐらい、キャンパス内に最新情報が駆け巡って、噂の風を吹き荒らしてる。

 この先、女の子が寄ってこなくなるだろうに、美鈴ちゃんが本命だってあっさり認めてあの子と噂になっても、先輩としては構わないのかな。これは、椿先輩は美鈴ちゃん一筋になった、って考えても良いんだよね?


「だけどそんなの、根も葉もない、ただの勘違いだよね?」

「いえ、残念ながら火の無いところに煙は立ちません。雲雀さんが小耳に挟んだその噂、全て事実です」

「え……」


 まったくもって遺憾な事に、椿先輩が人目を気にせず学食でイチャイチャしていたのは、事実なのだ。わたしはサッサと引き上げたけれど、椿先輩はあのまま美鈴ちゃんとお弁当を食べたのね……

 柴田先生は、自らの教え子のTPOを弁えない行動が非常にショッキングだったのか、愕然とした表情を浮かべる。


「皐月」

「はい」


 そして、真剣な表情でお箸を置き、わたしの手を両手で握った。ビクリ、と身を震わせるわたしの額に柴田先生の額がくっ付き、わたしの視界に映るのは、柴田先生の瞳ばかりになる。

 ……ああ、先生の目って、綺麗だなぁ……でも、これってちょっと近過ぎないかな……?

 不思議。凄くドキドキしてたはずなのに、じっと柴田先生に見つめられていたら、何だか安心するって言うか、全身から不必要な力が抜けて凄くリラックスするような、そんなふわふわした眠気にも似た感覚に包まれて、ボーっとしてくる。


「皐月、僕は引き下がるつもりはないからね?」

「引き下がる……?」


 何の話だろう? 顔が近過ぎるけど、今後もこの距離でお喋りするって事?


「皐月は僕のものだよ。そうだよね?」

「はい……」

「ちゃんと言葉にして言って欲しいな」

「わたしは、雲雀さんのものです……」


 気恥ずかしい台詞だけど、柴田先生が言って欲しいって求められたら、わたしの口からつるっとその台詞が零れ落ちていった。


「僕の事が大好き、って、今日はまだ皐月の口から聞いてない」

「わたしは、雲雀さんの事が大好きです」


 目を見てはっきり口にするなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて、とてもじゃないけど普段のわたしならこんなに簡単には伝えられない。だけど、この雰囲気のせい? 柴田先生が望むなら、って、反射的に告げているわたしがいる。


「僕も好きだよ」


 ふわっと優しく微笑んだ柴田先生は、わたしの唇に軽く触れるだけの優しい口付けを贈ってきた。まだお弁当を食べてる途中なのに、と、そんなよそ事を考えるわたしの頬や瞼にも次々と唇が落とされて、わたしは知らず知らずのうちに両目を閉じて、柴田先生の白衣の襟を強く握っていたらしい。


「皐月……皐月?」


 幾度目かの柴田先生の呼び掛けに、わたしはハッと目を開く。眼前では、柴田先生がわたしの覚醒を確認するようにヒラヒラと片手を振っていて、慌てて現状の確認に努めた。ううっ、キスしてたら安心して半分眠りこけるだなんて、わたしっていったい……


「す、すみません、もしかしてわたし、寝てました?」

「ちょっとぼんやりしてたね。もしかして睡眠不足?」

「昨夜は少しばかり、寝付けなかったもので……」


 うん、そうだ。昨夜は柴田先生と交際をする事になった喜びのあまり、なっかなか眠れなかったもんね! その恋人の腕の中では安心して寝付けるとか、やっぱりわたしっていったい……いやいや、これはきっと柴田先生が包容力に溢れているからだ!


「実はね」


 柴田先生は、内緒話をコッソリ打ち明けるように、わたしの耳元に唇を寄せてきた。


「僕も、昨夜は皐月の事を考えて、胸が騒いでなかなか眠れなかったんだ」


 ポッと熱が集まったわたしの頬を撫でながら、柴田先生は目を細め、お揃いだね、と嬉しそうに呟いた。



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